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外道の独り言 8
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0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/12/10(日) 16:35:46.20ID:QdzHGF9T
☆彡
「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません
このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して
パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします
「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいです)
「真摯なる碩学」が
パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです

自由に書き込みしたい方は↓こちらへ
ひだ =^・ ・^= まり
ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2
ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524

前スレ
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1491547539
ログ保管庫
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html
0744神も仏も名無しさん
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2018/05/09(水) 19:50:48.92ID:8Uhki2Ez
今日のガッテンは、  心頭滅却すれば云々   w
0745神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/10(木) 01:47:31.30ID:cEfzn7zC
>スマナサーラ:ブッダは古代インドにあった創造神(ブラフマー)のような屁理屈を認めていたわけではない。
>人間が生命を慈しむならば、それが梵天の境地であると言葉の意味を変えてしまった。
(スマナサーラのTwitterより)

確かにそうなのだ
慈経(メッタスッタ)ではこう説いてある

立っている時も、歩いている時も、坐っている時も、
あるいは横になっていても眠っていない限り、
この [慈悲の] 念をしっかり保つものである。
これが梵天(崇高なもの) の生き方であると言われています。

[このように実践する人は] 邪見を乗り越え、常に戒を保ち、正見を得て、
諸々もろもろの欲望に対する執着をなくし、
もう二度と母体に宿る(輪廻を繰り返す)ことはありません。
http://www.j-theravada.net/sutta/Metta_Suttam.html

慈悲というのは崇高な梵天の生き方であり実践すれば輪廻の輪から解脱できるから慈悲を行うべきであると?
結局は慈悲といいながら目的は自分のためかいと思いつつも道元も「利行は一法なり」と言ってるしまあ良いのか!?
0746おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
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2018/05/10(木) 02:10:51.32ID:bXBkkh0l
 
>梵天の境地であると言葉の意味を変えてしまった

ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6
真俗二諦

その当時のインドの人々にとって
仏教を理解せしめるためには
その当時のインドの世間的な考えも認めて
その理解のうえで
仏教を
その時代の
その地域の
人々に理解せしめるというやり方がとられねばならなかった

それゆえに
梵天の境地であると言葉の意味を変えても良いんジャマイカ?
という対機説法

ttp://www.bukkyouoshie.com/tenkai/sikikaibonten.html
第一禅定をもって
梵天の世界に戻り帰る
という対機説法
0747宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/05/10(木) 05:29:16.82ID:T1utZrbV
>>736
訂正:
 ×「色即是空の色は有為法における有為という概念を示しているものでしょう。」
 ○「空即是色の色は有為法における有為という概念を示しているものでしょう。」

>>738
>ちゃんと名(受想行識)と色(色)を分けて書いています

通俗的で物理的な濃密物質という意味での五蘊の「色」(色即是空の色)と
それとは別に、心などの心理作用(受想行識)を含めたあらゆる現象界の事象のすべて、
つまり、仏教の説く一切としての有為法という意味での「色」(空即是色)を
一応、それぞれを区別して分けて示して、尚且つ、ただしそのいずれのすべても「空」なのだということをいっています。
なので、「したがって、果物はリンゴである」といった可笑しなことにはならない。
もしも、これがまったく同じ意味としての色であったならばそのまま続けて繰り返す必要などはない。
では何故、わざわざ有為法としての色即是空としてこれを敢えて説くのかについては、
空というのは有為法に限定されるということを明確にするがためです。
「空即是色」というのは、「空」というものは「色」(この場合は物質のみならず現象界のすべての事象としての有為)に限定されることを示すものです。
このことにより、部派の犯したような一切(空)/法処法界の中に無為(涅槃及び涅槃に住する如来)も含めてしまうという愚に陥ることがなくなる。
生起きすることなく消滅変化しない無為を一切皆空(縁起している諸行)に含めることはできないからです。
ここが混乱しているからヒンドゥー側からは、
仏教の説く“縁起/空の教えそのものも所詮はただの空でしかないのだろう”として馬鹿にされるのです。
(「涅槃」と涅槃に住する「如来)も空であるなどという愚を語ってる人はもう止めにしましょうね)
0748神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/10(木) 09:27:53.67ID:vgrg3ICR
釈迦は、サトリをひらいてから、みずからを如来と称したが、べつにえらぶってそう自称したわけでもなく、また当時"如来"ということばもそのような(崇拝の対象になるような)神秘的意味はなかった。
単に法(真理)と一体化した人、という意味で、げんにこの人は、死んだ高弟をよぶ場合も、如来という敬称をつかったそうである。
(「この国のかたちA」司馬遼太郎)


さて、悟りを開いてからの釈迦であるが、如来になったとはいえ他から独立して生きていたわけではなく、
托鉢をして食べていたし、病老死から逃れることもできなかった。
「全てのものは相互関連し合って存在しており、独立した絶対的な存在はない」という縁起説(や諸法無我の教え)から釈迦如来が外れていたわけではない。
なので釈迦如来とてやはり空性である。
0749神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/10(木) 09:29:22.94ID:vgrg3ICR
身も心も、因縁によってできているものであるから、この身には実体はない。この身は因縁の集まりであり、だから、無常なものである。

もしも、この身に実体があるならば、わが身は、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、その思いのままになし得るはずである。

王はその国において、罰すべきを罰し、賞すべきを賞し、自分の思うとおりにすることができる。
それなのに、願わないのに病み、望まないのに老い、一つとしてわが身については思うようになるものはない。

それと同じく、この心にもまた実体はない。心もまた因縁の集まりであり、常にうつり変わるものである。

もしも、心に実体があるならば、かくあれ、かくあることなかれ、と思って、そのとおりにできるはずであるのに、
心は欲しないのに悪を思い、願わないのに善から遠ざかり、一つとして自分の思うようにはならない。

この身は永遠に変わらないものなのか、それとも無常であるのかと問うならば、だれも無常であると答えるに違いない。

無常なものは苦しみであるのか、楽しみであるのかと問うならば、
生まれた者はだれでもやがて老い、病み、死ぬと気づいたとき、だれでも、苦しみであると答えるに違いない。

このように無常であってうつり変わり、苦しみであるものを、実体である、わがものである、と思うのは間違っている。

心もまた、そのように、無常であり、苦しみであり、実体ではない。

だから、この自分を組み立てている身と心や、それをとりまくものは、我とかわがものとかという観念を離れたものである。

智慧のない心が、我である、わがものであると執着するにすぎない。

身もそれをとりまくものも、縁によって生じたものであるから、変わりに変わって、しばらくもとどまることがない。

流れる水のように、また灯火のようにうつり変わっている。
また、心の騒ぎ動くこと猿のように、しばらくの間も、静かにとどまることがない。

智慧あるものは、このように見、このように聞いて、身と心とに対する執着を去らなければならない。
心身ともに執着を離れたとき、さとりが得られる。
(パーリ中部 密丸経)
0750神も仏も名無しさん
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2018/05/10(木) 10:12:23.29ID:a7OKh2Di
大日如来

大乗仏教の信仰対象である如来の一尊。
大日如来の体・言葉・意識は虚空に存在し、かつ、万物の内に存在するという。

宇宙の真理を体現する象徴的な法身の仏であり、大日経などの密教経典の説き手とされる。
不動明王を化身、あるいは使者とする。それにとどまらず全ての仏菩薩の本体とも言われている。こうした壮大な教義のせいで超越神・ブラフマン的なものと誤解されることも
あるが、誤りである。密教の伝統によれば大日如来もまた一切皆空に外れる存在ではない。
https://dic.pixiv.net/a/%E5%A4%A7%E6%97%A5%E5%A6%82%E6%9D%A5
0751神も仏も名無しさん
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2018/05/10(木) 10:26:28.06ID:a7OKh2Di
>>748
正覚後の釈迦を一番最初に崇拝したのは仏典では梵天とされています。
世界の主梵天は釈迦に向かって合掌し「尊いお方様」と敬意を込めて語りかけたとされています(相応部6-1-1 懇請)。
0752神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/10(木) 13:07:52.04ID:arp7VQgJ
般若波羅蜜多には般若波羅蜜による智慧の完成を指す場合と般若波羅蜜の完全同意語の場合があるようです
いずれにせよ般若心経にあるように諸法を空相と見極めることが般若波羅蜜多の最終段階でそれができたら阿耨多羅三藐三菩提を得るということになります

しかしその最終段階には突然に至れるわけではなく龍樹作と言われる大智度論によると般若波羅蜜には声聞、辟支仏の修行である三十七品〜〜四念処、四正懃、四如意足、五根、五力、七覚分、八聖道〜〜の修養を必要とするとあります
『菩薩摩訶薩』は、一切の、『善法』と、『道』とを、『学ばねばならないからである!』、従って三十七品も学ばなければならないとしています
http://www.geocities.jp/tubamedou/Daichidoron/Daichidoron11-20/Daichidoronn19a.htm

日本では空海や道元は三十七品を重視していました

観自在菩薩はそう言った諸々の修行をした上での行深般若波羅蜜多だったわけであります
0753おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/05/10(木) 14:06:41.15ID:bXBkkh0l
 
>四念処、四正懃、四如意足、五根、五力、七覚分、八聖道

おじゃるの場合は
上座部(根本仏典)2.0も肯定派なので
縁起している世界を手放しする
その直前までは
悟りに至るための菩提分法は必要だ。と思うけど

ところがどっこい
 − これに対して −
たとえば
中国経由の日本の禅宗とかの場合は
一切の諸法すべて ← 仏そのもの(の現れ)なので

それゆえに
普勧坐禅儀 道元禅師著
そもそも仏法というものは円満に全てのものにゆきわたっており
(悟りに至るための)修行したり、悟り証したりすることもない

仏法がゆきわたっているので
余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐。という感じらしい

空海
三十七菩提分法是れ法宝なり

道元
三十七菩提分法、即ち仏祖の眼晴鼻穴、皮肉骨髄、手足面目なり
仏祖一枚、これを三十七菩提分法と参学しきたれり
0754神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/11(金) 00:15:38.51ID:aDcjeK0J
釈尊は「我」を認めた?    


ある学者の人々は、それでも我があってほしいから、「お釈迦様は、『我はどこにもない』とは言っていない。我でないものを我と受け取るのが嫌で無我と言っただけで、真我そのものを否定してはいない」と言うのです。
「自我は否定しても自己は否定していないぞ」とも言います。
言葉で遊んでいますが、ピント外れには変わりありません。
お釈迦様の鋭さが見つかっていないというか、それを感じていないのです。
お釈迦様は人にショックを与えないで丁寧に智慧の方向に導くのです。
私たちが何かを付け加えることも、解釈を拡げることも不可能です。
遺された教えの中のほんの僅かのものを説明することしかできません。


アルボムッレ・スマナサーラ; 藤本晃. ブッダの実践心理学 (アビダンマ講義シリーズ―第2巻 心の分析)
0755宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/05/11(金) 02:28:57.78ID:xr/NoVE8
>>748
>托鉢をして食べていたし、病老死から逃れることもできなかった。
>--中略--なので釈迦如来とてやはり空性である。

そういった外的な事柄や肉体(濃密物質そのもの)上のことというのは
涅槃とは直接的にはまったくの無関係なのであって、それらが如来を示すものなどではないですから。
涅槃は縁起のない世界では在るから、空性では在り得ない。
涅槃とは意識としての境地のことであって、その意識に到達しているのが如来ということ。
であるから、如来も空などとしては仏教理論は成り立ちません。
空とは、苦のある世界(一切皆空)のことです。
そこに如来が住する筈がない。

>>750
>密教の伝統によれば大日如来もまた一切皆空に外れる存在ではない。

いえ違いますから。
そのような理解(涅槃および涅槃に住する如来もすべて空)はすべて部派からの伝承による後遺症なのです。
間違ったものを自分自身で見ぬくことができないのならば、ただ伝統を信奉しているだけにしか過ぎない。
それでは意味がない...。
0756宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/05/11(金) 02:40:37.04ID:xr/NoVE8
>>755
訂正:
 ×「空とは、苦のある世界(一切皆空)のことです。そこに如来が住する筈がない。」
 ○「空とは、苦のある世界(一切皆空/一切皆苦)のことです。そこに如来が住する筈がない。」
0757宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/05/11(金) 02:42:21.38ID:xr/NoVE8
>>754
>言葉で遊んでいますが、ピント外れには変わりありません。

ピント外れは長老のほうです。
(まっ、これは長老だけに限らないが...)

まずは、
仏教においては実は、“恒常世界については認められている”
(『ウダーナ』において説かれる)ということをあなた方は知らねばなりません。
それ(恒常世界)が無為法(無為)です。
あなた方は、ただ否定しているという話(一切についての教え)しか知らないだけ。

無為とは恒常の領域であり、
そこは生じることなく滅することもなく(無常ではない)、生起しない(縁起していない)。
そこは生滅変化しない常住不変の境地であるから不死であり不滅(没することがない)。故に恒常(永遠)な世界なのです。
従って、無為に該当するものはニルヴァーナ涅槃であり、
そして、また至高の意識((唯一者である創造神)であるところのブラフマンとアートマンも同様ということになる。
ゴータマの説いた否定意とは、一切における有為(現象界)ではアートマンは認識できないということ(無為だから当然です)。
ということは、つまり、一切を超越すれば認識できることを意味する(一切を超越している領域が無為)。

 『ヘーマカよ。この世において見たり聞いたり考えたり識別した快美な事物に対する欲望や貪りを除き去ることが、
不滅のニルヴァーナの境地である。』(Sn.1086)

 『これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、没することなき解脱の境地である。』
(ウダーナヴァルガ26-29)

 『涅槃の語は仏教以前から存在したらしく、---中略---しかし涅槃と同じく生死輪廻を超えた悟りの境地として、
パラモン教では古くから不死(amrta甘露)の語があり、仏教でも不死は涅槃の同義語とされた。』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』p171新版第1刷/春秋社刊)
0758宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/05/11(金) 02:49:53.79ID:xr/NoVE8
〜これでも解らない人には、
私からもこれ以上のことを述べようはない...。
「認めたくない」というのもその人の自由ですから、好きにしてもらう以外にはない。
0759宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/05/11(金) 03:01:12.83ID:xr/NoVE8
>>743
これらは、
一切についての正しい理解なく、
『ウダーナ』も読んでいない誤解した人たち同士の対話です。

取り上げる価値が無い...
0761神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/11(金) 11:43:57.03ID:LMZGQGXu
8.1 第一の涅槃に関することの経

「比丘たちよ、その場所(処)は存在する
――そこにおいては、まさしく、地なく、水なく、火なく、風なく、
虚空無辺なる〔認識の〕場所(空無辺処:虚空のように終わりはない、という瞑想の境地)なく、
識別無辺なる〔認識の〕場所(識無辺処:心意識に終わりはない、という瞑想の境地)なく、
無所有なる〔認識の〕場所(無所有処:いかなるものも断片的対象物として存在しない、という瞑想の境地)なく、
表象あるにもあらず表象なきにもあらざる〔認識の〕場所(非想非非想処:表象があるでもなく表象がないでもない、という瞑想の境地)なく、
この世なく、他世なく、月と日の両者はない。
比丘たちよ、そこにおいて、また、わたしは、まさしく、帰る所(現世)を説かず、赴く所(来世)を〔説か〕ず、止住を〔説か〕ず、死滅を〔説か〕ず、再生を〔説か〕ず、
これ(涅槃)を、依って立つところなきものと〔説き〕、〔対象として〕転起されることなきものと〔説き〕、まさしく、〔転起された〕対象ならざるものと〔説く〕。
これこそは、苦しみの終極“おわり”である」と。
http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-3.html

ここまで無を連続させるのは般若心経と同じです
つまりどういうことか
般若心経の作者(あるいは元の大般若経の該当箇所の作者)は空を涅槃とか法身の意味で使用しているということ
般若波羅蜜多によって一切の苦厄を度して到達した彼岸は空であって空即涅槃ということになります
空も涅槃も無分別の世界であるということです
0762おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/05/11(金) 20:29:39.08ID:MaaFPeBR
>空即涅槃?

現代語訳
ttp://www.geocities.jp/tubamedou/Tandoku/Shinngyou2.htm
般若心経
般若の智慧と慈悲をもって
般若波羅蜜多を深く極め
六波羅蜜を行って
仮設としての
縁起している
一切の諸法も
仮和合の五蘊も
すべて
『空性である』と観照してる

智慧と慈悲をもって
戒・定・慧・解脱・解脱智見
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(智慧も慈悲も)

ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html

さらに無の世界も超えて
般若の智慧と慈悲をもって
移り行く世界の様を
ありのまま見つめている

円成実性の世界から → 依他起性している世界を見つめてる
0763神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/12(土) 00:39:08.45ID:yIp2CHvG
>>757
【諸行無常·諸法無我、涅槃もまた無我】

そうすると、愚か者たちはこう言います。「木が無常だということは、子供でもわかります。私の身体も命も無常だということは、子供だってわかるでしょう。そんな偉そうな話ではありません」
「大切なのはそんなありきたりの世界ではなく、永遠の実体の世界、真理の世界、ありのままの個我を真我へと昇華させることでしょう」と。
永遠の実体などはじめからないのに勝手な結論を出すのです。

そこでお釈迦さまは、サッベーサンカーラーアニッチャー「sabbe sankhārā anicca(諸行無常」と説きます。
「諸行」とは、世の中にあるすべての現象、森羅万象のことです。それは無常であると
そして、サッベー ダンマー アナッター「sabbe dhammā anatta (諸法無我) 」と説かれるのです。

ここで注意してほしいのは、「諸法」と「諸行」は違うということです。
「諸法」には、現象だけでなく、すべてのものが含まれています。
「法」の場合は、何も抜けていないのです。そして、すべてまとめて無我である、とお釈迦さまは説くのです。
無我という概念を使う場合は、「法」という言葉をわざと使います。
「諸行無我」という言葉はありません。あくまでも、「諸法無我」なのです。
では、なぜ「諸法無常」と言わないのでしょうか。「ウサギの角」という言葉を考えてみましょう。
これは、人間が頭の中でつくった言葉で、実際のウサギには角はありません。
ウサギの角は、無常でしょうか。
はじめからないものですから、無常とはいえません。しかし、「ウサギの角」という概念は「法」に入ります。
存在はしませんが、頭の中で組み立てた思考としては存在します。
それが無常だとは言えませんね。
たとえば、目の前にあるペットボトルは、無常です。実際にあるのですから。
ペットボトルは、同時に無我です。永遠に変わることがない「実体」などありません。
そういうわけで、無我という単語を使う場合は、「諸法」と言わなければならないのです。
0764神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/12(土) 00:46:00.40ID:yIp2CHvG
こうまとめてもよいでしょう。
行..因縁によって起こる現象
法..涅槃も含むすべて
「法」と言えば、「涅槃」も「ウサギの角」も「亀の毛も「空華(虚空に浮かぶ実在しない花。凡夫が、実体の無い存在を実体が有るかのように誤ることのたとえ) 」も全部入っています。
それらはすべてが無我です。
ですから、涅槃もまた無我なのです。
「涅槃もまた無我」と言うと、誤解するでしょう。
仏教では究極の幸福の境地として涅槃を説かれています。
無我を発見していない一般の方々は、涅槃の境地に達したら永遠の幸福の命を獲得したようなものだと推測します。
しかし、涅槃という境地は、認識概念では説明不可能です。
すべての概念は現象の世界を指しています。
現象を乗り越えた世界に対して、言葉も概念もありません。
強いて言えば、生き続けることは苦であり、それを乗り越えられたならば、幸福である、という程度の話です。
最初から自我はなかったのです。
自我があるとは人間の錯覚·幻覚です。
覚りに達する人には、自我の錯覚が消えます。
幻覚が無くなるのです。それだけです。
覚った人に、今までなかったアートマン (自我)が突然現れるはずはないのです。
涅槃も無我です。
ですから、諸行無常で諸法無我なのです。

(無我の見方 (「私」から自由になる生き方) アルボムッレ・スマナサーラ)
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