なんちゃって覚者✴気づかない教.2
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
悟りと非二元に関しておしゃべりしましょう!
なんちゃって覚者とは、既存の宗教、宗派の教理に適合しないのに、悟った自覚があり、自信もある人たちのことです
気づかないとは、あるがままの事実を取り上げず、そのままにあることです
悟り、非二元、等々に迷いがない人は、ここには用はないでしょう
お花畑、妄想、という批判はご遠慮ください
あと【悪魔からの批判】は受け付けておりませんので、よろしくwwwwww. もちろん、精神的に、様々な成長をしたり、現実を凌駕するようなことは、あります
それが無いわけではありません
大いなる意識や、愛に触れることは、難しい事柄ではありますが、実際に、ある
しかし、悟りは、そのような経験とは関係がない、もっとシンプルなものなのです
掴む人がいない
それを自覚すること、この、自覚することが、悟りと言われているのです ところが、どうでしょう
ここで見ていても、大抵、なんらかの体験や成長のことを、わたしは、こういう境涯を得た、あなたたちとは違う!
わたしは凄い、などと、言いますw
それは差別ではないでしょうか?
差異があるのは、当然のことですが、特段、悟ったからといって人と変わることはなにもありません
あったら、おかしいのです笑笑 第二の矢を受けない
とお釈迦様が言ったそうですが、この、第二の矢は、脳内で掴みかかっている、活動のことを言っています
この活動が止んだからと言って、超人になるわけがありません
過ぎていくものが、過ぎていく
その、受け手が、いなくなっているだけなのですから、そこには、一如も何もwww
最初から、そうあるものだった
私がいない、いなくなったわけじゃない、私は最初からいない
誰もが同じことで、ズレることはない
生きていること、が、悟りなのだからw 何も変わらないのに、内面は、とても安心するのは、怒ったら、怒りがないからです
怒った続きがない
断絶されている
しかし、断絶、は、本来、もともと断絶されて、ある
この意味を繋いでいるのは、頭脳の、わたしという思いかもしれません
この思いがなくなる
というのは、わたしはいないと見ることではありません
その部分の活動が休むことなのです
そのために、いろんなことをするのが、宗教なのかもしれません
わたしは存在する
しかし、この、存在の仕方に、変化を与えることが、自我を脱ぐことなのです 出来事、気持ち、体
この三点で、悟りを実現することかできます
つまり、この部分に関する、思念活動の一端、が、止むことです
出来事は、常にあります
気持ちも、常にあります
カラダも、常にあります
そして、この、活動が、脳内に生起するとき、それを残そうという、その、たった一点の、ことが、苦しみになっている
これは痛みとか、哀しみとか、不都合な現実が、なくなるのではなく、苦しみの消滅しているというのは、それが、スッと、抜けてしまう
からなのです
抜けている事実に即すこと
つまり、私は悟っている、その、いないことに、自覚的であることが、これです だから、普通の人と、何が変わるかと言って、何も変わることはありません
誰もが抜けている事実、これに、脳内が、残影を描くことなく、ある
怒りがある
これは一瞬のこと
だけれども、それを残したら、思念活動が、そこから追随して、苦しくなる
余計に苦しくなる
だけれども、とる人が消えていれば、余計な分はなくなっている
後からの分が、はぶかれた なので、普通の人となにも変わらないのですが、何かが起こるたびに、それが、過ぎていく
恐怖も怒りもある
だけれども、それが、脳内では、透過していく
透過
この、出来事、気持ち、カラダが、なくなるのではなく、同じなのに、それが、そのまま、過ぎていく、事実に、ある
そんだけなのです
だから、何も手にすることはない
詐欺師に騙されてはいけません
自分を受け入れるなんて、かんけーなしwwww 一番嫌なのが
このようなアイデア
禅定や三昧を、説いて、その状態を、目指ささることなのです
これは逆です、真逆w
禅定、三昧は、休むことでなるんです
カラダ、気持ち、出来事
は
怠惰、恐怖、想念
これらによって苦を与えますが、それを、消す事はできませんwwww
受け取る側が、透過させている
その認識不可能性、が、自然に禅定、三昧にあらことなので、練習して、身につくものではないのです
誰もが体験している
幼い頃は、その状態だったのですw >あと【悪魔からの批判】は受け付けておりませんので、よろしくwwwwww.
え? え?
批判はダメなんだ。・・・・・なら、おちょくる のはいいのかな?www >>13
おーパーピマンさん
そういえば、わたくし、悪魔との対話という本を持っておるのですが、読んでなかったw
また読んでみようかと思っとります
またが、いつになるかは不明ですがねえ
おちょくる?
まあ、おちょくる要素はおおいでしょうな
ww >>14
名前書かなくても誰かすぐわかるって、才能ですよね?w
常に否定っていう技術は、ない、ない、という、あの有名な宗教を信奉されてるんでしょうか
真我は否定でしか現すことができない
でしたっけ?
真我は、梵天とひとつ
つまり、眼前世界は、あなたの、胸の奥と、ひとつなのです
なんでもないもの、ではない
って、なぜ、こんなこと書くのだオレはw 知的活動がハートに落ちる
これは、仏教も、不二一元論も、同じことではないのでしょうか
まあ、そこまで詳しくはないけどもw
この、魂に、たくさんの癖、性質があって、その蓄積された傾向が、運命を作るのです
仏教も六道輪廻を言ってるので、この、魂が自らの性質によって、相応しい世界に送られることは認めていたでしょう
アートマンは非実在であるのに、実在の世界全体を形成する光と同根なのです
なんか、クシャミしてるから風邪かも
さいあくw アルジュナが悩みます
家族、親戚で、戦争するなんて
そこで神が、運命は、すでに決まっとる
といい、映像を見せます
これはひどいw
そうなると、ここで、書いてるのも、すべて書かれている
と、こーなる
まあ、正夢よく見るから、ほんとかもしれんが、なあ
そうなれば、もう、好きに生きたらいいw 天使には羽根と輪っかが、あるでしょう
これが智慧と慈悲なのです
わかりますか?
それは自分のものではありません
ニンゲンには、輪っかも、羽根も付いてませんので、光に向けて飛べないのです
この、ひかりが、世界の名前と形を、なくすとき、そして再び、復活するときに、神の栄光があるのです!
これは、仏教もキリスト教も、全く同じ教えであった、証拠なのですw
もちろん、例え話は、違ってますが、指していたものは、全く同じことです 智慧というのは、意識が光を受け取っていることを言ってますので、俺は賢い!
とかではないのですw
慈悲は感情が、開いて、背後の仏さん、まあ、心地よい沈黙、に抱かれること
なので、自分が無理に、親切にする
などという作為的なものではないのです
あの人には慈悲があるは間違いで
あの人は慈悲と繋がっているがホントですw 金星が口の中に飛び込んできた
これは自他一如のこと、アートマンとブラフマンは同根である
と、同じことです
この飛び込んできた原因は、その人の、脳内活動の一部分、脳内真ん中あたりの、つっかえがとれて、それが、胸に落ちたのです
結果として、私が休み、世界が自らを裸にしたので、口の中、つまり、胸の奥が開き、飛び込んできたように感じたのです まるで水滴が落ちるように、ちゃぽんと、その、我の根源がとれるのです
するの胸が開く
この胸が開く、ハートが開く、と、一切の存在と私の意識、その意識が、胸と繋がって、我と一切衆生同時成道せりー!
となるのですw 貪りと怠惰
欲心と恐怖
妄執と迷いの生存
と、お釈迦様は、これらが、苦悩の原因である
そして、過去にあったものを枯渇せしめよ
無明
それは、脳内活動のことです
脳内の、ひとつの、こと、つまり、取ろうとする活動のみ
イメージも、思考も、なんの問題もありません
が!
それが消えないと、問題なのです
眠りと思念、これの、残留を消すだけです
残留した思念だけ
だから、出てくるものは、取らなければ、そんだけのことなのです しかし、ここで大勘違いが、起こっている
取らないでおこうと、動く
ということをしているのです
取らなきゃとなると、また、その自我がうごめいてます
なにもしないでおこう
ではないのです
これが意外に、たいへんに、難しくなるのは、なんでもかんでも自分でしてきたから、自分がなにもしないこと、を、感覚的にわからないからなのです
なんにもしないのは、正しくあることで、あるので、その、怠惰や恐怖に負けなくならないと、いけなくなります
不動心は、動いてない、動いてるのは、脳内 体があるので、必ず、怠惰があります
情があるので、必ず、恐怖があります
出来事があるので、必ず、不完全があります
その度に、怒っているのですw
怒るのは自然なことですが、その、怒りの透過をされてないと、苦しくなります
体に負担、他者のストレス、出来事の不正
に怒って、瞬間、智慧の光と沈黙の慈悲によって、これが、消えていく
消えれば、苦しく無くなります ハジが、その方法を書きましょう
非常に静かにして、呼吸を落ち着けて、背後から抱かれているように感じます
それから、自分の目を自分で見てるような感覚から眉間を開き、上空の、斜め上から光っている意識、を、自己の口の中から、喉に入れるのです
すると、この、光と静寂が、どんなものであろうとも、脳内の残留思念を洗い去ってしまうのです
これが、いい感じなのだw 今、こう書いていると、自分で自分に、無為なのに、あーだこーだやってんのは、違うんじゃないの、なんも考えずに、作為なしに、やりたい放題、思うがままにいるのが、本当の悟りじゃないのと、ツッコミがはいる
そうではないのだ
思念と感情の傾向性は、常に、動いてしまうものであるから、放っておいたら、無為になってないのだwwww
矛盾するようだが、そうなのだから、仕方がない
そのまんま悟りってあるが、人工的に培養された、傾向性が、すっかり、張り付いて、それが抜けないから、無為にならない
無為にならない
というより、無為である己の、ありように、戻らないでいるのだ 自己の体
他者の感情
出来事への反応
からくる、動きます、に対して、光と沈黙の力が制止をかけている
つまり、普段の自己思念を、乗り越えて、水面の波を鎮める役割を果たしている
もともと、悟っているけれども、この、頭脳活動の一部分だけが、それを見えなくさせている
しかし、それが、消えても、超人にはならないのである
しかし、変わらないにも関わらず、すべてが瑞々しくなるだろう この、心理的な雰囲気は、とてつもなく大きな力を持っているので、その、心が、晴れやかであることが、持続していくと、徐々にではあるが、この、自己の傾向性に気が付きやすくなり、それだけ、内面が落ち着きやすくなり、そのことが、安楽をもたらすことに気がつくのだ
このようなこと、が、修行への意欲を、また高めさせるのである
これらのことを実践している時、理解者は、誰もいないだろう
しかし、一度でも、その自己が開いた感覚を知ったなら、身震いして、
これだ!
と確信させるものがあるのでアールw ハジの場合、なぜなのかわからないが、気づきがあるときは、顔の筋肉、特に頬のあたりが、緊張しているのに気づきやすくなり、なんか、泣きそうになるときに似て、熱くなる
ということがあった
ような気がしているが、全く関係ないかもしれないので当てにならないw 29.
バカであるところの自己、自我、がバカ運動、バカ実践をやっているだけのことであるよ。
その結果がバカであることは明白であるよ。
それを錯覚しているバカがいるだけのことであるよ。 いつも疑問に思うのだが、いまここを生きることという人たちは、この現象の世界の肉体的感覚世界をとても重要視して、その、直観的活動のことを悟りじゃとか言っている
それは喪われることが、自明な、世界の出来事への視野が、思考から感覚へ映っただけのことで、悟りとは程遠く思える
生きてある世界、なら、ワザワザ修行する人がいるわけないw
思念なんかハジはない時の方が多いw
感覚はなくならない
なくなったら、生きてないw
だけども、生死を問題にしたときに、世界の出来事に解決策を見出すのは不味くないか?
何にも囚われないのに、この、感覚の爽快さ、を悟りとして、生を謳歌していて、いざ死がきたとき、どうなるのかw >>31
なんだとおー
バカとは、なんじゃーw
白痴といいなさい白痴とw 32.
感覚の爽快さ、か。
その結果論ではなくして、そこに至るための方法論が問題となる。 >>34
バシーンと、叩かれたらなるかも?
やだけどw 方法論はね
もう、惹きつけられるしかないよね
教えられるわけないもん、こんなの
人生そのものでしょ
理論ったって、それが、実践で確かめられなくちゃいけないからねえ
もがき苦しんで、おーわーと、人生最悪のドン底ばっか生きてきたのが、いいんだわw 金持ちは絶対、天国に入れない
って、キリストさんが、、、
あー
富めるものはか! 心の貧しき人は幸いである
天の王国は、その人の、ものだからである
天の王国って、お空の光のことだよw 37.
金持ちだけが天国に入れる、のだよ。
これ常識であるよ。
親鸞も否定していない。 38.
心の貧しい人は幸いである。
なんでか。
天国を獲得する以外の方法がないからであるよ。 >>39
wwwww
何書いても反対のことゆー主義徹底してるなあ
親鸞さんは悪人は救われるーでしょ
悪人じゃないひとなんておるんか?w >>40
そのとおりだね
この世のものは何も与えられないから、この世のものではない宝が見つかるのさw そういや100分で名著の、たんにしょう、よかったなあ
ひとえに親鸞一人がためなりーw
そら、みんなそうやw そういや、なんか、今までバラバラで、なんの繋がりもないと思ってた経験がさw
じつは全部、繋がってたんだ!
って、思ったら
こりゃあ、マジで、神様、真ん前で見てるわ
と、思うでwwww ものとひとつであるときに
果たして、目の前の自然現象を見て、それと、共にあろうとするだろうか?
ひとつでないから、自然現象を離して見て、それから、ひとつになろうとしているのだ
いまここを生きることと主張している人々は、いまここを誰もが生きている自覚がない
としか、思えない
これから一如になる、しかし、それは、いまここを生きることは方法にはならない
方法は、私の脳内の感受点、の、働きが、認識されて、それが、主人から召使いになることなのである
必要なときに、使えるように 召使いには、主人がある
この主人は自我ではなく、愛である、光である、寛容な、性質を自己全体に対する制止として、働かせて、自己の野獣性を、コントロールできる、そのような、暖かみのある光
この光と白の霧のような細やかな優しさの、感情的、吸収点が、消火点が、自己の感受の、中心である、頭脳の一部を、その、内容物を消して、解放させる
このことで、いまここを生きていた、だれもみな、私の中で、生きていた
一重に親鸞ひとりが、為なりー!
となるのであるw つまり、極論すれば、自我の喪失とは、自我の、内容物が、透明な光と白の静寂に、置き換わることなのだ
内容物が、それまでは、恐れと、ともに生ずる、自己防衛本能から派生した、人生の記録と、体の整理現象からくる、怒りと、怠惰、それに出来事に囚われることによってある無明、光がない
状態だったのだ 妄執が、根本原因であるが
それに更に、
貪りと怠惰(肉体的本能)
欲心と恐れ(孤独と愛情欲求)
が補佐的に機能しているので、ひとつの怒りがあっても、原因は、三つのうちのどれかである
肉体からくるもの、心情からくるもの、見聞からくるもの
だから、それぞれ原因が違うので、それを見極めて、その、箇所へ善行への欲求を置き換えなくては、現実的なものへの対応にはならない
光と静寂が、なく、自己の意志で、そうしようとしても無理なのだ
だから、静寂にあって、意識を目覚めさせておくこと、という方法が、あることになる ところが、この肝心要のことを説かずに、意志に対して、自我に対して、お前は落第者だ
もっと、精進して、欲望に惑わされないようにしなさいとなれば、これは破壊的活動をしていることになる
お前が悪なのだ、そんなわけないwwwww
悪魔は、恐怖なのだ
この、恐怖は、個人的なものではないので、目覚めてない人に精進など不可能なのだ
お寺の住職でも、もしかしたら、釈迦、その教え、その教えに集うひとに、帰依してなければ、単なる、世間の凡夫であり
しかも、もしも、その、見解のなかで、空を捉えて、世の中は夢幻なのだから、己の欲望の抑制などせんでもいいとなれば、
これはwwwwwww
ひどい!
ひどすぎるw
どこの宗教が我儘放題が、開放だというのだw もしも光と静寂な気持ちに、心を洗われることの要点が理解されれば、自己の意思に頼るのではなく、神と仏に頼って、その力によって、恐怖を八つ裂きに抹消し、その力によって善行を成すことのできる、力が鍛えられるのである
土台無理なことを深刻な顔をして、述べ、相手の自我を抹殺するなどという、破壊的活動に住持するならば、
悪魔は両手を叩いて、大よろこびしておるww
知れ!
悟れ! あ、アホハジが、また熱狂して、いい気になっとるwwwww
醒めとらなアカンと、ゆわれてるのに、所詮、覚者きどりの、自慢野郎は、こんな、醜態を晒してしまうw
おまえは、人一倍、見解に囚われとるやないかーーーー
このバカモンがあ!
と、自分で自分にツッコンデ
ごめんw 相手の人が怒っている
それは、自分の問題である
世界と私は一如であるので、私のこころに逆らって、出来事が現れることは、ひとつもない
怒っている人がいたら、相手を見るのではなく、自分の背中に蠢いている悪魔
ヤマタノオロチ、縫う女を
切りなさい!
怒っているのは相手ではなく、悪魔、しかも、自分のヘビ、つまり、性のチカラが、空想に作用する原理というもの、に、よって、この世界を現状、統治している
恐怖の大魔王なのであるwwwwww
大魔王を自分の力で倒せるなどという、自殺的行為をしてはならない
瞬殺される
倒すには、世界鏡、玉の心、そして、肝心要の武器、智慧の剣がいるのだ笑
智慧の剣は、知恩と天使が教えた
ハジではない!
天の使いが、知恩が、智慧の善行、つまり、恐怖の大魔王を八つ裂きにする剣だとねw
その人の恩を見る
その人はあなたに、プレゼントしてくれた
なぜなら、世界は、わたし、そのものなのだから、その人は、わたしに、何かを与えてくれたに決まっている
恩を知る
恩があるのだ、その人に
敵だと見てはならない ほむw
また何を興奮しとるのやらw
まあ、神々の遊び、という、八百万の神々という、古代の人々は、なんと、美しいココロをもっていたのだろうなw
ハジも熱狂が醒めるように、祈ろう
熱狂、それが、おのれを見失わせるのだから
ねw 恐怖の大魔王は、相手ではないよ
ヤツは、闇の世界にいるのw
自分の深層意識を支配されてるんだよ
他人は他人
敵ではなくて、神仏なのw
大魔王は、己の、中の、恐怖なので、相手は全く問題ないw
問題は、何から何まで徹底して自分自身以外に絶対に、完全無欠に、もう
ホンマに!!!!!
ないw
仏道とは、これ、自己なり
至宝の言葉、永遠不滅の真理である 人は
本能的苦痛(肉体)
精神的苦痛(孤独)
出来事による苦痛(見解)
の、何れかに、よって、怒る
それは苦しいという、メッセージなのだ
あなたが苦しみを取る、それは、苦しみとして、心に感染するだろう
普通なら、ここで、その怒りは残り、自分より弱いものに伝播する
このようにtelepathy的に、かの、恐怖の大魔王は、世界を統治しているのだ、いまのとこねw
しかし勇者は、この、怒りを受けて、この怒りを、神仏の魔法、白魔法によって、消化してしまうことができるのだwwww
はっはっはー爆笑
恐怖な大魔王、破れたりw
八つ裂きにしてくれるわwwwwwww 世間の火を呼吸するドラゴン
それが、復活する時が到来したのだ!
この火の呼吸を賢者はマスターしなくてはならない
消防士になるのだ爆笑
消防士が、火を消したら、
煩悩の火がなくなり
光を放ち終わったかのような顔を持つ、聖者の中の聖者は、
天空を駆け巡るラッパの音と、共に
稲妻のように現れるだろう
ザマーミロw
成敗の時が来たのだ!
もう、かの領域では、警報が、鳴っとるw
なんちゃってww ふーむ
しかしよく考えたら、勇者、戦士、僧侶、魔法使いのパーティで、ゾーマをやっつけるんだからなあ
僧侶的発想のハジだけでは、勝てないかあ
勇者は、まあ、救世主
戦士は?
僧侶は、ハジはマスターしたからなあ
魔法使いもわからん
ふむう、
なんの話やwwwwwww まあたぶん、戦士と、魔法使いの2人が、この世界のどこかにおるやろう
誰なのかは皆目わからんが、、、
ハジとは全く違う道を極めておるのだろうなあ
ひとりは、力強く、そして、もうひとりは知的に優れた道を学び、共に勇者を助けるのだw 肝心要の勇者は、ロトの血を引く者か
ふむ
ロト伝説て、どんなんだっけ?w げ
なんか、調べてたらマジ怖いやんこれw
創世記19章
パレスチナとイスラエルに、ロトの血を引く者たち、民族がいることになっとるやんwwww
オーマイガーだと?
てことは、そこから勇者が、現れて、壊滅の前に、、、
うーむ、まあ、気のせいであろうw
怖すぎるから深追いはしないでおこうw 火の呼吸
と書いて、勘違いされると嫌なので、書いておきますけど、これは呼吸法のことではないですからね!
呼吸法は、しない方がいい、と、僕の昔の師匠が言ってました
自然な呼吸を観察するとか、姿勢を良くして丹田に落ちるようにとかは、
呼吸自体に影響を与えないように、最新の注意を払わないと危険らしいですよ
まあ、とにかく、呼吸法は、呼吸した時の、精気が、どのように、気として体に入り、そこから、どのようにして、巡るか、循環しているかとか、そのようたことですが
とにかく、呼吸法は、しない方が正解
と、ハジの教わったところでは、されてましたし、ハジも、この意見には賛成です
火の呼吸は、感情の交換のことで、呼吸法のことではないのですw 61.
呼吸法は生理学の問題である。
それは宗教の問題ではないよ。
坐禅も同じであるよ。 >>62
主体の問題ですか?
難しいなあ、そこ
やっぱり眼が主体になってるんじゃないかな
どう? どう? ハジは冴えない中年のオッさんなのですw
しかし、深刻にはなりたくないのです
なぜなら
その昔、深刻なオーラ漂う帰宅ラッシュを見た時に、これはいかん!
と思ったからw
ただ、それだけなのです笑笑 ハジは中年のオッさんこそが、笑顔になってることが、世の中一番平和になる
と、なかば、本気で思っとるのですww
違うかなあ
一番、深刻そうになってるのが、それくらいの人たちだから
昔っからw 自分が馬鹿なら馬鹿としてのやり方の方が良くないですか?
賢い人のやり方は役に立たないことはないですか? >>69
これは難しい問題ですねえ
ほんとうに素晴らしいものであることが、大切で、それが時間を短くするのですw
難しいとか簡単とかよりも、それが正しいのかウソなのかが問題になりますね
正しければ、その中で自分の理解に応じた事をするしかない 正しい道であるという前提で、簡単、難しい、事柄かなあ
大抵、どんな道でも中心になるものが、あるはずなのです
例えば、
スピリチュアルなら自分を認めてあげる、オカルトなら体に帰る、禅なら坐禅と公案
浄土系なら念仏、天台なら止観、真言宗なら護摩、キリスト教なら愛、イスラム教なら神の戒律、ヒンドゥならヨーガ
などの、何か中心にあるもの
そこで最初に教わる、一番、基本が、ゴールなのですw
スピリチュアルなら、わたしを認めてあげる、という一番簡単なことがゴールですwww しかし、その、わたしを認めることができない
となって、他の、難しいことがでてきますw
だから、簡単なことができたら、それで終わりで、難しいことはする必要がない
坐禅ができたら、ゴールだけども、眠ったり、考え事したり、動いてしまう
すると、難しいことをしなくてはならなくなるw ハジは見ることを止める
と主張していて、これが、基本なのだ!
それがゴールなのだ笑 なんちゃっての、基本は、
見ることを止める
なのだw これの根拠は【解脱の宝飾】
の中にある、智慧の完成にあり、
そこには【中観諦小論】に「見えないことがそれが見えることだと、きわめて甚深な経に説かれている」
とキチンとあります
ハジの独創ではありませんw この、見えないことがそれが見えることだ
これが基本なので、そこから、辿って、いろいろ愚痴ってるのです
この、見ることを止めるは、至宝なのですw
だから、その他の神秘的な事柄は、ぜーんぶ、
なに書いても、これからズレたら、ハジの勘違いなのですw しかし、見ることを止める
と言われても普通はピンとこないので、その、動きが、光や静寂によって、止まるとなる
その光や静寂は、
世界鏡、玉の心、智慧の剣によって、、、
あれ?
なんか、おかしいな笑笑
智慧が見ないことなら、知恩は、ふむう
ちょと待ってなんか間違えとるから、、、
考えなおしますw あー、知恩はもっと先かあ
知恩は完成した後の話やなあ
だから、智慧の感、世界鏡、玉の心を持って、恐怖の大魔王を倒し、知恩を行ずる
こうなりますw
しかし、これを、基本にするもの
一言で坐禅!
みたいに言えるものは、何があるか
おもしろい!
こりゃおもろい
考えてみよーっとw あー
主体は無になっとるなwww
ふむ
なっとるwww
しかし、これ、坐禅
あー
禅って、そういう意味やったんかー
勘違いしとったわw
ごめんw ちょっと混乱してきましたよー
つまり、この、恵の光と丸い眼と、優しい気持ちが、ですね
主体の我の活動を制止している
これが、いいものであることは、間違いありませんが、、、
一休さんの死に際の、どこにもいかない、ここにおる
これは、涅槃のことを言ってそうですよね?
ん?
ちがうのかなあ
ここにおる
これがキーなんやけどなあ まったく分からんわwwwww
この自然の変化として、死が訪れて、まあ、物言わぬようになる
そのようにして諸行無常が変遷する様として、の中に、おる
じゃないか
とかが、精一杯 万法に解放されるというのは、そうゆう、よくわからんが、そこにおるやないか
という感覚なのかもしれない
それを、よく分からんけどと、探索しだすと、また迷いの煩悩に苦しめられる
だから、まあ、それも、流れてる
いま、迷いがあったら、今度は、自信家になっているwwww
コロコロコロコロ
しかし、この、様々な事象の中で、一つを捉えなければ、それは済んだ
見るのが止んだら
しかし、このように、字句の意味に拘ると、ハジのように、迷いだす
しかし、それもまた、過ぎ去る 一体全体、何を答え合わせしたいのか
それは、己の意見と、悟った者の意見を、照らして、合格になりたいのだw
そのように取り憑かれると、こんどは疑惑が起こって苦しめられる
釈迦という悪戯ものが、だw あるがままにあるのが、仏道の究極であるのに私はそうでない
と言いますが、あるがままにありますwww
あの人は、立派な人だから、悟ったようだ
違います爆笑
誰もが、あるがままに在る
それを、知らないだけなのです
優劣は関係ないのです どうも、自分の蓄積してきた、重い感情が、凄まじく大きいので、一人でいても、それを吐き出していかないと、いけないようだ
これからは良好になっていくだろう
ようやく安心することが、できたのだからw と、甘い考えでいると、己の未解決事項が
バーンと出てくるのであったww
この明智、つまり、光と、静寂が制止をかけると、自我の傾向性が、つかまった魚が、ピチピチ暴れまわるようにして、最後の抵抗を見せているようだ笑
躊躇なく抹殺してくれようwwwwwww
この、自己の特徴が、何度、己の運命を呼び込んで苦しみを与えたきたか!
怒りの鉄槌ならぬ、光の放射によって、一気呵成に殲滅するのだあ!
今こそ自我の、終了する時
遠慮してはならぬ、バッサリ倒しましょうw これは恐怖のように分かりやすいものではなく、自分では気づいてなかった魚ピチピチ
つまり、傾向性なのです!w
全く見えなかった、自己の苦しみの元が、個人の性格そのものが、水面に浮かぶ
まるで、魚が釣れたようにして笑
大体、自覚してたのと、正反対なのですw 87.
自我の、終了するとき、
それが見性であるよ。
見性しないバカが多い。 >>89
ハジはまだ見性してないのですw
鎧兜が脱げるには、恩寵がいるのだろうなあ
ガサーッて、抜け落ちる
だから脱落、身心、と述べたのかもしれない
道元さんも、親鸞さんも、空海さんも、悟りを開いている
とハジは思うのであった! ハジは、単なる「なんちゃって」覚者なので、ここに描いてることは、その時、こう思ってることの羅列なのですw
くれぐれも、真の覚者様のお話と、混同しないようにお願いいたします!
そんなん分かっとるわザコが
調子に乗るでない!
と言われるかもしれませぬがww 方法論がないからであるよ。
その方法とは何かや。
それは否定であるよ。
否定すれば答えが出る。
だが、誰も、その答えを、信用しないのだが。 >>92
捨像のが分かりやすかったやんw
否定は、なに否定するのか皆目わからん
全否定かな?w
まあ、全否定かもなあ
でも、わかりづらいwwwww これはない
ないということもない
あるわけでもない
あってないこともない
全否定
ゆえに、認知不可能であるから、見れない
すると眼が、萎んでいく
あるがままに見えてくる
主体は無になっているが気づかない ふむ
曖昧か?w
有、無 、空、色即是空、これ皆、見れず
と悟るならば、
あなたの眼は動きを止め
あるがままに在る、姿へと帰るだろう もしもあなたが目を開いたなら、自我に容赦しなくてもよろしいwwww
どうにかして動こうと、あれこれ、囁きある
断固、無慈悲に、過去の自己を、滅尽させるのじゃあああ
これぞ、苦の、根本、ニセモノの我、そのものなのだから、
ねw あなたは、プライドのない人間となるのだ
覚者は、この日本には、おそらく、一人もおらんやろうw
教えてる人がチンプンカンプンなんやからw
よう、わかるようになる あー、おるかw
2chにおるわ、爆笑
しかし、ふつうに悟ったとゆーひとは、大抵悟ってないのだ
だいたい雰囲気つくるやつは怪しい
すこぶる、怪しいwww 自分でも、よく分かってない事柄について、説明している人は、とても、大袈裟になるw
まあ、ハジも見性してないから、あんまり言えやんか
とにかく、光明の話を覚者は、必ず自覚しているはずだ
するかしないかは別としてね
あと、研ぎ澄まされた感覚とか、体のことにうるさいはずだ
姿勢とか、形とかを大事にして、止まれとか、動くなとか言うはずだ
ハジはまったくできないがw 自我の終焉とか、身心脱落
は、過去の自己を、過去にあったものを、通して物事を解釈したり、見たり、見解を立てたり、そういう、自己の枠を超えたと、いうことなのであるので、アクロバティックなことは、何もないのだwwwww
だいたい、まあ、普通のことなのだw
光と言っても、単なる純粋意識のことだし、菩薩と言っても静寂なる心境のことなのだよw
まあ、目の前の仏さんとなると、これはちょっと摩訶不思議だがw あなたは、泣きたくなるだろう、苦しくなるだろう、惨めになるだろう
それでいいのだw
うまく行っている証拠だ笑
それは、自我の叫びなのだよ
オレを無視んなよー、おまえ!
あれ、二人の人がおるなwwwwwww しかし、光を当てることが、できないときに、そんなことはしてはならない
静寂に癒されないときに、してはならない
武器もなく、丸裸で、敵陣に乗り込んだら、アホであるw
というか、マジで精神崩壊するから、絶対にしてはならない
自我は、悟りがあるまでは、あなたそのものと、ひとつになっているので、これを破壊しようとすることは、悲惨きわまりない
恐らく精神病院へ
となるなる可能性が高いし、下手すると命が危ない
必ず、光明と静寂と、心眼の、武器がなければ、恐怖にも、自己の特徴にも、手を加えることはできない 泣きたくなる
一体、どんな事柄が、あなたを泣かすだろう
カラッとしていて、何もない
あなたが、何に執着しているのだろう
執着して泣いているのは、あなたではない
カラッとして何もないのが、あなたなのだ
泣いているのは、醜悪な、おどろおどろしい、腐敗した、自己の慢心である
きたならしい心である
清浄でない思いが泣かせているのだ
それは、
僕ちゃん、すごい!
という極めて深い、言葉によって、現わせるだろう爆笑 相手は問題ない
と、キチンと覚えなくてはならない
問題は、そのように、観ている己
己の、見解と、その原因である慢心なのだ
ぼくちゃんすごいと思いたい♪
なのだwwwww ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています