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外道の独り言 8
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0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/12/10(日) 16:35:46.20ID:QdzHGF9T
☆彡
「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません
このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して
パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします
「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいです)
「真摯なる碩学」が
パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです

自由に書き込みしたい方は↓こちらへ
ひだ =^・ ・^= まり
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0706神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/07(月) 11:00:33.06ID:eBh4hxrv
龍樹の空論と空即是色

困ったことに『般若心経』は、仏教用語を使いながら仏教用語の意味をわかっていないのです。
それは「色即是空。空即是色」のくだりからも明らです。
「色即是空」は正しいのです。
「色は空であると観なさい」とパーリ語経典にもあります。
では、「空即是色」ってなんでしょうか?
これはどうしても、大乗仏教の世界からみたって成り立たない話です。
大乗仏教で一般的に言われている「空」とは、真理そのものであって、超越した何かの存在なのです。
大日如来とか久遠佛とか、法身如来とか、宇宙全体の実体たる真理で、そこからすべてが流出してくる。
ヒンドゥー教のアートマン、ブラフマンという観念と大乗仏教の「空」の観念はかなり似通った、区別できないものになっています。
しかしそれは、大乗仏教のカリスマ·龍樹が発見した「空」ですらないのです。
龍樹はただ、「ものごとは相対的であって実体は成り立たない」と論理的に緻密な哲学を構築しただけで、「空たる真理が存在する」とはけっして言わなかったのです。
大乗仏教が発展していく上で、空は真理·実体そのものになっていったのです。
しかし、龍樹の「空」は言うまでもなく、そういう実体化された「空」の立場から見たとしても、『般若心経』に書いてあることは間違っています。
「リンゴは果物である」というのは正しいのですが、「したがって果物はリンゴである」というのはおかしいのです。そういうふうに言葉を使ってはいけないのですが、『般若心経』の作者はそれも理解していないのです。
それだけではありません。「色即是空」と言ったのは正しいのに、自分でそれを理解していない。
「色受想行識は空である」と言ったのは正しいのに、やはり理解していない。
理解していないから、「空と色は同じもので全然変わりはない」などと言うのです。しかも何度も言うのです。これはすごく滑稽です。間違ったことを何度も発表できるのは、わかっていないからなのです。
0707神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/07(月) 11:07:56.69ID:eBh4hxrv
無を使ったら空論は成り立たない

「空論」を語る人は「na 無」という言葉を使いません。
それは「無」と「空」がまるで違うからです。
「無」は「何もない」ということだから、もう話にならないのです。
たとえば「私に角がない」という場合は「無」です。
無いのだから、論ずる必要はまったくない。
無いものについて言及すること自体、バカバカしいのです。
「空」というのは、そういうことではないのです。
蜃気楼は空です。
蜃気楼について、私たちは語らなければいけないのです。
「あれは水のように見えるけれど、ホントはそちらに水も何もないんだよ」と。
「これはこういう働きで水のように見えるのだと。それは空なる現象であって、「無」ではないのです。
蜃気楼を見て「あれは無だよ」と言ったところで、蜃気楼はあるように見えるのですから無じゃないでしょう。
私に苦しみが「無い」と 言ったって、実際には現象として苦しみがあるのだから無ではないのです。
空と無はまったく違うもので、無を使った時点で空論は成り立たないのです。
空を語るなら、「こういう過程で苦しみが現れるのであって、本当は苦しみ自体は空なのです」と説明するべきなのです。
0708神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/07(月) 11:11:37.72ID:eBh4hxrv
仏教経典は修行の方法を語るべき

観自在菩薩が修行をして悟ったと言いながら、次のセクションの「是故空中無色無受想行識」と続く流れで、ブッダの説かれたすべての教えを無にしてしまう。
大乗仏教であっても空思想を説く場合、有無の概念は使えないのですが、作者は大乗仏教の基本論理さえも、あまりわかっていなかったのでしょう。
このくだりについて、「この『無』は有無の無ではなくて、無自性という意味だ。無自性というのは空の同義語だから、虚無主義ではないんだ」というような注釈をして、なんとかしてつじつまを合わせようとする場合もあります。
仏教徒が仏教の教えに基づいて不完全な経典を仏教的に修正してくれるのは尊いありがたい話ですが、やはりもとの経典に重大な欠陥があることは否めないのです。
次に「菩薩たちは般若波羅蜜多で心をきれいにする。ブッダたちも般若波羅蜜多で解脱したんだ」とのたまう。
だったら次に、「般若波羅蜜多はどのように修行すべきか」という方法論が示されるのでしょうか?
方法論がないものは、ただの観念です。
『般若心経』が仏教経典であるならば、ここから修行の方法論が説かれなければならないのです。
0709神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/07(月) 11:18:43.16ID:eBh4hxrv
バランスがよい立派な人格者を作ることが、ブッダの教えです。
『般若心経』をみると、観自在菩薩が五つの波羅蜜を完成して、最後に般若波羅蜜を完成した、と読めないこともないのですが、それならばそうと一行入れてお
いてほしいのですね。
「最後に般若の波羅蜜だけ残っていて、それに取り掛
かったのだ」と。
それならすごくカッコいいのですよ。

(以上 「アルボムッレ・スマナサーラ 般若心経は間違い?」より)
0710神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/07(月) 15:07:42.70ID:Wu0s6V9S
>理解していないから、「空と色は同じもので全然変わりはない」などと言うのです。
>しかも何度も言うのです。これはすごく滑稽です。間違ったことを何度も発表できるのは、
>わかっていないからなのです。

「色即是空」で180度
「空即是色」で360度 www
0711パーピマン
垢版 |
2018/05/07(月) 15:09:16.28ID:Wu0s6V9S
ん???

コテが入らんw
0713おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/05/07(月) 17:57:08.43ID:FUpfOx8P
 
>「色即是空」で180度 - 「空即是色」で360度

ttp://www.zen-essay.com/entry/sikisokuzeku
禅の視点?
色即是空の意味を知ったなら、次は空即是色の視点を持とう
「空だからこそ色が存在する」という、空即是色の視点を加えたい

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AD%82%E9%AD%84
魂魄(こんぱく)
魂(こん)は陽に属して天に帰し(魂銷)
魄(はく)は陰に属して地に帰す

ttps://kotobank.jp/word/%E7%9C%9F%E5%A6%82%E7%B8%81%E8%B5%B7-538672
(天の世界も超えた)仏の世界からの真如縁起
魂(こん)は陽に属して天(仏の世界)に戻り帰る

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%AB%E7%BF%92
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存して
魄(はく)は陰に属して地に帰り、そして輪廻へ
  _  _  _

無為法の世界から → 有為法の世界へ
有為法の世界から → 無為法の世界へ戻り帰る
0714承狂 ◆AHZLgKnOHuTj
垢版 |
2018/05/07(月) 18:12:57.74ID:by3W4K8b
大乗仏教と密教で言われる空とは、龍樹菩薩所説の空であり、真理そのものではないし、超越した何かの存在でもないよ。(笑)

(^。^)そんなバカな話は、バカカルト内部だけで言われてる与太。(笑)

それと、「行深般若波羅密多」って書いてあるのに、行法が書いてないとか言い張るマヌケ。(笑)
お前は日本語が理解出来ないのか、それとも朝鮮人なのか?なら仕方ないな。(笑)

(^。^)でも、あんまりバカなことばかり書いてると、パーマンがまた火病るぞ?(笑)
0715神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/07(月) 23:52:35.04ID:eBh4hxrv
空即是色は間違い

「色即是空」、すなわち「肉体は空である」というのは仏教的に正しいのです。肉体には実体がなくて空なのです。
しかし『般若心経』は、次に「空即是色」、すなわち
「空は肉体である」と言ってしまうのです。これは間違いです。
わかりやすい例をあげましょう。
「リンゴは果物である」というのは正しいのですが、「したがって、果物はリンゴである」というのは間違いなのです。
「人は死ぬべきものである」というのは正しいのですが、「したがって、死ぬべきものは皆人である」というのは間違いなのです。
同様に「肉体は空である。実体がない」というのは正しいのですが、「したがって、空は肉体である」とは言えないのです。
だから「色即是空」で止まるべきなのです。「空」を知っている人なら、空即是色とは言いません。
「1+1=2」なら、ひっくりかえして「2=1+1」でも同じです。「A=B」なら「B=A」なのです。
それはいいのですが、何にでもこの式を使うべきではありません。そのことを『般若心経』の作者は、わかっていないのですね。
これは実践的な経験·能力のない人が犯す失敗です。
そもそも空は、実践するものなのです。
瞑想して無常を発見して因果法則を発見して、現象が現れて消えることを発見してどんどん発見して実体がないということを発見すると、心が無執着状態になって、解脱涅槃に達するという実践なのです。
実践論は哲学になりません。哲学というのは観念的なもので、哲学をやってもあまり役に立たないのです。
0716神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/08(火) 00:10:32.35ID:H3H4X9IN
◾舍利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不摯s減
◾舍利子よ、この諸法は空を相とし、生ぜず、滅せず、垢つかず浄からず、増さず、減らず。

空をもてあそんで実践が置き去り

「諸法空相」は「すべての法(もの·こと)は空相である」ということです。
これに異論はありません。
パーリ経典にsabbe dhammā anatta. (諸法無我)とあって、「無我 anatta アナッター」は「実体がない」ということで「空」の同義語ですから「諸法空相」も正しいのです。
ただし「不生不滅。不垢不浄。不摯s減」という文章は、観念的な遊びです。
確かに「諸法空相」は正しいのです。「すべてのものに実体はないのです。
それを観念的に考えて論理だけを引き伸ばすなら、「すべてのものは実体がないから現れることも消えることもない、すべてのものは実体がないから汚れることも清らかになることもない、すべてのものは実体がないから増えることも減ることもない」と言うことはできるでしょう。
しかしそれは本当でしょうか?
人は現れたり消えたりするでしょう?
赤ちゃんから大人になると、体積も体重も増えていくのは当たり前でしょう?色は現れたり消えたりするでしょう?
赤ちゃんは大きくなるにつれて想(概念)が増えていくでしょう? 年老いるとボケてきて、想が減っていくでしょう? 受想行識は生滅するでしょう?
一切の現象に実体はなく、因縁によって現れては消えているのです。
現象の世界には、生滅も増減も明らかにあるのです。
それをまとめて否定してしまうと、「何もないなら, べつに実践しなくてもいいじゃないか」となる恐れがあります。
その点で『般若心経』の作者は、相当な間違いを犯しているのです。
私たちは夢を見て驚いたり怖くなったりします。
それも一つの現象です。
目が覚めて「夢だった」と言うことはできますが、だからといって「夢なんかない」と言えるのでしょか?
現に夢を見ている人は、怖がったり驚いたりするでしょう。だったら私たちには、なかったことにはできない問題なのです。
ただ「夢なんかない」言っただけで私たちの心が悟りに達するわけではないのです。


( 「アルボムッレ・スマナサーラ 般若心経は間違い?」より引用)
0717神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/08(火) 00:50:45.99ID:H3H4X9IN
>>716の続き

無常を否定する愚

初期仏教では、あくまでも「一切の現象は生じて滅するものである」「一切は無常である」という立場です。お釈迦さまは生滅説なのですね。
これに対して『般若心経』は、「生滅がない」と言っているのです。
このひと言で『般若心経』は、せっかくお釈迦さまが発見された「無常」という真理を否定してしまうのです。
「不生不滅。不垢不浄。不増不減」というのは、論理的に、理屈では成り立ちます。
しかし理屈は実際とは食い違ったものであって、ただの観念であって、頭の遊びなのです。
だから初期仏教ではこの一連のセクションは使いません。
諸法空相(諸法無我)ということで話を終えて、あとは悟るために実践するのです。
観音菩薩はサーリプッタ尊者に、空について一生懸命説明していたようですが、たぶんサーリプッタ尊者はこの辺でさじを投げて、諦めて帰ったと思います。
0718神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/08(火) 01:16:37.37ID:H3H4X9IN
『般若心経』の作者も真剣ではなかった?

最後まで読んできましたが、「『般若心経』はあまり勉強してない人が作った経典ではないかな」というのが私の感想です。
『般若心経』は仏教用語をたくさん並べていますが、パーリ経典を読んで学ぶ人からみると、経典に値しないダラダラした作品で、欠点がたくさんあります。
作者はただ適当に短くまとめてみようと思っただけで、そんなに真剣ではなかったようです。
本人は「空」ということをわかっていないし、空の思想を理解してもいませんでした。
そのことは、空を理解していたら使えない「na無しという言葉を使ってしまっていることからもわかります。
作者は、龍樹(ナーガルジュナ) のように空論を詳しく知っていた人ではないのです。
龍樹さんなら空論はちゃんと知っていますから、そんな曖昧な言葉は絶対に使いません。
きちっと責任を持って語るのです。
この経典の作者はそれほど能力がなくて、何も立証せずにただ言葉を羅列したのです。
おそらく『般若心経』は、もともと呪文を信仰している占い師,祈祷師のような人が書いたのでしょう。
知識人のお坊さんが相手にしなかった、なんの立場もない祈祷師程度だと思います。
呪文は誰でもありがたく信仰するので、書き写されて、書き写されて残っただけのことなのです。
0719神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/08(火) 01:16:58.76ID:H3H4X9IN
中身の勉強は不要

