なんちゃって覚者✴気づかない教.2
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悟りと非二元に関しておしゃべりしましょう!
なんちゃって覚者とは、既存の宗教、宗派の教理に適合しないのに、悟った自覚があり、自信もある人たちのことです
気づかないとは、あるがままの事実を取り上げず、そのままにあることです
悟り、非二元、等々に迷いがない人は、ここには用はないでしょう
お花畑、妄想、という批判はご遠慮ください
あと【悪魔からの批判】は受け付けておりませんので、よろしくwwwwww. 仏教はこの世の執着から離れて涅槃に至るための教えで
この世で幸せになる教えではないですからね。
この世で幸せに暮らすにはある程度の金が必要ですし
金を稼ぐにも技術が要るわけです
お釈迦様はリアルではそういうことについても詳しくは説かれていたのかもしれませんが。 あらゆる活動は、我が、成したものではない
あらゆるものが、我と、呼べるものではない
ということと
我は、非顕現なる実体である
我は、消失したものであり、論ずることが不可能である
ということは、違うものである
しかし、これを、どちらも、整合性の取れるものにすることはできないが
非顕現なる我は、どこにもない
アートマンなる実在は、どこにもない
これなら整合性がある >>429
この世で幸せにならない
そのようなことなのでは、苦しみから、逃れたと言えなくないですかねえ
金があったら、幸せになるかどうか
まあ、意見の分かれるところですが、普通に、全くなければ、死んでしまうんですか、、、
こういうのが、世の中の常識というやつでしょう ちょっと、待ってください!!
この世で幸せになる教えではない??
それでは、いつ、幸せになるんですか
あー、えっと、苦しみの不在になるんですか? この世で幸せになるには悪いことをせず良いことをしなさいとは説かれていましたね。
失礼しました。 しかしこの世は苦しみであると知り、この世の執着を捨てないと彼岸には行けないですよね。
それが出来ないからこの世で一生懸命仕事したり家庭を持ったりして
儚い幸せを得る努力をするわけです。
しかし仕事も家庭も死を前にして離れるとき、苦しみがあるわけです。
この世の幸せはかくもはかないものです。 >>434
愛情や好意によって、人は、幸せを感じるものである
そうではないのかなあ そうですよ。
しかし金がない男には女に見向きも好意も持たれません。
夫が職を失い出て行く妻もいます。
しかし金持ちには多くの女がよってきます(笑) 病院にいて、思いが湧くのは、過去の思い出であったりする
何気ないことが大切なことである
とわかる
そうして、大切な人に、幸せな思いをさせてあげたいと思う
こういうのが、普通の、感覚であり、その、世間の常識の、金なるものが、何か必要ではあるが、これらの情愛の関係への阻害になるなら、苦しみにもなるような気がする
無常だから大切であり、美しくなるようなもの
それらの、まあ、一期一会なるようなものの中に、幸せが運ばれるものが、仏教であってほしい 原始時代には食料である獲物や果物を捕獲してくる男や戦いに強い男が好意の対象だったでしょうね。 >>436
それは、金が愛されたのであり
あなたは、愛されてないことになりますよw >>438
wwwwwww
なんと、女子というものは現金なものよ 女は子供を産み育てる本能があるから
甲斐性持ちの男を求めるようにできているんですよ。 まあしかし、美味しい焼肉を食べに行くのも
女が喜んでくれるかなあ
と、思いながら行くわけではあるなあ
しかし、愛情とか、好意は、女だけにあるわけではないと思うけど >>441
そうすると、幸せになるには、みんなが、金持ちになれる世の中になればいいのか! そうですよ。
しかし金持ちになっても、老い、病
