>>211
救済論にも色々あるようですし、キリスト教をー口に言うわけにもいかないだろうけど・・・
アブラハムの宗教の出発点は、移民の「私、私たち」の劣等感あるいは疎外感だろうと思います。
劣等感や疎外感を、絶対的な支配神に選ばれることによって、優越感にもっていく宗教かな。
疎外の対義語は受容だろうと思いますが、神に選ばれるという受容で、独善排他にまわるわけだし。

基本的には選別宗教であるから、神を信じる者は価値があると認められ、勝ち組になりますね。
一方の信じない者は無価値にされ、負け組になります。

神による受容、私への価値、優越感、勝ち組というものが与えられるからこそ、
「信じない者は、いずれ歯軋りして悔しがるだろう」という、わけのわからない話になるわけで・・・
でも、そういう宗教なんだから仕方ないような。

神道的な日本人からすれば、祀らない神が罰するなんてことは意味不明な話にすぎないし、
仏教からすれば、私への執着、アイデンティティ執着にすぎないと思うけど。

悔い改めは、悔いるという後悔ですから、反省にとどまらず過去への執着がベースにありそうです。
悔い改め→回心は、過去の損失を嘆き、信仰によって損失補填される未来希望じゃないかと。
これも、何かしら変化しない私というものが想定されているからでしょう。

永遠なるものへの憧れはコヘレトにも見られますが、キリスト教には不変の実体ありますもんね。
私というものが不変であれば、当然その価値を失いなくないだろうし・・・
戦国期の宣教師が仏教を虚無と考えたのもそこだろうし、ヨハネパウロ2世さんも虚無と受け止めてますね。