ということで結論です。
中身の勉強は不要ということで結論です。
『般若心経』は中身を勉強しなくてもいい経典です。
そもそも中身がないし、論理的でもない。
だから、意味がわからないことで困らなくてもいいのです。
意味がわからないのは私たちの頭が悪いのではなくて、先生の頭が悪いからです。
先生が私たちに教えるならば、「わかりやすく教えてくださいよ」と文句を言う権利が生徒たちにもあります。
生徒たちが苦労して、できの悪い先生を守る必要はないのです。
ですから『般若心経』がわからないのは、恥ずかしいことではありません。
真剣に考えないことです。文化的な楽しみとして付き合うのが、害がなくて適切だと思います。
デザインとして使ったり、写経するなら意味を考えずに一文字一文字写経するのがいいでしょう。
『般若心経』は、仏典ほど古くないけれど、長い間みんなが大事にしてきた経典というくらいのことです。
大事に守られた理由は、短いことと、理解できないことですね。
理解できなかったのは、中身がなかったからです。
『般若心経』は大乗仏教の空思想とは関係がありません。
龍樹が確立した空思想は大乗仏教の大事な教えで、それは別のところでそれなりに頑張って成立させています。
0720パーピマン
垢版 |
2018/05/08(火) 01:28:24.66ID:06y888qv
思うに・・・・

スマさんの功績は、「日本仏教とは異なる仏教というものがあるんだ」と言う事実の
認知を広めたこと

対して罪科は、「おかしなトンでも論で、テラワダを貶めたこと」・・・・・

だと思うのだが、どうだろう?w
0721神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/08(火) 01:33:02.04ID:H3H4X9IN
理論、実践、向上への躾が必要

ただ『般若心経』が広まることで起きた困った現象、弊害については、もう一度しっかり触れておきたいと思います。
ブッダの説かれたパーリ経典の立場からみれば、『般若心経』には「これが真理です」という理論、メッセージがないのです。
「このようにしなさい」という実践論もありません。「私たちは確実に、人間として成長しなくてはいけないのだ」という向上への躾も欠けています。
それは先に紹介した『慈経(Metta-suta)』と比べれば歴然としているでしょう。
「向上するための躾が欠けているならば、それはブッダの生の教えではない」
これは私たちが経典をチェックする重要なポイントです。
ブッダの生の教えなら、たとえ四行であっても、「頑張りなさいよ」という一言が、成長するための方法が、必ず入っているのです。
「すべての現象は無常であると智慧によって知る人は、すべての苦しみから解放される(『ダンマパダ』二七七)
一偈の経典であっても、ここには「やはり智慧で知らなくてはいけないのだ」という実践論があります。
理論も向上への躾も示されています。
理論と実践は切り離せないというのがブッダの立場です。
『般若心経』にはそれが入っていないことは、かなり大きな欠点です。
『般若心経』はブッダの言葉を軽々と「無·ない」と処理します。
それではブッダの言葉はそんな真剣に学ばなくてもいいということになってしまいます。
ブッダから人々の気持ちを遠ざけてしまうのです。
挙句の果てに、お釈迦さまが完全に否定した呪文をハイライトして終わってしまうのです。
唯一残った実践が呪文なのです。正しい仏道から離れてもらって、「では、やることないから、呪文でも唱えなさい」となっているのです。

( 「アルボムッレ・スマナサーラ 般若心経は間違い?」より引用)
0722神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/08(火) 01:42:03.71ID:H3H4X9IN
まあ、長老の本を引用した自分も
>>716
をなどを読むと「空即是色」を入れた(六百巻の大般若経から抜粋して般若心経を作成するときにはずさなかった)のは正解だったとは思うw

>しかしそれは本当でしょうか?
>人は現れたり消えたりするでしょう?
>赤ちゃんから大人になると、体積も体重も増えていくのは当たり前でしょう?色は現れたり消えたりするでしょう?
>赤ちゃんは大きくなるにつれて想(概念)が増えていくでしょう? 年老いるとボケてきて、想が減っていくでしょう? 受想行識は生滅するでしょう?
>一切の現象に実体はなく、因縁によって現れては消えているのです。
>現象の世界には、生滅も増減も明らかにあるのです。

これが空即是色ということw
長老は気づいていないのかな?
あるいは自分の解釈が間違ってる可能性もあるけどw

しかし>>709などはかなり同意
「最後に般若の波羅蜜だけ残っていて、それに取り掛
かったのだ」と入れてれば「大乗は最初から無苦集滅道なので」と勘違いされないだろうしw
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