外道の独り言 8
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「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません
このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して
パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします
「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいです)
「真摯なる碩学」が
パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです
自由に書き込みしたい方は↓こちらへ
ひだ =^・ ・^= まり
ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2
ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524
前スレ
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1491547539
ログ保管庫
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html 追記:
私が護身法の修得を推奨する理由は、
これが密教独自の三密加持の修行形態を見事なまでに一纏めにしたものであり、、
尚且つ、その名の通りあらゆる不浄と魔から身を守る護身の秘法にして、
密教修行における何よりも最初に修するべき作法だからです。
そもそも密教の三密加持は、
真言(マントラ)+手印(ムドラー)+観想(ディヤーナ)の三つが同時に揃わないことには成立しない。
それぞれ単独だけでも非成立であるのに、ましてやただの経文読誦だけでは...。
私は、この三密加持の修行を僧侶だけの専売特許にしようとしているところに敷居の高さをみてしまう。
密教は三密加持によって即身成仏が可能だと謳いつつも、それは信者獲得のための餅絵であって、
実際には在家信者がこれに預かれることはなく、ただひたすら僧侶が行う祈願の加持祈祷にすがるのみというのが実態。
一度、護身法の修得にさえ成功すれば、
あとはこれだけでも三密加持の奥深い世界へと参入することが十分に可能。
護身法
戒、定、慧、解脱、解脱知見の五分法身を磨瑩す
オン・ソワハンバ・シュダサラバタラマ・ソワハンバ・シュドカン
オン・タタギャト・ドハンバヤ・ソワカ
オン・ハンドボ・ドハンバヤ・ソワカ
オン・バゾロ・ドハンバヤ・ソワカ
オン・バザラギニ・ハラチハタヤ・ソワカ
九字護身法
臨・兵・闘・者・皆・陣・烈・在・前
準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば
一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し
この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん
准胝観音
ノウボ・サッタナン・サンミャクサンボダ・クチナン・タニヤタ
・オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m >>120
そそう!
三部被甲の護身法のことです。
九字護身法じゃない...
(これは解き方も知らねばならない)。 >>110
(^。^)俺に聞くなよ、大先生。(笑)
ちなみにだが、お大師様が天台のアレに貸さなかったのは理趣釈経で、理趣経の解説本。
一応間借りなりにもカンジョウ受けた俺でも理趣経の内容はとんでもない話だが、(笑)
大日如来の説法であるこの道場である以上、一切は確かに清浄なんだろうし、平等なんだろう。
内容が得心いかんのは俺にあるガシュウの故なんだろう。
何せ大日如来が直接説いたという設定の密教で常用されてる経典なんだからな。
まぁ、世俗的にはテキエツが誤解され易いんだが、他の段だって相当随分なことが書いてある経典だが、確かな帰依という芯さえあれば、執着に引きずられないだろう。
師弟というマンツーマンのシステムもあるから、(あったから、)こういうかなり踏み込んだ経典を常用とすることができたってことじゃないかな。
ちなみに、当時から在家でもケギョウしてカンジョウ受けられてたはず。
師が許せば。
密教、というか大乗自体が在家の為の運動だからね。
こういう密教という構造上必要なステップを無視して華厳的な視点のまま押し入ろうとしたから、「ちゃんと手順踏めよ」って返事されたんだと思うよ。
あと、乙秋刀魚や会に関しては、こういうステップを無視して咒法的なことが拡散しないようにって話がメインだろうから、経典読むだけなら問題ないと思う。
素人にディープな内容を垂れ流すのはアウトだと思うけど、現代だはマトモな師弟関係なんて出来ないからギリギリセーフ?(笑)
(^。^)まぁ、俺の勝手な妄想だから教学的なことは現職の連中にでも聞いてみてね?(笑) まあ、なんというかw
心底、其の経の教えに感銘し、読経せずにはいられない・・・・・というのならば、わかるがw
それを読誦することによる見返り・・・・功徳を積んだとか、それによってなんかいいことがあるw
みたいなことを期待してるんだったら、初めから読誦なんてやめた方が良いと思うが?ww
(まあ、一遍は生涯で一度でも念仏唱えたら極楽行き間違いなし・・なんて言ってるがw)
密教は師承が基本だし、マジで密教やるなら、理趣経読んでる暇に師匠探した方がいいかも?
そんなじゃなくて、ただ理趣経が好きで毎日、読誦したいんだああ〜〜〜
というだけなら、OKだそうですぜw
まあ、オレはマントラの効力も全く信じていないがwww
ある坊主に教えられた ノウマクサンマンダボダナンバク ・・・・・
何故か、これだけはもう、二十年になるかww >>124
>それを読誦することによる見返り・・・・功徳を積んだとか、それによってなんかいいことがあるw
みたいなことを期待してるんだったら、初めから読誦なんてやめた方が良いと思うが?ww
末法思想の発生源でしょう。
空海以降の悟りの仏教よりも呪術現世利益オンリーの仏教、大寺院の貴族皇族の自動的トップ就任など・・・。
そういう歴史が日本で生まれたのでしょう。
一応、現在の真言密教の坊主によると、
煩悩の癒しが重要なので、そういう功徳方式でしょうな。
いい話だろ笑。バービー、
日本仏教に詳しいだろお?笑。 >>124
読経はなかなかいいもんだぞ笑。
8年ぐらい昔に、真言系各宗派の三昧狙って般若心経ブチかましていたな笑、
たまに、きまぐれに神社で神前読経、1,2回ブチかましたことがある。神社で三昧狙ってな笑。 経典読誦の功徳は経典に関心を持たせるための方便でそ 薬の効能書きを読んで唱えて
効果が有るなら誰も苦労はせ
んわな。
南無南無 (‐人‐) けど、
何も読まずに学ばずに、到達できるなら、
学校、義務教育すら要らんわなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww つか、
そういう人材もいるかもしれん、という話でしかないなら、
1000人中1人でしかないなら、
あと999人の誤解や勘違いを防止する爲に、効能書きの熟読は必要だよw 禅が不立文字なら、
語録祖録を残し続けている弟子たちは愚か者の極みで、
その愚か者に指導されていながら、あれこれ言ってる誰かさんも、また愚か、とw >>130
知識をいくら積み重ねても
苦痛からは解放されんぞ。
南無南無 (‐人‐) >>132
たとえ、君が999人でなくても、
君以外の999人の爲に、効能書きは必要なの。
もし、それがわからないなら、児孫と称することも許されんよw つーか、
>>132のような人物が出て来ないように(出てきた時のために(リトマス試験紙の如く))、
効能書き(≒三蔵、祖録、諸疏)が存在するわけでね・・・w ┐(´ー`)┌ 居士禅・在家禅を、許容し後押しした明治近代禅の罪は
結構でかいかもしれんな・・・
もっとも、現代日本仏教(近代禅宗)自体が、在家仏教(在家禅)であると指摘されたらそれまでだが・・・www >>134
縁無き衆生は救い難し。
南無南無 (‐人‐) そうか、仕様変わったんだっけか
自身が、その考えに至った経緯の中で、
一度も祖録や禅語に触れていないなら、多少の説得力も生じ得るだろうが・・・
誰しも、何かしらを読み齧ってる筈でね・・・ 禅は危険だよ
0013 junkie-ooyama 2017/12/29 10:39:50
俺のオキニは美人だけど愛想よくサービスも良い
ディープキスもしてくれるし乳舐めもクンニもさせてくれるけど
全ての客にそうさせてるんだろうなと思うと少し萎えてきた
こんなんなってまうでw 鶯谷で立ちんぼ買ってるらしいよw
0160 じゃんきーおおやま 2018/01/23 21:16:45
中出し二発にアナル一発
立ちんぼ遊びはやめれませんな。
返信 ID:ZqR4QHVa0(1/2)
0162 じゃんきーおおやま 2018/01/23 23:05:03
坐禅して
立ちんぼに中出しして
俺の仏教は完成したのさ。
でおーや
コピペでまた荒らす気かいw
返信 ID:ZqR4QHVa0(2/2) >>124
>(まあ、一遍は生涯で一度でも念仏唱えたら極楽行き間違いなし・・なんて言ってるがw)
少し違う
南無阿弥陀仏には、臨終もなく、平生もなし。
三世常恒の法なり。
出る息いる息をまたがる故に、当体の一念を臨終とさだむるなり。
しかれば念々臨終なり、念々往生なり。故に「回心念々生安楽」と釈せり。
おほよそ仏法は、当体の一念の外には談ぜざるなり。
三世すなはち一念なり。
(一遍聖人語録) ジャンキー人気者過ぎだろ笑。
俺の知らない処で成長しているんだなあ笑。 ジャンキー君も気の毒だな。成りすまし攻撃には、さすがに同情するよ、
人気あり過ぎなんだろうな、きっと・・・・・。
修行の内と思って、頑張ってね・・・・。♪ >>144
2013年・・・ざっと5年前か?w
あの頃は、よく色んな奴に噛みついてたww 余談ですが、私は今までに四八方の宗派や会社バラバラの霊媒師や占い師にあたってきましたが、そ
の人々は邪神不動明王やシヴァ、阿含宗や桐山に非常にだまされやすい!あなた方が吹き込まれて悪だと思ってるものは
善人で不動明王(シヴァ)などが実は本当の古代から続いてる古代から騙してる悪なのです。善人のほうの邪魔他をしている。
よく東洋系の不動や阿含宗や桐山の術を見破るものを同伴させること。
その洗脳をさっさとどけ、自主的によくよく弁償してくること。そして不動や阿含宗や桐山こそいみきらい何万年分
も弁償とって抹消する対象とすること。
さもなくば強制的に3倍〜7倍ぐらい弁償を取られてひどい目にあい抹消されるでしょう。 >>147 ww
流石に変換ミスでしょ?w
道中⇒動中 曖昧検索なのか両字とも拾っているが、42万件はなかなかの数字w 閑話
あの不動明王の姿のモデルは一体何なのか?
・・・・・ある作家によると、
「アーリア人が北西インドから侵入し、土着民族であるドラヴィダ人を支配した。
密教は元々、インドの土着信仰、呪術がもとになって出来たものである。
そして、当時、支配者が他方に何かしらの連絡をする必要が出来たとき、使者を派遣する。
(電話などなかったしねw)
その使者に選ばれたのが、ドラヴィダ人の少年だったらしい。若くて体力があり、
敵や害獣、毒蛇などにも怯まない勇敢な少年が選ばれたらしい。
不動明王のもつ剣は、それらを倒すためのもので、山を登り、谷に降りるために必要な
ロープを肩にかける。
そして、あの独特なヘアースタイル(髪を小さく、いくつにも束ねた形)は、
当時のドラヴィダ人の風俗らしい。」
・・・・さて、真相は?ww 原始アーリア人(原始インドーヨーロッパ人)が牛、馬、犬などの家畜の群れを引き連れて、一つの草原から他の草原へと移動して遊牧の生活を送っていたことだけは確かである。
なぜそのように断定できるかというと、インドーヨーロッパ語族を通じて家畜の名は類似したものが多いが、農耕物の名は各民族によって異なっているからである。
石器、銅器を長らく使用していたが、ある時期以降は鉄器を扱うようになっていく。
彼らの宗教は原始民族の悪霊崇拝をすでに脱しており、自然崇拝を行なっていた。
空、太陽、月、曙、風、水、雷鳴が彼らには神と映った。神々は天空にあり、明るく輝くものと考えられていた。
アーリア人はある時期(前1700年頃)に人口の増加、旱魃あるいは他の事情にうながされて、原住地の草原を出て他の地方への定住を開始した。
(私はこの時期の移動は3000年前から始まった西洋、中東での寒冷化に端を発していると見ている)
若干の部族は西方へ向かい、この時期にヨーロッパに定住し現在のヨーロッパ諸民族、すなわちケルト人、チュートン人、ゲルマン人、スラヴ人、イタリア人、ギリシャ人などとなった。
若干の集団はアナトリアに現れ、そこの先住民と混血してヒッタイト族の大帝国を建設した。
また、他の諸部族は当方に向かって移住を開始、アジアに入り、カスピ海(裏側)の南東に当たる西トルキスタンのステップ地帯に数世紀定住して共同生活を送っていたらしい。
ここの諸部族を総称してインドーイラン人という。彼らは半ば遊牧、半ば農耕の生活形態を送っていたと考えられる。
(中村元) 今見たNHK7時のニュース
ブタの受精卵に、ヒトの細胞を注入し、子宮に戻し、
生まれた生物の臓器をヒトに使えないか?という研究
《脳細胞はやめよう》という日本の委員会の流れ
人間の爲に切り刻まれる運命の生物(哺乳類)を、大量生産するという倫理的問題はともかく、
(グリンピースやシーシェパードは、鯨ばっかり追っかけてないで、
こういう分野での生命倫理を、なぜ言わないのか? 鯨と豚の違いは何だ?
ま、それがキ教的世界観ヒエラルキーであり、また、神智学へ繋がる人間至上主義、とw)
どの細胞を入れるかで変わるのかどうかしらんが、
いずれ、ブタからヒトが生まれる時代がきたりしてなw
「若卵生若胎生・・・」とか、「そのような”ことわり”は無いからです・・」とか
仏語の真実性が揺らいでしまう!!!?w >>154
キリスト教などと一緒にされては困るけれども、
人類が生物界におけるヒエラルキーの頂点にあるという事実と、
だからといって、諸動物たちに対して人間の勝手な自己都合で虐待していいということではありません。
神智学的立場からは、魂と精神的倫理の問題を無視した度の過ぎた生体的エクノロジーには反対します。
臓器交換、および輸血などに関しても、生体臓器ではなく人工臓器と人工血液の開発の方を支持しています。
魂の問題を無視したクローン製造にも賛成しません。
世界中の神智学徒らは自己に見合ったそれぞれの奉仕の分野を自分自身で見出して活動しています。
もちろん、動物愛護や保護活動といった分野にも多くのメンバーたちが関与しています。 >>156
追記:
ここであらぬ誤解を招くといけないので言っておきますが、
“臓器交換や輸血を支持しない”とはいっても、
その時には死の方を選択するという『エホバの証人』などとは異なり、
それは寸分たりとも迷うことなく命の存続の方を選びます。彼らは聖書の言葉を誤読しています。
あくまでも医療の方向性と科学の発展については人工臓器と人工血液の開発に向かうべきであり、
臓器の生体間移植や倫理無きバイオ技術の乱用には警鐘を鳴らします。
これは神智学徒にしか分からぬことですが、これらの出来事にはカルマの不自然性をもたらします。
>鯨ばっかり追っかけてないで、
>鯨と豚の違いは何だ?
彼らの理由は明白です。
それは、より人間に近い動物に対する愛護活動だということ。
神智学徒も彼らと同様、もちろんその他の諸動物に対しても必要以上の乱獲は認めませんが、
やはり、特に人間に近い動物たちには温情的に接します。
当然、生き物の中で一番大切にすべき生命とは人間の命以外にはありません。
ベジタリアンなどの中に割といそうなものとして、
“すべての生命は平等”などという理想を掲げては、
生きた野菜を茹でることも生きた人間を熱湯風呂で釜茹での処刑にするも同じであり、
そのどちらを助けるかを決めることはできない、などという基地外すらもいます。
しかし、そんなものはただ単に、「生命は平等」という美しい言葉に洗脳されただけの机上の空論に過ぎない。
健全な精神を持った当たり前の人間ならば、そんなこと迷うことなく人間の側を救う。
当然、人間と動物であればこれも人間の方を救うし、
他人と家族であれば、通常は家族の側を助けたいものと思う。
これがごく当たり前の人としての健全で自然な心と意識の状態です。
そして、動物であれば、より人間に近い存在を救うし、
下等生命と高等生物では意識の発達と痛覚の度合いから圧倒的に高等生命の側を救うべきであるし、
動物と植物であれば、これも当然、通常は動物の側を死から救い出す。
これに異を唱えるような基地外とは私は話す気がない...。 >>157
もしも人間を超えた霊的存在がいるとしたら、その高等生物も同じように考えるでしょうかねえ
神仏や天使悪魔の方々からすれば、人間は下等たが我々に近いから救おう、しかし、猫は殺してもよいなどと >>158
ニュアンスは大切ですよ!!
「殺していい」ではなくて、
いずれかしか助けられないとした場合の話です。
もしくは助ける場合の優先順位のことです。
どちらも助けたいが、いずか一方しか無理な場合には人間の方を救うでしょう。
高次の意識存在においても実際、そうなっていると私は思いますけれど...。
根底においては、
「殺してもいい」という生物はこの世に一つもないから。
であるから、不殺生が守れることが人間生活の理想とされているのです。
つまり、食事も肉食よりはベジタブルであり、究極的理想は不食ということになる。 >>159
>つまり、食事も肉食よりはベジタブルであり、究極的理想は不食ということになる。
ジャイナ教のバルダマーナはそういう思想で餓死をえらんだんじゃなかったっけ? 理想だけど自分が死んじゃうし、他の生物も全滅する世界にかるかもね
生命を助けるために全生命を滅亡させよう
か 戒律ってのは戒め律するためにあるものだよ。(笑)
戒律は仏法の一部に過ぎず、従って、不殺生戒もまた、彼岸に至る為の方便の一つに過ぎない。(笑)
(^。^)神様からの命令でもないし、絶対死守すべきオキテでもないし、仏たる条件でも有り得ないんだよ。(笑)
設えば世間の一切の有情を〜、なんて文言が経典にあるのはそういう事。(笑) けれども、
「調える」という形でのルーティーンとして
効果絶大なのは事実だからねぇ・・・
不摂生で好成績なアスリートって少ないしね・・
最近話題の相撲界も、
結局は、自己の心身を制御し切った者が結果をつかむわけでね・・。
制御なんて不要だ〜と言って結果を残してる人間が果たしてどれだけいることか・・・ ┐(´ー‘)┌ 余談ですが、この間ランク王国で御朱印を見たら、まだ不動明王が一番とっていた。あれだけ注意したのに
馬鹿どもがまだ買ってる。もう一度述べると不動は何万年と前から人類や上の神仏をだましてきていて
それが神仏にばれて抹消対象となっている。人間界側も馬鹿みたいに唱えちゃダメだ。不動は裏で
もとは裕福で借金地獄になる運命じゃなかった者を借金地獄にしたり、徳を積んであり障害者になる運命
じゃなかった者を障害者にして不正にからかわれるようにしたり、仕事他にさしつかえるようにしたり
もしている。東大震災も裏で不動が一番中心になって支持をだし起こしているとの情報があった。
要するに、嫉妬とひがみの因縁がきれてない、オーム真理教のシヴァと読み方変えただけで同じものだと言う説
もあり、また悪の出方かえただけでイルミナティとも同じだとする説もある。唱えてるといずれ正しい神仏
から罰を食う。真言宗もさっさと中心になる明王を降三世明王、大元帥明王、愛染明王などにかえよ。 >>162
承狂氏、頼むから、こちらにきてくれえ・・・・。
123承狂殿へ、ハッタリ真言師気取りバカ成敗希望笑2018/01/23(火) 09:54:12.11ID:e3avd9hS
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1508983286/l50 追記:
殺人と昆虫を殺生するのとでは、
その罪の大きさと業(カルマ)の深さがまったく違うということ。
どんなことがあっても人間を殺すことは絶対にしてはいけない。
>>160-161
マハーヴィーラはそうだったかもしれませんが、
私がいってる「不食」とは自ら死を選択した断食などではなく
(日本の高僧にも、最後は五穀絶ちや断食によって死んでいったミイラ化即身成仏というのがある)、
食事を採る必要がない高度な技術のことをいっています。つまり、食べる必要がないから食べないということ。
インドのギリバラをはじめ、幾人かの不食の聖者の存在が確認されています。
また、神智学を授けた大師方も皆、その殆どが不食だということ。 そもそもの誕生から、他の命(栄養素・エネルギー)を摂取することによって
成長し発展してきた生物(生命)にとって、(だからこそ?)
「他の命を摂取することなく生きること」 が、
最終的な向かう(≒進化の)行く先・ゴールということだろうか?
神は、なぜ最初から、自己完結型の生命としなかったのだろうか?
試練や成長のための手段としてならば、他にも色々あるし、それで十分ではなかろうか。 修行完成者の「自殺」をめぐる仏教徒とジャイナ教徒の態度のちがいについて
https://togetter.com/li/186822 ヨガナンダさんは大変に素晴らしい宗教家、思想家であると思うが、「あるヨギの自叙伝」は流石に書いてあることをそのまま鵜呑みには出来ないw >>168
完成者というのは、
その自身の使命を全うしたと判断したときに自ら肉体を脱ぎ捨てるのです。
必要という場合には肉体を維持するから寿命を維持し、中には肉体の不老不死の状態を示します。
すでに老化してる肉体の場合は無理にその肉体を保持するのではなく、一度、肉体死によって放棄してから、
再び新しい肉体を得て再生誕をする。その場合は、意識的に自ら母胎へと入るか(インドのアヴァターラの場合はこれが多い)<
自己の大いなる意志力によって肉体を自由に創造してその中に入っていく、という手段を採る。
神智学のマスター方の多くは母胎から産まれたものではなく、創造された完全不滅の不老不死の肉体を纏っている。
>>169
わたし個人は圧倒的な支持者であり、
否定する理由は何も持っていません。
否定する理由がない。
もちろん、人それぞれの受け取り方があっていい...。 >(^。^)や!(笑)
うん、実に承狂らしい。
そこで、ホイホイついて行って、ご高説たれるのは承狂らしくないw
お前はいつまでも天邪鬼でいるのがいいww 投稿忘れ...
>>167
>「他の命を摂取することなく生きること」 が、
> 最終的な向かう(≒進化の)行く先・ゴールということだろうか?
それが目的ではなくて(承狂の意見はそういう意味では正しい...)、
結果としての状態のことだろうと思う。
尚、ゴータマ同様、インドのアヴァターラ方の多くは人間生活の模範となるべく食事も普通に採る。
>神は、なぜ最初から、自己完結型の生命としなかったのだろうか?
>試練や成長のための手段としてならば、他にも色々あるし、それで十分ではなかろうか。
それは神のみぞ知る部分なので、我々のレベルでは不可知です。
ただ言えることは、人類の進化とは生物界における掟であるところの“食物連鎖からの脱出”でもあるということ。
まずは、相互の「食べて」「食べられる」関係から、一方的にただ相手を「食べる」だけの側へと進化し、
最終的には何も生物を食べる必要すらもなくなる「不食」へと至る。
それから、神智学的には神もまた進化しつつある未完成者であって、
我々の主であるところのこの惑星の地球ロゴス(惑星ロゴスは太陽ロゴスに仕え、また太陽ロゴスは銀河系ロゴスに仕えている。
以降〜繰り返し関係...)は、まだ惑星ロゴスとしては神聖なレベルには達していないので、
それ故に、人間から見て様々に理不純な状態が生じているのだという。 https://i.imgur.com/4G57EAN.jpg
うーん、般若理趣経は自性清浄論、一切法平等も貴重だが、この如来蔵思想も誠に尊い。
曼荼羅の外側に描かれている外教の神々(諸天)も如来蔵を持つ仏であることを知り歓喜の声「チリ」を唱えるところ、
続いて神々の妻(だったかな)の妻である七天母も元々は羅刹の類いだったのが如来蔵に目覚めてからはその力を悪いことではなく仏道に捧げることに使うようにするところ、
これらの話は本当に尊く、現実の社会においてもパワハラ恫喝するような上司も尊い思想に目覚めさせてその恫喝を悪を調伏するための公憤として使うように転向できれば素晴らしいだろう。 >>173
プラーナを食べよう!
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/194108/169720/64704059
このブログではプラーナが豊富に含まれている食べ物からプラーナを摂取しエネルギーを得て生命力を満たすことが書いてある。
但し、文末に「食べ物以外でプラーナを摂る方法があります。」とも書いてある。
さて、その食べ物以外からプラーナを摂った場合には、それだけで生きることができるのでしょうか? >>175
はい。
不食のキーポイントはプラーナの摂取であるといわれています。
ヨーギたちは特殊なプラーナヤーマ(呼吸法)と瞑想法により、大気中のプラーナを効果的に摂取します。
そして、ヨーガの究極的な熟達者はプラーナの発生源である太陽からの直接的な摂取に成功し、
奇跡的な不食の生活を達成するようです。 >>176
大気中のプラーナは、どこから補充されるの?
もっと言えば、大気中のプラーナは、どうやって生じたの?
大気の誕生と同時に生成されていた?(大気が、その構成要素として最初から含有していた?)
また、その前段階のクエスチョンとしては、
プラーナをたくさん含む「食物」(動物か植物か鉱物かしらんけどw)は、
なぜ、プラーナを含有しているの? >>175
>このプラーナ不足の人を、元気のない人と呼び、オーラが少ない人で自分のガードが小さい人です。
>プラーナが自分に少ないと人が恐くなることもあります。
>プラーナ豊富な人を、オーラ輝く元気な人と呼び、病気になりにくい人です。
>活発な人で友人が多く、異性にもモテやすい人です。
これは良いことを聞いた
プラーナを食べる
プラーナが豊富な食材を摂ったり水は湧き水とかがいいのかな?あとよく噛んで食べる、と
それとプラーナヤーマは規則正しいリズムでの丹田呼吸やウジャイ呼吸でとりあえすいいのかな?
実践してみよ
それとプラーナって昔の科学で観念としてあったエーテルに似ている感じがする
宇宙全体に満ち渡っているエネルギーみたいなものかな >>177
(もしも、詳しい方からみて間違いが在りましたらご指摘下さい)
それは太陽エネルギーの一つとして生じて、
それがこの大気中に遍満(充満)するということだと思います。
そして、このプラーナを植物は光合成によって自身の内部に取り込んで蓄積します。
効果的なプラーナの摂取に成功している彼ら植物たちが、驚異的な寿命を示すことができるのはご存じの通りです。
樹齢数千年という樹木もいれば、蓮の種ともなれば億年単位でも水さえ吸収できれば芽を出すことができます。
また、草食獣は植物を食することでプラーナを取り込み、
これを更に肉食獣たちは草食動物を食することで間接的にプラーナを体内に取り込んでいます。
人間は当然、これらの野菜や肉を食することで間接的にプラーナを摂取しているということ。
この意識することなく日常生活を過ごすやり方から、
呼吸と瞑想とによってプラーナを意識的に取り込もうということ
また、プラーナは大気中に遍満しているだけでなく、水にも蓄積しているとあり、
特に大地のエネルギーと化して、温泉中には特に豊富で効果的なプラーナの濃度が高いそうです。
場所的には癒しスポットよろしく、森林、海岸、水場(特に滝場)はお薦めだということ。
食事的には、ビタミンがプラーナと結びついているので、
ビタミンの摂取に気を付ければ効果が上がります。
尚、ビタミンは熱に弱いので注意が必要です。 >>178
湧き水、地下水といった天然のミネラルウオーター(非加熱)の飲料は効果があると思います。
プラーナを取り込む呼吸と瞑想においてはイメージ化と意志の力がキーポイントとなるので、
眉間のアジュナー・チャクラに自己の意識を保持しながら、
自分に活力が漲ってきて元気になるようプラーナ粒子が呼吸と共に流入していく様をイメージしつつ、
自分が元気になれるように祈りながら実践すると良いと思います。
不食を実現するともいわれる過激な行としては、
太陽を凝視する瞑想でトラタックという修行法があります。
日没とはいえ太陽を凝視し続けるというもので、視神経を傷付け失明する可能性もあります。
私は若い頃、これに準ずる荒行として暗闇の中の1メートル先にある蝋燭の炎を1時間の間、
まったく瞬きすることなく凝視続けるという修行を毎日、3ヵ月ほどやったことがあります。
これをやると涙が止まることなく流れ続けて、最後は涙すらも枯れて出なくなります。
そして炎を見つめている目玉は恐ろしいくらい焼けたように熱くなる...。
尚、これも肉体破壊を意に介さない覚悟が必要です。
おっしゃる通りで、
プラーナ(活力小球)はこ惑星のエーテル次元にあって、
我々のエーテル体内の各チャクラと経絡の中を循環しつつ、上位のアストラル体へと流れていきます。
また、通常は不可視ですが割と霊的には見ることのできやすいものの一つであり、
大気中にオタマジャクシのような蠢く生物のような粒子として視覚されます。
これが神道における勾玉の形のアイディアとなったとみなす人もいます。 >>179
ゴータマは、
すべてを予め知りつつも自ら中毒死を選択したのです。
その気であれば、その危機は最初から回避もできるし、
中毒症状についても緩和して延命すらもできた。
完成者は、もし望むならばそのまま数百歳でも生存可能。
しかし、奇跡をまったく信じない唯物主義者らは、
ゴータマ最後の旅の延命可能の話についてもあり得ないこととして、
それは神格化すべく後代の不可挿入などと決めつけたりします。
しかし、そういう決め付けこそが無知の為せる愚か者の発想なのであって、
自然科学では一般的に認められていない超常現象について、
それらが実在することを実際に何度も体験してきたこの私からすれば、
笑止千万ですよ。
まっ、そういう人間たちとは話しても無駄。
つまり、その人はまだ時期がきていないということ。 「チェンダよ。あなたの用意したきのこの料理をわたしにください。また用意された他の噛む食物・柔らかい食物を修行僧に上げてください。
残ったきのこ料理は、それを穴に埋めなさい。世の中で、修行完成者のほかには、それを食して完全に消化し得る人を見出しません」
岩波文庫『ブッダ最後の旅』
と言いつつも、結局はそのきのこ料理を食べて死んでしまった釈迦…。
いくら
「わたしには忘れがたい供養があり、一つは悟りを開いた直後のスジャータの食物と、チェンダの供養を受けた食物だ。それは、最高の功徳である。」
との言葉をチェンダに伝えさせても後の祭り。
チェンダは釈迦を結果殺してしまった料理を振る舞ったことを死ぬまで後悔したであろう…。 >>183
心底崇拝する聖者から(―しかも、その人物は嘘を言わない!―)、
「最高の供養・功徳である」とお墨付きをもらって、
懼れの解消、安堵こそあれ、どうしてそこに後悔が生じようかw
もっとも、
子供にとっての、
見ず知らずの人の痛いの痛いの飛んでけと、母親の痛いの痛いの飛んでけの違いと似てるかも知らんがw 「残ったきのこ料理は、それを穴に埋めなさい。世の中で、修行完成者のほかには、それを食して完全に消化し得る人を見出しません」
この言葉は嘘には当たらないのかな??
釈迦は如来、仏陀、一切智者と自称していたが >>183
>チェンダは釈迦を結果殺してしまった料理を振る舞ったことを死ぬまで後悔したであろう…。
使命を全うした完成者は肉体を放棄する手段を自ら選択するのです。
ちょうど食中毒を起こすと見られる料理に気付いたゴータマは、
これをそのまま頂いて自分の肉体死のための引き金としたということ
(もしかしたら、調理過程のすべてにおいてゴータマの意図した神通が発揮されていた、
という可能性すらも私はあると思っている)。
>「わたしには忘れがたい供養があり、一つは悟りを開いた直後のスジャータの食物と、チェンダの供養を受けた食物だ。
>それは、最高の功徳である。」これは、大いなる完成者の肉体放棄のためのキッカケ作りに寄与した食事なのだから、
これは間違いなく最高の功徳となる供養に値する料理だった...。
そしてまた、この言葉はチェンダの自責の念を払い、
尚且つ、周囲からの咎めを止めるためにもとても効果的な言葉だった。
これに対して、
十字架上の死(磔刑)へと繋がることになった祭司長らにイエスを売り渡した裏切者のイスカリオテのユダの場合は、
その真実においては、伝統クリスチャンらが信じるような単純な裏切などではなくて、
すべてはイエスの命令(計画)にそのまま従った結果のことだった。
ユダは、イエスの力ならば(そして神の御力により)捕らわれから簡単に逃れることができるからこそ
自分へ裏切りを命令したものと思い込んだけれども、
ところがしかし、結果はあえなくイエスがそのまま処刑されてしまったので、このあまりの展開に驚いて、
そのキッカケを作ってしまったという自責の念に強く駆られて首を吊って死んでしまった(他伝では事故死だが...)。 >>185
そのように言わないと、
他の弟子たちが食べてしまったら困るわけなんだから、
自分以外には食べさせないためには最適の発言でしょうよ。
それとも、
もしも、このときゴータマがこのような発言をせずにいて
これを一緒に食べて弟子たちも中毒を起こしたり、死んだリしてしまっていたとしたのなら、
また、あなたはこれについてどのような悪評を垂れるのですか?
>>186
貴重な情報をありがとうございました。 ブッダ最期の旅でアーナンダの罪と過失を厳しく咎めているのはパーリ涅槃経だけ
https://i.imgur.com/S3BR5EV.jpg >>188
釈迦を滅尽させたのだ
しかし、カッサバ?
以外の弟子はそのとき、釈迦は涅槃に入られたと述べた
そこで、弟子代表、そのときは、サーリープッタも、モッガーナもいないから、仕方なく、代表となったと言えども、非常に優れた男
だいかしょうは、
世尊は、
滅尽定に入られたのだ
涅槃ではない >>191
通常、ゴータマの“大いなる死”のことを
一般的には「涅槃」(無余依涅槃/肉体死の状態にあるニルヴァーナ)に入ったという。
しかし、このことをマハーカッサパが
“滅尽定(外見上は肉体死と類似の究極的瞑想状態)に入られた”
と述べたとするのならば、
その考えられる理由としては、
@ブッダである師には、不慮の肉体死など訪れることがないという思いがあった。
か、もしくは、
A不慮の肉体死による弟子たちの深い悲しみの心を少しでも軽減したいとする思いがあった。
といったものが上げられるのではないかと、私は思う。
例えば、
このことと非常に酷似している話としては、真言宗/空海における場合の、
大師は今もなお“瞑想状態にて生存を続けている”(祈りと救済の活動をされている)
という信仰が高野山にはある。 追記:
また、修行完成者や熟達者の場合には、
その肉体死は瞑想状態にて迎えるというのもよく知られていることです。
尚、ゴータマの最後は滅尽定からの涅槃(肉体死)ではなく、第四禅からの涅槃(肉体死)入りだったともいう。
http://meditationultimate.web.fc2.com/meisou/metuzinn.html 最近は特に忙しくて、ゆっくり2ちゃんを見る暇がないw
とりあえず上げw まことって、よく、朝鮮人の悪口を書くだろ?
あれも、人に認められるのが不可能なやつのやることなんだってよ ★★★【お経好き集まれ】★★★ P35
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/kyoto/1321994135/
625 名前:名無しさん@京都板じゃないよ :2013/01/14(月) 10:33:35.98
読誦するのが好きな人いませんか。
どんなの読んでます?
私は阿弥陀経、観音経、大般若理趣分、般若心経など。
他にお薦めあったら教えてくんろ。
630 名前:名無しさん@京都板じゃないよ :2013/01/15(火) 23:31:47.91
>>625
大悲心陀羅尼はいかがですか。
まさに読誦向きだと思いますが。
632 名前:名無しさん@京都板じゃないよ :2013/01/16(水) 20:32:01.08
読むと金持ちに成れる現世利益のお経はないかね。
633 名前:名無しさん@京都板じゃないよ [sage] :2013/01/16(水) 20:33:47.80
>>632
大般若理趣分には得財の功徳があると言われている。
634 名前:名無しさん@京都板じゃないよ :2013/01/17(木) 11:18:20.51
超人になりたいのだが読むと神通力が得られるお経はないかね。
635 名前:名無しさん@京都板じゃないよ :2013/01/17(木) 13:05:11.35
大般若経おすすめ お坊さんQ& Aサイト
般若心経を素人が唱えると、成仏出来ない霊が寄って来る、取り付かれると聞きましたが本当ですか?
後、寝る前に聞いたり唱えたりすると悪夢を見るとも聞きました、、
写経や坐禅に興味があるのですがこの事を聞いて恐くなり始める勇気がありません。
https://hasunoha.jp/questions/4622 >>197
読経については、
基本的には自分の好きなものを好きなだけやればいいのです。
読経の習慣というのは、
元々はゴータマの教えを口授によって伝承してきた習慣がそのまま継承された行為で、
確かに、真剣な態度で読経に対して取り組むのならば、これも一つの立派な修行にはなるでしょう。
でも、5分やそこらのものじゃとても話にならないので、一回に最低20分とか、
できれば30分以上〜を毎日することが必要でしょう(やれる人なら1時間位とか)。
何故なら、自分自身で“大変だなぁ〜”と感じられるものでなれば修行にはならないからです。
あと、>>117-118でも述べたように、
私個人は、読経(或いは所持)による霊験であるとか、経文中に書かれてある功徳(利益)というものは
大乗が信者集めを目的にして勝手に書いたデタラメと見ているので、まったく信用しません。
ただし、真言陀羅尼(日本のものは原語からかなり掛離れた日本語訛りでしかないが...)については
古代インドの梵語によるマントラ(バラモン呪法)がベースなので、
これについてはある程度は期待できるものと見なしています。 >>198
まず、
どういう意図が在ってこの投稿をしたのか? ということ...。
つまり、
・私も解答やアドバイスを得たいから、ここで参考意見を投稿して欲しいからか
・そのサイトで解答している僧侶の教えがためになるものなので、
同じような不安を持たれている皆さんへ読まれることを奨めたい
って、ことなのかな??
ハッキリいうと、
そのサイトで解答している僧侶の話というのは、パッと見では見事な解説ではあるけれども、
しかし実際上、彼らはゴータマ(原始経典上にて)が霊の存在を認めている、
という基本的な事実すらも知らない無知な人々だということ。
尚且つ、
仏教は「無我」を説く教えだから霊魂を否定するものなので、当然も霊存在なるものもないだとか...
同じようにして、仏教ではこの世に実体のあるものは一つも存在しないと説くから、
霊などというものも実体のあるものではない、だから気にする必要なし。
といった、ゴータマの無我の教えについての勘違い者ばかり。
まっ、ここでも精々、
殆どこれに毛の生えた見解しか得られないでしょう。
この私、以外には。 >>200
大悲心陀羅尼などは神秘的で不思議な霊力を確かに感じますね
言葉の響きからでしょうか?
https://youtu.be/9hlu-FNtZwc
しかしそれは日本の禅宗で読まれる場合だけであって
YouTubeでサンスクリット大悲心陀羅尼やら他の陀羅尼やら聞いても伴奏付きの歌になってしまってます(笑)
パーリ語のお経の読経も伴奏こそないですがまた然り
歌を歌ってるが如くは浄土真宗の正信偈といい勝負です
https://youtu.be/DC3sHntlIxE >>203
まず、
あまりにも基本的な認識不足と間違いが随所に散見されていて話にならないと思う。
何故、投稿者はこの画像の書籍名と著者名を明らかにしないのかな?
そういった常識からしてどうなのかな??
印象から、この私の推測としてはスマナサーラ長老の訳著ではないか、
という感じがしていますが...。
取りあえず、一言だけいっておくとすると、
たとえ南伝仏教のテーラワーダといえども、
ゴータマの教えをそのまま正しく継承したものではないということ。
これもその実態としては、部派仏教の生き残りが伝承したものに過ぎないのです。
そして残念ながら、現存する仏教教団にはゴータマの教えを
そのまま正しく継承したところは一つも存在していないようだということ。
今のところ、我々のレベルにおいては、
“間違った信仰”(伝統だから正しいものと信じること/つまり「迷信」)を打ち破るものは、
唯一にして、信仰に拠らないものであるところの「学問」以外にはない。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E9%9D%9E%E4%BB%8F%E8%AA%AC
近代の文献学上は
原始経典さえも
(意図的に?)編纂されたものなので
釈迦の言説が記録されているか明らかでない
それは、さておき
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%AC%E4%B8%80%E5%88%87%E6%9C%89%E9%83%A8
未来世の法が現在にあらわれて、一瞬間我々に認識され、すぐに過去に去っていく
映画のフィルムのコマを見るように、瞬間ごとに異なった法を経験している
ttp://d.hatena.ne.jp/shi3z/20141222/1419203377
宇宙が
『時間軸を持った三次元空間である』というのは
(2次元の情報をもとにした)
スクリーン上に映し出された幻想のようなものである
青目(ピンガラ)中論 觀如來品 第二十二
…
人は戯論を生じている
戯論して慧眼を破れば
是の人達は皆
仏を見ることはない
如来は戯論を超えている 外道バービーちゅわん&宝珠にネタ笑。
最澄に貸したらがらなかった、「理趣釈」の現代語チラ読みしてやると笑。
強烈なエネルギーがワイてくる笑。
俺って、頭オカシイわ笑。 https://i.imgur.com/JTSTmvR.jpg
>現象の世界が実際の世界であって、現象の背後に隠れて「実体」の世界があるわけではないのです。
実体を空に入れ替えても同じこと
仏教では現象の世界こそが全てである
仏教は二諦を説くというパーピちゃんの決まり文句は間違い >>205
刹那滅の思想はテーラワーダもそうじゃん
テーラワーダでは法有の法(無為法)はニルバーナだけけという違いはあるが
しかし刹那滅は観察して実証されるものなのかねえ?
それこそ観念論じゃないのかなあ
禅でも刹那滅を説くけどこのルーツは何なんだろう?
>>207
二諦は古代バラモン教以来の伝統
バラモン教では私(アートマン)は認識出来ないものとされた(非らず、非らず
しかしその認識できない私を世俗のなかでは私がという主語で使っていた
ヴェーダに精通しているバラモン僧がそのように「私」を使い分けていた
>刹那滅は観察して実証されるものなのかねえ?
刹那滅
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E7%82%BA
未来の領域から現在の時点に生起し、次の瞬間には過去の領域に滅し去る
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E8%AD%98
最終的には心にも実体はない
このような識の転変は無常であり
一瞬のうちに生滅を繰り返す(刹那滅)ものであり
その瞬間が終わると過去に消えてゆく
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%B9%E9%82%A3
刹那と仏教思想
説一切有部では
人間の意識は一刹那の間に
生成消滅(刹那消滅)を繰り返す
心の相続運動である
www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.chienohikari.pdf
刹那定
四界分別観
大念処経
この身には地界、水界、火界、風界がある
「実証すること」ではなくて
「般若の智慧と慈悲によって観照すること」かもしれない?
刹那滅も
バラモン(ヒンドゥー)から → 仏教へ?
ttps://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-11J08097/
「刹那滅性に対する論駁はないことの証明」の章のサンスクリット原典写本の
ディプロマティック・エディション(写本を書写されたその通りにローマ字に起こしたもの)を作成した。
今年度は、アメリカ合衆国-ハーヴァード大学・教養学部・南アジア学科(受入 : Parimal G.Pati1教授)に約11カ月間研究滞在し、
前年度の研究成果をもとに、同著作のサンスクリット校訂テキスト、並びに、その暫定的な翻訳を作成した。
その文献学的基礎研究の成果として、シャンカラナンダナが対論者としていたと推測される、
正統派バラモン教哲学学派に属する幾人かの思想家クマーリラやウッドヨータカラなどを同定することが出来たほか、
『ダルマ・アランカーラ』第3章の章の構成、成り立ちについて、幾つかの興味深い知見を得ることができた。
また本年度は、昨年度に引き続き、『ダルマ・アランカーラ』第3章に対する文献学的基礎研究と並行して、
7世紀以降の刹那滅論を中心としたインド仏教思想史を再構築するべく、
ダルモーッタラ(ca.740-800)の刹那滅論に関する研究を更に推し進めた。
この研究では、刹那滅論証で使用される論証因「存在性」の成立をめぐるダルモーッタラの理論を明らかにし、
また、その理論が、後代の思想家ジュニャーナシュリーミトラ(ca-980-1030)にある程度の影響を与えたことを実証した。
ダルモーッタラやシャンカラナンダナなど、カシュミール系の思想家たちが、ジュニャーナシュリーミトラなど、
いわゆるヴィクラマシラー系の思想家たちの思想形成に与えた影響を具体的な事例のレヴェルで明らかにして行くことは、
7世紀以降のインド仏教思想史を再構築する上で、極めて重要な作業と言える。 >>207
うーん.違う。
我々に認識可能なのは現象界のみであるから、
一切法だけが仏法の実践項目だということ。
ただし、有為としての現象界だけが知覚対象であるからといって、
この現象界を実体視する勘違いを起こすことのないように、
有為に対する無為法(有為を超越した世界)があることを説くのです。
であるから、その結果して二諦となる。
中には、無為法だけを説く連中(修行無用を説くナンチャッテ覚者たち)がいるが、
そういう一方通行の勘違いは実践に役立たない無用の長物。
>https://i.imgur.com/JTSTmvR.jpg
説一切有部の最大主張とは、恒常の存在を認めない上座部に対して、
一切法の法則そのものは永遠であるからこれこそが唯一の実在だとしたことです。
>>208
>バラモン教では私(アートマン)は認識出来ないものとされた(非らず、非らず
ただし、
それは仏教でいう凡夫、及び、未完成者についての場合です。
完成者はアートマンを知覚する。当たり前のことですが...。 >>211
>中には、無為法だけを説く連中(修行無用を説くナンチャッテ覚者たち)がいる
これって誰のこと? >>212
誰ということではありませんが、
龍樹の「第一義諦(勝義諦、真諦)」を読んで勘違いを起こし、
業報輪廻や縁起を否定して、更には、修行の必要すらないなどとする一部の禅者たちのこと。
失礼。無為法というよりは、第一義/勝義諦です。
>無為法だけを説く(修行無用を説くナンチャッテ覚者たち)
机師匠とか
閻魔師匠とか
禅宗系のナンチャッテ覚者師匠の方々とか
道元 普勧坐禅儀
そもそも仏法というものは
円満に全てのものにゆきわたっており
修行したり、悟り証したりすることもない
仏そのもの
それゆえに
無苦集滅道
机師匠とかは
「(仏そのものなので)只管打坐も必要がない!」とか逝ってた
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8E%E7%8B%90%E7%A6%85
仮設としての
無明している世界の中で
我癡・我見・我慢・我愛に依存している
野狐禅
ナンチャッテ覚者師匠の方々
ナンチャッテ覚者師匠の方々の場合は
無明している世界は
仮設としての
仮の現れで
(縁起に依存して?)滅するものなので
「無明している世界を手放しする!」という方法も必要がないらしい
− これに対して −
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
上座部 パオ・セヤドー
第一禅定
どこかへ飛んでいってしまう心の働きを
呼吸の観察に戻してくる要素があります
(仏そのものに戻る帰る要素があります)
_ _ _
ちなみに
おじゃるは
ヒンドゥー外道でつ スマソ m(_ _)m
(『永遠に変化することのないプルシャがある!』みたいな?)
(縁起に依存して?)滅するもの
ttps://www.nhk.or.jp/special/stress/02.html
マインドフルネス
…
何か雑念が出てきたことに気づいても
その辺りに漂わせておくようにして
縁起(を超えたもの)に依存して
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じて
衆生が ← 仏が大悲・大智を受け入れて
そして
(雑念が)自然に消えていくのを見届けます
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0
フォーカシング(焦点合わせ、Focusing)
縁起(を超えたもの)に依存して
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じて
衆生が ← 仏が大悲・大智を受け入れて
そして
まだ言葉にならない意味のある感覚(フェルト・センス)に注意を向け、その感覚と共に過ごす
胸の奥や腹の底など身体の中心部分にぼんやりと注意を向けながら
何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)が感じられるのを、受容的な態度で待つ
_ _ _
ナンチャッテ覚者師匠の方々にとっては、このような
「認知行動療法のようなものも不要である!」ということであるらしい
×衆生が ← 仏が大悲・大智を受け入れて
〇衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れて
_ _ _
(優等生も劣等生も)
すべて仏そのもの
− これに対して −
極端な優等生・極端な劣等生
ttp://gno.blog.jp/izumi/21601008.html
リトルウィッチアカデミア 第20話
ttp://gno.blog.jp/izumi/29664591.html
ブラッククローバー 第20話
たとえば
第一禅定から → 第二禅定へというように
「少しずつでも段階を超えていく」というところは
上座部的な感じがする
ナンチャッテ覚者師匠の方々にとっては
無明している世界の中で
『段階を進めていく。というところが間違いである!』ということであるらしい
それゆえに
『仏の世界から → 縁起している世界を観照せよ!』ということであるらしい 上座部仏教の長老、スマナサーラ師の著書をいくつか読んでみた。
「釈迦の瞑想法」シリーズの3『自分につよくなる――サティ瞑想法』と『ついに悟りをひらく――七覚支瞑想法』、それに『死後はどうなるの?』、『ブッダの実践心理学』である。
(略)
これらの本に優れた点は多々あるのだが、一宗一派的だといったのは、自分の教団の教えが一番優れていることを不動の前提として、何とかその価値観の正しさを説得しようという動機が読み取れるということ。
つまりやっぱり「坊さんの説法」になっている。
それと、大乗仏教やキリスト教、ヒンドゥー教などの他宗教を、深く理解しようという欲求もなしに、あからさまにバカにしたりちくちくと嫌みを言ったりするところがところどころに出てくるので、どうもそれが気になった
(つまり、各宗教を「その最高の高み」においてつかまえた上で比較するのではなく、ごく低次レベルでつかまえて批判している)。
「この人は師匠としてはどうだろうか」という目で見るときには、その論の展開の正しさということよりも、むしろそういった「気になり方」が重要な要素になってくるものである。
(略)
というわけで、他にもいろいろそう判断する理由はあるのだが、要するにスマナサーラ師は、ある一定の境地には達しているんだろうが、決して悟ってはいないと思う(おっと、抗議メールが恐い・・)。
彼は、唯識で言う阿頼耶識なんてあるかどうかわからないのだからそんなもの空論だと断定しているが、ヴァスバンドゥとか唯識思想をつくった祖師たちは、瞑想の深みにおいて阿頼耶識を実際に直覚し、その経験をもとに書いていたのだと思う
(玉城康四郎も阿頼耶識を直覚していたらしいが)。
スマナサーラ師にはそのような経験がないのでわからないというだけの話ではないだろうか。
というか、上座部仏教にはそうした経験を促すような修行法はないし、そういう経験が出たとしてもその意味を否定していくだろう。
(なお、私が魂といっているのはほぼ阿頼耶識に相当する。それはもちろん究極的見地から言えば実体ではない。
しかし阿頼耶識が存立している次元より低次の世界から見れば、それは個別的実体と錯視されるものである)。
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/20316/21924/10175383 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています