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外道の独り言 8
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0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2017/12/10(日) 16:35:46.20ID:QdzHGF9T
☆彡
「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません
このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して
パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします
「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいです)
「真摯なる碩学」が
パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです

自由に書き込みしたい方は↓こちらへ
ひだ =^・ ・^= まり
ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2
ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524

前スレ
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1491547539
ログ保管庫
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html
0475宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/04/02(月) 02:00:38.23ID:AK4iYSfO
>>474
ゴータマは2500〜2600年前の方であり、すでにその教説は変質していて純粋なものは残っていません。
原始経典の中からその部分を推察しながら読み取っていくのが精一杯というところ。
けれども、ヨガナンダの場合はマハーサマーディ(肉体放棄)が1952年という近代の出来事。
つまり、教えの変質に対する心配が殆どないということ。
なので古代の教えにて変色してしまっているものと、
まだ僅か数十年前に起きたばかりの近代の話との比較です。
このことが最も決定的な違いでしよう。

【映画 予告編】永遠のヨギー/ヨガをめぐる奇跡の旅
 https://www.youtube.com/watch?v=4iBLkdQ4sxU
0476神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/04(水) 00:20:44.15ID:i9qyZeMk
ヨガナンダの言葉はブッダよりもイエスに近いかも?
ただイエス以上に寛容な感じはする
まあ人類を神の子とするからイエスっぽいのかもしれないがこの場合の神とは真我や真理を人格化したインドの神様なんだろうなあ
でもヒンドゥー教だけに万教同根的思想もありそうだね

イエスとの違いはこの世界は夢とか幻想とするところとかかな
他にもいっぱいあるだろうけどw
0477宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/04/04(水) 03:48:32.14ID:IYQAp8hJ
失礼、アンカー洩れでした
>>443は、>>438の投稿へのレスです。

>>476
イエスは、キリストとしての活動期間が短いために残された教えも少ないのです。
0478宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/04/04(水) 03:51:20.95ID:IYQAp8hJ
>>438
>肉体中心の訓練
補足: >>443-444 

よくある勘違いを長老もしている可能性があるので少し説明しておきます。

 >>475の動画の中で、『ヨガは体で行うものと思われていますが、本当は心に関するものです』とある通り、「ヨガ」というと詳しく知らない
一般の人たちというのはその殆どがハタ・ヨーガのことを連想します。
 日本などでは一般には「ヨガ」として呼ばれているもののその殆どが健康や美容のための体操であり、その大本はインドの「ハタ・ヨーガ」
から編纂してアレンジされたもの(サンスクリット語では「ヨガ」という読み方はないので、これは英語をローマ字読みした日本語固有の読み
です。「ヨガ」は、正しくは「ヨーガ/Yoga」と表記され、その発音は「ヨゥガ」の方に近い)。この複雑で様々なポーズをとるのがハタ・ヨー
ガのアーサナ(体位法)という行法です。
0479宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/04/04(水) 03:51:56.04ID:IYQAp8hJ
の中においてはそのごく一部でしかなく、そして、本道でもありません。最近の話だと片岡鶴太郎さんが、インド政府公認プロフェッショナル
ヨガ検定インストラクターに合格したということが話題となりました(インドのヨガ省が管轄する試験は筆記と実技からなり、本場でも2万人
が受検して1800人しか合格しない難関で、日本ではこれまでに26人しか合格していないという)。あれがハタ・ヨーガです。鶴太郎さんは、
ヨーガの修錬の中心が本当は瞑想にあることを理解しましたが、それは聖典『ヨーガ・スートラ』の説く体系の中では最終段階の第八番目に位
置するものとして受け止めました。実はここが一つの大きな落とし穴とになっており、そのために殆どのヨーガの実践者たちは『ヨーガ・スー
トラ』の体系に沿って進もうとしてハタ・ヨーガ行法の実修を永延と続けることになるのです。あれを殆どすべて修得しようとしようものなら
ば、ただそれだけで丸々、一生涯を費やしてしまうことになってしまうのだから、それでは人生の時間の無駄になる。ヨーガ修行の中心はあく
までも瞑想行にあるのであって、ハタ・ヨーガというのはあくまでもそのための準備としてあるに過ぎない。これは究極のサマーディに入る長
時間の瞑想状態にも耐えうる肉体を整えることが目的なのであり、要するに健康的な肉体にて長時間の座法に挑めるようにすることにあるので、
そのためにハタ・ヨーガの体系をすべて修得する必要などはまったくない。
0480宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/04/04(水) 03:53:34.72ID:IYQAp8hJ
>>479
投稿ミス

 ヨーガというと、このハタ・ヨーガを指すくらいにイメージとしては深く浸透しています。しかし実際上はハタ・ヨーガというのはヨーガ道
の中においてはそのごく一部でしかなく、そして、本道でもありません。最近の話だと片岡鶴太郎さんが、インド政府公認プロフェッショナル
ヨガ検定インストラクターに合格したということが話題となりました(インドのヨガ省が管轄する試験は筆記と実技からなり、本場でも2万人
が受検して1800人しか合格しない難関で、日本ではこれまでに26人しか合格していないという)。あれがハタ・ヨーガです。鶴太郎さんは、
ヨーガの修錬の中心が本当は瞑想にあることを理解しましたが、それは聖典『ヨーガ・スートラ』の説く体系の中では最終段階の第八番目に位
置するものとして受け止めました。実はここが一つの大きな落とし穴とになっており、そのために殆どのヨーガの実践者たちは『ヨーガ・スー
トラ』の体系に沿って進もうとしてハタ・ヨーガ行法の実修を永延と続けることになるのです。あれを殆どすべて修得しようとしようものなら
ば、ただそれだけで丸々、一生涯を費やしてしまうことになってしまうのだから、それでは人生の時間の無駄になる。ヨーガ修行の中心はあく
までも瞑想行にあるのであって、ハタ・ヨーガというのはあくまでもそのための準備としてあるに過ぎない。これは究極のサマーディに入る長
時間の瞑想状態にも耐えうる肉体を整えることが目的なのであり、要するに健康的な肉体にて長時間の座法に挑めるようにすることにあるので、
そのためにハタ・ヨーガの体系をすべて修得する必要などはまったくない。
0481宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/04(水) 03:54:35.17ID:IYQAp8hJ
 ラマナ・マハルシのようなアドヴァイタ的一元論上の実践道ジュニャーナ・マールガ(探究/非行為の道<「ジュニャーナ・ヨーガ」と呼ぶ場合
もあり>)に対し、実際はそれ以外のすべてが「ヨーガ道」(行為の道)なのです。
 よく知られているヨーガについて紹介するとその代表的なヨーガの種類には、王家のヨーガと呼ばれる瞑想中心の「ラージャ・ヨーガ」、複雑
な体位法アーサナが特徴のハタ・ヨーガ、チャクラへのエネルギーの流入出を制御する「ラヤ・ヨーガ」、タントリズムを採り入れたシャクティを扱
う秘教「タントラ・ヨーガ」、ムーラダーラ・チャクラの覚醒してサーペント・パワーを解放する「クンダリニー・ヨーガ」、ラーマ・クリシャナ
に代表されるような祈りと献身にて神との一体化を図る「バクティ・ヨーガ」、マントラの繰り返し読誦を用いる「マントラ・ヨーガ」(真言宗
における実践道の中心の一つ)、日常生活のすべてについて結果を求めることなく無執着の意識で行為していく実践道「カルマ・ヨーガ」(ゴータ
マ・ブッダの説かれた実践法)、そして、ヒマラヤのババジによって蘇った聖クリシュナの説かれた「クリヤ・ヨーガ」(ヨーガ実践のあらゆるす
べてのエッセンスがバランスよく含まれた総合ヨーガでヨガナンダによって西洋に紹介された) などがある。

 『私がお前を通して、この19世紀に全世界に与えようとしているクリヤヨガは、数千年前、クリシュナがアルジュナに与え、後にブッダ、パ
タンジャリー、キリスト、ヨハネ、パウロその他の弟子たちに知られるようになったものと同一の科学である』
(ヨガナンダ著『あるヨギの自叙伝』の中で、ババジが弟子のラヒリ・マハサヤに述べた言葉)
0483神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/05(木) 00:17:33.14ID:6ERuHEXr
スマナサーラ長老も仏教は完成された科学と毎回言うのだったら、科学的精神に基づいて自らヒンドゥー教の瞑想やハタヨガを実践して仏教の止観と比較して、
その自らの体験でヒンドゥー教と仏教の違いを語ればいいのに、
試しもしないで教理教学の比較だけでヒンドゥー教と仏教に優越をつけようとするのは科学的ではないと思う。
ヒンドゥー教は真我信仰宗教で実相ではないという仮説を立てたら自ら実践してその瞑想の境地なりを味わってテーラワーダのサマディと比較しないとな。
その場合でも「私には◯◯での瞑想よりも××の方が向いていた」とするのが科学的だと思う。
個人の体験を一般論にするのは科学的ではない。
0484おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/04/05(木) 02:28:44.73ID:cOWPLnGB
 
その当時のインドの人々の
一般的な世間的な『思い』を認めて
六師外道とかヒンドゥー(バラモン)とかも認めて
その理解のうえで、仏教を理解せしめる
というやり方がとられねばならなかった

たとえば
釈迦は
六師外道とかヒンドゥー(バラモン)由来の
禅定とか
非想非非想とか実践して
そして
すべて一切を手放して
非想非非想とかも超えて
六師外道とかヒンドゥー(バラモン)とかも超えて。と
人々の心の働きに合わせて対機説法をもって導いた

そして
根本仏典とか
上座部とかは
『釈迦は、六師外道とかヒンドゥー(バラモン)とかも超えている』と導いている
(釈迦は、瑜伽行派の実践も超えている)
スッタニパータ 874
ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、想いを消滅した者でもない
このように理解し
掴もうとしている想いを手放し
世界を超えた者の形態は消滅する
けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起るからである
0485おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/04/05(木) 02:48:45.99ID:cOWPLnGB
 
「ありのままに」と掴もうとしている想い
「想いなき」と掴もうとしている想い
「想いを消滅」と掴もうとしている想い

このような
掴もうとしている想いを手放しするための
六師外道だったかもしれない
ウッダカ・ラーマプッタの

「想う」という想いも手放して
「想わない」という想いも手放して
非想非非想も手放し超えて
縁起している世界を手放し超えて
(瑜伽行派の実践も手放し超えて)
涅槃

それゆえに
『釈迦は、六師外道とかヒンドゥー(バラモン)とかも超えている』と
根本仏典とか
上座部とかは
人々の心の働きに合わせて対機説法をもって導いている
0486神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/05(木) 07:16:12.59ID:/LyTV+DC
ひとが何か或るものに依拠して「その他のものはつまらぬものである」と見なすならば、それは実にこだわりである。と〈真理に達した人々〉は語る。
それ故に修行者は、見たこと・学んだこと・思索したこと、または戒律や道徳にこだわってはならない。(スッタニパータ798)


或る人々が「最高の教えだ」と称するものを、他の人々は「下劣なものである」と称する。
これらのうちで、どれが真実の説であるのか?
─かれらはすべて自分らこそ真理に達した者であると称しているのであるが。(スッタニパータ903)


かれらは自分の教えを「完全である」と称し、他人の教えを「下劣である」という。
かれらはこのように互いに異なった執見をいだいて論争し、めいめい自分の仮説を「真理である」と説く。(スッタニパータ904)


真のバラモン(邪悪を払いのけた人)は、他人に導かれるということがない。
また諸々のことがらについて断定をして固執することもない。
それ故に、諸々の論争を超越している。(スッタニパータ907)
0487ポッタン師
垢版 |
2018/04/05(木) 07:27:13.06ID:YX6S/Zyo
485.484.
心理学をやっている場合ではない。
バカ丸出しである。
0488神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/05(木) 12:07:48.42ID:S97bxBiT
>>487


お前のポンコツは、このあたりの影響か?
日月神示 岡本天明
0489おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/04/05(木) 13:57:28.24ID:cOWPLnGB
 
たとえば
釈迦本人が
ヒンドゥー系を実践してたとしても
(そして手放し超えたとしても)

スマナサーラ本人が
ヒンドゥー系を実践してないのに
仏教と比較して
「仏教以外のものはつまらぬものである」と見なしている
掴もうとしている想い
こだわりである

ということで おじゃるな?

=^・ ・^= にゃるほろ了解 おじゃる

おじゃるは
第6のチャクラ 眉間のところが
くすぐったい・むずむずする。チャクラ系も肯定で おじゃる
0490おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/04/05(木) 14:23:48.28ID:cOWPLnGB
 
日月神示
ウィキペディアには
「身魂(心、精神、身体)を絶え間なく磨き、鍛練しつつ備えよ」
と書いてあるので

日月神示は(123師匠よりも)
ヒンドゥー・上座部・瑜伽行派とかに近い感じもする

 − これに対して −

123師匠は
仏法というものは
円満に全てのものにゆきわたっており
修行したり、悟り証したりすることもない
(それゆえに『心の働きを観照する』ことではない)

↑なんちゃって覚者系みたいな感じ?
0491ポッタン師
垢版 |
2018/04/05(木) 15:19:56.81ID:bhA5azy7
490.
心の働きを観照する、のは心理学である。
それでは、悟り、とは何か。
0492おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/04/05(木) 16:33:25.84ID:cOWPLnGB
 
エジプト、インド、チベット、中国に
日本の神道に
似たようなものがあるのか?
わからないけど、とりあえず

どこかの古代文明
 ↓
(プラトンが云う)アトランティス
 ↓
エジプト
 ↓
インド
 ↓
チベット経由?
中国経由?
 ↓
日本の
伊勢神宮系?
出雲大社系?
(どの系統なのか、わからないけど)日月神示系?

 ↑
仏教伝来の時と同じように考えるのは
間違ってるかもしれないけど、とりあえず
0493宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/06(金) 04:19:25.04ID:rsCAieo7
どうも長老の話というのは全般において、
ただ自分が教わった伝統的に云われていることをそのまま鵜呑みにしてるだけのように見えます。
そして結構、基礎となる基本的なことすらも知らないし。
ヒンドゥーの本物の大聖方の意識レベルというのは相当に高いと思う。
まず、>>486の指摘にもありますが、「これだけが唯一の真理であって、他の宗教はすべてダメだ!」
などということがない。このことが決定的な違いです。

“この宗教だけが唯一絶対”を公言するところでマトモなものを私は今まで見たことがありません。
カトリックの悍ましい歴史然り、イスラム原理主義然り、○○学会をはじめとする日本の各新興宗教然り...

また、後ほど...
0494神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/06(金) 14:59:18.05ID:7w5lxA2u
朝まで生仏教なんて番組、誰か企画せんかなw
時間帯が良くないなら、晩開板まで生仏教とか。

で、田原総一朗のポジションに宮崎哲也とかw
0495おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/04/06(金) 20:44:14.19ID:lcPBR0cU
 
(議論に参加することが出来るのなら)
閻魔師匠が
『議論で勝ったら、相手の頭を丸坊主にしてやる』
とか逝ってた気がする

閻魔師匠は
なんちゃって覚者系なので
何を主張してたのか?
まったく、わからなかったけど…

何を主張しるのか?
わからなくて
(閻魔師匠が)
議論に勝つことができるのか?わからないけど…
0497宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/08(日) 03:49:01.92ID:V/a8tfXe
>>496
最近の禅系で聞くのはパワハラというか、
弟子の修行に対して過剰なしごきが目立つというもの。

あと、
寺院への通いサラリーマン僧侶も多いことなども関係があるのかどうか...
“僧侶の業務≒仕事”という感覚でとらえている僧侶が多い印象。
「仕事」だといってるということは、つまり、仕事をしてないoffがあるということになる。
私が菩提寺住職から直接この発言があった際には正直、大きな違和感を拭えなかった。
僧侶ってのは本来、一分一秒、24h中のすべてが僧侶なのであって、
僧侶ではない時間などというのは無い筈なのだが...。
こういう発言を直に聞いてしまうと、
あぁ...やっぱり成りたくて成ったわけじゃないんだなぁ、
ということを改めて感じてしまう。
0498宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/08(日) 03:56:36.45ID:V/a8tfXe
>>493
追記:

ヒンドゥーでは異なる流派間での論争がない。
アドゥヴァイタ・サーンキャとヨーガ・マルーガ、ヨーガ各派内、六派哲学間に、そしてシヴァ派ヴィシュヌ派...、
哲学的には理論上の細かい部分で論じる部分もあるかもしれないが、基本的には争うということはない。
何故ならば、人間というものは同一の顔がないというのと同様にして、
ただ一つの方法論や道だけでは実践できる人間が限られてしまうということをすべての流派はよくわかっており、
そして、互いに相手の伝統や精神に対しては敬意を以て尊重し合っているからだ。
その精神姿勢はヒンドゥー内のみならず諸外国の異教に対しても同様であって、
各宗教というのは、それぞれの時代や地域民族に適した伝統であるとして尊重している。
であるから、ヒンドゥーの教えを布教する際においても、決して相手側の宗教を口撃したり馬鹿にすることはない。

ところが仏教(圏)ではどうだろうか?
現存主流派vs部派説一切有部の論争があり、そしてまた、大乗は上座部を小乗として罵った。
長老のところのような伝統テーラワーダではそれ以外の仏教諸派を断固として認めない。
中観派と唯識派の対立に、更に中観学派内の自立論証派と帰謬論証派、 唯識学派内の有相唯識派と無相唯識派間の対立。
顕教各派から密教は非仏教の扱いを受け、真言宗においては日蓮系から真言亡国と謗られる...。
仏教の諸派内ですらこの有様なので、当然、長老のようなところの原理主義からみれば、
ヒンドゥーなどの外道(仏教外という意)では絶対に解脱できないものとして馬鹿扱い。
もちろん、諸外国の異教においてなどは論外です。

これらのすべては、
「唯一、自分(自宗派)だけが絶対に正しくて、他はすべて間違ってる」
という意識が原因の根底になっている。そして、酷い場合には相手を「邪教」などと言って罵声する。

仏教ってのは、本来は(異なる)相手に対しても寛容的であり、
修行を積むことで口撃的な意識もなくなっていくものかと思われるのだが、
実際には、後代の弟子たちというのは自分の煩悩を鎮めるどころか、
逆に自分だけが正しいといった己の増上慢を増大するばかりだった。
これを世間一般風にいうと、つまり「俺がオレが...」という意識で“我が強い”状態にあるということ。
0499宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/08(日) 06:46:23.97ID:V/a8tfXe
>>482
大変、申し訳ないけれども、
長老は(バラモン・ヒンドゥーを)何もわかっていないのでとてもお話になりません。

 無我を説く仏教に対して、ヒンドゥーはアートマン(及び梵)との合一、梵我一如を目指すものなので、それらは在りもしない妄
想にしがみつく間違ったものだから、その修行法のヨーガ瞑想もダメだといってるわけです。けれどもその基本的な前提がぜんぶ
間違ってるのです。
 何度も繰り返しになりますが、ゴータマは「アートマンはない」といった無我などは説いたことはないということ(それは部派
による間違った解釈を伝承したもので前記で詳しくやっています)。それと長老は、平均的な一般仏教徒らと同様に「神々はいる
けれども神はいない」というのが正しい仏教だという理解にありますが、これも完全な間違いです。神の実在についてはゴータマ
はハッキリと認めています。
 ゴータマというのは当たり前過ぎることは取り上げないことが多く、そして、またゴータマは、確認せずにただ鵜呑みにして信
じてるだけの大衆らと自ら確認した上で神の実在を認めているこのわたしとを同じにするな、ということをいってるのです(これも
すでに上記でやっています)。

 まず長老の認識、ヨーガ(ヨーガの瞑想)はヒンドゥー教のものであり、仏教とは異なる。つまり、「仏教はヨーガなどではない」
という理解がそもそも根本から間違っています。
 まっ、長老の話で洗脳されている信者には何をいっても無駄かもしれませんが、何も知らずにこれを読もうとする人たちのため
に私は述べています。

 ヨーガという神との一体を求める修行法というのは、その歴史は古くて確認できる物理的な根拠だけでもインダス文明にまで遡
ることができるといい、それだけでざっと4.500年以前からあったもの。その発祥となると恐らくは1-2万年か、それよりも以前
からだろうとこの私は見ています。ヨーガについての文献的記述でいうとこうあります。
0500宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/08(日) 06:48:44.58ID:V/a8tfXe
 【ヨーガという語が見出される最も古い書物は、紀元前800年〜紀元前500年の「古ウパニシャッド初期」に成立した『タイッ
ティリーヤ・ウパニシャッド』です(宝珠追記:Wikiでは紀元前500年〜紀元前500年)。--略-- 
 紀元前350年〜紀元前300年頃に成立したとされる『カタ・ウパニシャッド』には、『感官の確かな制御がヨーガである(『カタ・
ウパニシャッド』6-11)』というヨーガの最古の説明が記されています。】(ヨガの歴史〜起源と始まり〜)
 http://yoga-master.net/grounding/about/origins.html

 ゴータマが修行したものというのは、ヨーガの根本聖典である『ヨーガ・スートラ』設立以前の“古代ヨーガ”なのであって、
このことはババジの言われる通りです(原始経典にはその修行はヨーガYogaであると明記されている)。あの『ヨーガ・スートラ』
すらも、当時の仏教徒たちがその成立に関与したことが研究によって明らかとなっていることからみても、“仏教(徒)がヨーガを
(それはヒンドゥーのものだ)といって馬鹿にする”ということは在り得ないことです。

 『無明が頭であると知れ。明智慧(と慈悲)が信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるもので
ある。』(Sn.1026)

 これは元々は、古代インドでの教えの“悪い行いを働く者は頭が頭が避け落ちる”という脅し的意味合いのものでしたが、原始
仏教において、無知が破壊されることに当て嵌める逆の使い方をしていることから、もしかするとこれは、ヨーガにおいて説かれる、
クンダリニーが上昇して頭頂に達して突き抜ける体験のことを意味している可能性はあるかもしれない...。
 骨盤基底部のムーラダーラ・チャクラにあるクンダリニー(とぐろを巻いて眠っている蛇のパワー)が、修行によって背中のスシュ
ムナー管を上昇して頭頂のチャクラであるサハスラーラ(ブラフマランドラ)の開花に成功すると、頭頂が盛り上がる肉体的変化が起
こるものとされる。実に仏像の肉髻(にっけい)はそのことを象徴している。
 尚、ゴータマがクンダリニーを説かなかったのは、すでに完全な浄化に成功していたゴータマにはスシュムナー管を上昇するクン
ダリニーを感じなかったからだともいわれる(滞りのある者がこれを感じる)。
 https://twitter.com/kanagawa_museum/status/831778174627348481
0501宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/08(日) 06:49:52.12ID:V/a8tfXe
 長老の嫌いな密教はヒンドゥーと親和性が高いので、クンダリニーの存在については認識していたものと見せられる。密教におけ
る軍荼利明王がそれであり、これは宝生如来の権化とされる明王です。サンスクリット名は「とぐろを巻く蛇」または「甘露の壷」
を意味する「Kundali(クンダリー)」そのもの。その名の通り、その姿の首や手首、足などには蛇がまとわりつくのが軍荼利明王の
外見的な特徴。
 https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/811RR5K1fgL._SL1500_.jpg

 尚、長老の主張の中で正しいものといえるものは一つあります。
 ただし、ゴータマはアートマンやブラフマンを想定して、或いは、それらを直接求めてヨーガ(瞑想)を行じたわけではなかったと
いうこと。逆に、何をしても悟りには達せられず、最終的には苦行すらも放棄。何もかも求めることなく、菩提樹の下でただ坐した
ときはじめてその悟りはついに起こった。

 あと、これも長老の勘違いなのですが、確かに指摘の通りでヒンドゥーの一般的なヨーガ実践者たちはアートマンにブラフマンを
求めます。けれどもこれは科学的な変性なので、そのような信仰心がなければ同じ効果がないというものではないということ。
 「信仰心」というものは、それを続けていく上での持続力となる原動力になるものであって、それがなくても続けられる者にとっ
ては何も問題はありません。結果は実践した分だけ確実に得られます。
 また、マントラやジャパであったり、その他の各ヨーガ実践の様々というのは、本道である瞑想修行に至るための手助けとなるも
のだと見なせばいい。それらは必須事項ではありません。

 まっ、まずは“無我の教え”がわかってないことが誤解のすべてです。それが解消しないことにはどうしようもない。
 ゴータマが「アートマンはない」と説いたなどというのは部派による誤解が継承されたものです。残念ながら正しく、ゴータマ本
来の無我の教えを継承してきた仏教教団というのは、どうやら何処にも現存していないということ。
 ある意味では、大乗の説く「仏性」こそがそのことに近く、如来蔵思想〜密教というのはヒンドゥーに寛容的な面からそのことを
積極的に導入できたともいえる。
0502宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/04/08(日) 07:09:46.50ID:V/a8tfXe
【単純図式】
           → 「ヒンドゥー・ヨーガ」(サマーディに至る様々な瞑想と体系)
 「古代ヨーガ」 →| 
           → 「仏教瞑想」(三昧に至る禅定修行)
0503おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
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2018/04/08(日) 12:20:57.32ID:Mp5Eiflv
 
中観自立派
仮設としての
縁起している
因縁果報がある
(おじゃる系?)
  _  _  _

中観帰謬派
勝義諦の世界から → 縁起している世界を観照する
(チベット ゲルク派)
  _  _  _

なんちゃって覚者タソ
無明している世界を見てないので
『仏そのもの』というところが特徴
0504神も仏も名無しさん
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2018/04/08(日) 13:19:42.09ID:1eZI1lIP
>>449
>神の実在についてはゴータマはハッキリと認めています。

釈迦は諸々の神とは何度も直接会っているのでその実在を認めるのは当然のことです。

9 そのとき世界の主・梵天は、尊師が心の中で考えておられることを知って、
譬えば力のある男が、屈した腕を伸ばし、あるいは伸ばした腕を屈するように、
梵天界のうちから姿を隠し、尊師の前に現われ出た。
10 さて世界の主・梵天は、一方の肩に上着をかけて、尊師に向かって合掌し、尊師に向かって次のように言った。
11 「尊いお方さま!そのとおりでございます。
過去にさとりを開き、敬われるべき人々であった尊師らも、真理を尊び、重んじて、たよっておられました。
未来にさとりを開き、敬われるべき人々である尊師らも、真理を尊び、重んじ、たよられることでしょう。
また現在さとりを開き、敬われるべき人(単数)である尊師も、真理を尊び、重んじたよるようにしてくださいませ。」
(サンユッタ・ニカーヤ第一集第Y篇第一章第二節 恭しく敬う)

 そのときサハー(老婆)世界の主・梵天は、夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、
ジェータ林を隈なく照らして、師のおられるところに赴いた。そうして師に敬礼して傍らに立った。
そこでサハー世界の王である梵天は師に告げていった。「尊いお方さま。修行僧コーカーリヤは死去しました。
修行僧コーカーリヤは、サーリプッタとモッガラーナとに対して敵意をいだいていたので、
死んでから紅蓮地獄に生まれました。」サハー世界の主・梵天はこのように言った。
このように言ってから、師に敬礼し、右まわりをして、その場で消え失せた。
(スッタニパータ 第3大いなる章 10、コーカーリヤ)
0505神も仏も名無しさん
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2018/04/08(日) 13:21:40.12ID:1eZI1lIP
1.わたしは、このように聞いた。
あるとき尊師は、サーヴァッティー市のジェータ林・〈孤独な人々に食を給する長者〉の園に住しておられた。
 そのとき、〈神の子〉シヴァは、夜が更けてから、容色うるわしく、ジェータ林を遍く照らして、
尊師のおられるところにおもむいた。近づいてから、尊師に敬礼して、傍らに立った。
傍らに立った〈神の子〉シヴァは、尊師のもとで、次の詩をとなえた。−−−
((II.3.1)【シヴァ】 (第三章 種々なる異学) サンユッタ・ニカーヤ I)

1.或るとき尊師は、王舎城のうちの〈鷲の峯〉という山にとどまっておられた。
2.そのときサッカという名の神霊(ヤッカ)が尊師のところに近づいた。
  近づいてから、尊師 に向って詩を以て語りかけた。−−−
 「あらゆる束縛をのがれ、解脱して、心を落ち着けている修行者にとっては、
他人を教化するということは、善いことではない。」
3.〔尊師いわく、−−−〕
 「サッカよ。いかなる理由で、他人と共住するにしても、智慧ある人はそれをしてはならない。心を同情してはならない。
 〔しかし〕清らかな澄んだ喜びの心を以て、他人を教化することをしても、それによって束縛されることはない。
 それは同情であり、愛憐である。」
((X.1.2)【サッカ】 サンユッタ・ニカーヤII)
※サッカとは神々の王と呼ばれた帝釈天のことでありインドラ神ともいう。
0506神も仏も名無しさん
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2018/04/08(日) 13:44:53.51ID:s8vSjZYj
503.
バカ丸出しである。なんでか。それが、わかれば悟り、だ。
0507基地蔵
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2018/04/08(日) 14:12:58.94ID:f2WuB4SN
悟りとは脳内麻薬を思念のみで分泌して快楽を得る状態を指しているんだよ。

麻薬や金銭や財宝や性行為を
必要とせずに思念のみで快感を得られるから他人と争う必要も無い訳だ。

訳の分からぬ屁理屈や苦行を
重ねても思念による脳内麻薬の分泌は出来はしない。

南無南無 人(・ω・)
0508ポッタン師
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2018/04/08(日) 14:16:11.55ID:s8vSjZYj
507.
脳の科学をやっているバカである。
0509基地蔵
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2018/04/08(日) 14:20:33.97ID:f2WuB4SN
>>508
真理の探究無くして悟りも
また無し。

オカルトと悟りの区別も
つかない哀れな輩じゃな。

南無南無 人(・ω・)
0510ポッタン師
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2018/04/08(日) 14:24:31.10ID:s8vSjZYj
509.
真理の探究、をしても、悟り、なし。
なんでか。
0511宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/04/08(日) 14:47:13.38ID:V/a8tfXe
>>504-505
もう一度、>>257を読み直してください。
この経文が「神」ではなくて、「神々」についてのことだと読み解いた人がいるのか?
それから、梵天との会話というのはすべて私は後代の創作とみています
(同意されないならご勝手にどうぞ!!)。
0512DJgensei 学術artchive gemmar髭白紫の上 呉韻去
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2018/04/08(日) 14:49:28.45ID:KcFulcqR
オカルト?ビトゲンシュタインは過保護だよね。過干渉なラッセル。
0513DJgensei 学術artchive gemmar髭白紫の上 呉韻去
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2018/04/08(日) 14:50:05.98ID:KcFulcqR
脳の中かどうかわからないじゃん。怒ったことは。たぶん間違いなく違う。
0514宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/04/08(日) 15:13:35.28ID:V/a8tfXe
>>511
補足:

この経文を読み解くならば、つまりこれで、
“神については普段は説くことがない”という意であることがハッキリとわかるのです。
あなたのいう神々(諸天や夜叉類)についてはゴータマは普段から説きまくりなのは常識です。
従って、この経文における「神」とは、それらの「神々」のことではないとしてわかるのです。
0515おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
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2018/04/08(日) 15:19:24.09ID:Mp5Eiflv
 
梵天
オン ハラジャ ハタエイ ソワカ
ナウマク・サマンダ・ボダナン・ボラカンマネイ・ソワカ

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2%E7%95%8C
第四禅定 − 無煩天
第三禅定 − 遍照天
第二禅定 − 光音天
第一禅定 − 大梵天

その当時のインドの人々の
世間的な一般的な『思い』を認めてその理解のうえで

『梵天の世界に逝く
  そのための第一禅定でつ』と導いて

そして
『最終的には
  第四禅定も手放し超えて
  非想非非想も手放し超えて → 涅槃へ』と導いていく
0516宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/04/08(日) 15:20:58.08ID:V/a8tfXe
>>507
エッ!!
仏教の悟りが脳内麻薬の快楽だって???
ならば完成者の死について。
脳も無くなる肉体崩壊後の悟りはどうなる?(苦笑)
0517宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/08(日) 15:27:31.75ID:V/a8tfXe
>>515
「梵天界」を低位にしたり、
梵天ちゃんと楽しく遊ぼう感覚で対話する内容などというものはすべて、
バラモン・ヒンドゥーを馬鹿にしたい後代の仏教徒らによる創作付加。

今日、仏教として知られている事柄のかなり部分が
後代において勝手に作られたものです...。
元々(ゴータマの教え)は違う。
0518ポッタン師
垢版 |
2018/04/08(日) 15:27:37.28ID:s8vSjZYj
515.
バカの言う、ことである。
それは心理学である。
それが、涅槃へ、となるか。
否である。バカには理解できない。
迷信を伝承しているだけのことである。
0519宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/04/08(日) 15:41:11.64ID:V/a8tfXe
>>518
>バカの言う、ことである。
>バカには理解できない。

鏡はどうした?
0520おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/04/08(日) 15:42:37.81ID:Mp5Eiflv
 
仮設としての
縁起している
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して
「人々は神が居ることを徒に信じている。確めることなく信じられているからである」

 − これに対して −

シッダールタは
菩提樹の下に坐して
戒・定・慧・解脱・解脱智見をもって
(縁起している世界を超えて)悟りに達して仏陀となった

涅槃(ニルヴァーナ)
仏そのもの
(無明している世界を超えて)神そのもの
0521ポッタン師
垢版 |
2018/04/08(日) 15:55:16.08ID:s8vSjZYj
520.
バカ丸出しである。迷信である。
なんでか。答えを書いても理解されない。
0522おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
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2018/04/08(日) 16:10:54.34ID:Mp5Eiflv
 
無為法の世界と有為法の世界
この二つの世界を前提として

中論 觀如來品 第二十二
如来は
戯論している世界を超えている
無為法の世界

涅槃(ニルヴァーナ)
仏そのもの
(無明している世界を超えて)神そのもの

 − これに対して −

仮設としての
縁起している
無明に依存して
渇愛(タンハー)に依存して

人は戯論を生じる
戯論して慧眼を破れば
是の人達は皆
仏を見ることはない

(戯論して慧眼を破れば)神を観照することはできない
円成実性を見ずして依他起性を見ることはできない

その当時、戯論してる人々に
対機説法をもって導いている >>515 という意味でつ
0523おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/04/08(日) 16:29:30.95ID:Mp5Eiflv
 
仮設としての
縁起している世界の中において
無明に依存して

『神がいる!』と
掴もうとした
その瞬間に

『戯論して慧眼を破っている』ということでつ

 − これに対して −

戒・定・慧・解脱・解脱智見をもって
(無明が依存している)縁起している世界を超えて

涅槃(ニルヴァーナ)
仏そのもの
神そのもの
  _  _  _

ポッタン師匠には
(無明とかの)意味が、わからないかもしれないけど…
0524基地蔵
垢版 |
2018/04/08(日) 16:35:15.19ID:f2WuB4SN
>>516

汝、妄想する事なかれ!

南無南無 人(・ω・)
0525ポッタン師
垢版 |
2018/04/08(日) 16:35:17.73ID:s8vSjZYj
523.
悟っていない、バカ、がバカ解説をしているだけのことである。
世界を超えていない、バカ、の解説である。
0526おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/04/08(日) 16:47:32.43ID:Mp5Eiflv
 
>世界を超えていない、バカ、の解説である

そのとおり!

中観自立派
仮設としての
縁起している
因縁果報がある
(おじゃる系?)

おじゃるは
『自分が悟った!』
『仏そのものだ!』と書き込んだ記憶がない
  _  _  _

『仏そのもの』
『無明は無い』と書き込みしてるのは
(我癡・我見・我慢・我愛で満ちている)なんちゃって覚者系の方々
0527ポッタン師
垢版 |
2018/04/08(日) 16:58:05.35ID:s8vSjZYj
526.
バカである、ことを認めている、バカである。
0528宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/08(日) 17:17:05.33ID:V/a8tfXe
>>517
追記:

究極の至高存在「ブラフマン(梵)」を
諸天の一つ(その中でも更に低位)に過ぎない単なる「梵天」などしたのは、
“バラモン・ヒンドゥーを仏教の下位へと位置付けたい”とする後代の弟子たちによる策略。
ブラフマンを梵天として下位にしてしまえば、その他のすべてが仏教の下位にできるから。
0529おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/04/08(日) 18:00:46.97ID:Mp5Eiflv
 
上座部 パオ森林僧院とかの場合は
30分〜1時間
この間に、他のことや妄想、思考が入らないように
集中する(気づく)ことを継続する
という時間の決まりがあるけど

たとえば
ヒンドゥー系の場合
30分とかいう決まりがないのなら
毎日
第6のチャクラ 眉間のところが
くすぐったい・むずむずする
(この時、妄想も同時に現れている)
これなら今すぐ簡単に実践できる
そして実践している

 − これに対して −

2年位前?から
『呼吸を観照する』の実践をしてるけど
『30分、この間に他のことや妄想、思考が入らないように』
今この瞬間も
いつも妄想しているので↑これが無理

>仏教の下位にできる

実際に実践できるのはヒンドゥー系で おじゃる
0530おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/04/08(日) 18:35:15.78ID:Mp5Eiflv
 
SAMMÂ SATI サンマー・サティ 正念 mindfulness

ttps://www.nhk.or.jp/special/stress/02.html
マインドフルネス
何か雑念が出てきたことに気づいても
(雑念を手放して)
その辺りに漂わせておく

(30分という時間の制約がないのなら)これも実践している

ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0
フォーカシング(焦点合わせ、Focusing)
(フェルト・センスを手放して、その辺りに漂わせておくようにして)
まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごす
胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら
何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ

(30分という時間の制約がないのなら)これも実践している
  _  _  _

上座部の30分〜1時間という時間制約は
おじゃるには無理だということでつ

ヒンドゥー系に
30分とかいう時間制約がないのなら
おじゃるにも実践できる場合もある
(実際に実践している)ということでつ
0531神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/08(日) 19:56:35.97ID:1eZI1lIP
中部経典 梵天招待経

第一章

あるとき、わたしは、このように聞いた。

ある日のこと、仏陀は、ウッカッタの町の、
スバガ林にある、サーラ樹に止まられていた。
そのとき、梵天のバカに、邪なる見解が生じた。

“この世界は、常住であり、無常ではない。
生じず、老いず、死なず、滅せず、変らない。
不壊にして不滅であり、唯一にして絶対である”

この様子を、神通により見とめた、仏陀は、
あたかも、力の強い者が、腕を曲げるように、
梵天界に現れて、大梵天に対して、こう言った。

「この世界は、無常であり、常住ではない。
大梵天よ、邪なる見解を、抱いてはならない。
バカよ、悪しき無明の闇に、陥ってはならない。」

そのとき、第六天である、悪魔パーピマンは、
独りの梵衆天に取り付いて、このように言った。

「比丘よ、大梵天に、逆らってはならない。
大梵天に従うなら、善趣に生まれ変るだろう。
創造主に逆らうなら、悪趣に生まれ変るだろう。」

すると、仏陀は、パーピマンに向かって言った。

「私が見抜けないとでも、思っているのか。
悪魔よ、私は、汝のことを、良く知っている。
第六天よ、汝は、私のことを、何も見とめない。」


パーピマンの梵衆天へのそそのかしでも分かる通り、
仏教でも梵天特に大梵天は創造主であるのは変わりませんよ。
ただ仏陀に説教される悟りきれてない存在ではありますが。
0532神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/08(日) 20:57:08.88ID:GX4TE+9F
>>501
> ゴータマが「アートマンはない」と説いたなどというのは部派による誤解が継承されたものです。残念ながら正しく、ゴータマ本
>来の無我の教えを継承してきた仏教教団というのは、どうやら何処にも現存していないということ。
> ある意味では、大乗の説く「仏性」こそがそのことに近く、如来蔵思想〜密教というのはヒンドゥーに寛容的な面からそのことを
>積極的に導入できたともいえる。

人は生まれながらに仏性を持っているのか
http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2017/02/03/050000

仏性というのは確かにヒンドゥー教の教えであるが仏教の教えでは
「誰にでも仏性という魂のようなものがある」という考えは邪見だと否定されているようです
仏性を「悟れる可能性」とするならOKなようです
0533神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/08(日) 21:04:45.36ID:CVDmCDAx
なぜ、時代によって(→各時代に記された典籍の記述毎に)、
神々の階梯や種類、レベル・スキル、等に
変容、ブレ、種類、ヴァージョンがあるのでしょう?
それは、「お悟り」の【表現・形容】【段階、次元】或は【お釈迦さんを超えない範囲での虚飾】
も同様。
残存現存する文言の正統性が担保できない以上、(→宝珠が依っている文章すら改変後の可能性が高いのに!)
いったい、誰が、釈尊の教えを伝承し得るのでしょう?
0534神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/08(日) 23:59:35.19ID:1eZI1lIP
(神霊がいった)、「道の人よ、わたしは汝に質問しよう。
もしも汝がわたしに解答できないならば、汝の心を乱し、汝の心臓を裂き、汝の両足をとらえてガンジス河の向こうの岸に投げつけよう。」

(師は答えた)、「友よ。神々・悪魔・梵天を含む世界において、道の人・バラモン・神々・人間を含む生けるものどものうちで、
わが心を乱し、わが心臓を裂き、わか両足をとらえてガンジス河の向こうの岸に投げつけ得るような人を、
実にわたしは見出さない。友よ。
汝が聞きたいと欲することを、何でも聞け」と。
(スッタニパータ 第一蛇の章 10、アーラブァカという神霊)

神々を含むあらゆる生けるものの中でも私こそが最も完成者であるというブッダの自負がここにはあります。
これ以外の神をブッダは想定していたのでしょうか?
ブラフマンは梵天として挙げていますし。
まあブッダ存命時に梵天がバラモン教で創造主とされていたのかは知りませんが。
あ、ビシュヌ神は出てきてはいませんね。
0535おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/04/09(月) 00:17:02.12ID:DaDXSq7K
 
「お悟り」の【表現・形容】【段階、次元】
も【お釈迦さんを超えない範囲での虚飾】

それゆえに
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ
自我に固執する見解を、手放し、うち破って

仮設としての
縁起している
すべて一切の諸法も、手放して
『(夢・幻・虚構であり)空性である』と観照せよ

そして
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E8%AA%AC
大乗のみならず
近代の文献学上は
原始経典さえも
(編纂されたかもしれないので)
釈迦の言説が明確に記録されているか否か明らかでない

スッタニパータ 21
師は答えた
激流を克服して
(夢・幻・虚構・虚飾も、すべて手放して)
すでに渡りおわり、彼岸に到着している
(悟りに至るための『菩提分法』という虚構・虚飾?も
  すべて手放しているのなら)
もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ
0536おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/04/09(月) 00:48:09.06ID:DaDXSq7K
 
>ブッダ存命時に梵天がバラモン教で創造主とされていたのかは知りませんが

ttps://www.iwanami.co.jp/book/b270278.html
ワイド版
岩波文庫
ブッダのことば

ttp://suttanipata.com/ae-2/
註 874
『のちの教義を適用した趣がある』かもしれない。ということでつね?

ttp://www.bukkyouoshie.com/tenkai/sikikaibonten.html
「禅定」「ジャーナ」「サマーディ」
禅定が出来ていないと入ることのできない神々の世界

第一禅定 − 大梵天

↑対機説法としての導き。ということで良いんジャマイカ?
0538神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/09(月) 23:54:40.70ID:6h84Mbuf
「梵天は釈尊以前からバラモンばかりでなく、民衆によって信じられてきた宇宙の創造神であり、宇宙の本源としての絶対神である。
バラモン教の中心的信仰対象の神である。
その梵天が説法を勧請したという設定は、すでにバラモンの宗教では人々を救えないことを梵天が知って、バラモンを捨て、釈尊に世界救済を依頼したということを意味している。
つまり、新しい救世主の到来を梵天が期待していたばかりか、民衆もブッダの来臨を願っていたというように仏伝は記述している。」
(田上太秀「仏陀のいいたかたこと」)
http://hannyashingyo.web.fc2.com/arekore/bontennkanjyo.html
0539神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/10(火) 00:20:59.11ID:/RaXU+dM
パーティカ経(パーリ仏典経蔵長部の第24経)

第二章

仏陀が、マッラ国のアヌピヤーに止まると、
リッチャヴィ族の、スナカッタが遣って来た。
彼は、仏陀の傍らに坐ると、このように言った。

「これから、還俗しようと、考えています。
もはや、ここに、止まるつもりはありません。
何もしてくれなかった、あなたに非があります。」

「スナカッタよ、私の何が悪いと言うのか。」
「あなたは、起源を説いてくれませんでした。
それゆえ、私は還俗を考えざる得ませんでした。」

「起源を説こうとも、起源を説くまいとも、
苦悩を滅尽できることに、変わりは無い筈だ。」
「そうです、しかし、説いてくれませんでした。」

「スナカッタよ、梵天による創造説がある。
長い期間の後、欲界と梵天界が破壊されると、
生きとし生ける者は、極光浄天に生まれ変わる。」

「彼らは形だけを持つ、色界の神々であり、
歓喜を食べ物として、長い間、そこに止まる。
しかし、その中で独り、徳が尽きる神が現れる。」

「徳が尽きた神は、光音天から落ちて行き、
誰も生まれていない、梵天界に生まれ変わる。
彼は、他の者が生まれて来ないか、願い続ける。」

「そして、次に、梵天に落ちる神が現れる。
最初の梵天よりも、光音天に長く居たために、
彼の徳は、最初の梵天より、少なくなっている。」

「こうして、二番目に生まれた梵天を見て、
最初の梵天は、私は彼の創造をしたと考える。
二番目の梵天は、私は彼に創造されたと考える。」

「こうして、大梵天と梵衆天の差が生じる。
光音天に於いて、身分の違いが無かったのに、
梵天界に於いては、身分の違いが生まれるのだ。」

「私は、世界の起源について、知っている。
知っているばかりか、それ以上を知っている。
それでいて、なお、それに言及することはない。」
0540神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/10(火) 00:23:28.69ID:/RaXU+dM
第三章

「スナカッタよ、天人による創造説がある。
彼らは、天人界に於いて、享楽に耽っている。
楽に囚われるため、徐々に、徳が尽きてしまう。」

「徳が尽きた者は、天人界から落ちて行き、
天より苦しみが多い、人間界に生まれ変わる。
彼らは、苦しみを覚え、出家して天を思い出す。」

「天を思い出して、このように彼は考える。
楽に囚われた天人は、いつかしら地に落ちて、
楽に囚われない天人は、いつまでも天に止まる。」

「スナカッタよ、修羅による創造説がある。
彼らは、修羅界に於いて、闘争に耽っている。
苦に囚われるため、徐々に、徳が尽きてしまう。」

「徳が尽きた者は、修羅界から落ちて行き、
天より苦しみが多い、人間界に生まれ変わる。
彼らは、苦しみを覚え、出家して天を思い出す。」

「天を思い出して、このように彼は考える。
苦に囚われた修羅は、いつかしら地に落ちて、
苦に囚われない修羅は、いつまでも天に止まる。」

「スナカッタよ、無想有情の創造説がある。
彼らは、無想定を修めて、無想に陥っている。
無に囚われるため、徐々に、徳が尽きてしまう。」

「徳が尽きた者は、無想天から落ちて行き、
天より苦しみが多い、人間界に生まれ変わる。
彼らは、苦しみを覚え、出家して無を思い出す。」

「無を思い出して、このように彼は考える。
この世は、何も無い世界、無から生じている。
この世界は、必然に生じず、偶然に生じている。」

「こうして、わたしは、起源を説いている。
スナカッタよ、それでも、私に非が有るのか。
汝の還俗は、汝の非に拠るものと、知りなさい。」

「いいえ、あなたは、解脱に到達した者は、
すべてを不浄と見ると、説いた事があります。
すべてが清浄に見えると、説くのが正しいです。」

「一元に至った者は、清浄にも、不浄にも、
どちらにも見える、それが解脱の境地である。
その解脱に至るには、不浄と捉えるのが正しい。」

このように、仏陀は、様々に説き明かしたが、
スナカッタは、戒律を捨ててしまったのである。
0541基地蔵
垢版 |
2018/04/10(火) 07:16:16.31ID:wFNNy1Ec
良くも悪くもスナカッタは
自らの足で歩もうとしている。
引き止めるのは釈迦の未練
だわな。
0543基地蔵
垢版 |
2018/04/10(火) 12:49:33.51ID:ZbA7OhaF
>>542
例え地獄に落ちようとも自ら信じた道を歩むスナカッタに
悔いは有るまい。

南無南無 人(・ω・)
0544宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/10(火) 15:03:17.07ID:sEjv4o3b
>500
>頭頂のチャクラであるサハスラーラ(ブラフマランドラ)の開花に成功すると、頭頂が盛り上がる肉体的変化が起
>こるものとされる。実に仏像の肉髻(にっけい)はそのことを象徴している。

補足:

七チャクラはいずれも皿状であるが、最高度に発達したサハスラーラ・チャクラは
頭部全体に達するほど肥大化して皿状の中央部が隆起してくるというので、
このサハスラーラ・チャクラの形状変化を霊視したものが仏像の肉髻となったのかもしれない。
尚、現実として肉体外見上の頭部の隆起が起こるかどうかについては不明。


※ 「梵天」については、また後ほど
0545神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/10(火) 19:44:23.07ID:9fWBl2z3
第四章 八つの詩句の章
二、洞窟についての八つの詩句
http://hakaagari.seesaa.net/article/439683896.html

この773〜775を読めば
浄土門、他力本願、本願ぼこり
は釈迦の教えからは逸脱していることがわかる
0546おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/04/10(火) 21:06:22.27ID:pnw4oZi1
 
(matome naver のリンク貼り憑けできない)
浄土宗、浄土真宗どう違う?

信心ですら阿弥陀仏より授かったものであり
自力で往生などしようとしないで
一切の物事を阿弥陀仏にお任せする「絶対他力」を説いた

↑このような大乗1.0のような世界観なのかしらん?

>>545 のリンク先を読んだけど

上座部 2.0の苦集滅道という世界観という感じがするけど?

スッタニパータ 779
(上座部 2.0の場合は悟りに至るための菩提分法をもって)
想いを知り尽くして、激流を渡れ
聖者は、所有したいという執着に汚されることなく
(煩悩の)矢を抜き去って、つとめ励んで行い、この世もかの世をも望まない
0547おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
垢版 |
2018/04/10(火) 21:27:34.25ID:pnw4oZi1
 
仮設としての
縁起している
無明薫習に依存して

『客体もあり・主体もある』という
我を前提としているので

772
身体のうちにとどまり、執着し、多くの(煩悩)に覆われ、迷妄のうちに沈没している人
このような人は、実に<遠ざかり離れること>(厭離)から遠く隔たっている
世の中にありながら欲望を捨て去ることは、容易ではない
773
欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は、解脱しがたい
かれらは未来をも過去をも顧慮しながら、これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪る
774
かれらは欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で
不正になずんでいるが、(死時には)苦しみにおそわれて悲嘆する
「ここで死んでから、われらはどうなるのだろうか」と

 − これを対処するために −

それゆえに
自力で往生などしようとしないで
一切の物事を阿弥陀仏にお任せする「絶対他力」を説いた

仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる

↑こんな感じ?
0548おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
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2018/04/10(火) 21:45:50.91ID:pnw4oZi1
 
仮設としての
縁起している
すべて一切の諸法
この宇宙を造りだしている
創造神
『ブラフマー』も
『仏そのもの』も同じだと思うけど

それでも
(大乗1.0も含めて)上座部 2.0の場合は
『釈迦は、ヒンドゥーの神すらも超えている』と
対機説法をもって導いている

ということで良いんジャマイカ?
0549神も仏も名無しさん
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2018/04/11(水) 09:32:23.47ID:1O9bfR5s
聖道門…ラージャヨガ
浄土門…バクティヨガ
0550神も仏も名無しさん
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2018/04/11(水) 12:11:23.01ID:1O9bfR5s
>>548
宇宙を造りだしている仏は大日如来
宇宙そのものが大日如来であり目に見えるものでも見えないものでも全ては大日如来の化身である

ブラフマーは仏教の守護神で四つの顔と四つの腕を持ち4羽の鵞鳥の上に座っている
ブラフマーも勿論大日如来の化身であり神としてだけではなく如来蔵を持つので仏でもある
0551神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/11(水) 18:48:19.56ID:H3z7M5TJ
相川圭子さんのヒマラヤ密教とクリヤヨガって教義は同じ?
0552神も仏も名無しさん
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2018/04/11(水) 18:50:03.27ID:H3z7M5TJ
>>551
訂正

相川圭子さんのヒマラヤ密教とババジのクリヤヨガって教義はほぼ同じ?
0553神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/13(金) 00:43:57.80ID:8LbObhu+
スッタニパータ 第四 悪意についての八つの詩句
http://suttanipata.com/aeaeaaaaaaaaeay/

782 人から尋ねられたのではないのに、他人に向かって、自分が戒律や道徳を守っていると言いふらす人は、
自分で自分のことを言いふらすのであるから、かれは「下劣な人」である、と心理に達した人は語る。

783 修行僧が平安となり、心が安静に帰して、戒律に関して「わたくしはこのようにしている」といって誇ることがないならば、
世の中のどこにいても煩悩のもえ盛ることがないのであるから、かれは〈高貴な人〉である、と心理に達した人々は語る。


この部分は聖書マタイ伝
http://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.html
また断食をする時には、偽善者がするように、陰気な顔つきをするな。
彼らは断食をしていることを人に見せようとして、自分の顔を見苦しくするのである。
よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。
6:17あなたがたは断食をする時には、自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。
6:18それは断食をしていることが人に知れないで、隠れた所においでになるあなたの父に知られるためである。
すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いて下さるであろう。


と言ってる趣旨はよく似ている
釈迦とイエスはどちらも救世主弥勒の再来と言われているがあながち嘘でもないのかもしれないw
0554宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/13(金) 13:52:09.57ID:a/FNB8r7
>>546
>浄土宗、浄土真宗どう違う?
>
>信心ですら阿弥陀仏より授かったものであり
>自力で往生などしようとしないで
>一切の物事を阿弥陀仏にお任せする「絶対他力」を説いた

両者の決定的違いは、
浄土宗は念仏(「南無阿弥陀仏」を唱える)によって死後に浄土に行けるとしたが、
浄土真宗は念仏を唱えることも不要であり、ただ阿弥陀仏を信じさえすればそれで救われるとしたこと。
真宗では、念仏は阿弥陀仏への感謝として唱えるものだという。
そして、もう一つ顕著な違いは浄土宗は他の諸菩薩天部も祀り、そしてまた寛容性があるけれども、
真宗は阿弥陀一本への絶対帰依なのであり、基本的には他の諸仏を祀ったり参拝しない。
当然、他の宗派や諸宗教に対する寛容性もまったくない。

更に、真宗の特徴を上げると、
自分たちはブッダが説いておらず、そして、認める筈もない自己修行を放棄した絶対他力なる道を主張しておきながら、
他宗派に対しては、「本来の仏教ではそんなことは説いてない...」などといってかなり偉そうにして煩いところ。
香典の表書き一つ見ても自分らは他とは違うというプライドが非常に強くて、
他宗派では四十九日までは「御霊前」を使用するにも関わらず、真宗では死後はいきなり仏と成れる意味合いとして
(つまり、「霊」という期間がない)、これを使用することは失礼でタブーとなっている。
また、他宗教に対する非寛容性では、日本人としての宗教であるところの神棚すらもゴミ箱へ捨てていいなどともいう。
他宗派に対しては非寛容性どころか強い口撃性が顕著なのが特徴であって、
その昔は、一向一揆(百姓一揆)といって農民たちの鍬すら武器に変えさせた武装派過激集団であり、
そのあまりに膨れ上がる信徒の数と勢力を警戒した家康によって、「東」「西」の二つの本願寺派に分断されました。
今でもこの二つを合わせて日本の伝統仏教としては最大勢力です。

また、最近においては、自分らが無知なくせに「清め塩は神道のものであって仏教とは無関係。
これは死者を冒涜する失礼な行為だ」などとかいっては葬儀での清め塩の伝統を廃棄しようとして熱心に運動している。
0555宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/13(金) 13:58:04.17ID:a/FNB8r7
>>551-552
広義的な視点としては
(インドの正統ヨーガの教えという意味ならば)同じだとは思いますが、
“ババジのクリヤヨガ”とどこまで同じなのかはわかりません。
あまり詳しくは知りませんけれど、私の個人的な印象としては彼女と成瀬氏は本物のような気がしています。
0556宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/13(金) 14:00:20.31ID:a/FNB8r7
>>550
特に異論を挟むというわけではないけれども、
これは私の単なる個人的な理解です。

それは、宇宙の何処かに大日如来なる仏がいるというようなものではなくて、
「大日如来」というのは至高者であるところのロゴス、
神(ブラフマン)という存在を仏教(密教)が仏として擬人化して象徴にしたものです。
そのアイディアは、恐らくイラン系(ゾロアスター教)からもってきたものでしょう。
「仏」というものはあくまでも人間でなければならない。
人間でありながらも、智恵において意識において最高の境地に到達した存在であって、それが仏です。
大日如来でもブラフマーでもそうなのですが、至高の存在を人格化した瞬間に、
それはただの架空の存在となってしまう。

※ 次回は、「神」と「梵天」について投稿します(少し長くなります)。
0557ポッタン師
垢版 |
2018/04/13(金) 16:18:06.44ID:IcVHoJUc
556.
架空の存在、か。
それは存在しない、と言うことである。
それは迷信である、ことになる。
0558宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/13(金) 16:29:33.54ID:a/FNB8r7
>>557
そう。
至高の存在である神は決して擬人化されない。
という意味において、
人格神(である至高の神)というものは存在しない。
至高の神とは人格神だというのならば、それは迷信に過ぎないから。

ただし、
天界(天部)の神々は人格神で足り得る。
彼らは、怒ったり喜んだりする。
彼らの機嫌を取ることが祭祀。

君のように、
唯物論として語る意味においての迷信じゃないから、
勘違いしないよに!!
0559ポッタン師
垢版 |
2018/04/13(金) 17:34:08.68ID:IcVHoJUc
558.
だからして、祭祀なるものは、迷信であることになる。
0560基地蔵
垢版 |
2018/04/13(金) 18:18:44.20ID:Fa9XE0fZ
脳内麻薬のコントロールこそ

が悟りの真実で有り真理であ

ると確信しているぞよ。

南無南無 人(・ω・)
0561神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/13(金) 21:30:30.00ID:7moATFPs
0264 神も仏も名無しさん 2016/07/31 09:43:13
スマナサーラってクリシュナムルティ気取ってるよね。

釈迦>クリシュナムルティ

みたいな、図式を洗脳しながら一時期スリランカで人気があった
クリシュナムルティの、やり方と説を、ご都合主義に取り入れている。

核にあるのは、スリランカ仏教を作った神智学的な選民主義思想であり
これは、オウムと系譜を同じくする。

ついでにスリランカ仏教もオウムも人を虫けらのように殺している。
クリシュナムルティも神智学出身で、生涯神智学の教学から決して
抜け出すことはなく自分を救世主の媒体だという趣旨の主張をした。
クリシュナムルティの教えは全てへの懐疑を主張しながら結局は
クリシュナムルティの教えのみが正しいという独善主義をもたらす。

スマナサーラに到っては自分の教えのみが正しいと露骨に主張する。

0265 神も仏も名無しさん 2016/07/31 19:37:13
>>264

スマナサーラは、クリシュナムルティを前世で悟っている可能性がある
と褒めてたぞ。思考がしっかりしていると。

検索してみればいい。
クリシュナムルティは、親友の奥方と何十年も不倫しながら、何食わぬ顔で親友と付き合いを続けた裏切り野郎だよ。

しかも、また別の女性とデキちまい、親友妻とのセクロス中になまえを間違えて叫ぶという馬鹿事件を起こしている。
毎回、イク時に大声で彼女の名前を叫ぶのが週間とのこと。
セクロスごときで、大興奮。バカじゃねえの。スマナサーラがこんな奴を悟ってるだとか、まじ書いた文章で悟りが分かるとでも信じてそうだ。あきメクラ野郎。
0562神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/13(金) 21:32:14.63ID:7moATFPs
0266 神も仏も名無しさん 2016/07/31 20:04:35
>>265
スマナサーラが、クリシュナムルティを高評価してるのは知ってるよ。
方法論がないって貶めることも奴は忘れていないし奴が方法論として
提示するのがポンコツの新瞑想法ヴィパッサナーだってのが笑うがな。

クリシュナムルティの不倫クズエピソードも有名だよね。

そもそもさ仏教やクリシュナムルティが主張するような悟りって
本当に存在するのかね?悟りを求めてる奴らろくな暮らししてないし
悟ったと言われる奴すら胡散臭いじゃん。

釈迦なんて実在するかどうかも怪しい始末だし、悟りを信じるのって
神の国や理想郷を信じるのと全然変わらないよ。

0267 神も仏も名無しさん 2016/07/31 20:54:58
お前らクリシュナムルティ言いたいだけやろ。
0563神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/04/14(土) 00:35:25.99ID:b1qiuXlS
>>504
> そのときサハー(老婆)世界の主・梵天は、夜半を過ぎた頃に、麗しい容色を示して、

スッタニパータの時点ではサハー世界(娑婆世界)の主は未だ梵天だったんだな

それが>>538の理由により大衆を救うのがすでに限界だったバラモン教から仏教に変わったことが直接的な原因かな?

それ以降は三千世界の中でも娑婆世界の主は釈迦如来となっており梵天はその役割を終えている
もちろん極楽浄土の主は阿弥陀如来だし瑠璃光浄土は薬師如来

ただ問題は真言宗だな
浄土宗では死者は極楽浄土に往生して娑婆世界よりも容易に悟りを開いて仏になれるとあり
浄土真宗では極楽浄土自体が涅槃であり往生すれば即仏になるとしている
しかし真言宗では死者が逝くのは仏国土ではなく弥勒菩薩が住する兜率天であり輪廻から解脱できないわけだがそれで良いのかな?
真言宗は天台宗や禅宗などのように阿僧祇劫転生しその都度菩薩として衆生を先に彼岸に渡し自らは此岸に留まり続けるという教えではなかったはず
しかも人間界ではなく弥勒菩薩の天界に転生する時点で菩薩行をする機会まで失わさせている
もっとも兜率天にも迷える衆生はいるのかもしれないが
仏国土(浄土)でもないしましてや涅槃でもないわけだから
0564宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/14(土) 16:58:11.89ID:wg1RZZpw
珍しく、普段は殆ど日本仏教の話題が中心の宗教新聞『中外日報』において
神智学が仏教との関連で取り上げがあったので紹介しておきます。

 『神智学は主体的、実践的な関心をもって、より開かれた態度で東洋宗教に接したことは大きな違いである。
 これは仏教に限らない。神智学は、西洋社会における数少ない東洋宗教への入り口であった。東洋宗教は神智学を突破口と
して次第に受容されていき、それと同時に、西洋社会へ適応するために変容していった。禅、カバラ、ヨーガ、スーフィーな
どが世界的に広まるに至ったのは神智学が介在していなければ不可能であったろう。
 神智学と仏教の近代化も、ここ20年ほど研究されるようになっている。地域ごとに先行研究の例を挙げてみると、まずスリ
ランカについての研究がある。スリランカでの神智学の功績は特に大きく、神智学協会会長のオルコット、その弟子ダルマパー
ラ(1864〜1933)は、スリランカの仏教を復興させただけでなく、プロテスタンティズム的な倫理を織り込んで近代化させる
ことに成功した。』
(近代仏教史における神智学/舞鶴工業高等専門学校教授 吉永進一氏/中外日報)
 http://www.chugainippoh.co.jp/ronbun/2018/0404.html
0565宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/14(土) 17:08:12.41ID:wg1RZZpw
>>533
まっ、確かにそれはそうなのだろうけれど、
それを言ってしまえば“話はそれで終わり”となってしまう!

私は、私がこれまで主張してはきたゴータマの教えに関する理解については
“唯一、絶対に正しいもの”だとは主張しないけれども、それなりの自信は持っています。
基準や判断の仕方についての説明は難しいものがある...。
一ついえることは、最近は来なくなった在家さんの主張していたように、
対機説法であるゴータマが今はどんな人に向けて説いている最中であるか?
は、かなり重要な部分でしょう。

難産に苦しむ夫人の下に安産を祈願して真実語を唱えるようにとアングリマーラに指示したと思いきや、
沈んだ石は祈りによって浮き上がらせることはできないという縁起と業報の法を説いたことが、祈りの否定と受け取られたり、
また、神通獲得を目的にして近づいてきたスシーマに対しては、真実を明かすことなく神通はないと語る下りであるとか...。
ただこの部分だけを見て、ゴータマは「神通というものは無い」として否定した
などとしてしまうなどが一つの典型的な浅はかな誤読の事例であるように。
経文の文句というのはその前後と全体との関係をみて判断する必要があり、
もしも、そのどこかに矛盾が生じていればそればどこかに誤りがあるということ。
それは自分自身の理解(や解釈)の問題なのか? または経文そのものが創作付加なのか...と。

ブッダの教えというものは完璧なまでの整合性が最大特徴であると私は思っています。
たしかこのことは長老もそうのように述べていたと思いますが、
これはブッダにしか成し得ないものであって、ブッダの教えでないもの、つまり大乗諸教でも外教異教でもそうですが、
それらブッダの教説でないものの中には必ずその何処かに、或いは随所において矛盾や間違いが散見されることになる。

>いったい、誰が、釈尊の教えを伝承し得るのでしょう?

今更の感ですが...
それでも、これだけの内容を以て二千五百年間も伝承されてきたことが素直に凄いことだと感心します。
0566宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/14(土) 17:09:44.30ID:wg1RZZpw
>>532
>『「誰にでも仏性がある」というのはインドのヒンドゥー教の考え方です。
>大乗仏教はインド仏教の影響を受けていますから、歴史的な理由があって、生存競争の過程で仕方がないことです。』
(人は生まれながらに仏性を持っているのか9
 http://thierrybuddhist.hatenablog.com/entry/2017/02/03/050000

>>330 >>366
「仏性」は大乗のみならず、原始経典においても“心性本浄説”として説かれています。
これは本来のゴータマの教えが僅かに残された貴重な箇所だと見ています。

>仏性を「悟れる可能性」とするならOKなようです

もちろん、その可能性のことです。
それは、人が如何にして目覚めるか?ということなのですが、
けれどもそれは、ゴータマは「アートマンは無い」などとは述べたことはないということと(>>251 >>258 >>260)。
そして、魂に相当する輪廻主体としての「識」については明確に説かれており(>>250)、
“本来の穢れの無い心”としての「心性清浄」の教えを説いたということです。
0567宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/14(土) 17:12:44.17ID:wg1RZZpw
>>538
と、いうことにしたのが仏典(制作者の意図)だということです。
そういう意味においてこの田上氏の解説は正しい。

尚、誤解しないようにいっておきますが、
私はもちろん、ゴータマの悟りと成道の素晴らしさを否定しているわけではないし、
“この世にブッダが出現する(した) ”という人々によって永く待望されてきた稀有な出来事について、
そのことが神々によっても讃えられるであろうことを何も否定しません。
しかし、それが“唯一者であるところの創造神”が現れて説法を嘆願したなどというから、
あぁ..こりゃ〜創作だな!といってるわけです。
しかも、バラモン教の最高神を仏教の下位に位置付けようという意図が見え見え。
これについては、“後代の創作物”であるとして(私の知る範囲では)いずれの学者たちもそのまま素直に認めている箇所です。
理由も当然、この私とまったく同一です。まともな学者であれば当然でしょう。

>http://hannyashingyo.web.fc2.com/arekore/bontennkanjyo.html
(梵天勧請:なぜ、勧請したのは梵天なのか)

で、紹介されている梵天勧請の経文の掲載が増谷氏の翻訳著書からでしたが、
>『増谷文雄「阿含経典」第4巻 梵天相応 2勧請 (161ページ)』
増谷氏の理解は簡潔明瞭なものであって、仏典に登場する「悪魔」というのはすべて“自分(ゴータマ)の悪い心”であり、
そして、「梵天」については“自分の良い心(良い判断) ”の宗教的な文学表現だというものです。
私もこれについて大きく同意しています。
0568宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/14(土) 17:37:02.78ID:wg1RZZpw
以下〜長く続きますが、「ブラフマン」や「梵天」関連です

>>531
>パーピマンの梵衆天へのそそのかしでも分かる通り、
>仏教でも梵天特に大梵天は創造主であるのは変わりませんよ。
>ただ仏陀に説教される悟りきれてない存在ではありますが。

ハッキリいっておくと、
仏典における“ブッダと梵天との会話”などというもののすべては、
後代の弟子たちによって都合よく制作された創作物のフィクションですから。
これらの経文類と『ジャータカ』経の二つが仏典中の二大創作経典。

 何故、長老のような見解、つまり、“仏教では神(至高の創造主)を認めない”などといわれているのかというのと、それは仏教
の教義の絶対的中心が「縁起」にあるからです。すべてはこの縁起の思想と照らし合わせてそれらが正しいか否かを摂取して判断
しているのです。縁起の観点からみれば、無始の初めから永遠に存在する絶対者などというものは在り得ないと見なすから、仏教
では至高の創造主としての神)などはいないと見るのです。
 しかし、果たしてこの判断は本当に正しいものといえるのかどうか....。ただ単純にこのように教え込まれてきた素直な仏教者
たちは、自分らは間違えてる筈はないと思い込んでいるので疑うことすらもしない。ところが実際、仏教においては縁起には該当
しないものが存在しているという事実がある。
0569宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/04/14(土) 17:39:10.93ID:wg1RZZpw
 それがニルヴァーナ(涅槃)という「無為」の境地なのです。ニルヴァーナは縁起に拠らない不生不滅の恒常存在(“没することな
く、生起もなく、所縁のないもの。生まれもせず、生成もしないもの、作られもせず、形成されもしないもの”『ウダーナ』第八章)
なのです。そして、一般的には無為(反対に「有為」とは縁起の作用する現象界の性質)として説かれたものはこの涅槃だけと見な
されていますが、『サンガーラヴァ経』に説かれる神、つまり、至高者にして創造主であるところの唯一神、無始の初めより存在し
て永遠に在り続ける神が縁起に拠らないことは自明の理です。尚、ゴータマの性分というものは、必要のない事柄については普段
は説かれることがない。何故ならば、ゴータマの教える教法の中では神の実在を態々、改めて謳う必要性など特にないからです。
つまり、この経文が説く普段は説かれることのない「神」があなたが列挙したがるような仏典中においては出現しまくりで、ゴー
タマと対話しまくりの神々(夜叉やヤッカ、天界の天部ら)などのことではないことは明白です。

『「本当に、神は、この世に存在しているのですか。」
「私は、神が居ることを、自ら確めている。故に、居るのかと問われたら、居ると答える。
しかし、問われないならば、答えることはない。」
「ゴータマよ、その訳は、如何してですか。」
「人々は、神が居ることを、徒に信じている。確めることなく、信じられている、からである。」』
(パーリ中部.第100経/サンガーラヴァ経.第4章)
0570おじゃる? ◆OzyaRuxKgo6o
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2018/04/14(土) 17:51:04.27ID:TyNKgant
 
  呪い・祟り
 心霊トンネル
そして、耳なし芳一
ttp://liginc.co.jp/omoshiro/went/163026
0571宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/04/14(土) 18:25:03.84ID:wg1RZZpw
そして、「無為」として説かれることのなかった、もう一つの無為的存在がアートマンなのです。確かに、ゴータマはアートマン
については無記(無いとも在るとも示さず)の態度を採った。けれども、その理由についてもゴータマはハッキリと述べています。
もしもアートマンが「在る」と説けば間違ったバラモンたちとわたしゴータマの教えは同一だと受け取られてしまうし、そして、
諸法無我(この現象界にはアートマンと認識できるものはない)の理解にも寄与しない。また「無い」として説けば、唯物主義者
たちの断滅論(死後に存続する意識は皆無)として誤解されてしまうし、アートマンを信じていた者は「以前はアートマンは在った
のに、今は無くなったのか?」などとして混乱を起こすだろう、ということをいっています(『SN.44.10』)。

 それから現、仏教教団によってよく目の敵のように槍玉に上げられるのが「説一切有部」(の教義)です。これもただ言われるま
まに素直に受け取るだけの者ならぱ分からないでしょうが、「歴史は勝者が創る」などといわれています。例えば、現存している仏
教教団が勝者であり、自分たちの立場の都合のいいように話すということはないのだろうか? つまり、彼ら有部の主要教義である
「三世実有・法体恒有」(『森羅万象(サンスカーラ、梵: saṃskāra)を構成する恒常不滅の基本要素として70ほどの有法、法体
を想定し、これらの有法は過去・未来・現在の三世にわたって変化することなく実在し続ける』wiki)にもそれなりの正統性はある
のではないか、ということ。ただ有部はこれらを「実在」として示したことで反発を食らった。けれども、仏教で説かれる有為法
と無為法のすべて、そして、仏教では扱うことがなかった縁起の法や業報の法則はいつから存在して、どのようにして生じたのか?
という問題について問うこと...。これらは実に、“この世に如来が出現するしない如何に関わらず”無始の初めから規定されてい
た恒常的な宇宙の法則であって、これらは永遠にして絶対的なものです。
0572宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/04/14(土) 18:26:22.91ID:wg1RZZpw
 話を、また「神」の方へと戻しますが、ブッダ(如来)が神を超えるということは在り得ないのであって、何故ならば、仏教の説
く永遠の法(ダンマ/ダールマ)、縁起や業報の法則を規制して、それをこの大宇宙において生じさせている根源的力そのものが神な
のだから。よって、神の力なくしては人間が仏陀に成るということすらも決してできないし、神の吐息一つで以て如来ですらも瞬
時に掻き消えてしまう...。それが神というものの持つ力です。
 ブッダが超えている神というのは天部(天界の住む神々)のことです。彼ら天部の神々は人間を遥かに超えた凄い存在ですが、決
して輪廻を脱したわけではない。だから、その徳が使い果たされれば再び下位の界へと下降してしまう(五道・六道輪廻/人間だっ
た者は再び下位の人間に戻ってしまう)。しかし、解脱した完成者であるブッダは輪廻を脱しているので、二度と下位の世界には堕
ちることがない。だからブッダは人間でありながら神(神々)を超えているといわれるのです。
0573宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/04/14(土) 18:27:25.75ID:wg1RZZpw
 そして「梵天」、これは作られた空想の存在です。至高の絶対的な根本原理としての神(意識)「ブラフマン(梵)」が擬人化されて、
人格神となったものが「ブラフマー(梵天)」です(従って、私は「ブラフマン:梵天」などとはしない)。以前に述べたように、神
(究極の至高存在)は人格神などでは在り得ないのです。人格神というものは、一般人が自分たちの頭で理解できるようにと自分た
ちの父親や母親のようなものを想定して、それらと同じようにして怒ったり笑ったりするものとして描かれた空想の産物だという
こと。ちょうど欧米の聖書にあるような妬んだリ、怒って人間に対して神罰を下すといった神がそうであり、そんなものは存在し
ない。神はそういったものではない。それは作られたフィクションに過ぎない。
 神は人格神となった途端に架空の嘘となるのです。そして、仏教はこの梵天なる人格神を仏教の立場がバラモン教の上位となるこ
とを示す道具として大いに利用しました。梵天勧請の経でバラモンの神である梵天を登場させてブッダに嘆願することを示すことで、
完全に仏教の立場をバラモン教の上位に置くことにしたのです。そして更に、その後には古代バラモンの神々をすべて天部として取
り込んでいった(大乗がこれを推し進めた)。これらの神々は心を入れ換えて仏教に改宗した“仏法守護の存在”ということにした。
けれども、それは仏教が宗教間の勢力争いに中で最優位となれるよう企んで仏教徒が勝手に創作したものであって、古代の神々は
(実在するとしても)別に改宗もしないし屈服もされてなどはいない。仏教徒が信者獲得のために勝手にそういうことにしただたけ。
0574宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/04/14(土) 18:31:08.63ID:wg1RZZpw
ここに、
「法」(ダールマ/ダンマ)そのものがブラフマン(法を規定した方)であり、
そしてまた、ゴータマこそがブラフマン(ブラフマンと合一した方/つまり、梵我一如の成就者)
と呼ばれる方であったことについての資料を提示します。

以上を以て、
人間が神(梵:ブラフマン)を超えることはないが、けれども融合することはできる。
という意味において、ゴータマがブラフマン(梵)を馬鹿にするなどということは決してあり得ないこと。
そしてまた、「梵天」(後のブラフマー:すでにバラモン教において主張された神ではあるが)
なる人格神などは実際には存在しないことの説明とします。
0575宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
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2018/04/14(土) 18:32:07.41ID:wg1RZZpw
 『尚、〈知〉による悟りが解脱・涅槃・不死の獲得、苦の滅とされるとき、当然、無知が苦の因として大きく取り上げられることと
なる。この図式はウパニシャッドの中でもすでに現われるが、仏教でもまた無明(avijja,avidya)が苦の根元として渇愛(執着)と
ならべて挙げられ、最終的には十二支縁起の図式にみられるように、それ以上遡る原因をもたぬ、苦の究極的原因( 正確には苦集↓
苦の生起における考察可能な法の出発点) として定着する。この場合、それがajnanaといわれず、avidyaとされているのは、人間
の推理的経験知の範囲を超えた不可思議性( 例えば、「無始」、そのはじめが知られないとされるような) がそこに感得されるからで
あろうか。( 同様に、法の悟り方について、法は他から教えられるものではなく、「自内証のもの(paccattam.veditabbo)」といわれ
る時も、vid-が用いられている。自内証とは体験さるべきことの意を含む。)
 以上の仏教における〈知〉の基本構造において、「法」がウパニシャッドにおけるブラフマンの位置に代るものであることは容易に
観取されよう。ブッダは時にbrahmabhuta,dhammabhuta(ブラフマンと成れるもの、法となれるもの)、brahmakaya,dhammakaya(ブラ
フマンを身体とし、法を身体とするもの)等と表現される。これは悟ることを〔悟りの対象と〕 一体となると表現していることで、
いわば知即成の一つの変形である。ただし仏教、では、法は真理としてつねに不変である(「如来が世に出ても出なくても、法は常に
確立している」)という形でその絶対性が主張され、不死の世界( 涅槃) そのものではない。』
(高橋 直道著『インド・仏教の知』)
 http://www.jacp.org/wp-content/uploads/2016/04/1985_12_hikaku_03_takasaki.pdf
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