クリスチャンのセックス相談室 2
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
メガチャーチとして知られるサドルバック教会(米カリフォルニア州)を共同で創設したリック・ウォレン牧師の妻、ケイ・ウォレンさんが最近、
新著『Sacred Privilege(聖なる特権)』(英語)を出版し、
結婚生活の痛みと苦闘について、まさに「地獄の結婚生活」の危機にあったと赤裸々に告白した。
「私たちの新しい結婚生活は、急変したのです。ブリティッシュコロンビア(カナダ西部の州)への2週間にわたる新婚旅行の最後の頃には、私たちの間は深刻な状況になっていました。
すべての夫婦が直面しなければならない5つの衝突について注意するよう言われていましたが、私たちの場合は一気にそのすべてに突入してしまいました。
セックス、コミュニケーション、お金、子ども、互いの義父母の問題です」
「私たちは21歳になるかならないかの若さでした。セックスに不満を持って、そのことで口論になりました。口論に口論を重ね、憤りの上にさらに憤りを重ねるようになり、幻想が打ち砕かれた悲惨な状態へと完璧に移っていったのです」
「私たちは、衝突し、失望し、もはやお互いの生活がめちゃめちゃになって、健全な夫婦生活をどうやって構築すべきかなどまったく分からなくなってしまいました」
http://www.christiantoday.co.jp/articles/24005/20170626/rick-warren-wife-kay-new-book-sacred-privilege.htm >>722
同じ山上の垂訓(すいくん)の中でイエスは (敵を愛せ)とも言われている。それは本来人間には無理だから、自分は罪深い人間だと自己嫌悪に陥るか 聖書が嫌いになります。有島、芥川 大宰 その他 嫌いな奴を無理に好きになろう ったって、それは土台無理
女を見て云々も同じ
この教えを守った人なんかいませんよ 敵を愛せのすぐ次に イエスは (天の父が完全であるように、あなた方も完全なものとなれ)
女を見て云々 敵など愛せないと がっかりしている真面目なクリスチャン青年は この言葉で留めの一撃をくらいます。お前たちも神のように完全になれとは これは途方もない要求です イエスが一番嫌われた人種を パリサイ人と呼ばれる 現代の感覚だと評論を語る大学教授や弁護士たちのよう。イエスと鋭く対立し 彼を死に追いやった敵 彼らは神殿に寄生し大衆を利用して富を吸い上げ 権力の座にあぐらをかき 風俗では一番汗をかく偽善者たち >>723
同意です
そもそも人間には本来罪など存在しません
あなの意見とは矛盾はないです
キリスト教国家アメリカをごらんなさい
なんでも武力で解決するのを目論んでおり
そこには慈悲のかけらもありません
敵対勢力は皆殺しというのがキリスト教の教えにあるからです
たとえば北朝鮮政策をもってみてもわかるでしょう
自分たちは核保有しながら相手国に核放棄しろなどといった
まるで理不尽な要求をし、従わないなら武力行使するなどとのたまうわけのわからないトランプの
基地害性がキリスト教の欺瞞ぶりを物語っているわけです サドカイ派はイエスはまともに相手するのも馬鹿らしい連中だった 何も語っていない。それに対して パリサイ派には痛烈極まる批判を放ち敵意剥き出しに罵っている。パリサイ派は神の子が渾身の力を振り絞ってぶつかるに値する手強い相手だったのです。マタイ23章 イエスがかくも熾烈な対決をパリサイ人に挑んだのは 彼らがほとんど実行不可能な掟を作り人々に押しつけ これを守れない者を 罪人とし排斥裁いたからです。主曰く (神が欲しているのは犠牲ではない、憐れみの心だ)と
イエスは掟破りとして山上の垂訓を語った なのに 同じように実行不可能な掟をイエスも語っていたのなら 矛盾している。 じつはこれらは翻訳が悪いのです! >>723
例えば 敵を愛せだが そもそも(愛)と訳した言葉が違ってたら如何? 「愛」とは本来上位の者が下位の者を可愛がること 明確な上下関係がある 昔は 男は妻を愛でる しかし妻は旦那を お慕いするのです。 聖書のラブ アガパオを 愛と翻訳は見当違いであり
キリシタンたちは 愛ではなく 「お大切」「お大事」にすると訳した。 大事にしろ これは意志的行為 感情ではない 汝の敵を愛せは無理でも 憎い敵でも大事にしろ フェアプレイ オフサイドだ 敵に塩を送った上杉謙信の心と日本人ならピンとくる
敵を大事にしろ これがイエスの真意だったのです 憎い奴でも大事に扱う われわれはそういう人を 「ああ、できた人だ」と尊敬します これが 父が完全なようにって意味 そういう「できた人」にお前たちもなれ これがイエスの真意だったのです。完全なんて野暮な翻訳が悪かった。
できた人 自分の本来の姿を知っていて 自分の愚かさ 醜さ 弱さに素直に受け入れる勇気ある人 太っ腹な大人 他人の弱さ 悲しみ 愚かさも受け入れることができるのです >>722
こうやって考えて改めて山上の垂訓の 女を見て云々の真意も違っていることがわかる。
掟破りの主は マタイ9:6 で地上の罪を赦す云々とあります。地上の罪とは天では罪とはされていないのにパリサイ人や世間が勝手に思いこんでいる罪と解釈が可能 病気の原因と世間が考えている(ありもしない)罪 イエスはルカ13:1-5 罪と災難は関係ないと明言
もともとない罪を赦す アフィーエミ 必要はない エクスーシア権威とは あることを自由にすること
イエスは女云々なんて罪はもともとないのだと 言ったのです! 神が考えておられる 淫らな罪とは 家庭を崩壊させる罪。だから既婚者に与えられた責任を問うのです。独身者に適用するのは酷。ある意味婚前交渉さえ神は順番は間違っているが許し祝福されている。まして自慰や 女に情欲云々は本末転倒だとイエスは言っているのです。 まとめます、主が汝の敵を愛せ は翻訳悪い→本来は敵を大事にしろ と考える 何とか出来る。
神が完全なように→できた人になれ、太っ腹になれ と読むなら 何とか出来る。
女を淫らな気持ちで見たら→パリサイ人への皮肉 既婚者は家庭を家族を大事にしろ 独身者は良心に背かぬ範囲で 自由を楽しんでも罪には問わない そんな罪など最初からないのだ あるなら俺がすべて赦す
以上の真意を汲んで
素直に平安に生きてください! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています