プロテスタントの分際でエホバの証人批判するとか馬鹿なの?その10
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あなたは三位一体が異教由来だという事を知ってますか?
@知ってた。
A今知った。 >>390
神として 喩えられる? 擬人化とか?
そこが変だろ、
そもそも「聖霊」という「お方」と表現が無人格である訳ネェだろ、
また 父と子と聖霊の「名前」で宣教し洗礼しろとあるのだから、「名前」がある「お方」が 無人格者って断定するのはアウトな
少し集中してカキコしても良いが そもそも聖霊に対する誤解というか 異端思想に洗脳された奴らに何を反論しても 説得は無理なんだなあとつくづく感じる。心ある人は次のサイト貼っておく参照して呉れ。
http://www.christiangroup.com/study/basic/jp-1-D-002.htm それにしても、パラクレイトス(別の助け手)調べたら (給仕)(給女)(仕え女)とあるそうだ。ユダヤにはないだろうが、イメージとしてはフリルをつけて「ご主人様萌え」のアキバのデジコか兎田ラビアンローズを思い出す。古いか?
神が 謙遜もいいとこだろ、そう言えば女が嫌うナンバーワン女佐藤珠代も四十うん才になったとか?萌え萌え >>399
勝ち負けに拘るな 論破しようがされようが真理には無関係だ 何れ 全ては明らかになると聖書にある。聖霊の内住を知らない連中のことは基本 神に裁きを委せればいいのだ。
ローマ8章にキリストの霊(聖霊)を持たない者は キリスト者ではない、とあるよね。奴らは組織の統治体爺が聖霊に導かれているから 究極 組織に従う=聖霊の導きと洗脳 うんなことあるかよ 朝鮮脳だろ 思うんだが、あのミケランジェロの傑作ピエタ像の女性 副島某が言うには母マリアではなくマグダラのマリア(マリーマドレーヌ)ではないか?と指摘してるよね。(重い掲示板)
俺は あの美しい女性 もしかしたら(聖霊様)ではないの?と霊感INSPi得たんよ。十字架で精根尽きて死んだ我が子か恋人を抱き抱える美しい女性 シューベルトのアベマリアの旋律が流れる、昔ウィーン少年合唱団ってあったろ (続く) >>397
キリスト者には知識より聖霊の内住(ないじゅう)が必須 これさえあれば、余裕綽々さ
ところで さっきの(続き)だが まさかピエタ像まで偶像って捉えているのか異端は あれはアート芸術だろ。異端だと偶像になるのか、ケチ臭い野暮ったい連中だよな。
ウィーン少年合唱団を題材にした映画「菩提樹」だったかな名前間違えたらゴメン、少年が川に落ちて生死をさ迷いベッドで介抱する修道見習いのマリアが 祈る姿 そしてアベマリアの旋律 子ども心に感動して 理由はわからないが号泣したのをピエタ像を見て思い出す。 映画名は「野ばら」だったかな、ハンガリーからウィーンに逃げてきた少年が寄宿舎生活で合唱団に加わるストーリー 一時日本にも来た。あの美しいソプラノ 天使たち
まるでみ使いが 聖なる聖なる聖なると神を賛美しているように聴こえる。
ああ さとう珠緒だったか、これもINSPiだな。
とにかく、今夜はここまで 元やくざのサブでした。おやすみ
萌え萌え
http://m.ameba.jp/m/blogTop.do?guid=ON&unm=tamao-blog >>398
追加、三位一体ってWordに拒否反応する奴
そもそも異教由来と云うが、サタンは唯一神が父子そして霊(プニュー)なる存在なのを知ってるから バビロンのセミラミスを用いて 伏線とかをよ 十字起源の時も書いたけど(前のスレの最後に)いわゆる 蛇なら「やるだろう」偽三位一体神で本物を嘲笑するのを
輪廻転生 太陽崇拝なんかも バビロンからだから やりかねない それを以て バビロン起源でアウトと コピペ朝鮮脳やな
寝よう、 何言ってるのかサッパリわからん。
三位一体を信じる人はこういう思考回路なんかね。 ヤクザ→エホバ→プロテスタント→三位一体。
三歩進んで二歩戻るサブであった。 一位一体の神 →聖書の神ヤハウェではないよ 創世記一章読め、我々とある エロヒム(複数形)単なる強調表現とは違うと何度も明らかにしただろうに まだ理解出来ないらしい。
なら あの何時も単独で単数形で現れる 「ヤハウェの使い」と呼ばれる 方はいったい何者?証人解釈では最初に造られ その後万物をその方を通して父なる神が創造した (箴言の「知恵」=実は擬人法の詩歌)って大嘘
神ヤハウェは誰の手を借りず直接万物創造したとイザヤ書にあるのだから
で ヤハウェの使い実は 御子なる神ヤハウェなんだよ 機会あったら詳しく書く 少なくとも 旧約の神には複数な人格が含まれるのが常識だ 時に厳格な父親のように厳しいかと思えば、時に慈悲深い優しい母親のように またヒステリックで嫉妬に狂う女のような人格の神を見出だすだろう。 あなたは三位一体の神を崇拝する事が偶像崇拝だと知ってましたか?
@知ってた。
A今知った。 tSA7Rndgはアホウです
みんなで憐れみましょう はじめに神は天と地を創造された。
そして神は 「我々に似るように 我々の形に人を造ろう」
言語学を引用して権威の強調表現とする説もあるが クリスチャン的には 複数な Person を持たれる方だと捉えるのが自然
コロサイ1・15には御子は見えない神の形とあり 父から生まれた神とある 御子は創造されたのではなく 父から生まれた神 理解出来ない秘儀だ 聖霊なる神は永遠のはじめから父なる神 子なる神と共に おられ 愛ある事象サブスタンスを凭れ創造にも関わられている。 >>415
で、その御三方の共通する特質ってなんだい?
そもそもあんたらのいう神の定義ってなんだい? ΠΡΟΣ ΚΟΛΟΣΣΑΕΙΣ1:15
ὅς ἐστιν εἰκὼν τοῦ θεοῦ τοῦ ἀοράτου,
πρωτότοκος πάσης κτίσεως,
ὅς 指示代名詞男単主格 この者は
ἐστιν 三単現 彼は〜である。
εἰκὼν 女単主格 エイコーン 像、似姿、肖像、かたち、姿
τοῦ θεοῦ 冠詞+男単属格 神の
τοῦ ἀοράτου, 冠詞+男単属格(ἀ否定+ορω見る) 見えないものの
πρωτότοκος 第一に生まれた者
πάσης 女単属格 すべての
κτίσεως,女単属格 創造されたものの
スロージューサー訳
この者は、見えざる神の肖像であり、
すべての創造されたものの第一に生まれた者であり、
原文は「創造されたものの第一がイエスだ」と書いてあるが。。。 >>418
違うょ イエスは被造物ではなく 創造のはじめと訳す黙示録3・14は 創造されし万物 の源(第一原因)= つまり 創造された方となる アンダースタンド? 詳しくはWebで
http://blog.goo.ne.jp/goo1639/e/6036d3469a90add93642c818dd5c1fbd/ >>417
昼に出かけるから一時間だけ付き合う。
父なる神は永遠の初め(時間が生じる前)から自存されるお方 全知 全能 偏在なる方
子なる神 永遠の初めから父と共におられ 創造にも関わられ 全知 全能 偏在な方だ 自らを主の使いとして旧約で大活躍 時至るとイエスとして地上に来られ 人間的制約を受けながらも 十字架贖罪を成し遂げ 3日目に新しい創造体として復活 天に父の右に座し 再来の機会を待 三位一体は矛盾した神学。
説明する方もはじめから矛盾している点は、わかっていて説明している。
三位一体論以外のキリスト教を異端視している点も、笑えるw
自分たちが誤った神学を論じているのに、なぜ異端視する必要があるのか
かえって教えを請う姿勢があってもよいのではないか? >>417
父も子も聖霊も共に 天地創造主であり全知全能偏在であることが「神」であるスタンスだろうな
其々の創造主であり全知全能偏在なる事象サブスタンスを聖書から考察すると大量書き込みになるので今回は略させていただくが
この世の神と称する「サタン」やその他の神々には 全知全能偏在 そして創造主としてのスタンスはないから 厳密な意味での 「神」ではなく 「似非神」と捉えている。
一応 ちゃんと応答した スマン友人からの連絡でもう出かけるから 此れで アレだ。 「三位一体の神・・・この神観は、確かにキリスト教に独特のものであるが、イエスは夢にだにこういう『展開』を考えたことはなかった。
こういう議論は、あの時代特有の文化史的背景のなかで、特定の意味を持っていたものにすぎず、それを実体化・永遠化・形而上学化することは、ほとんど迷信的であろう。」
(高尾利数著『キリスト教を知る事典』〔東京堂出版〕212頁 (キリスト論論争、三位一体論論争の意義」について・・・)
「これは本来、実体論的な論理によって解決などできる類いのものではなかったのだ。
それを実体論的な論理によって遂行しようとしたから、『わけの分からない』議論に響くのであろう。
この論争は、古代のあの時期にのみ一定程度の意義があったものであり、その議論をそのまま現代にまで持ち込んで、あの時代の言語表現のままに無批判に受け入れろと言われても無理なものである。