そして死は免れない。 >>444
まあ、そうだけど、、、
それはブッダでも同じだったし、金があれば、愛情と好意に包まれて、居られるなら幸せに行けそうだけどねえ
まあ、金があれば、っていうのは、違う気がするがwwww 健康な心身は金より勝るんですよ。
だから全財産をなげうっても病気を治すたいと思いますよ。
しかしその健康な心身は必ず衰えたり病んだり事故したり、或いは死によって壊れてしまう。 ある大金持ちが老いたときに
全財産をなげうっても若い頃の体になれるならなりたいと言ったそうです。 >>446
だから、大切にしていること
愛情や好意こそが、大事なことで
金じゃない
まあ、金がなければ愛がないのは
愛ではないwwwww たしかに愛情や好意は人を幸せにしますが
一転して悪意や憎悪にも変わります。
出合った頃は仲むつまじかったカップルも
ちょっとしたきっかけで喧嘩になったりしますよ。 >>449
ここが問題
そう、これが、問題なのですね
こるが、解決されれば
つまり、その、現象の原因が、世の中から消え去れば、幸せになる 快楽にも、苦しみにも囚われない、好意
これこそ、核心ではないかw これをルールとするべきであり、これに反するものを罰するように変えるべきである そこでも金なんですよ。
別れるにしても金でキレイさっぱり別れれるし
付き合い続けるにしても、何か相手が喜ぶようなプレゼントしたりしてなだめるわけです。
動物も餌をくれる人に懐きますよね。 >>453
それは動物本能というもので、人間は、自分が苦しくても大切なものは、捨てないでおこうとするものではないのかなあ それはそうですね。
信じる道や大切な人のために
命をも捨てる人も居ますからね。 愛情が憎悪に変わる
これは、相手から快楽を得ていたものが、うしなわれたからではないですか? 快楽と苦しみの、連鎖があり
これを土台にした愛情や好意
こういうものが、トラブルの原因になっている
この動物本能的なものの、満足により、己が、統制されているような人間
こういうものを、縛るものがあれば、世の中幸せになってかないかな そうだとするならば、感覚的快楽ではない、何によって、愛情や好意が発するべきなのだろう
これが、できれば、ホトケクラスでしょうw 非常に心理的な話になりました
本能的な満足に変わるものが、人間の中にあるのだろうか
それとも、人間は所詮は、快楽と苦痛の刺激に反応しているロボットなのだろうか
もしも、そうなら、猫と人間には、なんの違いがあるのだろう
人間も獣、なのだろうか 愛や好意が、どこから、出てきたのだろう
これが、聖人の秘密ではなかろうか
自他一如により、でたのだろうか
自然にあるものたちの、円なるによって
何らかの洞察によって生まれたのだろうか
そうだとするならば、人間の理解が、大多数が、この、我々というものは、一つである
同じものを生きていると知ることがあれば、世の中が幸運になるのではなかろうか
それは大切なことであるのではないだろうか
大切なことであるなら、人間は、 461.それは生活、人生の問題である。
それは宗教の問題ではない。
なんでか。
人生を否定したものが宗教であるからである。 >>462
あれ?
名無しさんになったの?
まあ、ぼくも、名無しさんだけどw
名称と形態を超えているね
人生を否定する宗教は、何のためにあるのよ まあ、理想的には、迷わず、怒らず、貪らずの完全なる聖人君子だとけど、
冷静に我が身を振り返ると、快楽が阻害されて、イライラしてるねwww 迷いも怒りも、欲するのも、無くなることはないと思うなあ
ほいで、そこから、派生した想念ちゃんも、ずーっとある
そやけど、それに抵抗してることは可能
いかんいかんと
まあ、それか、怒ってるのをスルー
コッチは高度やね 123、ポったんさんは
もう一文追加して書くようにしたら?
なぜなに解析みたいにさw
その意見は、生活の問題である
なぜ、生活の問題か、こういう意味です
生活と宗教は別ものです
そして、人の生活を否定することが、宗教なのです
なぜなら、こうだからです
とかさ 病気で入院したときは、若い体に戻りたいって、まあ、少しは思ったかもしれないけど
それよりも、やり残したことがあるみたいな心境になったけどなあ
普通にしてたことが、すごい価値あることだったんだなあみたいな
やりたいこと、やっておこうみたいな 普段は、なにも、感じなかったようなもの
好きな時に、食べて、話して、動いて、行きたい所へ行くのが、できなくなるわけだし
生活の否定って言っても、生活はしてるでしょうw
いくら、頑張ってみても日本じゃ、金なしで生活できる人はいないんだから 愛情とか好意とか親切とか
そういうものは、ぜったい人の幸福に関係してるはず
お金があっても、それがないと、虚しいだけ
まあ、ぼくは、金もないから違うかもだけどねwwww 渇愛があかんちゅーのは
求める愛情が、アカンてゆーことで
愛情や、親切に触れることがアカンてゆーてないんちゃうかな すべてが、ひとつ、なら
わたしは、あなたであり
あなたは、わたしであり
石はあなたりでり
あなたは石であり
また仏であり
なんかわからんけど、とにかく、同じもの
だから、わたしは、死なない
私なるもの
個別性がないからである 誰でもできる在宅ワーク儲かる方法
少しでも多くの方の役に立ちたいです
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4CX なんか、めずらすく、書いてる人がいると思ったら、広告かいな、、、 無料より怖いものは無い
というのは、やはり、そうなんだろうかね
あー
しかし、すべては、映像のように、実体の無きものである
これらは、空である
空が、その向こうにある
ような、このような、見方も、それはそれで、解決されているものにもなるなあ 既存を目で追うと、似てるけど違うという感じもするけど。
韻のせいかもしれないな。一人では解決できないブレーンド スパークルでも
海外では思い出すことがないのは湿潤な気候のせいだろうか。 >>475
うーーん
何のことやら、わかりません
既存、この、既存が、縁によって起こる
それなら、それには、自由がなく
そして、その、流動に、わたしの快楽や、苦痛が考慮されてるわけでもなく
ぶれーんどスパークル??
ごちゃまぜ、の、統一は、意識の明朗性の、中にあるけれども、それを保持することは、不可能に思えるけども
まあ、話が、分からんないから、変な事書いてるかもね
とにかく、まあ、坐禅の気持ちよさは、温度と湿度によるらしいと内山さんって人が書いてたな、笑う なんちゃって覚者です。本物目指して邁進中
とは言え人生はそんなに甘くない
なんちゃってだろうが本物だろうがそんなものは関係ないらしい
厳しい 生きて学び老いて学び病んで学び最後は死んで学ぶ
それでも分からないなら分かるまで繰り返し学べと
無慈悲に見えるけどこれが真理なのかなと
だけど私のような普通の人間にはあまりに希望がない
絶望からも学べということか 苦諦ですわな。
この世は苦であるという。
諦めじゃなく覚悟ね。 478.悟れば学ばない。
悟れば、実践、修行はしない。
実践、修行は悟れないバカがやることである。 疾風静動走るのが臨在禅と曹洞禅の決点帰結になりえたらということに近い。 が、沈思瞑想するなり、悟りを開くなり、座って休んでいる時間も無駄にすまいと修行する
禅宗もいいよな。問答とかも、史実には残るけど、故事成語や
有職故実を絡めて考える方がシチュエイト ギャプ みたいに面白いかも。問答が
あらゆるシチュエーションで禅体験化する神学社会というか。 縁起によってより、偶然起こることが数学的でなく確かな悟りだろうね。
快楽や苦痛というと先宗の血が混じっているんだろうさ。
僕は軽やかな舞と鈍痛がある宗教体験だったといえる。 >>477
人生の帰結点に死というものがある
花にせよ、ネコにせよ
形あるものは変遷していき、名のあるものは頭脳のにあるのみである
人生が苦しみでしかないのは、思いどおりにならないからであるが、、、
ほんとうの覚者になるのなら、ほんとうの道を見つけて、自己に打ち勝つしかなかろーて
真剣な願望なきなら、、、
まあ、ボクのように迷いが晴れん
なんちゃってになっちゃうぞww >>478
死んで、どうなるのか
だれか知ってるものがいるのかなあ
もちろん仏教では六道輪廻だが
これは、信じることができるのみで、私が、事実確認したものではない
それは、想像の域を出ない
無に帰るというのも、同じである
そうであるとは限らない
なにも、分からない
それが、普通の人間であり
前もって何も分からなものに飛び込んでいくのが、生きていることでもある
絶望は、悟りであるかもしれません、笑 >>479
一切が苦しみである
そして、この、一切は、五蘊
肉体、感覚、感情、本能、知性により
形成されし
これら、構成しているものは、実質、変遷するものであり、本体の認められぬものである
つまり、この、一切の苦しみは、自然の営みなのであるw
覚悟で、乗り切れるなら、それもいいかもしれないが、、、
人間も、そこまで、強くないかもねw >>480
うーーーむ
相変わらず、言い方にトゲがありまくりやなw
悟れば、一切を知るものであるから
学ばないのかねえ
学ぶ、動機が、とうなるかってこと >>481
表現が難しいですね
静の中に動があり、動の中に静がある
映画の映像のように
禅の帰結点は、ここにあるもの
あるものがある
ないものはない
w >>482
日常すべてが、禅になる
そのような、存在は、稀有でしょうね
神様が、もし、いるのなら
禅に生きてるかもしれません、笑 >>483
この世は数学的である
と、昔の偉人は言ってたのですよ
悟りは、数学の世界を、数学であると知ることで、あるかも
しかし、偶然というものは、ない
人生は数学的である
と、いう うーーーむ
高校の数学ですら、皆目理解不能だったのに、数学を語る、なんちゃって
ああ、しかし
中村博士の龍樹は、おもしろいので、悟りを自称する、なんちゃってには、必須の
学習アイテムではなかろーか
と言いながら、1回しか、読んでないが、、、
仏教のエリートコースは、あれでしょうw 人生は肉体と、共にあるものである
であるからに、肉体は老いと疲弊、または、病や死に直面せねばならず
これが、厳しくさせる元である
そして、この肉体の動静
これらに伴って起こりくる、思い
自己を愛するがゆえの、苦しみである
これらは、自然にある
これらの活動は、自己の意図によらず、自然にあるものなのである
縁によってあるのである
私たちは、特別なものではなく、ありふれたものなのである
そして、この、わたしは
実は、分化しているとはいえ、その元を正せば、世界、宇宙の、あらゆるものと、おなじ
おなじ意識を、共有するものである
そういう意味で
わたしは、死なないのである
僧が死んで埋められた
弟子が、あの人は、どうなった?
師匠が
あそこには、夏になったら、草でも生えるかも
という 講談社学術文庫の龍樹は持ってるな
ほとんど読んでないけど >>493
それ、読んでないや
それも、おもしろいのかなあ
中村さんの龍樹は、そうとういいよ
中論も載ってるし >>494
講談社の文庫のも中村元さんのだから、内容同じやつかも
今、原田雪渓さんの十玄談読んでるから
終わったら頑張って読んでみようかな >>495
ああ、ぼくのもってるのも、それやったわw
ごめんごめん
原田さんの本は、タイトル忘れたけど、図書館でかりて1冊だけ読んだかな
井上さんとかと、そっくり
まあ、言葉ではないんだろうけども、概念的に捉えようとするのが、我々
あるものがある
ないものはない
んー、これにハマってるなあ最近は 手をパンと叩いたら音がする
そのように、造られた
それは、わたしの、ものでもあるが、しかし、それは、自然にそうあるのである
髪が自然に伸びたり、呼吸したりしている
心臓は規則正しく、動いている
これらは、わたしに、よらない
もう、すでに、既存である
パンとすれば、そこに、見解は関係なくある
これが、なにゆえに、悟りなのかwwwwww
そこが1番の難問である パンと音は確かにしたのだが
したと思った時には、もう、遅い
もう、どこにもない
どこにもないのは、過ぎたからである
正に幻影のようではある
しかし、この、パン
が、ほんとうに、偽物であり、無かったのか
と言えば、そんなことはない
事実、パンは、パンとして
あるときにはあったのであるw 人間には、感覚と感情
という機能があるのである
この機能を機能のままに六根を解放する
と、説く
そうすれば、この、わたしなる活動体は
おおやけのものである
という
まあ、そうだろう
しかし、なぜ、それが、悟りになるのか
それが1番の問題である 感官を機能のままに投げ出すってのは、
感官のはたらきに引っ付いてる「思い」から外れるってことではないかな
「思い」ってのが、「私する」、「自他とわける」ものだから >>500
うーむ
想像するに
感覚や感情の、その、自然なる働き
それに、あれこれする思念
これらの活動体験が、もし、自然なるおおやけの活動体ならば、、、、、、
うーーーーん
やはり、それでは、感覚なるものからは、解放され難く
しかし、思いや感覚、感情などの、自然なる活動に手放すことは、開放感がある
自由である
うーーーーむ
しかし、これでは、苦しみが無くなることなどありえるのだろうか 「答え」としては、
苦しみがなくなるとか、苦しみをなくすのではなく、
もとから苦しみに実体がない、苦しみは苦しみとして解決してる、されに気付くことって言われるね 知覚や思いをそのままにやりきると、
その知覚や思いの起こってるところ、
事実そのものに触れる体験が起こる
それで、「苦しみのままに実体なく解決してる」もとから迷いなどなかったってことに気付かされる
そういう風に言われてるね
原田雪渓さんとか井上義衍さんの本を読むと 知性、想い
そして、肉体の活動
様々な欲求と、それに伴う、願望の不満による苦しみ
こういったものに、例えば、感覚的解放
を用いる
場合
そこには、意識的になしているものが
媒介者として
登場してしまう
のではなかろうか??
非思慮をするとなると、非思慮をしているものが、ご登場なさるでしょう
そのものの、努力によって、思念が感覚に移動しておる
そして、その感覚世界の、通過、相互の同一性のようなものに開く
すると、この、世界に馴染む
このようなものだろか?
うーーーむ
これは、既に起こっている
と見抜くとして
そこでは、やはり、我なるものの、消失が、起こり来らねばならず、、、、、
難しい問題である 「思量するものをなくそうとする」では
「する者」が無限後退的に生まれ続ける
「無くす」ではなく、実は元から「我」は成立していなかったのではないか!みたいな事実に気付く
「我」が無いままに、「我」として働いてる
「無明 もなく、無明の尽きることもない」みたいな >>505
うおおおおぉ
難しい
我なるものが、元々、ない
と言ってみても
この、活動しておるもの、肉体、情緒システムは紛れもなく
あるのであり
これらの、欲動や、承認欲求により、苦しみが、日々、もたらされている
のである
だから、苦しみを、消すには
この、願望や、欲動などに、沈静を与えて上げなくてはならない
ように思えてくる
しかし、元々、悟っている
それは、我が、なんちゃって覚者の主張したものでもあるがw
とにかく、苦しみは、苦しみのままに解放されているというのは、高度だ まあ、私の書き込みも原田さんの本で読んだことからだから
今、色々やってみてるんだけど、どうにも「うん」と頷ききれないねんな >>507
自然は、自然のままにあり
この、自然と、わたしなるものは、同じく無常であり
私なるものが、何する以前に、起こり来るものは、すでに到来しており
到来したと言ったときには過ぎており
過ぎたものは記憶の中にしかなく
そして、その記憶すら
来るときにはあるのであり、来った時とは、過ぎていくものであり
つまりは、そのような、過ぎてすぎて、動き続け、活動しっぱなしのものである
が!
なぜ、これが、悟りとなったのか
まあ、ぼくも、アホみたいに、ようけ本は読んだんだけどねえ
本を読んで、ハッキリしないから次の本を読んで
ある人に聞いてはハッキリしないから他の人に聞いて
そして、永遠のメリーゴーランドにwwww 508.悟り、か。
釈迦が星を見て悟った、か。何を悟った、か。
第一。星と自分とは同一であること。
第二。自分が存在していなくても、星は存在して行く。
第三。自分が存在していないときに、それを認識する主体とは何か。 >>509
ふーむ
まあ、それ系の気づきもあるね
釈迦の悟りかどうかは、別として
星と我はひとつである
我なくとも、現れるものはある
しかし、その現れは、また、ひとつの意識の上にあるのである
しかして、この、意識空間なるものは、わたしなるものの業により、その世界を、映しているのだとするなら、、、
まあ、どうなのかねぇ
風船玉水晶の、心ちゃん
これに、同じものが生きているのである
同じというのは、映っている意識が、同一なのである
だが、これを知っても、苦しみは消えない 例えば、あなたは、あなたの意識である
と
このように思い込んでいる
まさか、あなたの意識と、別のものの、意識が、全く同一の球体である
などとは、夢にも思わないのだ この発見は、地球は丸かった
以上の
とんでもない発見である 510.。苦しみは消えない、か。
なんでか。
それは、自分と対象との間に差等があるからである。
だからして、その差等を、克服すれば良い。
どのようにして、か。 >>513
差があるからではない
その意識の太陽を、常に、昇らせておくことは不可能であるからである
それは、この世界の認識方法の変化には違いないが、だからといって、個別的生存がないということではない
描かれるキャンバスが、ひとつでも
画家が違うのである
画家が違えば、苦しみがあるものと、無きものがいたりする
つまり差異があるのである 苦しみは滅する。
滅しては生起するのくり返しですわ。 >>515
そうですね
確かに、滅するというか、完全に癒される瞬間もありますね
しかし、それが、奪われると、また、それに比例した苦しみがくると、、、 ゆったりと熟睡している時
あなたの、その、苦しみは、どこにあったというのか
と、マハルシさんが言ったと読みましたが、、、
まあ、そりゃ寝てる時は、何もなかったけども、笑 それ系でいくと
眠りの意識は、起きている時もある
目が覚めると、眠っていないと思っているが
眠っている意識は起きている時もある
この、
まあ、潜在した意識なるものが、目覚めた時にもあることを認識していると、そこに、照準があるときだけは、平安である
これは、さっきの、太陽に発展していく
が、まあ、なんと言っても、これらは
これらも
無常である、、、
ように思える なぜなら、頭くんが、頑張って何かをしているようなこと
つまり、イメージの、認知の問題での、変化などは、長続きしないからなのだ
身体や心は、まあ、情緒や感覚は、頭くんの作戦には協力的ではなく
自己の欲求を高らかに宣言しおって、
苦しみアピールをするのである
まあ、そうでなくなれば、危険なことでもあるから、正常と言えば、正常なのだが、
ひとり静かに、している
温度と湿度の整った部屋で、一人で寝転んでいる
これは、まあ、悩みなければ、幸せかもしれん
笑 まあ、一説によると坐禅の姿勢は、寝転んでいるよりも楽になれるらしいが、、、
しかし、一生、すわっておる、ことはできないし、したものもいないだろうw 人間は苦しみの製造機である。
その製造機を破壊して、滅してしまえば、苦しみが発生しないとか。
その破壊,滅ができないときは、どうするのか。
それが問題である。 >>521
そないな恐ろしいことを書いてはいけませんよw
苦しみは、過度の負担によって起こる
まあ、つまりは、緩んでないから、緊張感をもっているからある
また、アホにされたくないと、頑張ってしまうからある
競争に打ち勝たなければ、よい、嫁さんが、いてくれないとかに拘るから、あるwwww 人はそれぞれ、タイプというものがある
知的で誠実な人
情緒豊かな人気者
協調性があって物静かな人
とか、いろんなタイプがある
こういうのが、まあ、22タイプくらいあるとして、その、それぞれの人が、どこかに、過度の負担をかける
意識の重点が、感覚にあったり、脳にあったり、胸にあったりする
そして、その、重点が、他の機能もカバーしてしまうと、負荷が、どこかに、かかる 気持ちというものは、胸にあるものである
もちろん、胸にある
という人もいるだろう
ところが、気持ちを頭で感じるものもいれば、気持ちを身体で感じるものもいるwwwwww
こういうことをしてると苦しみがくる
重量オーバーを起こしているからである
気持ちというのは、胸にあるのである
昔、小学校の先生が、胸に手を当てて考えてみなさいと言ったが、、、、、、
こういうのが、間違いである
胸で考えてはいけない
考えているのは、もちろん、頭でなければならない
こういうことの自覚がない 本の中の文字の意味を、頭で理解しようと、その整合性を確認しているような人
このような方向で、いく、だけの人
もしくは、瞑想、自覚のみで行こうとする人
どちらも、行けないのであるwwwww
実際の生活の中での自己と切り離して、苦しみの滅尽が、論理的に可能なわけがない
また、何のために、何の目的で、自覚や、瞑想を日常に持ち込んでいるのかを知らずに、盲目にやっていても、瞑想的である時だけに、解放があるものになり、それは、本質なるものを見抜く気づきが、まったく、訪れない
とにかく、知識と体験が、これらが、どっちも必須なのである 仏教の話をしていると
まあ、たくさんのものが、ありすぎて、纏まりが出てこない
が
原始仏教から般若心経、そして、あの龍樹さんの主張、そこから、禅宗、念仏などなどへ
色々派生したと言えど
やはり、根本の根本には、縁起なるものがあり、縁起、そして、それにより五蘊皆空
これから、外れることはなく
これから外れるのは、どこかに、勘違いがあのではなかろうか
しかし、この、縁起にしろ、それによって、五蘊皆空にしろ、イマイチ、ハッキリとした
ものが分からない
ところが、仏教が、分かりにくい原因ではなかろうか、、、、 526.縁起している一形態が人間である。
その縁起の外側に出た人、が釈迦である。
どのようにして、か。 >>527
ふむふむ
確かに縁起のひとつが、ボクである
どのようにして抜け出た?
縁起しているものから、抜け出るものなどありえんでしょうw
一切が、五蘊でしかない
この、五蘊、色、受、想、行、識
以外はない
そして、これらは、いろんな要素が、縁となって仮に成立しているものである
それならば、これらは、縁なのであるから、自己は仮ものであるから
全世界としての、これなのである
これらの、無常なる世界から、解脱したのは、わたしであるが、、、
それは、外に出たのではない
これら、そのもの、を見ただけである
方法は、自己、つめり、現在、自己なると規定されているもの、
普通は肉体とこころ、であるが、つまり、この、体、気持ち、を見ている
気にしている
見つめている
自己を見る
これによって、それを、見たのである
見た時に、我が、外に出るのではない
元々、我なるものが、ないと気づくのだ
我なるものがなきというのは、個別性が、ないということであり、個別性がないというのは、ありとあらゆるものが、繋がりあっている
ということである
そういう意味で、わたしは、死なないのである 生きとし生けるもの
宇宙に存在せし、全惑星、もっと言えば、全宇宙、つまり、並行世界をも含めた、あらるゆ一切を、生きているもの、つまり、顕現せしものの
意識が
これが同一なのである
同一ということは、死なないのである
私であるものが、あなたであり、草であり、犬であり、すべて、同じくの意識に、写しあっているのである ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています