◾舍利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不摯s減
◾舍利子よ、この諸法は空を相とし、生ぜず、滅せず、垢つかず浄からず、増さず、減らず。

空をもてあそんで実践が置き去り

「諸法空相」は「すべての法(もの·こと)は空相である」ということです。
これに異論はありません。
パーリ経典にsabbe dhammā anatta. (諸法無我)とあって、「無我 anatta アナッター」は「実体がない」ということで「空」の同義語ですから「諸法空相」も正しいのです。
ただし「不生不滅。不垢不浄。不摯s減」という文章は、観念的な遊びです。
確かに「諸法空相」は正しいのです。「すべてのものに実体はないのです。
それを観念的に考えて論理だけを引き伸ばすなら、「すべてのものは実体がないから現れることも消えることもない、すべてのものは実体がないから汚れることも清らかになることもない、すべてのものは実体がないから増えることも減ることもない」と言うことはできるでしょう。
しかしそれは本当でしょうか?
人は現れたり消えたりするでしょう?
赤ちゃんから大人になると、体積も体重も増えていくのは当たり前でしょう?色は現れたり消えたりするでしょう?
赤ちゃんは大きくなるにつれて想(概念)が増えていくでしょう? 年老いるとボケてきて、想が減っていくでしょう? 受想行識は生滅するでしょう?
一切の現象に実体はなく、因縁によって現れては消えているのです。
現象の世界には、生滅も増減も明らかにあるのです。
それをまとめて否定してしまうと、「何もないなら, べつに実践しなくてもいいじゃないか」となる恐れがあります。
その点で『般若心経』の作者は、相当な間違いを犯しているのです。
私たちは夢を見て驚いたり怖くなったりします。
それも一つの現象です。
目が覚めて「夢だった」と言うことはできますが、だからといって「夢なんかない」と言えるのでしょか?
現に夢を見ている人は、怖がったり驚いたりするでしょう。だったら私たちには、なかったことにはできない問題なのです。
ただ「夢なんかない」言っただけで私たちの心が悟りに達するわけではないのです。


( 「アルボムッレ・スマナサーラ 般若心経は間違い?」より引用)