そのことを認識しなければ、キリスト教は本当には現代世界において妥当する宗教ではありえなくなるであろうと思う。」 一部の神学者の頭でしか理解できない「三位一体」などというドグマが「啓示」から生じているはずはなく、人為的に作られたもの、一つの解釈に過ぎないということは明らかです。
もちろん、わかりやすければよいというわけではなく、「異端」とされた「三神説」または「様態説」なども「啓示」に根ざしているとは言えません。
「啓示」から導き出される「三・一」の関係とは、「正統」を自認する人々が、結局は「秘義」だの「神秘」だのと言って思考停止させる不可解な言説などではなく、
イエスという人が聖霊に満たされ、その送り主である創造主なる「神」を「父」(アッバ)と呼んで親しく交わり、
その関係の中に人々を招き入れようと働かれた「神の国の福音」宣教から示される「神(父)、イエス(子)、聖霊」に尽きるのであり、実に簡単明瞭、誰にでもわかることです。
そこに複雑怪奇な、「位格」(ヒュポスタシス/ペルソナ)だの「実体・本質」(ウーシア/スブスタンチア、エッセンチア)といった哲学的概念は無用なのです。 ΑΠΟΚΑΛΥΨΙΣ ΙΩΑΝΝΟΥ3:14
Καὶ τῷ ἀγγέλῳ τῆς ἐν Λαοδικείᾳ ἐκκλησίας γράψον·
Τάδε λέγει ὁ ἀμήν, ὁ μάρτυς ὁ πιστὸς καὶ ἀληθινός,
ἡ ἀρχὴ τῆς κτίσεως τοῦ θεοῦ·
ἡ ἀρχὴ 冠詞女単主格+名詞女単主格 アルケー はじめのものが
τῆς κτίσεως 冠詞女単属格+名詞女単属格 造られものの 被造物の
τοῦ θεοῦ·冠詞男単属格+名詞男単属格 神の
神の被造物の初めのものが、
とありますよ。第一番目に作られたものなのでコロサイと同じことです
教会では「アルケー」を神学的に解釈するのかもですが、それはやりすぎです
原文をただしく読みましょう イエスが全被造物の初子であることは聖書を読めば誰でも分かる
創造された方が、始まりのないときから存在しておられる神と同じ存在でないことは明らか
つまり三位一体は間違いですね
まあ、当たり前の事で今更言う必要もありませんがね >>428
旅先なので、ご容赦
イエスが黙示3・14で 神の被造物の第一原因(源)である者と言っています。第一原因と訳す言葉アルケー コロサ1・16「支配」を意味しアルケーが副詞として用いられた時に「初めから」になりアルケーは人格ある者について語る場合には 本源である者を意味。 >>430
それは違いますよ(笑)
頭悪いんですね コロサイ教会に三位一体を否定し イエスを被造物の初子であるとする異端が持ち込まれた(エホバの証人とほぼ同じ)それに対しパウロは反論 主イエスこそ、神 全被造物の第一原因 すなわち万物はイエスによりイエスの為に創造され イエスこそ創造主 支配者 と語り異端攻撃した 箴言8章22〜31
22 主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。
23 いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた。
24 まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、わたしはすでに生れ、
25 山もまだ定められず、丘もまだなかった時、わたしはすでに生れた。
26 すなわち神がまだ地をも野をも、地のちりのもとをも造られなかった時である。
27 彼が天を造り、海のおもてに、大空を張られたとき、わたしはそこにあった。
28 彼が上に空を堅く立たせ、淵の泉をつよく定め、
29 海にその限界をたて、水にその岸を越えないようにし、また地の基を定められたとき、
30 わたしは、そのかたわらにあって、名匠となり、日々に喜び、常にその前に楽しみ、
31 その地で楽しみ、また世の人を喜んだ。 >>429
イエスが全被造物の初子である聖書的な根拠を示してほしい。まさかまた黙示録の創造のはじめ論争を繰り返しはやめて呉れよ 箴言からなんて論破した話も振り返すのは論外だ。その他で説明して呉れ。夜また来る。 >>433
あはは それは擬人法の詩歌だよ。イエスに適用する根拠0
SDAも認めて近年撤回している話だよ よろしく 『ヨハネによる福音書』(10:30)にある『私と私の父とは一つである』というイエスの言葉は、
決してカルケドン信条が言うような本質での一致を語っているものではなく、自分は父の意志をこの地上で実践しているのだから、
自分が行い語っていることは父の意志そのものである、というイエスの主張なのである。
従って、私は三位一体論も、父なる神、イエス・キリスト、聖霊の三者を信じていればよく、(聖書には元来存在しない信仰なのだから)本質的な一体を信じる必要はない、と言っているのである。
(〜野呂芳男氏の講義「ユダヤ・キリスト教史」第38 聖書全体を通して、直接的に「キリスト=神」を示していると言えるのは、せいぜい、ヨハネ福音書の1章の1節と18節くらいで、
あとはかなりの解釈改憲ならぬ解釈改典によるものです。
フィリピ書2章とかコロサイ書1章の御子キリスト賛美は「神的存在」を示すものではあっても「神」とは言っていません。
前者の6節では、伝統的キリスト教の翻訳が「固守する」としてきた「ハルパゾー」は「強奪する」とも訳し得るのであり、
そうなるとキリストは「神のかたち」において存在していたが、彼自身は「神」と等しい存在であったのではなく、むしろ、自分が神と等しくあろうとする意志はなかったということになります。
これについても正統主義者はいろいろ詭弁を弄して反論しますが、客観的に無理があることは明らかです。 自分が擬人法や比喩を言い訳にして三位一体を主張するくせに、都合が悪くなるとそれで逃げるんですね(笑)
本当に三位一体とは愚かで子供じみた作り話ですよ 「時間と歴史においては、子は父に従属し、聖霊は子に従属しますが、
この従属関係は、各人格の本質における従属ではなく、職的従属です。」というこの区別には何の根拠もありません。
「時間と歴史において」であれ、従属関係などなしに存在し活動できない理由もありません。
神学者は都合の悪いことはすぐに「神秘」とか「秘義」ということにして説明から逃げますが、
このような「解説」は、憲法問題に関する政府の答弁と似たようなもので、まったく説得力がありません。 むしろキリストを神と同一実体とする正統的キリスト論こそ聖書解釈の一つとして相対視すべきであり、
決して「キリスト=神」ないしは「三位一体」が異端排除の基準として用いられてはならないのです。
また、ヨハネの黙示録においては、「小羊=キリスト」は明確に「神」と分けて示されており、
いかに両者が「一体」として礼拝の対象とされているにせよ、その場合の「一体」は「三位一体」の「一体」とは意味が異なることに注意すべきです。
新約聖書の大部を占めるパウロ書簡ともなると、完全に「(父なる)神」と「キリスト」とが本質的に区別されており、
すなわち「キリスト」は「神」ではなく、「神=父=ヤハウェ」に従属する存在です。 島本町民以外の皆さん
大阪府三島郡島本町では
「いじめはいじめられた本人が悪い」ということですよ 司祭や牧師も同じで、いかにもわかったようなつもりになっているだけで、突っ込んで問われたら結局、
三神論や様態論のようになったり、従属説などと大差なくなるのです。
神学者と呼ばれる人々の中にもそういう人が少なくありません。
しかも、その理解できないことをもって三位一体の真理性だと主張した日には一般信者の現場を無視した暴論としか言えず、ただ驚き呆れるばかりです。 正統を自認自称する教会側の三位一体論など詭弁というか屁理屈の集積であり、
たとえば、「唯一の神」の「唯一(エハド)」は単なる「一」ではなく、
「三位一体」の「三位格」のような多様性を内包し得る「一」だといった主張がありますが、
これは言語学的根拠は稀薄であり、少なくとも無教会や日本基督教団に関係するリベラルな立場の著名な旧約学者の支持するところではありません。 キリストの言動に関して、「人性においては・・・」「神性においては・・・」という二分法を用いて、自説に都合よく区別しているわけです。
しかし、そもそもカルケドン信条におけるキリストの神性と人性とは分離することはできないのであり、このように分けて考えることに妥当性はありません。
そして何より、福音書でイエス自身がこのような思弁を拒否なさる発言をしておられます。
マルコによる福音書で言えば12章35節以下の箇所で、律法学者たちの「ダビデの子キリスト論」に対するイエスの反論が対話として表わされている場面です。
37節に記されたイエスの発言は「ダビデ自身が彼を『主』と言っている。
それなら彼はどういうわけでダビデの子なのか。」というもので、
ここで言われている「彼」とは36節で引用されている詩編110:1の冒頭の言葉、「主はわが主に言われた」における「わが主」の「主」であり(主語の「主」は「ヤハウェ」を指す)、
これはメシア(=キリスト)を指しています。そしてイエスはこの「主=メシア」と自身を同定しているわけで、
イエスはその時現在、自分をただ、「まことに人」であるとか「まことに神」である、などとは思っておられなかったのです。
あくまでも「神」と「人」との仲介者としての「メシア」であると自認しておられたのです。
この点で私は、新約聖書の中でイエス・キリストの立場を最も明瞭に示しているのは第一テモテ2:5だと思います。
「神は唯(ただ)一人、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯(ただ)一人。」・・・キリスト・イエスは神性を有したわけではありません。
この点、私は小田切信男氏のキリスト論とも一線を画すところです。
つまり、同時に「神」であるような「人」とは違って、あくまでも「神と人間との仲介者」としての人間です。 >>433
只今帰宅、いやはや急用で疲れているのだが、一応約束したから 投稿した
とりあえず今夜は箴言の知恵がイエスに当てはまらない根拠を短めに話して 寝るとしよう。
何時もそうだが俺は>自演など一度モシテネェからな 勝手な邪推すんなょ
ションベンして 8時10分から長くて9時 早くてあっという間で今夜はオシマイとする。 スマン、遅くなっちゃった。トイレ行ったらシャワー浴びたくなって な…
さてと箴言8章だったっけか 既に二度ほど同じ内容書いたんだが また改めて書こう、はじめて読む人もいるだろうからな
ええと 箴言な 知恵 君が掲載したクローズアップした箇所は8:22-31 だったよな 文語訳しか手元にないんで
箴言8の22
永遠より元始より地の有らざりし前より我は立てられ…
と続く内容だよね
この「わたし」とは本当に主イエスを指しているのか?俺は問題提起したいと思う、8章全体は 「わたし=知恵」は擬人化し声を上げている解釈が普通なのだが
たとえば4節「人々よ、われ汝をよび我が声をもて人の子等をよぶ」
10節では 知恵なる我を持つと人生は素晴らしくなると書かれている。
さて問題箇所はやはり 22節からだな >>433
新世界訳だと こうなるんだな なるほど、以前もこの部分を「神が創造の初めに『知恵』を造った」と言う意味ではなく、「神は創造を始める前から知恵を持っていたので、創造の業も知恵を持ってなされた」という意味だと書いたんだが、覚えていないんだろうな
しかしエホバの証人は この部分を文字通りに捉え 「造った」という言葉に注目し 「創造の初めに造ったのだから知恵=イエスのこと」と鬼の首を取ったように教えているようだ… でもな、実をいうと此処を「わたし=イエス」と当てはめちゃうとだな 他の聖句との整合性ってのが 意味不明な全くわからなくなるんだよな
わかるかな 詳細は一々書かない 此方も早く終わらせたいから
此処で言う「知恵なるわたし」はそのまま素直に擬人法詩歌としての「知恵」そのもののことだ と云う根拠を幾つかの聖書から考察しよう。 9時を過ぎるが致しかたない 続けよう
それには先ず創世記1:1 元始に神天地を創造り給へり
の創造をはじめた「神」ては本当は誰のことか?を知る必要がある。エホバの証人にとって この事実を知るのはコペルニクス的衝撃的内容だが 敢えて勇気を持って続けてお読みください、
エ証は当然 この箇所の創造神を「エホバ」だと言いますが 実はそれは間違いなのです。 >>458
エホバ以前に存在した神の始祖的な存在について語ってくれるなら興味津々なのですが、サブの事ですからそれがイエス様とか言い出すんですよね? 答えから言うと 万物を創造したのは 天でロゴス(言)と呼ばれていた(イエス)です。ヨハネ1:1 新世界訳から書いてみようか?
1)初めに言があった、言は神と共にあった。言は神であった。
2)この言は 初めに神と共にあった。
3)すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
ちなみに 創世記1:1 に神と書かれている原語は 「テトラグラマトン神聖四文字」YHWHは使われていません。YHWHは2:4からです。 >>460
ピンポン!大当たり
創造神は一度もテトラグラマトン神聖四文字で表されていません。聖書を素直に読むと創世記1:1の天地万物の創造神は JWの言う「エホバ」ではない事は明らかです。
ですから 素直にヨハネ1章 コロサイ1章と創世記1章を対比し読むなら 結論は 全てを創造された神とは 天にいた時に「ロゴス言」と呼ばれていた「御子」なる神「イエス」であることがわかります!
一度 ブレイクタイムしてから再度書き込みます。
休憩 今時文語訳聖書使ってるとか何歳だよ
JWも昔文語訳聖書使ってたらしいな
ちなみに俺は2017年の最新版の新改訳聖書買ったぜw
羨ましいだろw 結局三位一体論は主と神の違いをごっちゃにしてる所から始まってるんだよ
神(エロヒム)は異教の神を指す事もあるから唯一ではない
唯一なのは主(YHWH)である
そこで主と神をごっちゃにしてる三位一体論者は
「神は複数だが唯一なので三位一体だー」とか言っちゃうんだよな 外野が煩くなってきたが続けよう
さて、天にいた時のイエス(御子なる神ロゴス)が万物世界の創造神だとしたら 次の箴言はどう解釈したらヨカンベってなるよね
箴言8:22 今度は文語訳で
「エホバ(ヤハウェ)いにしへ其の御わざをなしそめ給へる前に その道の始めとして我をつくり給ひき」
此処の「我(わたし)」がイエスなら 箴言の言葉はこういう意味の文章になる。
「イエスが昔 そのわざをなし始められた時 その業の初めとしてイエスを造られた」 昨日のレスを見たら興味深い書き込みがあったのでレスしておく
>>315
>創世記に出てくる神はエロヒム
> ヘブライ語の神には単数形がエローア
>二数形(日本にはない表現)はエロハイム
>そしてそれ以上の複数形がエロヒムであり、
>>315は三位一体論者だが非常によくヘブライ語を知っている
この4行はまさにその通りだ
>少なくとも神は三者存在することは確かです 唯一であるにも関わらず。
問題はこの文
神は唯一ではない。唯一なのはYHWH
>複数形を 神の偉大な表現と取る向きもありますが エロハイムを一度として使われていない事実から後者の解釈ではあり得ない。神は「我々」と自らを語っていることからも明らかです。
これについてだが、その箇所を聖書から抜き出すと、創世記1章26節「我々の形に、我々にかたどって人を造り〜」
だが、これはYHWHが自分と天使たちの事を合わせて我々と言ったと思われる。
例えるなら、安部総理が「我々自民党が野党の時代は〜」という発言をした時、
安倍総理は単数だが、自民党議員は複数いる
安倍総理が自分達の事を我々と言っても、安倍総理が複数いる事にはならないよね? そもそも「エロハイムを一度として使われていないから、複数形を神の偉大な表現と取る解釈はあり得ない」
という理屈はおかしい
単に二数の神が聖書に出てこないからエロハイムという単語が使われていないだけでしょ ああ間違えた 文語訳だと 主の箇所がエホバ(ヤハウェ)になっていたんだね 新世界訳では 主は オカシイなぁ ま いいか
そのエホバをイエスに置換して先のような意味不明な文章になる
そこで 「わたし=知恵」と素直に読むと 「イエスが昔…知恵を造られた」となり これなら意味がわかります。 ちなみに ヘブライ語の原語で カーナー 造る と所有する の2つの意味があり
「その業の初めとして わたしを所有しておられた という訳にもなり得ます。
簡単に言うと
「イエス(御子ロゴス)は創造の業を始める前から知恵を持っていた」という事です。 >>468
われわれ を天使を含めない事は次回 機会あれば話そう 今は箴言の話に集中させたまえ いいな
続けよう
此れまでをまとめるとだな
@創世記とヨハネ福音書を読むと 創造神はエホバではなく イエス(ロゴス)
A箴言8:22の「わたし」を「イエス」とすると 創造の初めに イエスがイエスを造ったことになり矛盾
B箴言8:22 造るカーナーは所有するの意味もあり 本来はそちらを使うべきだった…かも
Cよって 箴言8:22の「わたし」とはイエスのことではなく そのまま「知恵」と読むのが正しいであろうという事 スマンあくびの連発 そろそろ終わりにしたいと思う。以前の資料では31節までさらに詳細に考察して 知恵はイエスではあり得ないことを証しているのだが今回は 簡略化して 22 23のみ集中して考察した
エホバの証人は創造神は「エホバだ」と教わっているので 当然箴言8の「わたし」にイエスを当てはめ 22 23節 永遠の元始より地の有らざりし前より我は立てられ
と解釈したいだろうが しかし 創造神はエホバではなく実はロゴスであることを理解しないと根本が間違う >>461
をひ こら
新世界訳なんて使うな、ボケ
ヘブライ語聖書をつかえ! A箴言8:22の「わたし」を「イエス」とすると 創造の初めに イエスがイエスを造ったことになり矛盾
神が神に祈ったり
神が神を是認したり
神が神に復活させられたりしてることを平然と主張する三位一体論者がイエスがイエスを作ったことは矛盾と言うわけか(笑)
どこまでもご都合主義の解釈だな
やはり三位一体はクソだわ 創世記1章に神聖四文字が出てきていないからといって、創世記1章のエロヒムはYHWHではないというのは理論が飛躍しすぎ
太郎さんが自分の事を最初に名乗らずに話をして、後で名乗った場合、
名乗る前に話した「私」は太郎さんではない事になるのか?
おかしいでしょ ま 此処まで書いてみても 大抵は拒絶するだろうがね♪ それでも俺としては 書いておきたかった 第一 創造神はエホバではなくロゴスであることを受け入れるのには 無理がある 長年のプライドが許さないでしょう。聖書は聖書で解釈すれば以上のような解釈に帰決します
ちなみに ギリシャ語だと知恵はソフィア 女性名詞であることを付け加えて 箴言8章のある意味衝撃的内容の考察を終えます。 >>474
2chではヘブライ文字書けないでしょ
ギリシャ文字は書けるのにおかしな話だ 創世記2章4節で「主(YHWH)なる神が地と天とを造られた時、」ってある時点で
明らかに世界を創ったのはYHWHじゃねぇか
イエスな訳ねーだろ キリスト・イエスは、御自身を「神」とは言わず、むしろ「神」は御自身とは別の存在であることを示しておられます。
それは、「なぜ、あなたは私を『善い』などと言うのか。神お一人のほかに善い者なぞいない。」(マルコ10:18 佐藤研訳)
とか、「私に栄光を与えるのは私の父である。それはあなたがたがわれわれの神だといっている方である。」(ヨハネ8:54 小林稔訳)
とか、「父は私よりも大いなる方」(ヨハネ14:28 小林稔訳)などと言っておられることや、
「ダビデの子キリスト論への反論」として「主はわが主に言われた」云々(詩篇110:1)を引用し、御自身が「主なる神」とは区別される「主」であるとされていることからわかります。 >>479
それが違うんだな コロサイ1章の御子とヨハネ福音書1章のロゴス 父の懐中におられる神を考察すると イエスとなる また詳しくは次回な われわれの件も一緒に考察するべよ おやすみ〜 真の神とは
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神であるヤハウェただお一人
この神が、信仰の人アブラハムになさった契約を守られ、イスラエルをご自分の民として導かれた
ヤハウェはご自分に似せたいかなる偶像を崇拝することも、他のいかなる神を崇拝することも許されなかった
単純明快で最高の真理がこれだ >>481
お前の言う新約聖書なんてキリスト教が後から勝手に付け加えたものだろ
それに創世記2章4節で「主(YHWH)なる神が地と天とを造られた時、」の説明になっていない
お前は創世記2章4節をどう説明する気だよ >>482
素晴らしい
まさにあなたの仰る通りです >>481
その通り。創造者はイエス。
正統派の三位一体が真理ですね。 >>478
http://www.sacred-texts.com/bib/poly/index.htm
書けるでしょ、ヘブライ語
創世記1:1
בְּרֵאשִׁ֖ית
בָּרָ֣א
אֱלֹהִ֑ים
אֵ֥ת
הַשָּׁמַ֖יִם
וְאֵ֥ת
הָאָֽרֶץ׃ サブちゃんが一日も早く三位一体の嘘に気づきますようにアーメン(笑) 「イエス・キリスト=唯一の主」という信仰告白と対照的に、「父=唯一の神」と告白されているのが、第一コリント8:6です。
原文は「ヘミーン(私たちには)/エイス(一)/セオス(神)/ホ パテール(父)」という語順であり、
青野太潮訳では、「われらには唯一の父なる神〔がいるのみ〕」となっていますが、
新共同訳では「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ」、
口語訳では「わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである」、
新改訳では「私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで」となっています。
私訳は「私たちには、唯一の神である父〔がおられる〕」です。 >>482
アブラハムに現れた三人のみ使いが「ヤハウェ」と言われているけど、アレ上手く説明できる人いる。
水戸黄門(神)と助さん格さん(二人の天使)みたいな感じかな?教えてエロい人。 >>489
単に天使ではなく、主の使いという場合、天使の姿をとられた主ご自身。
三位一体なのです。 >>476
なるほど論理的には正しい
されど、本当に最初の「わたし」が「太郎」でない可能性も否定出来ないのもアリじゃない。
ものみの塔協会や統一協会の聖書解析は 前近代的 さらに捏造 情報隠蔽だらけな教えだから信用出来ない。 >>490
調べてみたよ。「主の使い」「エホバの使い」「ヤハウェの使い」
と呼ばれているユニークな方が 旧約に度々登場しているね。
アブラハムの妻サラに仕えていたエジプト女ハガルに最初に現れている。ハガルが女主人に虐められ 逃げ出した時 ハガルを慰めた「主の使い」を 彼女自身は「エルロイ」と呼んでいる。伝承では「拝んだ」とされている。 父イサクを騙した罪で家出して叔父のいるハランへの道中
青年ヤコブに現れた「主の使い」は 天からの梯子の上に座しておられ ヤコブは「ベテルの神」と呼び 石を積んで拝んでいる。
数十年後、ヤコブが妻や子ども、家畜等を連れて凱旋帰国の際に 再び現れたベテルの神 主の使い 真夜中から明け方まで格闘しヤコブを祝福 「イスラエル」と命名したのも 「彼」でした。 モーセにシナイ山の燃える柴から現れたの 「主の使い」
自ら 「我は有りて在る者」と呼んでいる。
また 昼は雲の柱 夜は火の柱からヤコブの子孫たちイスラエルを導いたのは他でもない「彼」でした。 約束の地カナンのエリコ攻略の前にヨシュアに現れた「主の使い」自らを 「萬軍のヤハウェの軍の将」と名乗っている。
また、マノアには「不思議」と名乗り、アッシリア軍を一夜で全滅させたのも「主の使い」である「彼」だ。他にも度々登場 旧約に於いて大活躍している。まるで 正義の味方ヒーローだ。 >>492-495
エホバの証人は この「エホバの使い」を=イエスとは認めているが、肝心要なポイントがズレている。すなわち、=御子なる神イエス を否定。代わりに=ミカエル、箴言の知恵 最初にエホバに直接創造された被造物の長 イエス
と 非聖書的発想で妄想垂れ流している。 >>490
この「主の使い」たる存在者が 天使長ミカエルでない理由を見出だすのは簡単だ。
ハガルに拝まれても拒否していない、ヤコブにはベテルの神として登場 また、ヤコブの証言「わたしは神と直に見て触れても生きている」
モーセにエホバだと証した み使いがいるだろうか。マノアと妻の前に現れた「不思議」なる主の使いは 燃え盛る犠牲の炎と共に昇天している。神以外このような事が許され得るだろうか。しかも 不思議とは後にイザヤに示された 9・6「霊妙なる議士」霊妙 不思議と同じ原語 >>490
そもそも 目に見えない神は 人の前に現れ得るのか?実はあるのだ、出エジプト24・9-11に モーセはじめ74人が イスラエルの神を見 共に会食している驚くべき出来事が書いてある。神の幻とJWははぐらかしているが 現実の神(主の使い)であることは 考察すると明らかになる ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています