ちなみにご隠居のニーチェは殺人者キリストを完膚なきまでにgat'mdt'g@ewふじこ!!になるのが目に見えてるからニーチェのキリスト観をあげとくな
ニーチェの敵は強敵パウロだよねー

いささか大まかな言い方をすれば、イエスを一個の「自由精神」と呼ぶことができるかもしれない。
──イエスは固定したものはすべて尊重しない。言葉は殺す。すべて固定したものは殺す。
イエス一人が知っている「生」という概念、生という経験は、あらゆるたぐいの言葉、方式、律法、信仰、教義に反するものである。
…キリスト教的な偏見、つまり教会的な偏見にうかうかと乗せられそうな誘惑がいかに大でも、以上の点を摑み損なうことだけは絶対あってはならない。
(アンチクリスト 第32番)

『この「福音の使者」は、彼が生きて来た通り、教えてきた通りに死んだ。
──「人間を救済する」ためではなく、いかに生きるべきかを示すために死んだ。彼が人類に残していったものは、実行である。
…彼は自分に害を加える人びとと一緒になって、その人たちの中に立ち混じって、嘆願し、悩み、愛している。彼とともに十字架に掛けられた盗賊たちに、彼が述べた言葉は福音の全体を含んでいる。
「誠に神の人なり、神の子なり」と盗賊たちが言えば、「汝を悟りたければ、汝は楽園にあるべし、神の子になるべし」と救世主(イエス)は答える。
わが身を護ることもなく、怒りも見せず、責を問うこともしない。…悪人に手向かいせず──これを愛する。
(アンチクリスト 第35番)

──イエスは「罪過」という概念そのものを廃棄していたはずである。
──イエスは神と人間の間のいかなる隔絶をも認めなかったはずである。彼は神と人間との一体感を。己の「福音」として生きた人であった。……しかも特権としてではなく!
(アンチクリスト 第41番)