【仏教】悟りを開いた人のスレ【天空寺】275
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悟ったと思う者は、体験、技術、見解などを書く事。
否定されても発狂しない。
罵倒、批判だけのレスはスルー。
修行もする事。(任意)
>>970が次スレを立てる。無理なら以降の有志にお願い。
前スレ【仏教】悟りを開いた人のスレ273天空寺】
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【仏教】悟りを開いた人のスレ【天空寺】274
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●2ちゃん規制で書けない人は下記へどうぞ。
〓〓偽和尚 ◆qH7QdQmFhM管理人によるjbbs避難所〓〓
【仏教】悟りを開いた人のスレ の避難所【悟り】 息観のコピペじゃ。みんな修行に励むのじゃ。
先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていくのじゃ。
息を吐く時に、頭の中で一と数える。
又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数えるのじゃ。
このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻るんじゃよ。
たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けると不動心が身に付くのじゃ。
夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなるじゃろう。
初めて数息観などをする者は、とにかくイライラして止めたくなったりするじゃろう。
そんな時は一度、中断してストレス解消の運動でもするといい。すっきりしたら又続けるのじゃ。
暫く修行をすると、今度は雑念に悩まされるようになるかも知れん。
そのような時は無視して呼吸に意識を集中しなおす。暫くすると、雑念は消えていくじゃろう。
更に修行を重ねれば、雑念と集中する意識を二つとも、意識出来るようになる。行が深まり、
潜在意識が見えてくるようになったのじゃ。
そのような時も、雑念を無視しておれば、やがて雑念は消え去り、深い無念無想の状態に入れる。
もっと行が深まれば、意識は二つだけでなく、同時に幾つもの雑念があることに気付くじゃろう。
人間はもともと同時に幾つもの事を考えておる。
例えば誰でも歩きながらタバコを吸い、同時に尻を掻くという事が普通に出来るように、
人間は同時に幾つもの事を考えているが、潜在意識まで見る事の出来ない者には、判らないのじゃ。
潜在意識まで見る事が出来、全ての雑念が静まり、もはや心に何の考えも浮かばなくなれば、止の行は完成じゃ。 数息観によって集中力がついてきた者は観の行をするのじゃ。
その前に観の行の前行である、観察の力と集中力を身につける観察の行をやるのじゃ。
先ず、目の前に観察の対象となる物を用意するんじゃ。
木でも花でも何でもいい。そしてそれを見て、細かく観察するのじゃ。
最初の内は、心の中で言葉にしてもよい。
例えば花なら花という言葉を使わず、
「今、目の前にそれがある。それは薄い膜のような物が幾つも重なっている。それは赤い色をしている。
それはふちが薄く、真中にいくほど厚くなっている。それの真中には細い糸が幾つも出ている・・・」
などと観察していくのじゃ。
出来るだけ細かく、普段なら見落としてしまうような事も、可能な限り観察するのじゃ。
ちっちゃなとげがあるとか、皺がいくつもあるとか。
次第に慣れてきたら、言葉にせず、目で見るだけで意識に上らせるようにするんじゃ。
そのようにしていると、たまに雑念が沸くこともある。
例えば「この花はバラだ。バラのジャムつておいしいのかな。そろそろごはんのじかんだ」
などといつのまにか、ご飯のことを考えている。これは観察ではない。
観察とは今、ここに、現にある物だけを見ることじゃ。
連想や記憶は雑念なのじゃ。
そのような雑念が沸いてきたら、止の行をしてきたおぬしらは、どうすればいいか判るじゃろう。
数息観をしていた時と同じく、ただスルーするのじゃ。
止めようとか、駄目だとか思わず、ただやり過ごして、観察に戻る。
そうすれば雑念は自然に消えていく。
このような時に止の行は役立つのじゃ。
やはり止と観察は二つで一つなのじゃ。 未だ自我のある者は、更に感覚、感情、思考、分別知、認識などに観察を広げていくのじゃ。
前にも書いたが、感覚から先の観察は鐘の音などを利用すると、簡単なのじゃ。
感覚を観察するには鐘の音が鳴ったら、
「今、鐘の音が鳴った、聞こえている、だんだん音が小さくなるのが判る、今消えた」などと、
今、感じている感覚を観察するのじゃ。
その鐘の音によって生じる感情も、「耳が痛くてうざいと思っている・・・」などと観察する。
思考も「あの鐘は仏壇屋で買ったもっといいのが欲しかったと、考えている・・」などと
巻き込まれないように注意しながら観察するのじゃ。
物事を認識し、分別する心の働きは殆ど一つの動きになっている故に、鐘の音を聞いて、
「これは鐘の音・・・今、鐘の音と分別し認識した」などと、観察するのじゃ。
このように直接、心と体を認識する方法が、観の行の基本であり、
最もシンプルでスタンダードなものであると言えよう。
しかし、この方法はかなりの集中力と観察力が必要となる。
これをシステム化してやり易くした方法が、縁起の法や、空の法なのじゃ。 >>1乙
礼位書けや。
礼も書かずに、何が悟りじゃ。 >>886(前スレ)
> 悟りは苦しみを抜けることであり、苦しみを
> 抜くのが仏道であり、苦しみを抜くのは、
> 自我を止めることである
>>985(前スレ)
> 開放されたがってる者が開放を妨げているのだよw
矛盾してないかい?
