玉城康四郎さんのいんもの巻の解説の一部。・・「いんも事を得ようと思うならば、いんも人たるべきである。すでに
いんも人である。どうしていんも事を案ずることがあろうか」いんも事とは現在このようにありのままになつている事
である。したがつて、いいかえれば、我々はすでにいんも人である。そうしてみると、現在このようになっている事を
あれこれ案ずることはない。この生き方を、そのとおりに貫いて生きどおしていく過程においてこの巻に展開されてい
るように、様々なおしえが生まれてくるのである。道元はまず左の句についいて、いんもとは「まつしぐらに究極の悟
りに至ること」と解する。そして「究極の悟り」は全宇宙よりも大きい、という。このことはわれわれが入定してみれ
ば直ちにわかることである。禅定に入って智慧が開けてくる、いいかえればダンマが全人格体に露わになり、浸透し、
通轍する。すると自己性が消失して、ただひとえに形なき命が奔騰するのみである。それが宇宙をどこまでも食み出し
ていくことは必然である。・・・・・ ?上の心身は各々の心を正しく治す事を放棄している言い訳か?鉄の身とか
コンピュータの正確心とか身に憑けない今は不幸な時しか見えず、もうすぐ人間にはロボットが来る世。今の医者は
神の手は体は直せるけど心の錬金術には失敗している。でももうすぐ頭も治せる野鴨、でも治すのは心の各々の
自由にふれないのか? 実在とは今ここに心身られているここから私は逃げられない
ため息ついて有る苦野鴨 鉄の身体とコンピューターの正確な頭それが何の意味があるのだ
ろう?神様は責任逃れて気楽な人生送れるのだろうけど