なんちゃって覚者✴気づかない教.2
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悟りと非二元に関しておしゃべりしましょう!
なんちゃって覚者とは、既存の宗教、宗派の教理に適合しないのに、悟った自覚があり、自信もある人たちのことです
気づかないとは、あるがままの事実を取り上げず、そのままにあることです
悟り、非二元、等々に迷いがない人は、ここには用はないでしょう
お花畑、妄想、という批判はご遠慮ください
あと【悪魔からの批判】は受け付けておりませんので、よろしくwwwwww. >>368
ひとつの眼というのは円相のことです
見るもの主体は、見られるもの対象と、全く同じ、ひとつの水晶のようなものの、反映なのです
これらは、それこそ、体感に寄って、つまり、視野の変化によって知られるのです >>369
それは、ひとつに見ようとすることでは達成されないのです
わたしに対するアクションを様々にしていかないといけないのですが、それは、これをこのわうにしたら、こうなると、短期的にできるものではなく
徐々に、変化していき、ある日突然、スコンと、そうなるんです 円相は、「世界」の実相でのそのものであって
それは今のこの様子そのものなのです
食べたり飲んだり立ったり座ったりしてる
怒ったり喜んだり悲しんだりしてる、そのものなんでしょう
だから、「解決済み」なのではないでしょうか? >>370
そうだと思います
ひとつというのは、別れてないってことですね
事実、そうですからw 宝鏡三昧、
この円相という宝鏡に映されたまんま
見るもの見られるものという分裂なしに >>374
事実を、見るには、特殊な修練をしなくてはいけません
そのものを見るというより、視野が変化するのですが、それは付随したものです
真如というのは諸行無常のことですかね >>375
ぼくも、参究中なので、合ってるかは、わかりませんよw
今は、こう感じているというだけですからね
お互い、理解が深まるといいです >>378
この解決済みは難しい問題になりますね
活動している、これが、これしかないのだから、解決しているのだけど、解決しているということを知らない
だから、解決していませんwwww >>380
そのとおりです
分かれていないのですw
そのまんまなのです
宝鏡というのは意識のことで
その意識は、あなたと、わたしと、まったく同じなのです
完全に同じなんです
分かれましてないんです
水槽に魚が泳いでて、その、水槽の水みたいなもんです、 こちら側をわたし
あちら側をあなた
このような視野が、分裂してる
ところが、この、わたしとあなたは、同じ意識の下で、現れたり消えたりしている
この意識は、全体の意識なのです
その、全体の意識は、生きているのですが、永遠です
しかし、これを生命というのは、どうなのか
生命の生じて滅していく、その、スペース
それが、意識です
そして、その、一つの円を、様々な角度から、我々が個人的に表相させたものを生きている
これがブラフマンです
円相です >>384
解決は実質的にあるものです
その、質感は、静寂です 解決は解決を知らない
そのものはそのものを知らない
なるほど… 386.意識、か。それは心理学である。それは宗教になる、か。 >>388
真如は、そのようにあるかもしれませんね >>389
ポッタン師って123ひふみ、とーさんでしょw
宗教っていっても様々だから、何が宗教かなんて、よくわからんし
神仏の信仰が日本では宗教なんだから、その意味では、意識の同一性は、宗教ではないかもしれないね 神仏信仰で、こころが洗われる
このようなことで、受容が起これば、苦しみに悩まなくなるんだから、
これも、また、安心になるすばらしい方法
ようするに、煩悩
煩う気持ちが静まればいいのさwwww 仏とは何か。糞をかき取るヘラ、である。
それで、綺麗にになる、という問題である。 >>394
仏とは、くそかきとる、ヘラである
だから、綺麗になる
なんの、おかしな話でもあるまいてよ グルジェフさんの説く
思考、感情、動作、本能、性の諸センターの活動の観察、正確なものを、捉えていくこと
これは、様々なことに気がつくことができる
まず、普段、思考と思っていたものが、感情センターの働きである
次に、感情センターの働きと思っていたのが、本能センターの働きである
または思考センターが動作センターで動く時もあるし、、、
そして性というのは、愛情やら、そういう感情的なものとは違い、独立したものであるとか
このような観察の積み重ねである
これは、自分で、その、動きを見ているしか方法がない
つまり、自分で自分の機能の、まあ、グルジェフさん流に言わせれば、機械の、働きを注視することなのである
そして、この注視、こそ、智慧である わたしの注視が、わたしの機械を観察していくには、この、注視は、独立しなければならない
つまり、この意識は、発達しなければならないし、また、あらゆるものと、分離していなければならない
思考に没頭していれば、普通の人間は、思考しているだけである
しかし、この、観察を行っているものは、思考しながら、思考している己の、他のセンターを同時に起動させて置かなくてはならない
つまり、その時の姿勢や、感情の、流れと、思考とが、あり、また、かつ、この、わたしが、今、思考しているということを、見ているものが存在しているのだ 観察を続けていけば、苦しみ、つまり心理的な不安や恐怖、怒りや不快感などなどは、どういう状況において発生しているかに気がつく
これを一般に平均的なものとして、教えることができないのは、ある人は、そうでも、人が違ったら、スイッチが変わるからである
それらは性格や、環境の影響で、人間の内部で特殊な構造を形成しており、これが、人間の様々な場面における決定を生んでいるのである 一見すると、わたしの、機能を観察して、明確にしていくことは、仏教とは、何の関係性もないように思えるかもしれない
しかし、これは、まったく似ている
瞑想と、よく似ているのである
しかし、この、観察は、いつ、実行するかは、環境に左右されず、気がつきさえすれば、いつでも、どこでも、やれるのである
わたしが、今、書き込みをしていたら、それを全センターで感じること
これによって、いままで、見ていたものが、己ではなく、本能や感情の、反応の累積であると知ることができる
そして、想いの連続を、断ち切り、形成された、心理的苦しみの、傾向性、各、個人、個人の、魂の不純物の、純化を成すことができるのは、この方法のみであると思われる
とにかく、実行してみてば、様々な、新たな、宗教的理解が、生まれてくるものであり、しかも、コツさえ、分かれば、やり方は簡単である これらの研究において、普通の学問的研究と違うところは、この研究は、文字による理解ではなく、実質的な理解である点である
このことが、実質、この、私と呼んでいる
この、わたし!
を基盤に据えて、理解が生まれていくのだ
もちろん、それは、知識がなければ不可能であるわけだが、しかし、その知識は、実際に生身の活動体である、この、思考、感情、動作、本能、性の諸センターからなる
肉体精神機能の上に描かれている、理解なのであって、決して、字義の理解ではない
実際の、この、わたし、の、諸活動における、無常、無我の理解なのだ
このような理解が生まれると、ある人間が主張していることが、わたしの中の、どの点のことを指しているのか、わかってくる
例えば、魂、アートマン、ブラフマンというのは、イメージとしてあるのではなく
実質、胸と意識と、顕現のことを指していふ
などなど、の理解は、わたし自身の機能を通して、理解されるものなのである
それをバカどもは、この、私自身を抜きにして、本の中の、論理性、、、
辻褄があうあわない、と、批判するが、
それは、その、理解が、知識と、洞察の、両者の働きの上にないから
まあ、単純に言えば、何の、実質的理解もしてないからなのだ これは化学や、文学の、研究ではなく
私自身の、研修であり、それらを、通して、私自身が、明確に、実存的な解決を見出すものである
想いによる解脱
想念をなくす
まあハジ的には、見ることを止める
などという話は、想念とは、自己の中で、どのようなものであるかを
見ることとは、どのような働きのことであるかを知らなければ、分かりようがないのであり
それらは、宗教的理解は、読書と瞑想の中から生まれてくるのであり
それも、その、探究の、意識、つまり、四六時中、いつでも、気にかかって仕方がなく、夢中に、それを中心に、邁進していることが、何十年と重なって、
突如、わかるのである 仏教の存在は、私にとって、この、わたしのニルヴァーナの理解にとって、その洞察が、非常に素晴らしいものであるからいいのだ
つまり、この、諸活動が、因縁によって起こっており、わたしなるものの、実体がない
ということが、実質の、この、ここで、見抜かれていなければいけない
本に書いてあるのが、正しいか、正しくないかは、他の本との比較もあるかもしれないが、
当然、わたし自身の、瞑想からの理解が、中心になければならないのである
静寂というものも、それである
なぜ、静寂が、慈悲に繋がるのか
このようなことは、論理的な話ではなく
実際の話なのだwwwwwwwww
わかったかいな? 本能的欲求
食欲、性欲、睡眠欲
それから心理的な欲求
愛情欲求、承認欲求
これらは、どの人間も、持っている
しかし、この、欲する機能が、わたしではないことは明らかである
これは、肉体精神の機能である、自己保存欲求と言えるものだろう
しかし、この、例えば、食べることは、実際に、毎日の行為の中にあり、その時々に、この欲する機能が、わたしの、感情的を刺激して、そして、動作を促す
こういうことが、わたしの意志ではないのは、明確である
わたしの意志は、もし、あるなら、それらの、動物的反応を、超えたものである
一般に理性などと呼ばれている、冷静な思考と、行為
食べたいと欲求があって、それから、それを判断して、食べるか食べないかを決める
この決める主体、これが、我である
が、この、わたしは、欲求と連動した働きと、常に、敵対しているものである
この、冷静な注視が、わたしの、活動全般を、見ている時
わたしの思いは、欲求であると知る
食欲が阻害された→イライラ
おいしい海鮮料理で満腹→よろこぶ
などという単純なもの
貶された→イライラ
褒められた→よろこぶ
これらに付随した感情的な思い
この、想いが、わたしだと思っているが
こんなものは自然反応である 外的環境によって、いとも簡単に操縦されている、我が想念
これが胸の中で、様々な、感情の渦から、沸いているわけだが
この、流れに、わたしの、意志が、完全にくっついてしまっているのである
同一化
自己に同一化すること
これを、止めることが、表面的な感情の渦の、深みにある慈悲に触れさせるのである
この悲しみに似たものは、わたしの動物的反応から、離れて、高度な人間的情緒を発現する
澄んでいて静寂だが、これには、感情的な要素があるのである
それを体験なしに言葉だけで、理解していくことは、不可能である
なぜなら、今までの経験に、言葉が束縛されているから、イメージが固定化されているからだ
わたしは知らない
知らないから、知ることができるのである
しかしもちろん、概念や理論も知らなくてはならないことではある
一方に傾きすぎれば、進歩はないと、グルジェフさんは説いた
もしも、欲求に基づいて、すべてが、起こるのなら、自由はない
しかし、人間は、その、想念を、超える、慈悲、もしくは、忍耐、という力を、用いることができるのである
もちろん、それだって縁によるわけだが、どのような縁によってか、それを知ることができたのである
自己同一の解除は、止まることであるが、いくらそれを説いてもうまくいかない
これもグルジェフさんの説である
それ以前に、わたしと思っているもの、つまり、各センターの機能の観察からなる
自己の研修の長年の経験が、わたしの、内的状況を、明らかにして、その、仕組みを納得している必要があるからだ
つまり、ここにおいて、自分を覚えていること
自覚と
その自分の感情的反応の、動物的側面の、奥にあるものに触れていくこと
想念からの解脱
が、実現していく道筋ができてくる
欲することからの、距離があるからである
欲望が、ないわけではなく、欲望に対して、それらの、自然反応ではないものが、当たることによって、わたしの活動が、変化を生じていく
そこで、理解も様々に起こる
まあ、これは、違う道だが、しかし、まあ、なかなか、効果のあるものである 374 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/18(月) 01:00:22.45 ID:lZTMGpTQ
中観とか唯識とか、いろいろあるけど
原点は原始仏教ですよね。
中観や唯識を学ぶに当たっても、原始仏教から逸脱していたら疑わしいと思う。
龍樹菩薩も原始仏典を「聖典」と呼んでいたように
帰る場所が原始仏教だと思いますね。
394 名前:神も仏も名無しさん[sage] 投稿日:2018/06/18(月) 07:23:14.30 ID:lZTMGpTQ [3/9]
麦ちゃん、俺は180で75キロのボクサーのような筋肉質で
しかもチンチンがデカい(笑)
400 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/18(月) 07:46:16.94 ID:lZTMGpTQ
麦ちゃん僕のレスは無視ですか?
今朝なんてビンビンに勃起しててパンツの穴から飛び出してたよ。
。ρ。
ρ  ̄ ̄ ̄ ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
m
C|.| /⌒⌒⌒ヽ/~ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ
/⌒ヽ⌒ヽ___ | ∴ヽ 3 )
./ _ ゝ___)(9 (` ´) )
/ 丿ヽ___,.───|彡ヽ ―◎-◎-|
_/ ) ( Y ̄ ̄ ̄ ̄)
(__/ \____/ まったく、暇な日曜日じゃなあ
暇がないない、ひとりで、のんびりしたい
とか、思ってるのに、暇になると、今度は、なんか刺激が欲しいとかねえw しかし、この、覚者というのは、なんなのだろうね
覚醒者の略か
そのような人は特別な存在で、我々とは違っているようである
そして、その、覚者なる人々が、たくさんの教えを残してきた
我々は、その教えに触れて希望に満ちる
ところが、その、希望を現実のものにすることは、とてつもない話であり、ほとんどの人には不可能である
そうなると、人類みな幸せになることが、ありえなくなってしまう、、、
うーん、もうちょい楽勝なものがあったら、みんな、人を叩かなくなるのだろうかね
謎よのお >>407
こういう人をアホにするようなものは
よろしくありませんよ
まあ、ぼくも、大したことありませんから、人のことを言ってはならんのですがw 人をアホにすることじゃなくて
彼自身の自画像ですから(笑) >>411
自分で投稿したのかな、、、
かわっとるのお なぜ、彼は、あのように、皆から、言われているのだろうかね、、、
まあ、まあ、なんとなく、オレって凄いんだよ
っていう感じからなのかね
仏教の知識は凄そうだけど、ぼくは、あんまり知らんからなあ そうなんですよ(笑)
幼稚な人が「俺の方が凄いんだぞ」と言うのと一緒です(笑)
ムシキングの世界観です。
このカブトムシはあのクワガタより強い!俺の勝ちだ!
みたいな(笑) >>414
wwwww
まあ、自分も、そんなところがあるのですが、しかし、純粋な性質ではありますね
なんらかの理解を得たのかなあ
まあ、人を、救いたいがための、ものではなく、人を叩くためのものは、いかんですか 何も分からんわけですな
何か確かなものが、あるように思っても
結局は、何かに否定され
しかし、まあ、人間は何か縋るものが必要であるから、宗教には、意味があるのかも
神様、仏様
もしくは、彼岸の道
しかし、まあ、彼岸におれば安心なのかなあ
消失したもの
消失しておることか、、、
考えんことか
なんか、到達らしきものは、ないのかもね 彼岸は論理的な洞察を越えるので考えても無駄ですが
この世については考えることが必要でしょうね。
考えないではただの馬鹿ですから(笑) >>417
この世について考えても、答えは、明確なものがありませんよw まあしかし、ルールは守らなくてはなりません
それが、真理だからではなく、ルール違反者には、世間の鉄槌が来るからw 例えば一切皆苦について考えるのはいいでしょうし
無常や生老病死について考えるのもいいでしょう。
ブッダが説かれた法について考えるのはわたしも現実に照らし合わせて
やっぱり正しいと納得することがままあります。 真理を説くものは、たくさんいて、
書籍もたくさんあり
なんなら集団になって真理なるものを明らかにしようとしている人も
しかして、それらの人々が、それぞれ、流派のようにあり
批判し合い、まあ、コッチコッチとなw
こりゃあ、まあ、もう
本当というものは、何なのか
これからして、わけがわからんw >>422
世の中が、苦しみに満ちている
これを無くすことが出きる
なぜ、みんな、なくさないのか 思うに、世間の常識なるもののせいではないだろうか? 世間のルールに歪みがあり、それが、人々の幸福に繋がるのではないのに、実行しているのが、我々、あほうではなかろうかw その前に、人々、みんなが、笑顔でいられるようにあるには、何が大切なことであるのかを、誰か確定させた者がいるのだろうか 普通は、それが、釈迦やキリストの教えであってほしいのだが、、、
しかして、釈迦やキリストの教えの信奉者たちは、争い、人を傷つけることもある
これをどう考えるか
つまり、仏教と名乗っても、釈迦の教えに反するものたちなのか
それとも、仏教は、人を幸せにするためのものではないのか 今の世の中で、幸せにある人は、
どのような信仰をもっているのだろう
その、幸せにあることが、みんなに伝わらないのは、何が、阻害しているのか 仏教はこの世の執着から離れて涅槃に至るための教えで
この世で幸せになる教えではないですからね。
この世で幸せに暮らすにはある程度の金が必要ですし
金を稼ぐにも技術が要るわけです
お釈迦様はリアルではそういうことについても詳しくは説かれていたのかもしれませんが。 あらゆる活動は、我が、成したものではない
あらゆるものが、我と、呼べるものではない
ということと
我は、非顕現なる実体である
我は、消失したものであり、論ずることが不可能である
ということは、違うものである
しかし、これを、どちらも、整合性の取れるものにすることはできないが
非顕現なる我は、どこにもない
アートマンなる実在は、どこにもない
これなら整合性がある >>429
この世で幸せにならない
そのようなことなのでは、苦しみから、逃れたと言えなくないですかねえ
金があったら、幸せになるかどうか
まあ、意見の分かれるところですが、普通に、全くなければ、死んでしまうんですか、、、
こういうのが、世の中の常識というやつでしょう ちょっと、待ってください!!
この世で幸せになる教えではない??
それでは、いつ、幸せになるんですか
あー、えっと、苦しみの不在になるんですか? この世で幸せになるには悪いことをせず良いことをしなさいとは説かれていましたね。
失礼しました。 しかしこの世は苦しみであると知り、この世の執着を捨てないと彼岸には行けないですよね。
それが出来ないからこの世で一生懸命仕事したり家庭を持ったりして
儚い幸せを得る努力をするわけです。
しかし仕事も家庭も死を前にして離れるとき、苦しみがあるわけです。
この世の幸せはかくもはかないものです。 >>434
愛情や好意によって、人は、幸せを感じるものである
そうではないのかなあ そうですよ。
しかし金がない男には女に見向きも好意も持たれません。
夫が職を失い出て行く妻もいます。
しかし金持ちには多くの女がよってきます(笑) 病院にいて、思いが湧くのは、過去の思い出であったりする
何気ないことが大切なことである
とわかる
そうして、大切な人に、幸せな思いをさせてあげたいと思う
こういうのが、普通の、感覚であり、その、世間の常識の、金なるものが、何か必要ではあるが、これらの情愛の関係への阻害になるなら、苦しみにもなるような気がする
無常だから大切であり、美しくなるようなもの
それらの、まあ、一期一会なるようなものの中に、幸せが運ばれるものが、仏教であってほしい 原始時代には食料である獲物や果物を捕獲してくる男や戦いに強い男が好意の対象だったでしょうね。 >>436
それは、金が愛されたのであり
あなたは、愛されてないことになりますよw >>438
wwwwwww
なんと、女子というものは現金なものよ 女は子供を産み育てる本能があるから
甲斐性持ちの男を求めるようにできているんですよ。 まあしかし、美味しい焼肉を食べに行くのも
女が喜んでくれるかなあ
と、思いながら行くわけではあるなあ
しかし、愛情とか、好意は、女だけにあるわけではないと思うけど >>441
そうすると、幸せになるには、みんなが、金持ちになれる世の中になればいいのか! そうですよ。
しかし金持ちになっても、老い、病
そして死は免れない。 >>444
まあ、そうだけど、、、
それはブッダでも同じだったし、金があれば、愛情と好意に包まれて、居られるなら幸せに行けそうだけどねえ
まあ、金があれば、っていうのは、違う気がするがwwww 健康な心身は金より勝るんですよ。
だから全財産をなげうっても病気を治すたいと思いますよ。
しかしその健康な心身は必ず衰えたり病んだり事故したり、或いは死によって壊れてしまう。 ある大金持ちが老いたときに
全財産をなげうっても若い頃の体になれるならなりたいと言ったそうです。 >>446
だから、大切にしていること
愛情や好意こそが、大事なことで
金じゃない
まあ、金がなければ愛がないのは
愛ではないwwwww たしかに愛情や好意は人を幸せにしますが
一転して悪意や憎悪にも変わります。
出合った頃は仲むつまじかったカップルも
ちょっとしたきっかけで喧嘩になったりしますよ。 >>449
ここが問題
そう、これが、問題なのですね
こるが、解決されれば
つまり、その、現象の原因が、世の中から消え去れば、幸せになる 快楽にも、苦しみにも囚われない、好意
これこそ、核心ではないかw これをルールとするべきであり、これに反するものを罰するように変えるべきである そこでも金なんですよ。
別れるにしても金でキレイさっぱり別れれるし
付き合い続けるにしても、何か相手が喜ぶようなプレゼントしたりしてなだめるわけです。
動物も餌をくれる人に懐きますよね。 >>453
それは動物本能というもので、人間は、自分が苦しくても大切なものは、捨てないでおこうとするものではないのかなあ それはそうですね。
信じる道や大切な人のために
命をも捨てる人も居ますからね。 愛情が憎悪に変わる
これは、相手から快楽を得ていたものが、うしなわれたからではないですか? 快楽と苦しみの、連鎖があり
これを土台にした愛情や好意
こういうものが、トラブルの原因になっている
この動物本能的なものの、満足により、己が、統制されているような人間
こういうものを、縛るものがあれば、世の中幸せになってかないかな そうだとするならば、感覚的快楽ではない、何によって、愛情や好意が発するべきなのだろう
これが、できれば、ホトケクラスでしょうw 非常に心理的な話になりました
本能的な満足に変わるものが、人間の中にあるのだろうか
それとも、人間は所詮は、快楽と苦痛の刺激に反応しているロボットなのだろうか
もしも、そうなら、猫と人間には、なんの違いがあるのだろう
人間も獣、なのだろうか 愛や好意が、どこから、出てきたのだろう
これが、聖人の秘密ではなかろうか
自他一如により、でたのだろうか
自然にあるものたちの、円なるによって
何らかの洞察によって生まれたのだろうか
そうだとするならば、人間の理解が、大多数が、この、我々というものは、一つである
同じものを生きていると知ることがあれば、世の中が幸運になるのではなかろうか
それは大切なことであるのではないだろうか
大切なことであるなら、人間は、 461.それは生活、人生の問題である。
それは宗教の問題ではない。
なんでか。
人生を否定したものが宗教であるからである。 >>462
あれ?
名無しさんになったの?
まあ、ぼくも、名無しさんだけどw
名称と形態を超えているね
人生を否定する宗教は、何のためにあるのよ まあ、理想的には、迷わず、怒らず、貪らずの完全なる聖人君子だとけど、
冷静に我が身を振り返ると、快楽が阻害されて、イライラしてるねwww 迷いも怒りも、欲するのも、無くなることはないと思うなあ
ほいで、そこから、派生した想念ちゃんも、ずーっとある
そやけど、それに抵抗してることは可能
いかんいかんと
まあ、それか、怒ってるのをスルー
コッチは高度やね 123、ポったんさんは
もう一文追加して書くようにしたら?
なぜなに解析みたいにさw
その意見は、生活の問題である
なぜ、生活の問題か、こういう意味です
生活と宗教は別ものです
そして、人の生活を否定することが、宗教なのです
なぜなら、こうだからです
とかさ 病気で入院したときは、若い体に戻りたいって、まあ、少しは思ったかもしれないけど
それよりも、やり残したことがあるみたいな心境になったけどなあ
普通にしてたことが、すごい価値あることだったんだなあみたいな
やりたいこと、やっておこうみたいな 普段は、なにも、感じなかったようなもの
好きな時に、食べて、話して、動いて、行きたい所へ行くのが、できなくなるわけだし
生活の否定って言っても、生活はしてるでしょうw
いくら、頑張ってみても日本じゃ、金なしで生活できる人はいないんだから 愛情とか好意とか親切とか
そういうものは、ぜったい人の幸福に関係してるはず
お金があっても、それがないと、虚しいだけ
まあ、ぼくは、金もないから違うかもだけどねwwww 渇愛があかんちゅーのは
求める愛情が、アカンてゆーことで
愛情や、親切に触れることがアカンてゆーてないんちゃうかな すべてが、ひとつ、なら
わたしは、あなたであり
あなたは、わたしであり
石はあなたりでり
あなたは石であり
また仏であり
なんかわからんけど、とにかく、同じもの
だから、わたしは、死なない
私なるもの
個別性がないからである 誰でもできる在宅ワーク儲かる方法
少しでも多くの方の役に立ちたいです
検索してみよう『ネットで稼ぐ方法 モニアレフヌノ』
4CX なんか、めずらすく、書いてる人がいると思ったら、広告かいな、、、 無料より怖いものは無い
というのは、やはり、そうなんだろうかね
あー
しかし、すべては、映像のように、実体の無きものである
これらは、空である
空が、その向こうにある
ような、このような、見方も、それはそれで、解決されているものにもなるなあ 既存を目で追うと、似てるけど違うという感じもするけど。
韻のせいかもしれないな。一人では解決できないブレーンド スパークルでも
海外では思い出すことがないのは湿潤な気候のせいだろうか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています