なんちゃって覚者✴気づかない教.2
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悟りと非二元に関しておしゃべりしましょう!
なんちゃって覚者とは、既存の宗教、宗派の教理に適合しないのに、悟った自覚があり、自信もある人たちのことです
気づかないとは、あるがままの事実を取り上げず、そのままにあることです
悟り、非二元、等々に迷いがない人は、ここには用はないでしょう
お花畑、妄想、という批判はご遠慮ください
あと【悪魔からの批判】は受け付けておりませんので、よろしくwwwwww. 十牛図は、
もとから仏法丸出しなのに
わざわざ「法」とか「悟りの牛」とかたとえて目標にしてたけど
丸出し仏法に気付けば兎を捉えたあとの罠や魚を捉えたあとの漁網みたいに不要なんだよってことかと >>290
救いの事実はあるでしょう
しかし、それに対して、自我は無自覚なのです
だから、惑うのです
だから、修行するのです
だから、道があり、説いたのです
なにか、この、リアル世界の完全性とか、そういうものではありません
たぶんねw >>291
抹消は結果としてなってくるのだよwww
先生は囚われている! >>292
真っ白な円がありますよね?
その、真っ白な円のあとに、世界が返ってくるのは
ようするに、空であるわたしが、生きてあるここで、わたしである
つまり、元々とは違うのですwww
悟りがいらんと言ってるわけではないのですw >>293
「リアル世界」とは?
我々がそうだと思ってる「世界」は「実在」なのか?
って疑問ですね >>296
リアル世界は、実在はしないのです
しかし、今、ここで、ある、それは、夢としてのそれは、確実にあるのですw
そのものの、本体、つまり、裏側というのか、実体的にあるわけではないのです
しかし、そういうのは神秘体験が絡むんですってwwww
絡むの!笑
だから科学的にやってても、無理なのw 292.294.
仏法丸出し、丸出し仏法、か。
そんなものは存在していない。 しかし、その、
元々という言葉の意味を、どこにもっていくかで意味が完全にかわってくる
元々、つまり、不生の地点
と
元々、迷っていた地点
これらの、どちらにしても、なき地点
なきもなき
戯論なき
それが、帰ってきたもの??
かもしれない
想像ではww 299.
存在、か。
月と雲とは同時的存在である。
月だけを抽象することは価値がないことになる。
なんでか。
その両者の比較論が存在論であるからである。 >>301
比較論てなんよ、比較論てww
論好きやなあ、笑 雲がかかってもかかってなくても
月は何も変わらず光ってるよ
雲が取れれば光が現れるだけ 月自体を「本覚」、
月の光りに気付くことを「始覚」っていうんかね >>304
自分が月だった
つまり、自分がいなかった
月が、あったのだった
が、本覚
月が目の前にあることに気がつくのが、視覚
かもね、、、
まだわかんないや そういうのもぜんぶ、ないところが、真の悟りでしょうなあ
本覚とか、視覚とか、、、
まあ、なんかないと人は納得しないからねw ぜんぶ言葉だからね
指してる所に気付くための道具ってことだろうね >>307
そう
気づいたら
一度気づいたら
絶対に
忘れることはない
が、妄想して、たどり着けなくなる期間が、必ずあるだろう
あるだろう
掴むだろうあなたはw
現れたものも斬れ 現れたものは、美しくて魅惑されたのだ
しかし、それが現れたのは
智慧が働いたからなのであり、仏になっていたからなのである
練習しなくては、いけないのである
練習するのが、仏の道を歩むことなのである
全く難しくないのである
気づいたら、難しくないのである
新たな囚われに捕まらない限りはね、、、
美に魅せられたら、いかんのである、笑 私は掴んでしまう
苦しむ亡者が目の前の救いの糸に飛び付くように 気付いたこと、救われたこと、気持ち良くなれたこと
全部「自分」が経験して、「自分」がさらに求めている
「求めない」も「自分」がやってる 「仏になろう」としてるのも「自分」である
「自分」が救われようとしている
「捨てよう」としてるのも「自分」である
捨ててまた「自分」がどうにか良くなろうと貪っている >>310
体験を記憶して、その、自己と沈黙に分化させてからの、自己の目指す沈黙への、同化と、自我活動、つまり、意志の停止は違うが、一度、その状態を経験すると、そーなるのだwwww
自分は知っていると
これが、新たな囚われなのである >>311
そうです
そうなので、体をリラックスさせて、頭に浮かぶことを、放ったらかしにしておくのが、いいのですよw
悟ってやるうううう
と、自我活動満点はアカンのですw
自然は、わたしが、求めてないとき、現れてくるのだし、仏も同じようなものなのです
諦めて受け入れることが、手をつけないでいることであって、手をつけないでいようとすれば、おかしくなる
しかし、また、諦めるというのを自暴自棄になることと勘違いしても、おかしくなるw
透明なんです >>312
そうなんです
そのトラックに必ず、引っかかるのですw
なぜなら、自我が沈黙して静まった瞬間の体験が、あまりにも美しくて
すぐに自我が起きて、掴まえた
からなのです
これだ!
これだ、これだ!
とねw ここでは、沈黙と同化した私が、残っていて、自然は、わたしが、あるものの上にある
から
そそで、残ってるのです
わたしが静まったけど、残っている
だから、無我、無我となるのですwww
ムガムガと魔が指すのです
ここで、バチコン叩かれると落ちた人もあるのですwwww
あ、あるものがある
あるがままに
流れている作用している、そこに、は、自己がないという認識もないのですwwww だから、普通の人が叩かれても意味ないのですwwwww
感覚に帰ることは、無我からの、それ
なので、修行してた人の限定の話なのです
つまり、臨済が棒で叩かれて、悟ったと言っても、それまでに、何年間も寺で修行した末の話なのです
先輩が様子を見ていて、コイツ、何かを掴んだな?
と見抜いて、師匠に会ってこいなのですw
それをすっ飛ばして、感覚、感覚、というから、わたしが、体感世界に飛び出すことと勘違いして騒ぐのですwwww お釈迦様が、やれることをやりつくして、苦行では悟れないと見抜いた
そして、木陰で休んでいた
ふっと夜空を見上げてみたら、明けの明星が、澄んでいる
その時、落ちたのですw
悟ったのですw その体験の以前に、無念無想の境地という、まあ、言うなれば、普通は悟りとされている地点にまで、高められていたという前提が、あるのですよw
つまり、諦めていたのですよ、もうw
それを、何もしないで最初から、お茶飲んだらうまいやろ?
とか、言ってるのが、
インチキだと、みんなが、口をそろえるのですwwww なんだ、最初から仏じゃないか
と
しかし、ここで、みんな救われてます
と
真実を述べても救われないことを見抜いていたので、この世界は苦しみである
と述べて
そこから逃れるには、愚痴、怒り、貪りを離れていなさいと、述べたのですw
そして、あるがままでよいとは、述べなかったのですwww しかし、ほんとうの真実はと言えば
この世界は美しいものだ
と、お釈迦様も、言ったのです
美しいとね あるがままで、もうすでに悟っている
というのが、ほんとうのことなのです
爆笑w
しかし、そういっても、伝わらないから、しかたなく、静慮しなさいとか、見返りを求めずに奉仕しなさいと、聖者たちは、述べたのです
よくぞ、
めんどくせーーーー
と、思わなかった、、、
のは、
やはり、聖者だからでしょうwww 結局、自演の証明によって、
まことの言い分はなくなった 「覚者」とか「悟った人」とかをよそに見てる
どこかに求めてるのではどうにもならないんじゃないかな
迷いとか無明とかそういうのは自分が引っ付けてるものだから
なんとかするための師匠を探すってのならわかるけど >>326
何をいう
覚者とは、オレ、のことではないかw
なんちゃってww >>329
わたしは悟った
それで悟りの問題はなくなった
人生を生きようw 331.
人生を生きない、が悟りである。
されば、どうするのか。
涅槃である。
バカは死んで、涅槃となる。再度、生きることはない。
何かの読みすぎである。
大乗仏教は、そうは言わない、が。 >>330
なんちゃって覚者は、人生、うまくいかないので悩んでますよwwwww >>332
涅槃である?
なんか文章がイマイチ理解不能
もうちょい丁寧に描いてよ
安楽の境地にあるなら、そこで、冒険してればいいでしょう
まあしなくても、いいけどもw 読みすぎというが、何の話だ?
なんちゃって覚醒をしているオレは、悟っているが、だれにも、話が伝わらんのだ
なぜなら用語や、文章力や、コミュニケーション能力が不足しているだけだw
読むとかやるとかは、方法なのだ
方法の先には、元あるものがある
元々あるものが涅槃であり、それが空なのだ
しかし、これを、ある
と書くと
ある
という言葉は間違えている!
そのようにして難しいのだw
そこにあるのが難しいのではなく、そこに言葉が行くことが、できないのだ
?
んー、ちゃうかもしれんがw バーヒヤの話の最後がいい
そこには月も太陽も輝かずから
から
空という
ガランとして、なにもない
なにもない、も、ない
その中に、全世界、個人がひとりある
しかし、このひとりは、人ではないwwwww 涅槃は、全てを捨象すれば良い。簡単である。
よってして、やることが、なくなる。
閑人である。人ではない、か。
自己を忘れる。道元。
そこの到達から、どうするのか。そこが問題である。
そこで悩むのがバカである。 >>337
なかなか鋭いなあ
捨像
それいいね
(งД)งシャー!
それからどうするのか、そこで悩むのがオレではないかwwwww
することがない、、、
これ以上ない
あとは生きるしかないではないか? 338.
生きることは生活の問題である。
涅槃は宗教の問題である。精神的な一部の問題である。
それは生活を捨象した問題である。
あとは生きるしかない。生活するだけのことである。かも。 >>339
生きることの、苦しみ
これには様々なものがあるが、その問題をすべて精神的に解決するもの
それが智慧であり、悟りである
と、こう思う
肉体的な苦しみ、精神的な苦しみは、これは、自己ではない
自己がそれと、共にある
と感じるから、離れられないのではないか
出来事は、向こうからやってくる
わたしの、反応も勝手に起こる
まあ、習慣やら性格もあるのだろうが、それだって、生まれつきのものだ
自然のものだ
ある凝り固まった信念、正義をもつものは、かならず他者を、苦しめ、その、苦しみによって自らも苦しんでいるように、見える
苦しみを滅するなど、不可能であるように思えるが、それは、苦しみは、すべて、向こうからやってくるからである 現実的な苦しみから、解除されないとするならば、生きてある、ここは、すべて苦しみである一切が皆、苦である
というものは納得がいく
であるか、生きてあるここで、苦しみがなくなることは、ないということになる
では、なぜに、苦の滅尽が可能だったのか
それは、生まれてないわたしというものへ、回帰したからではないか?
不生
これは、この、現れたる現象界に、ある、すべての苦しみは、あるが、その苦しみは、すべて実質ないもの、仮想のもの
ということかもしれない
この、実質的には、ないものである
ところへ沈殿して行く瞑想
この世界から、まったく、離れ去った地点にいることで、苦しみがない
ということではないだろうか
その地点というのは、一切の事柄の滅した地点であり、そこから、この苦の世界を、切り捨ててしまうから、苦しみがないのではなかろうか?
まあ、また混迷してきたな 苦しみがあり、それゆえ、楽しみもある
このようなシーソーゲーム
このようなものからオサラバしなければならない
なにしろ、苦しむことが多いのだから
この世界で起こる、様々なことがら、を、滅した地点から切り捨てて行く練習、これを、していくことだろうか?
しかし、苦しみはある
苦しみはあるということを、すべてが、苦しみであるということを受け入れた上で、この苦しみを遠ざかった滅、の、地点へ揺るがなく、移行していくこと、
そして、その、完成によって、もはや、完全に、世界の苦しみと、分離して、滅、そのもの、の、世界と同居することで、
苦しみが、そのままあっても、それが、もはや、わたしの心中ではなく、他ごとのようになってしまうこと
そのようなことが、あったのではなかろうか
まあ、わからんが、、、 様々な出来事
これが、問題である
この、出来事というものが、わたしのものではないというのは、わたしが、それから切り離されることであり、それは、わたしが、この現象界からいなくなることではなかろうか?
この現象界は、わたしが作ったものではないので、なんども形を変えて、現生してくるもので、これが、肉体的な有無の話ではなく、永遠の苦しみの輪廻としてあるとすると
滅というのは肉体の話ではないはずである
精神が、ことごとくの事柄の向こうに、空、あるいは、滅、を通すことで、あらゆる自体そのものから、触れられない空間になること
そうすることで、永遠の再生が、続きながらも、自らはそこに、いないことで、、、
うーん、これは、不可能である話になってしまいそうだなあ
あーー、むずい 343.342.341.
苦しみ、を分離して、捨象することである。
なんでか。
それは、自分が生産したものであるからである。
悟り、とは、それができる、という自覚である。
残りは、そのための方法論である。 >>344
与える、戒律を守る、忍耐する、努め励む、静慮禅定する、智慧を完成する
というのが、苦しみとなるのは、それに対抗しているものが、あるからだよね
ケチだったり、プライドだったり、自覚がなかったり、怠け者だったりか、、、
そういうことの原因は、いろいろあるのかな
まあ、人それぞれ、嗜好が違うものだろうけど、やはり、まじめに、六波羅蜜目指してる人が、仏教の道の先輩なんだろうな
中身の問題?
そんな気がした とりあえず、中村元さんの『龍樹』手に入れたから読んでいこうと思う 昨夜はイイ夢を見た
まあ内容は伏せるが、夢の中では楽しい思いをしていた不思議なことである
龍樹さんは難しすぎてよく分からないが、原因があって結果があるという話を、時間的にみるのではなくて、相対的にみるということだろうか
悟りがあるから迷いもある
悟りがなければ迷いもない
というような 347.。原因があって結果がある、か。
よってして、迷いがあるから、悟りがある。迷いがないと悟りもない。
順序が正確でないことになる。
だからして、悟った人には迷いがない、か。否である。なんでか。 >>348
悟りも迷いもない
のが、悟りだからでしょw
まあ、だけど、日々、苦しむ反応をしている事実を無視するのは違う気がしてきた
だから、この気質の改善をしていないといけないけど、その起点として、悟りではないのかもしれないが、その、無の、まあ、有無のない空でもよいが、瞑想のチカラは使えるかもしれない
だから、それが悟りではなくて、それを使って実際の苦しみがなくなるまで、辛抱強く、そこへ帰ることをしてくんじゃないかな
それが六波羅蜜とか、念仏座禅とか、戒律とか、まあ、いろいろあるということ
それか、あれだなあ
苦しみがなくなることはなくて、苦しみに対する受容があるだけかもしれない
そっちだったら、まあ、もっとシンプルだね
そっちのほうが魅力的ではあるね ていうか123さんがポッたんさんだったの?
ポッたんって人は、もっと、鋭いこと書いてた記憶なんだけどなあ
違う人だったのかアレは
まあ、とりあえず中論の続きでも読みますか
あ、龍樹かw >>351
バカには違いない
バカでなければ、理解してるだろう 普通の意味で苦しみがなくなるなどあるのだろうか?
よく読む話では、それがあれば、それのみであって、わたしは、そこにない
これが、キモではないのだろうか
普通は時間空間の変遷の中で、わたしに起こっている出来事と思われているものが、起こっていることがあるのみである
苦しみ、例えば、精神的な反動や、肉体的な反応が、あるのは、なくなるはずがなく、なくなったとすれば、もはや、なんの役にもたたないし、なんの理解も起こらない
この今あること、が、例えば見ているなら、見ているがあるが、それは、なんらかの主体的ベースの上にあるわけではなく、それが、今現にあるのであり、しかし、それは、流れている
それそのものが、生じたのではなく、縁によってあるのでなあれば、あるのであり、ないのであればないのであり、、、
そのような、ものの理解が、五蘊の働きの、総合主体というのか、受け手の存在を、架空のものであると見抜いた時に、
あらゆるものが無常であるから、苦しみであるが、その苦しみは、苦しみのみがあって、その、苦しみを受けるものがいない
そうなると、消失したのは、ベースとしての、わたしという主体性だけだが、その、主体性というのは、実は、元々ないものである
となる これに対して、苦しみ、そのものを、消してしまうとなると、如何なるアクロバティックな技が必要になってくるだろう
普通に、超越的な力を出現させたり、異次元領域をだしてくるわけだが、その、神秘の、諸力が、現象的苦しみを消し去ると、わたしは、存在しないのではなく、現象を、つまり、苦しむ現実を無視して、ある特殊な、精神上内に、わたしが、完全に存在するかのような状況になる
これは、わたしのないのではなく、わたしが、無というような、または、真我というような、感受の否定点に後退したのである
正に穴蔵に引き篭もるように、、、
しかして、それでは、生活は成立しないので、これを推し進めれば、必然的に、なんの役にもたたないし、何の理解もないような、特殊な空間で、存在する錯覚を見ているような状況になるのではないかと思われる
こうなると、あらゆる接触を無視していかなくてはならなくなり、、、
健全なものではない
めでたい安らぎ、というよりも、虚無であるような印象である
それだから、この現象以外に、特殊な神秘領域を見て、そこに、宗教的概念の名称をくっつけてラベリングするようなことは、
なんとなく違うんじゃ??
と、 苦しみは苦しみのままに、
それで解決してる、清涼である
苦しみや喜び、そういう「人の生活」
この生死がそのまま涅槃という解決の上に行われてるんだよってことか 「惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ」(正信偈)
「生死の中に仏あれば生死なし、但生死すなわち涅槃と心得て、 生死として厭うべきもなく、涅槃として欣うべきもなし」(修証義) >>355
苦しみは苦しみのままでは解決していない
苦しみが苦しみのままでしかないが解決しているのは、特殊な理解が働いているからである
苦しみも喜びも、同じく、感受からくる
そして、この感受している、わたしなる、思いが、つまり、心などと呼ばれているものが、苦しみに対して、不平を鳴らしている
が、これは、自然的に湧き上がってくるもので、動物的である
これらの働きのうちに自己が、巻き込まれないことができるなら、平安である
生死が、そのまま涅槃であるが、それは、なにもしなくてもそうであるという意味ではない
実際には、そこに、理解が働いている
生まれもしなければ死にもしない
生まれていないわたしが、死ぬことはない
しかし、体は滅ぶし、意識もどうなるかは、わからない
これらの反射的、自動的、えっと、自然活動は、わたしの介入なしにある
涅槃なるものの上に生死があるのでなく
生死が、イコール、涅槃になる
生死と、イコールであれば、涅槃になる
これらは、特殊な理解が入っている
それは、個人が、見抜くものである
しかし、人が人に、これを教えることは、ほぼ不可能であると思われる >>356
それ、そのとおりだが、それを言葉にしたので、それを方法と捉えられてしまうかもしれない
これは、状態を述べているだけで、今、このことが、わからない人に対しては、どんな効果があるのか疑問である
しかし、間違えているということではない 言葉は全て事実とは異なる
それに気付くために「体験」が必要になるんだろう
「そのままで解決」は当然、そのままで解決とは違うから 「理解」も「知る」も、事実と違う、
だから「煩悩」だ!、退けなきゃならん!
こうなりがちなんだけど
それもまた、違うんじゃないかと
「知る」対象が違うってだけで「知る」はたらきは紛れもなくそのものから外れてないんだから 取るでもなく、捨てるでもなく
「知る」に飛び付くでもなく、違うと拒絶するでもなく
「そのまま」 「わたし」という思い、対象を認めて喜んだり苦しんだりする「主体」のはたらき、
まあこれを「無明」って呼んでるんだろうけど
「無明もなく、無明の尽きることもない」だから >>359
内的経験が、洞察が必要であって、そのために見方、視野の持ち方の変化が必要になる
しかし、一般的に、みんなが言っているような、体感のことだけではない
体感に頼るのは、まったく、間違いである
知覚も思考も、これらの働きを、己であるという思いが、これは、想いというより、なんだろう、、、
粘着しているのである >>363
「内的」「外的」、それも言葉でしょう?
内外が外れるというか、
やはり「言葉の世界」と事実が違う
それに気付く、事実そのものにぶち当たる体験が要るのではないかと思う >>360
見るものと見られるものは同じである
と、クリシュナムルティが言ったという
しかし、この見るものは見られるものであるという不二の事実、は、確かに、そのとおりであるが、それに気がつくことが、即、悟りというわけではない
これらは縁起しえいるわけだが、つまり、相寄っているのだが、その、自然活動の中で、人間の肉体の欲求や反射的行為、それに付随する快楽への依存や、不快感への怒りなど、様々な精神活動から、わたしなる思いが、休止する必要があるからである
この休止は、欲するという機能との戦いなしには達成されない
心理的な修練なのだ
この力には様々なレベルがあるのである 「言葉(思い)の世界」、これを此岸、世間と言い
その思いそれぞれの様子を「六道輪廻」と言って
仏教はその妄想の苦しみを指摘してくれているのではないかと >>361
それを休止することと、つまり、止まることと表現したいと思います
正に、そのとおりです >>365
「見るものと見られるものは同じ」
それは「見る主体」と「見られる対象」を分ける、つまり「思いの世界」が嘘だってことでしょう
禅で「一隻眼」とか「正法眼蔵」とかいうのと同じなんでしょうね ここで間違いやすいのは
「一つなんだから、分かれていないんだから、一つに見なきゃならないんだ!
「己を修練して自他ない完全な境地に到達しなきゃならないんだ!」
こう思ってしまうことってのはよく聞く 思い以前の事実としてもともと分かれていないんだよ
分けて見ても、見なくても、事実として分かれようがない
そういうものとして人はあり続けてる
それに気付くことなんだよ
こういう方向ではないかと思っています >>362
それを自然反応ではなく
わたしの意志で起こっていると勘違いする
そして、その反応に飲み込まれた、ものが、つまりエネルギーが、次々とカルマを生む
このような連鎖を、止めてしまうことが、特殊な修練によって可能となり、その、働きから、一歩、離れていることが、静寂と智慧の開花になっていく >>364
言葉の世界と事実は違う
そのとおりです
そして事実の世界に学ぶこと、これも必要なことであります
しかし、このことが、イコール悟りではありません >>366
言葉、思い
人間には、様々な機能があります
そして、問題になっているのは、感情的に苦しむことです
こころが悩み苦しんでいる
これを解決したのが仏教だと思います
合ってるかは知りませんw 「事実」、「実際」、
「見るもの」っていう主観の歪みのない【そのもの】
これを真如、無上菩提、阿耨多羅三藐三菩提とか言っているのではないかと >>368
ひとつの眼というのは円相のことです
見るもの主体は、見られるもの対象と、全く同じ、ひとつの水晶のようなものの、反映なのです
これらは、それこそ、体感に寄って、つまり、視野の変化によって知られるのです >>369
それは、ひとつに見ようとすることでは達成されないのです
わたしに対するアクションを様々にしていかないといけないのですが、それは、これをこのわうにしたら、こうなると、短期的にできるものではなく
徐々に、変化していき、ある日突然、スコンと、そうなるんです 円相は、「世界」の実相でのそのものであって
それは今のこの様子そのものなのです
食べたり飲んだり立ったり座ったりしてる
怒ったり喜んだり悲しんだりしてる、そのものなんでしょう
だから、「解決済み」なのではないでしょうか? >>370
そうだと思います
ひとつというのは、別れてないってことですね
事実、そうですからw 宝鏡三昧、
この円相という宝鏡に映されたまんま
見るもの見られるものという分裂なしに >>374
事実を、見るには、特殊な修練をしなくてはいけません
そのものを見るというより、視野が変化するのですが、それは付随したものです
真如というのは諸行無常のことですかね >>375
ぼくも、参究中なので、合ってるかは、わかりませんよw
今は、こう感じているというだけですからね
お互い、理解が深まるといいです >>378
この解決済みは難しい問題になりますね
活動している、これが、これしかないのだから、解決しているのだけど、解決しているということを知らない
だから、解決していませんwwww >>380
そのとおりです
分かれていないのですw
そのまんまなのです
宝鏡というのは意識のことで
その意識は、あなたと、わたしと、まったく同じなのです
完全に同じなんです
分かれましてないんです
水槽に魚が泳いでて、その、水槽の水みたいなもんです、 こちら側をわたし
あちら側をあなた
このような視野が、分裂してる
ところが、この、わたしとあなたは、同じ意識の下で、現れたり消えたりしている
この意識は、全体の意識なのです
その、全体の意識は、生きているのですが、永遠です
しかし、これを生命というのは、どうなのか
生命の生じて滅していく、その、スペース
それが、意識です
そして、その、一つの円を、様々な角度から、我々が個人的に表相させたものを生きている
これがブラフマンです
円相です >>384
解決は実質的にあるものです
その、質感は、静寂です 解決は解決を知らない
そのものはそのものを知らない
なるほど… 386.意識、か。それは心理学である。それは宗教になる、か。 >>388
真如は、そのようにあるかもしれませんね >>389
ポッタン師って123ひふみ、とーさんでしょw
宗教っていっても様々だから、何が宗教かなんて、よくわからんし
神仏の信仰が日本では宗教なんだから、その意味では、意識の同一性は、宗教ではないかもしれないね ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています