昔と違つて今はある意味無意識の修行には恵まれている野鴨。テレビやパソコンネットごちやんねるもある意味瞑想いや
妄想の夢の修行場だ。昔の人はこの世の苦しみから逃れても夢や白昼夢の妄想でしかぼおつとして逃れられなかつたけど
今の妄想は視覚と聴覚だけで行為は頭やテレビ現場で作られて、こじさんの思いも見るだけだから実害が無い今ははっきり
と見えるテレビドラマという夢がある。触る痛い苦しいとか言う直接的な感覚はこの身だけで十分でそれを実現しようと
する必要は無い。なぜなんだろうと考えた。心身るという言葉が出てきた?心にとって身は向上の修行する時は必要なのか?
我々はホントは夢の中に居て目が覚めてもそれも夢で夢幻に中も外も夢の中に居る幻実なのか?宗教信じる人
例えばエホバの証人の人が聖書のとおり信者以外は皆殺しでエホバ天国で救われると言つてもそれはエホバの人があの世の
夢に脱出したらそうなつても我々のあのよ夢と重ならず矛盾しないのかも、だいたいエホバの人は行為はエホバの神まかせ
で見る聞くの人たちで性格も穏やか実外がないけど聞くのうるさいだけ神任せこれは無責任だけど是れでいいのだ
責任取ろうとして無理に実行すると悲惨な夢になるしまあなんだかんだ言つても宗教もこの世で仲良く生きるの学ばないと
生き残れないし 夢の中の夢 夢の外も夢 見る聞くだけなら実外も無い でも低級なドラマおもしろがってばかり
見るのも少しは勉強しなさいの声が 良い子は少しだけ良い実選するのじゃ