一方で「自我を止めること」云々言いながら、一方で「開放されたがっているものが開放を妨げている」って。 >>7(続き)
無我なのに、わざわざ自我を設定してそれを止めてどうするんだろう?
盤珪さんが言ってる、「不生になるのではなく、不生でおれ」とね。 自我を止めるって言うけど、その止めるもの自体が自我なんだぜ?
その止める自我を止めるのも、またまた自我なんだぜ?
切がないでしょう? 瘡蓋みたいなもんじゃないのかな。
剥がせばまた瘡蓋が出来るし、繰り返し剥がせば痕が残っちまう。 黄雷のガクトゥーン読み終えた。
とんでもなく強いヒーローに、自分の恋心に気付かないヒロインという王道の王道を突き抜けていく清々しい物語だった。
ヒロインのネオン・スカラ・スミリヤの可愛さがヤバすぎる。
ちょっとしたストーリー紹介を。
昔、昔のこと、あるところに一人の若者がいた。
人々を愛し世界を愛する若者だった。
世界を守る、そう彼は言った。
世界にあまねく輝くものを守るため。
そうして彼は雷の鳳の呪いを受けた。
彼は戦い続けた輝くものを守るために。
でもあることが起こり、彼はこの自らの問いに答えることができなくなってしまった。
自分が守りたかった『世界とはなにか?』。
この物語にあるのはとても強いけれど儚すぎる傲慢なヒーローと、とにかく可愛すぎる儚くも強すぎるヒロインと、その間で揺れ動く哀しいまでに美しい愛という輝きだけ。
いや。
この愛(輝き)こそが二人を揺らし動かしてる、といったほうがいいかな。
自分を揺らし動かすもの。
書き込みをするときに、その自分の指を突き動かしているもの。
これはぜひともこの二人の間にあるような愛と呼ばれるものであってほしいものだ、と願わずにはいられない。
というわけで怒られそうだから書いておくか。
>>1の俺乙 阿呆ども、とっととスレ埋めんかいwww
鬼も居なくなって、栄進も、うんこも居ないのかwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www >>1乙〜♪
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▼―ー。*@゚*☆ ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ前スレ>>999名無したんへ
から草の
浮き名の下に
枯れはてし
君がこころは
大和撫子
新渡戸稲造
新渡戸稲造さんは日本男児だと思う 玄紗和尚が説教しようとしたら 鳥がカーと鳴いた。玄紗説教は終わつたと言う師
ぽ師匠が坐禅して頭の中片手の人で何時ぱいの時そばにいた坊さんがあなたは
雀がチュンチュン泣いているのが聞こえないのですかと言われた僧な
さあ鳥は鳴いていますけどそれがどうしたと言うのか?
だいたい玄紗さんは修行の旅に出ようとして突然の意思で足くじいて引き返した
体験があつた 変えることのできるものがあったり
変わったものを捉えたりして
悟りの理解
ふっとふれた香りの思い出おいかけて
そのやうな
活動のやむときとは
なにもなすことのなく去るとき
苦しみはキリがない
キリがないから尽きてしまう
かわらぬものをかわらぬと知るw 変化を見ようとしても
変化があるわけではない
動かしようのない真理
それが人によって変わるはずがない
苦しむのは捉えるからであり、追いかけるから
なのだ
取ることなくやんでいる
休んでる
それでも起こることは起こるし
ひとはめんどうをおこす
つまんねえやつら (いっかの続き)調和 さてこのような構成ができると、次に重要なことーそして重要な事のすべてーは構成の中のそれぞれの
対象ないし事物が此処にあるのか、あちらにあるのかという事、つまり部分に対する関係、各部分の全体に対する関係、全体の各
部分に対する関係です。これが審美的な道具としてのリズム、すなわち調和です。その要素になるのは、事物、色彩、言葉とその
音、楽器、建築の部分とその比率などが考えられます。スティブンの言葉によれば、「君はそれの形の線に導かれ、点から点へと
眼を移してゆく君はそれを、その限界内で均斉のとれているものとして認識する。その構造のリズムを感じるわけだ」ということ
になります。輝き リズムがぴつたりあつたとき、人は喜びの中にとどまり、それに何か他の効用があるかどうかまったく考えま
せん。スティブンはこう言っています「君はまさにそのものであって、他の何ものでもないということを知ったわけだ。
〔アクイナス〕がスコラ学派の「クイッディタス」つまり事物の「そのものであること」について言つているの
がこの光輝なのさ。この至高の徳性は審美的映像が芸術家によつて感じられるものなんだ。こういう審美的瞬間の心を、シェリー
は燃え尽きる炭という美しい比喩で説明している。美の全体性によってとらえられ、美の調和によって魅惑されていた心が、美の
こういう至高の徳性、審美的映像の明るい光輝を輝かしく認識するこの瞬間こそは、審美的快楽の輝かしく静寂な状態だよね。 ジャカジャカ ジャン
ジャカジャカ ジャン
ジャカジャカジャカジャカ ジャン
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川^〇^ハレ日本の美は余白にあったんですねお♪ いつおっつん。
吊り橋効果ってロマンスに役立つと思うけど、
いかんせん吊り橋って住むとなると居住性がよろしくないでしょ。
かといって快適にし過ぎると吊り橋効果が薄れると思うのよ。
>>10
じゃんきーさんは、無我の状態で書き込んでるんですか?
>>17
> 修行の旅に出ようとして突然の意思で足くじいて引き返した
普遍的ものって、本とか建物とか言葉は必須ではないはず、とわたしは思いました。 >>23
>じゃんきーさんは、無我の状態で書き込んでるんですか?
無我というのはそうした意味合いではないでしょ。
それと、書いてる時の状態を観察しながらは書けんわw 神道の小説を書こうと思って構想練ってるんだけど、
武士道の小説と、
仏教の小説と、
一神教の小説も、
書かないと未完成だなと思いました。
とてもではないけど、手に余るお。
もっと若い頃からガチってればなあ。 悟りとは?さあ我々は悟りの仲使いこなしているのに何故かさあとりに会えないと思う。悟りは凄い魔法で悟れば
何でも解決し安心出来るすごいものと思っているのか?さとつても出来の悪い性格は直せない相変わらずだったら
そんなのは悟りじゃないと思うのか、皆さんが悟り期待しすぎなのか相変わらずの平凡な日々では悟りではないのか
苦しみ悩みもそのままで何の解決も出来ない役立たずでは損なの悟りではありませんと我々が認めないだけなのかも、
まあそうなんでしょう。さとりとはあーこうだと期待しすぎて当たり前に当たつても外れ馬券並に金にならなきゃ
有り難くないと思うのか?悩み速解決できる凄いものであったら悟つたになるのかそうじゃないと期待はずれ何だろ
なあ?別に私は悟りあまり有り難がつていなく来たら煩悩が困ると恐れているのか別にさとつても煩悩困らないだ
ろうけど坐禅や瞑想する時間は避けているというより時間の無駄と逃げているからそれに付随している悟り面倒だと
おモツてるのかいや悟りが楽しい煩悩を困らせるとおもうのか?今朝も無駄に長くしているだけでさとりとは関係
あるようで関係無いよと書いているだけ?我々は皆悟っているけど何の価値もないと思っているだけなのかも?
今朝は無駄に書き込み迷走するしさとりとは言葉かほんとにあるのやらないのやら。さあ迷う ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています