>>706-722
それら、『般若心経』についての説明の殆どが長老による勝手な誤った理解です。
あまりにもデタラメと勘違いが甚だしいので、ここに切りがないので“少しだけ”指摘しておきます。

“リンゴは果実”は正しいけれど“果実がすべてリンゴである”筈がないのだから、
この逆を述べている「空即是色」はダメだという長老の話はかなり笑えてしまう誤解の典型です。
まず、「色即是空」の色と「空即是色」での色というのは完全同一の色ではありません。
「色即是空」の色はそのまま単純に物質のことと理解していいですが、「空即是色」での色というのは単なる物質ということではなくて、
仏教の説く法則であるところの「有為法」、つまり、サンスカーラ(造作されたもの)と諸行無常の行としての
「一切法」(名色・十二処・十八界)のことを指しています
要するにこれは、“一切法の修行を実体験することによって現象界が「空」であることを体感する”という意味です。
それから、大乗でも「空」が大日如来とか久遠佛とか、法身如来、アートマン、ブラフマン...などとはいってはいません。
ただし、如来も涅槃もすべてが「空」だという馬鹿な僧侶が多いのは事実ですが
(これはまったくの間違いであり、如来も涅槃は空ではない)。

般若心経の中で繰り返し使われている「無」は、
「空」とは異なる意味の“何も無い”ということをいっているのではありません。そのように理解している大乗徒はいません。
これは“それら(色受想行識。眼耳鼻舌身意。色声香味触法...)には実体は無い”という意味として使われているのです。
この空についての説明でこのようにして「無」の文字を当てる漢訳というのは玄奘三蔵によるものであり、
大乗徒はこの三蔵による漢訳最初期の経文に対して強い敬意を示しつつ、今日までこれをそのまま受け継いできたのです。