>>732
>いや、空即是色においても色は肉体とか物質の方であって色即是空の色と変わりはないでしょ

 『体験を示したものは同一用語でも、低い立場や高い立場に使用されているから、同一単語であっても場合によっては、
その概念内容に雲泥の相違があることがある。たとえば般若心経の色即是空、空即是色などがそれである。まず空の意味に
も種々のものがあってこれを正しく把握することが必要であり、次に色即是空の色と空即是色の色とは、同一文字ではあっ
ても、そこに表現されている色は、第一の場合には通俗的な色であるが、第二の場合には空を理解体得した高い悟りの境地
から見られた色であって、両者は決して同視されてはならない。そこには心境の進みによる次元の相違が現れているから、
このような立体的な表現は三段論法による形式論理の対象となり得ないことが知られるであろう。』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊p3-4)

色即是空の色は有為法における有為という概念を示しているものでしょう。
有為が空であり、空であるのは有為だけなのです。そして、この有為だけが仏教の説く「一切」ということ。
であるのに、勝手に無為も一切の中にぶち込んだのが部派仏教なのです。
長老のテーラワーダは部派なので、この間違いをそのまま継承しています。
涅槃も涅槃の住する如来も空などというのは、この部派の間違いの影響をすべて受けています。

 『ところで仏教で一切法とは存在するすべてのものを指すのであるが、原始仏教時代に関するかぎり、それは生滅変化す
る現象の法に限られていた。一切法を五蘊・十二処・十八界などとした場合、それらはすべて時間と空間の中にあってわれ
われに認識され得る現象界だけを意味した。(p112)
 原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現象としての有為法だけでなく、生滅変化しな
い常住不変の無為法をも存在の中に加えるようになった。この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、
原始仏教とは違った性格のものとなった。(p143) 』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)