>>250
>信仰が有れば必ず行為に現れるという考え方ですよね♪

宗教って他でも一般にそういうものだと思います。
キリスト教の特徴として、神との和解つまり聖霊の働きの回復
があり、行為も可能になるというのがあると思うのですが。

けれど、儀式化した教会で、聖霊の働きまで保証できないし、
むしろ錯覚を保証する場所になってきたのではないかと思いますね。

悔い改め、祈り、委ねも一般的に他の宗教もそうなんだけれど、

キリスト教は劣等感の裏返し的な優越感の心理状態において、
そのまま依存と抑圧の中で錯覚していると、
解放の新生も錯覚し、
となれば肝要な聖霊も錯覚であり、

まったく違うモノと交流している事に
きづけないのではないかと思える事がありますね。