なんちゃって覚者✴気づかない教.2
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悟りと非二元に関しておしゃべりしましょう!
なんちゃって覚者とは、既存の宗教、宗派の教理に適合しないのに、悟った自覚があり、自信もある人たちのことです
気づかないとは、あるがままの事実を取り上げず、そのままにあることです
悟り、非二元、等々に迷いがない人は、ここには用はないでしょう
お花畑、妄想、という批判はご遠慮ください
あと【悪魔からの批判】は受け付けておりませんので、よろしくwwwwww. >>154
キリストが湖を上を歩く。きっと、常識で考えたらいけないんでしょうね。
木人まさに歌うたい、石女たって舞まう。
情識の到いたるにあらず、むしろ思慮をいれんや。
>キリストさんの愛は、人気ですw
教会の風景は、結構好きです。
愛と関係なかったw >>155
夕へ、キリスト教徒でもたまに欠陥あるが大物がいる笑。
内容が想定外故に、公案にして修行ネタになったわ笑。
想定外のクリスチャンの切ったカードを公案禅ならば・・・と修行した笑。
その恩恵を、付き合いがある話の出来る教会の役員にクリスマスプレゼントしてきた笑。
このプレゼントは霊的予感と確信で相手にキリスト爆弾になるような気がする・・・・・
後日のお楽しみ笑。
想定外のクリスチャンの切ったカードを公案禅ならば修行で・・・・・。これで決まったかなあ・・・大晦日に世話になっている坊主に土産話になるやろう・・・笑。 155.
キリストが湖上を歩く。
人間ならばあるけない。
だからして、人間ではないことになる。 >>156
>想定外のクリスチャンの切ったカードを公案禅ならば・・・と修行した笑。
なにをいわんとしているか、わかりませんが。
汝も彼も、疾風の如し。
土の人が、風にあおられて、踊っているのでしょう。
適当ですw 余談ですが、これも一種の宗教みたいなところがあるので書きますと、アミューズメントメディア
総合学院のアニメータ科の内田順久のいうことは絶対聞いてはいけません。
学べるのは本当に一部分の技術だけです。内田は過去にアダルト作品を作っていますが
どれもインポみたいな作品になり失敗しています。内田は潔癖症ではありません、インポです。
その上モテません。
アダルト作品を作ろうと考えてる人は特にこいつの言うことにしたがってはいけません。
インポにされます。 所詮は凡夫なので完璧な人にはなれない
そうなのだけれども、阿弥陀如来や、主である神様、大日如来やアマテラスによって、
もしくは、そのような偶像をおかないのならば、智慧の光によって、この、どうしようもない悪人を落ち着けていくことができるだけである
これは世を超えている笑
ハレの気持ちを運ぶ、仏様のような人たちは、世の中にたくさんいるなあ 苦しんでるのは己であって、その苦しみによって他者が、苦しんでいるわけではない
また、他者の苦しみは、その人の抱えた評価によってあるのであり、そのことを引き受けてしまう必要もない
思い煩いをとってしまうことが、宗教の目的であるのだから、それを真理かどうか、問うことも苦しみであるのなら、捨ててしまえばいい
ハレの気持ちである
ハレのこころで、過ぎ去るものを、そのままにしておいたらば、苦しみの追いかけることはないだろう
単純なことではあるが、自分を許すことは、なかなかにできないものなのだ
罪悪感さえとれれば、幸せになれる なんと愚かな人間であろうか
と、自らを責めているのが、苦しみの元であり、また失われてしまった物事を、取り返しがつかないことに思い至って、さらに苦しむのである
この精神活動に終止符を打つ
それは、自己の抵抗の終了の時刻である
自己は手放して、光をもってこよう
なぜなら、その罪悪感によって、暗く淀んでいるよりも、光によって私が何もしていない方が、周りが生きるからである
周りが明るくなることによって、少しでも罪滅ぼしになっていくかもしれない
悩んで正そうとしても、知れている
所詮、この小ちゃい頭で立てた策略など、たいしたものではないわいw
己の世界を光に満ちさせることで、周りが明るくなるならば、悩み苦しみが払われるならば、それがせめてもの、罪滅ぼしである
まあ、少しでも、償おうではないかw 悟ったなどというとよろしくない
人はそのようなことに目くじらを立てるので、争いの元になるからw
悟りなど知らんとして、その実質の、己の光の質によって、周囲を照らすのだ
悟りに悩んでいる人がいるから、悟りがいるのであって、本来は煩悩からの解放である
煩悩の休息が、悟りなのだから、悩みさえ取ってしまえば、仏さんのようなものだ
そのような活動をしている人たちは、普通の世の中でも、たくさんいらっしゃる 人が怒る
その怒りの元には、様々な原因があるだろうけれども、自分が、のこのこと、それを取りにいっても、新たな苦しみを生むだけだw
そのような意識に突き刺さる怒りを、透過させてしまうことが大切である
その透過させるのは、悟りの世界にあることで透過させてしまうのだ
つまり、認めることをしていない
すべて、投げ出して、掴むことがないことで、怒りを、溶かしてやる
このことは、悟ったなどと述べなくとも、可能であるので、争いを生まない 過去にハジが出会った教師の人たちは皆
安心させることのできる人たちであった
これは、その人の存在の質が、周囲を照らすことで、もたらされたものだった
つまり、これは、その空間における精神の流動の中で、ある存在が、重いものを、消失させてしまっていたのだろうと思うのである
このことは、ひとつの世界を生きている中では、かなりの影響を及ぼすと思われる
怒りのキャッチボールが、続く中で、一人の人間が、それをポーイと消して歩く
その分だけ世界の怒りの要素が減ってしまう
もちろん、体からくる怒りがあり続けるので、完全になくなることはないだろうけれども、少なくとも自己の周囲においては、落ち着くことが多くなるのである
そういう活動は、私が、出かけるのではなく、引っ込むことでなされるだろう >>166
まず、この光の鏡において、集中、解放、そして光度の維持と増加をすることが、明らかに、その空間の精神流動に効果を波及させる
なんの理由があろうとも、この光源を断つことをせずに、明鏡止水である
滑らかで、クリアーな、そのひとつの意識の質を保持しながら、強い怒りを、打ち消してしまうのである
元気になるだろう
つまり、あなたが、光度の維持と増加を図ることで、他の人まで、その影響を受ける
これは間違いのないことである こうであるのだから
あなたを取り巻く状況が、如何にも尤もらしく、己を闇に引きずりこもうとしても、理由を受けてはならないのである
思い煩っていることが、自然だと錯覚しているわけなので、その罪悪感を打ち消すことが必要になってくる
なにがあろうともハレであるw
ハレのこころであることが罪滅ぼしになるのだw ハレの心は自分ではもってこれない
そこで、自分が活動を休止して、その意識の光の元にいなければならない
私がやっているのではなく、その、世界の大元である意識が、この、闇の沈殿した重苦しさを晴らしてしまうのである
私は弱い
しかして、この光源は、破れることがない 意識の光と、精神の静けさが、ありとあらゆる苦しみを透過させている時には、取ることがないので、すべて、過ぎてしまうものなのだ
自己が登場して、よろしくないことに、手をつけると、もう、どうしようもなく苦しむ
自己の意思は弱いので、他者の苦しみを打ち消すことなど、とてもできるものではない
ただ、この己を超えたものだけが、怒りの流動性すら打ち消してしまうのである なにとも捉えないことで、この、光が、眼の中に輝きだす
そして、世界をひとつの意識として、抱きしめることで愛が溢れ出す
それが慈悲の力である
わたしは、別れてあると思うことが、世界を遠く離れた物としてしまっているのだ
世界は、全くわたしの心であり、その心は胸にある空洞から写っており、その、世界を包む意識が、光として世界を抱きしめるならば、ひとつにあることの至福が、あなたの存在を、消化させてしまうのである
世界はひとつであり、その同じ意識を、皆が、生きているのである わたしの意識だと思っているこれは
他の人も、全く同じ意識を生きているのであるからして、世界はひとつなのである
その生命の膨らみに映るものごとが、異なっているので、違うと錯覚しているのだ
ひとつの球体を、みなが、生きているのであり、その、内容物の違いは、意識点の場所の問題にすぎないのである
それだからして、あなたの影響が、世界にモロに現れてくるようにできているのだ ある星から宇宙を眺めるのと、他の星から眺めるのでは、その風景には、違いが出てくるのであるが、同じ宇宙を見ているのである
そのようにして、ある人から見た世界は、他の人の見る世界と異なっているのだが、全く同じ意識に映るものを目にしているのだ
全く同じものを生きているのである
それだからこそ、あなたは、全世界と同時に成道することになるのではないだろうか? 生きてあって恐れがないことなどありえようか?
生きてあって罪科のない人などひとりとしてありうるだろうか?
こころの混濁して苦しみが次々と襲うことは、普通のことなのではないだろうか
もちろんハジは普通よりも酷いことはわかる
その罪や恐れが、続々と、苦しみをもたらす、自己の働きに、光を灯す
この光は、止まることで、テラス
自己がどうにかしようとしても、どうにもならないから止まるのである
休み諦めるのである
どのようにしてみたところで、所詮は、こんな人間なのだから知れている
しかし、この光によって自己の苦しみが癒されるならば、ともかくも精神面における悩みは、軽減されることは違いない
恐怖はあるが、それが、ぞくぞくと流れて行く
不安もあるが、それが、止まらず、ゆき過ぎる
罪科もあるが、それが残らず、洗われてくる
この働きの中でわたしの混濁して、慄くこころが、刻々と、消化されつづける
消化され続けるから、明るくなってくる
消化され続けるから、静まってくる
そして、何も求めなくなれば、不完全なわたしと、不完全な世界が、そのままに、問題ではなくなってくるのだ
不完全で、そのまま、そこに光か当たる
完全なる人格は必要とされていない
わたしにはどうしようもない
もう
この止まることによってある風景の光度を増すところで、洗われているしかない
そこでは一息つけるからである
苦笑 安心して世界を抱くならば
そこには、非常に落ち着いた安らぎがある
世界と自己の敵対関係が、埋まらない心の渇きの原点だからである
不完全な世界と、不完全な自己
この誤ってあるような不完全性の中で、なんとかしようともがき苦しんでいた動きが止まる
諦めてしまった
もう苦しすぎて、その、ことには耐えられなくなったので、止まったのだ
すると、この世界は、自己の対応物ではなくて、そのまま、なんとも言えず自己である
自己そのものが、世界と別れてはいない
この心こそが、世界なのであり、世界はそのままこの自己の働きなのである
そのものを抱くというのは、自己が自己とひとつになるようなものである
このときに、不安や悲しみが消える
安らぎが訪れる
そうして月を見れば煌々と
風は清新
あらゆるものが、自ずとあって、ゆきすぎるから悪が亡び去るのである
淀みなく澄み切ってしまえ!
何かを手にしようとしなければ、不可解で、不完全なままで、悟るのである
なにも手にすることはない
あるものが不完全なままで、問題にならなくなるだけである 渾然として一体である世の中で
我とそれ以外のものごとが、すべて、不完全にして、滅び惑い、苦しみもがいている
思い通りに理解しあうことはできないし、生活も潤うことはないし、欲しいものが手に入ることもないき、愛に満たされることもなく
渇ききっている
そういうわけなので、もう、なんとかしようと働きかけることを諦めてしまった
もう、これ以上は、どうすることもできないのだから、不完全で、迷惑な自己のままで、止まってしまうことになってしまった
するとあるものは、あるがままに、そこにあるのである
なんであるのか?
なんであるのかは知らない
もうそこに自己からなにするでもなく、あるようにあるのであって、どうしようもない
なにかムッとした人がいても、それはそれで、もうそうなのだから、いけないと動き働きかけることが止む
風景の光度、が、増す
なんかこの、あるものが、あるままで、深くなる
そのまま、不完全なままで、完全なることが、通り過ぎてゆく
わたしは、それをあるがままに、生きているだけである
そうしようとしているのではない
そうしようとすることがなく、あるがままに生きられていく
もちろん完全な人格などないwwwww このようにすることが悟りである
とか
このように高められた精神が救いである
と皆さんが、言われている
そのように高められたものにはハジはなれなかったのである
そして思うに、そのような恐怖も不安もなく、罪科もないような人間はひとりもいないはずである
精神があるのだから、当たり前であるw
まるで超人のように、すべてのことを凌駕した精神などあるわけがない
恐れや不安が、あるが、それが自己を捉えることなく、過ぎていく
罪科があるが、それが、不完全なままで、受け入れられていく
ムッとした人や怒れる人たち
暴力や利権に群がっている人たち
己の欲望に振り回される人たち
もちろん、これは、わたしである
その罪人である私が、もう、どうしようもないのだから、諦めてしまう
いけないことだろうけども、いけなくても、そうでなくとも、もう、そうあるものを、どのようにしても超克できないのだ
なんとかしようとする
出来事に働きかけていた、この、わたしの働きが休んでしまう
もう手をつけることはしない
どのようにもしようとしていない
それが不完全でありながらも、そのものを許しているときなのであり
世界を抱くことなのであり
渇きが癒されることなのである
おのれが止まる
これが、起こったことなのだ
たぶん、悟った人は、止まったのである
働きかけがなくなったのである 光と書いてあるが
風景の光度が、意識の照明が
上がり
この、迷いの心が、その光によって洗われていく、洗われていることである
止まることで、そうなるのだ
見ることが止むとは、止まることなのだ
己の動きが、休むことで、そうなるのである 禄でもない人間である
迷惑千万な人間である
とても行き場のない男である
自分だけでは救われようがないのである
それだからして、お手上げするほかない
自分で自分を掬い上げるしかない
静まってからになってるしかない
たかが知れた人間なのだw >>162
面白い、せったん語録あるよw
229 :せったんmyoejoe:2005/12/17(土) 10:39:35 ID:A2xPeP3M
妄想が悪いんじゃないんですよ、妄想=世間です、いずれ自分独特の発明なんかないんです、
お客さんをどう扱うかの問題ですか、軒を貸して母屋を取られる馬鹿とかね。 >>180
妄想=世間?
軒沸かして母屋を取られる、、、
ふむう
難しいことw 嫌なことは無い方がいいし
好きなことは多い方がいい
だけれども、そのように調子よくないw
そこで悩みます
悩むのはまあ、いいんでしょうけども、あんまりにも重苦しくなって、自分を責める
これがいかんのですw
いや、ある程度ならいいんですよ
当然、反省すべきはしなければならないのだから、悩んで成長していくわけだ
このときに今の風潮は、過ちがあったら完全に自己責任とするので重くなりすぎる
そこで鬱の人も出てくる
できのいい人はいいけども、ハジみたいなんだと不味いw
そこで、もう止まるの秘儀を使うしかない
この秘儀は、再生してくる思考の渦巻きの中で、溺れないようにするのだ、笑
要するに心のなかに光を射すことである
これは、ぼくのように悩んできた傾向のある人がいたら効果覿面なのである
まず、動きを止めるのである
自分が動いているから苦しくなっている
是非や評価をまったく外して、たんに、ココロが透明にあるようにする
このココロは目の前にある世界なのだ
そして、そのココロに光を射すのである
光がなくては、救われないのだ
まあ、エリートの人は評価の世界で救われるので放っておいてもよいだろうwwww 波打っていた水面がスーッと平らになるようにして、静かにする
思いが向こう側に動いていかないように
思いはドンドン再生してくるけれども、感情を伴っているはずである
それに、気づかないかのように、ドンドンこの、水面の向こうへ消化させてしまいます
どんなに重苦しいことでも、放っておきます
放っておくことは良いのです
そして、ある程度、澄んできたら、目の前の空間全体が、少し明るみが増してきます
これは、心が落ち着いたので、そうなっているわけですが、今度は、その目の前の光が、もっと光度を増す技を使います
上空に透明な清新な、それでいて、柔らかで、微笑ましく、ニコリとしたような、そのようなイメージの門、もしくは、空間を創出して、そのところから、この目の前の全存在が、洗われて、ドンドン光を増していくようにしてくださいw
うーん、ちょい個人妄想入りすぎかなあ
まあでも、この光が、透明な心の輪にキランキラン降り注ぐ技は、使えますよwwww
悟りとかではなく、精神衛生上、非常に楽になっていくのです
それで、この、光の感覚が、わかってきたら、なんとかして、そこへ持ってきます
なかなか難しい
なぜなら、普段の取り憑いた感情が、自分のものだと錯覚しているからなのですw 負の感情は、自分で作りましたか?
たぶん、誰かの言動に接したときに、その意識の棘が、あなたの意識に刺さったのでしょう
感情の交換です
毎日毎日、感情の交換をしていて、ある人の苦しみをあなたは背負うことになる
ところが、ここで、不思議なことに、この相手の感情を自分の思いであると錯覚する
そうなると、この、感情の支配にドンドンと責められて、まあ、気力が尽きていきます
元気がなくなる
この元気というのは、舐めてはいけませんw
元気があれば、なんでもできる!
ですw
あなたは騙されているみたいなもんです
この感情の消化こそ秘儀ですw
その感情を他の人に分けてしまわずに、消してしまうことが、凄まじい偉業なのですwwww
天空から降り注ぐ光の波によって、眼前世界を洗うことと、静まって動きを止めたココロによって、消してしまえ!
悪いことではありませんw
いいことなのです!
あなたが、この感情を消して元気になるなら、世界から負の感情が、減り、良質なココロが、増したのですw
なぜなら、分断されないからです我らはw だからと言って、この感情の発露をしてしまったとしても気にしなくもいいのですw
とにかく世間のいうことは置いて、まず、ココロが静まり、眼前世界が、輝くことを優先したらいいのであります
この、ココロの質が極めて重要だからです
もちろん、つねに変わらずあるわけではありませんので、ずっと、ここに照準を合わせなくてはなりません
けっこう難しいですw
しかし、ハジが思うに、これ以上ないw
この透明な心に光が舞うことが、人生の運命にすら影響するだろう 平常心コレ道
平常心
この心が仏だという
常に平らな心だろうか?
落ち着いて静まった心のことだろうか
そのココロが眼前世界だったら
つまり、意識の光は、世界の光なのだ
そうであるからして、この、心が、どんな理由があっても、闇に支配さしてはならないのである
尤もらしく奴等はくるからねw
とにかく、光に満ちて明るい
これがあれば、
よいのであるので、それを邪魔するものはすべて悪魔たちだwwww
光こそ、己を照らし世界を照らす、この光こそが、救いになる
これは意識の光である >>183
うん。途中で妄想入ったねw
入りは整ってるよ。 >>186
不生不滅。
煩悩を"うまずめっさず"
怒りを"うまずめっさず"
平常心の維持だけでは人の想いが見えない。 どんなに、正当に思える理由があっても、心を闇に支配させてはならないのだ
それが悪魔たちたのだからw
どんな理由があっても、光にあらわれている
この理由、わけ、常識などは、こころの動揺いかんで見ればいいだけだ
あなたを迷わせて苦しめるのは、見解なのだw
そして評価は、その最もたるものである
しかして、静かに透明になったココロに照らされた眼前世界に意識の光、神々の栄光を注ぐことによって、かならず、ひかりは勝つ
光は負けたことがない
かならず、このひかりは、安らぎへ導く
あなたが苦しまないと困る存在がいるのだが、そのようなものは、悪なのだw >>188
ふむふむ
人の思いは、いきなしガツーンとやってきませんか?
鬼子さんがいたら、ガツーンともう、即座に、喋らなくとも、いきなし、ドキューンと、語りかけてきます
それでハジなんかは動揺したり、喜んだり、まあ反応しとるわけです
そこで、この動きを、無視るわけですな
無視るというと悪いことのようですが、まあ、注目しないとでもいいますか
スイッチが、人ではなくて、光になる
ひかりのオンオフ
要するに、ひかりがあるかないか
の方が人にどう対応するか、反応しているかよりも大事にする
そうすると、まあ、自分勝手のように見えますが、しかし、この心が、人の感情から影響を受けて、それを、またもや他へ当てると、悪循環なのですw >>190
書いてみる、読み直す、己を知る。
良いトライだと思うよ?
評価なんてギャラリーに任せれば良いのさ。
他人事。 書いてみましょうw
丸い円状に世界を見て、そこに写っている物事をここに見ずに、全体的に見るとき、そのようなときには、世界は私に何もできません
ところが、そのようにあるときにも、他者、つまり人間だけは、その、輪の中へ入ってくることができるのです
そこで人に注目をしてズズズーっと世界の個別的関係性へと引きずりこまれると、今度は人にばかり注目が集まるようになり、その個々の人たちとの感情の交換によって、私の精神が、流動していくようになるのです
そして、その感情の要素は、見た目や人柄などとは関係ないところで、個々人の重さをもっているようなのです
人当たりの良い悪いとは関係ありません
そこで、この、感情を受けると、即座にわたしは、それに反応して、心の中で、喜びやら悲しみなど、様々な動きを見せるのです
この動きの中にいると、わたしは、受け取った感情、または自らの肉体の調子やら、出来事の不正などから自然発生的にでてくる感情とブレンドされた、私個人の感情をもち、それをまた、他者へと還元していることになります
この輪から出られないことで、苦しみを断つことができないでいるのです 問題は、わたしが、負の感情をばら撒いてしまうことが頻繁に起こることなのです
この負の感情には確かに原因があり、そのように深刻な気持ちを発生させるのも自然なことのように思えるのですが、、、
しかし結果的に、それは他者の食べ物になってしまうのであり、他者は、またもや、それを他にも当ててしまうので、私個人の、気持ちの流れが、かなり広範囲に広まってしまうのです
まあ、体の調子やら、出来事の良し悪しなどの多様性があるので、まったく、そうなるわけではありませんが、明らかに影響しています
ですので、この負の感情を、光によって消化して、明るい、気持ちにしていることが、煩悩の滅尽にも、効果を及ぼすのですw
ハレの気持ちにさせること
悩み煩いをとってしまうことが、
良いことなのであり
それは、全体的に波及していると思うのです >>193
文章に社会的な歪みが出てますね。
鬱・不眠は外因です。
解消されない悩みやストレスが原因。
出れない輪ですが、第三者評価は所詮他人事と、切って捨ててしまえば出られませんか? そこで、心の動揺を静めることが、必要になってくるのですが、ピターッとくっついた感情くんは、なかなか剥がれませんので、技を使うしかありません
それが世界から離れ去ることであり、思いから離れ去ることであると思うのです
理由、とか、善悪の価値観が、これを阻害しているものなのです
だから思い切って、光を、最重視して、それを遮断するものは、すべて悪である
と、このように見れば、見解の悪魔たちも手を出せなくなるでしょう
どのような理由があっても、こころを乱し、悪想念から闇に引きずるものは悪である
こうすることによって、明るい気持ちを復元して、負の感情を消す
すると、なんと、この人は、相手というか、人の感情を消して歩いていることになるのです
重みに違いがあるので練習が必要でしょうが
しかし、このようにすることは、悪いことであるばかりか、とてつもなく良いことなのです
問題は、その責めている気持ちが、自分のものだと確信していることなのです >>194
負の感情の根本に小心が有りませんか?
自分がどう評価されるかを気にしすぎてる気がします。
ただ、悪意を以て心理学を使う人も居るのでしょうがないかなー。 >>196
うん。
自分で自分を騙さない様に心がけないといけませんね。
良い〆だと思います。 なあ〜〜〜〜んちゃって、なあ〜〜〜〜んちゃって、なあ〜〜〜〜んちゃって、
なあ〜〜〜〜んちゃって、なあ〜〜〜〜んちゃって、wwwwwwwww
今年も残り僅かとなりましたので、
とりあえずご挨拶をww >>199
ふむふむ
今年も終わりですかあーー!
パーピマン先生もよいお年をお迎えくだされw
お正月は神様、仏様にもご挨拶だよwwwww >>199
とりあえず言っておこう。
「良いお年を」。 新年明けましておめでとう御座います!
神社仏閣へ行く
新しい年の始まりに清新な場の力によって、穢れを祓い、または、平和を願う
非常に価値のあることでありますw
是非とも新年のお参りに行かれることをハジくんはお勧めしたいと思う
うむうむwwww 意志と欲求に応えることが布施だとして、世の人の欲とは自尊の念であろうか
そうだろう
誰もが我が存在の優秀であることを誇りたいと自己発言しているのだから
この部分を満たすには、こちらが、不動の神智によって、あらゆることを許すことが必要になってくる
このことの問題は、やはり、生命、財産に集約されてくるのである
仏教でいえば、我と法、我見と物惜みである
これを捨てようとしても、逆に、意識的になってしまい掴み恐る
蛇と蜘蛛
恐怖と想念は、悟りの二大問題である
この想念、恐怖が、自我を形成するのではないだろうか
そこで、捨てようと思うことをやめる
ただ何があっても、ひとつの、統一である安心のもとにあることで、この、存在の貢献はある
意見は、何の役にも立たない
今、恐怖と不安に駆られるのか、それとも静寂と無の安心にあるのか 外のことは、どうにもならない
みずからが、それらのはたらきに対して離れ去ってしまうしかないのだ
いつまでも苦しみは追いかけてくる
休むことはない
そのような外界のものごとを、静寂なる点から眺めることによって世界を捨てる
捨てたところから見れば、どのようなことも、もはや何事にもならないである
醜い世はひとの心のみである 自分の眼を世界から見るような方向転換した意識で、全身を照らせば、意識そのものの、円形が現れ、その中心点と、その外が現れる
この三点の連携によって、意志活動の点が、安心になる、落ちる時、世界はファンタジーになるのだw
光と音の共演
しかし、これは副次的であり、そのもの自体を維持しえないものである
肝心なところは、頭脳活動の一部、この志向する働きが休む事である
休む事で自然となるのであって、目指したり維持したりすれば消える
だれも理解しないwwwwww
まあ人気なのはわかりやすいことか >>206
苦戦ばっかりしてますよw
まあ、ある状態に固執してるからかなあ
透明な感じが好きなんだな、笑 表面上の様々な変化ではなく根本を解消しないといけないと思ってきた
根本を解決するのに表面的な外観を変えるだけで、外観がありかではないのかもね なぜ覚者と思しき人々との縁が生ぜないか、薄々とわかってきたところである
彼らの言葉を聞いたり、顔を合わせたりしても、私自身がそこから汲み出すことができず、それを受けるだけの器がないからなのだw
同じ言葉でも、聞く時期によって、まったく理解が異なってくるのであるが、その理解は苦難の量に比例してあがっていくように感ずる
のだww
しかし何が真理かは分からないし、どの事柄も一定の真理と思えるような内容があるので、ここから向かうところに迷いがある時、信頼できるものが現れない、もしくは、現れても見抜けない、見抜いていても付いて行けないというのは、どう攻略すべきか
とにかく、祈るしかないのかも知れない
笑 世俗にある喜びや大事な物がぶっ飛びかねないような苦しみに直面しないと
どうしても「世俗の向こう側」に行く覚悟な自分がつくられないってのはあるかも >>210
人生の起きてくる出来事と精神の苦悶
これらの事から抜ける努力や意志の力は、そこに挿す光の存在たちの姿によって奮い起こされていくものであると思われるのです
彼らは心の深いところに触れることで、希望や愛の感情を再生させている 静けさと清新さ
そして明るみ
無為自然な、振る舞いに
なんちゃって覚者は憧れているのです
w 仏の世界に照らされるのではありません
仏が真実、リアル
真如の世界に照らされるのです 「個我」ってのが壊れていく過程で
仕事を失って金に困ったり、
今まで上手くやってた人間関係にトラブルがでたりすることがどうしても起こって来るって聞いた >>214
そうなんですね
ぼくも、その過程にいるのかな?
まあ、奪われていくものは、執着心に気づかせることはあるかもしれません
カルマの清算は、反応しなくなるまで、つまり、それは、苦しみだと気づくまであるのかもしれませんね
もしも、本当なら、酷い話だw 宗教的神秘体験は内面の事象である
と思われる
その、内面と外面が実は離れてはおらず、外は内面の様になることが可能であり、内側が外のようになることもあるのだ
超越的体験は妄想だと言い切ってしまえば、それまでであり、内面活動を切り捨てて、科学的な観点だけしか持たなければ宗教はない >>209
難しく考えず、
基本を確かに考えて積み上げたら、
答えられる高校受験の数学。
簡単な事を丁寧に考えてないから、
背伸びして、
乖離した思索に陥ってる訳だよ〜
悟りを高度な数学の世界だと錯覚してる。
小学生の算数や中学生の数学を錬成問題を解けるようになる位で充分。
有名私立の数学。
悟りを不可知、不可思議に追いやるから、解らなくしてる。
無限では無くて有限を知り尽くす。
無限大学ではなくて、有限の小学生、中学生レベル。
簡単なレベルの人生哲学が解ってない。
修めるべきは15歳レベルで充分。
挑み過ぎるハイレベル。だから不合格になる。
自分の事を中学生だって思って中学生までを完璧にしようとしたら全てが上手く行くよ。 >>210
そんな苦しみを起爆剤にしなきゃならないって考えてるのはダメだよ。
普通に真理が見えなきゃ。 >>211
浅いも深い愛いも気付きもないよ。
当たり前の現実に目覚めなきゃねえ?
ただの日常に目覚めなきゃ? >>217
確かに基礎的なことを学んでかないとです
般若心経、金剛般若経
唯識
あとは禅の歴史
このような本を、読んでましたわ
あとは、大乗仏教の簡単な解説とか、維摩経の解説とか?
というか、基礎的なものって、なかなかないよね?
ジャンルわけされすぎててさあw >>218
普通に真理を見るには一度死んで生まれ変わらなきゃならないからね 「一度死んで生まれ変わらなきゃならない」
そりゃそうだけど
苦難でも普通でも「でなきゃならない」っていうこともない
「であるべき」から抜け出たところがね… 苦しんだり悲しんだり喜んだり怒ったり
そうやってぐるぐる迷っているそのあり様が既に一歩も真理からは出られていない
そこに気付くことなんだけど
そのためにはこの「自分」という経験、知覚の「外」に一度出なきゃどうにもならない 「自分」って知覚・経験の外に一度でること
これを「死んで生まれ変わる」っていう風に表現されるね
キリスト教では「新生」とかいう言葉もそれっぽい
仏教じゃ「絶後再甦」とか、蓮華の花の上に生まれるとかにたとえられてると見てる >>219
いや、僕の深いとこに触れるわけやんw
なんか、こう、期待?
みたいなのを増幅させるわけね
禅の人とかの自然体とか、まあ、他でも、苦労して、遂に、なんか理解したっぽい人たち
憧れやわあ、笑
そやなあ、行住座臥っていうねえ
日常に、まあ、つまり、ありのままに
悟りがあると >>223
概念の縛りから解き放たれるんだよw
きっとw >>224
どうやって、でたの?
まあ、そーゆーことでしょうなw >>225
知覚が消えることなんてありえるんかなw
気絶ってこと??
まあ、この、触れる感覚が、なんか、こう、自我なしにあるようになるんやろかなあ >>229
知覚は多分はたらき続けるけど
知覚の「対象」を捉えてその上に色んな思いを重ねてる
これを「迷い」「煩悩」「世間」とかいうと思ってる
知覚レベルのギリギリで「対象」を手放すと多分なんか起こる
それで本来のあり様に気付けるんだと 金剛般若経の「応に住する所無くして、而も其の心を生ずべし」ってこれを言ってるんじゃないかな でも、>>217これはなるほどと思う
背伸びして「向こう側」に何か真理めいたものを求め続けても
決して「何か」にたどり着くことはない
求めるもの自身が求められるものである
そこに気付くことだろうから
今の「自分」に親しくなるってのは重要だと >>230
自分が落ちることかな?
そうだね、それを執着を無くすって言ってるのかもしれない
なかなか難しいことだよ、笑 >>231
うん
だいたい、どこの話も、その話だね
AはAでない
だからこそ、Aである
このAでない、ところからのAであるが
まあ作用即性ってやつなのかなw
まあ、言葉は間違えてるかもだが 「住する所無し」ってのは「対象」を捉えないってことかと
「対象」を捉えるってのは主体と対象が分かれるってことで
見るものと見られるものが分かれた観念上の世界に生きてしまうことに
これが迷いの世界なんじゃないかね >>235
うん、そうだね!
主体、客体が、その捉えるものによって分断されて対象になってるね
この観念で囚われている私が、迷ってるのかもしれない
これが、迷いの世界だ
しかし、この観念と言っても、様々にあるわけで、つまり、ここには観念と一括りにできるのか疑問なくらい、たくさんの自我活動、執着や、恐怖や、まあ数え上げたらきりない程のものがあるからね
実質、解放してることと、理念上知ってることでは
月と
スッポンポン!
なわけじゃんか?ww >>236
「六境(六塵)」って言葉が分かりやすいと思う
六根(知覚)の「対象」としての六境
眼耳鼻舌身意に対する色声香味触法
人は誰もが知覚によって対象を捉えてそこに「世界」を識別し観念にしてるでしょ
だから「世界」と思ってるもの全て
これを一切法、三科とか十二処十八界とかいうらしい >>232
求めていることが悟りから遠いこと
というのは、聖者賢者が、口を揃えて言ってることだから、そのおとりだ
しかし、
だよ!?
そうは仰いますけども
やっぱ
愛する人とは別れたくないのおおおおお
というのが、人間のサガフロンティア
なんちってw >>237
ふむふむ
つまり感覚のことですかなあ
感覚はひとつだもんね
刺身と
醤油と
ベロと口と歯と、それらの動きや、まあ脳やらいろいろ、が、ハーモニーしてるわけだ
調和してるわけだね
でもさ、ぜんぶ消えちゃうじゃん??
我々、は、そうやって、そういう活動があるのはさ
生きてるから!
生きてるけど、死ぬのは嫌ああああ
痛いし!
というのが、一番の悩みで、それを解決するのは、感覚的にではないはず?
んー、取り違えてたら、ごめん 今、目の前に「スマホ」があらわれてるけど
これを「スマホ」と認めるのが眼識界(六識)
認める以前の物質的対象なのが色(六境)
認めるはたらき・器官が眼(六根)
六根→六境→六識 として誰もが「世界」を捉えてるんやね
この六根六境ギリギリを受け入れ手放す
すると本来が現成する(その心生ず)
修行で「六根清浄」とかいうのはこのことかと >>239
「応に住する所無くして、而も其の心を生ずべし」の「心」というのが
眼耳鼻舌身(六根)とかに思いをつけていない(主体対象に分かれていない)
本来のありよう(面目)ってやつで
これを「不生不滅」と呼んでいると思う
これに気付きまみえて、そこに居るようにできれば
生死の不安というのも無くなるか減るかでは?
「生死」は生死として現れではあるけど
生死に引っ付く「失われる不安や恐怖」は
「生死」という対象に引っ付けた思いだから >>240
六根ギリギリとは?
この言葉は、ちょっと、分かりづらいので、もうちょっと詳しく教えてくださいな
六根とは?
目の働き、耳の働きのことかな?
具体的には?
スマホ 物
目 機能
目の働きとは? >>242
「眼」でものを見て、その対象であるものが「ある」
こう誰もが思って「世界」を捉え経験してるんだよね
西洋哲学では認識論かなんかで
「そもそも人間の知覚認識はものを(正しく)捉えられているのか?」
「知覚自体が(そのもの)を捉えるのに純粋さに欠けていらのではないか?」みたいな疑問がある
今、目の前に写ってる対象(例えば私の場合はスマホ)
これが本当に「ある」のか?「(正しく)見て捉えられているのか」
という、主体と対象の存在自体の疑問になりきって
疑問そのものになる
(禅では大疑団とかいうらしいね) >>241
ほんとに?
ほんとに、そうなってるのかなあ
住するところ無ければ、そうなるね
確かに、悟っておるwww
AはAではないから
Aであるだ
住するところ無ければ、、、
めちゃんこ、むずいやんかwwww >>243
この目の前にある世界は幻である
というのではあるまいなwwwwwww
目、そして、物、そして認識活動、これらの働きが世界を仮に作っておるとしよう
だから夢のようなものだ、と
しかーーーーし、いま、現に進行中の夢は、つまり世界は、なきと言ってますでも、、、
あるもんはあるじゃないかwwwww
ギリギリで、まあ、感覚が透過して、スケスケーになったとしてだよ
はい、あなた、来週までの、お命でーす!
残念
と言われて、その感覚スケスケは、何の役に立つかな?
どーなんよ、どーなんよ、どおおおおお
なんよ? 実体はないと述べているのだよ
実体は、
実体だよ、実体
つまり、ほんとうは、ないということだろう
つまりAはAではないのだ
ところが!!
だからこそのAであると、わざわざ述べる
実体は空である、からこそ、の!
世界は、ありありとあるわけだ
ありありとあるわけだ
確実にあるわけだwwwwwww
しかし、それは、実質は、ほんとうは、幻のように、なるが、、、、
しかあーーーーし!!!!
ある!
あるのだあwwwww
この、ある、のは、前後裁断してある
というらしい
自分で書いてて自分でわかってないアホです
すいません
爆笑 >>245
「存在している」「幻である」「実体がない」
こういうのはどれも「思い」でしょう?
そのものに引っ付けてるものでしかない
対象を手放しきれたときに現れる「在り様」は「在り様」でしかない
それを直接確かめないと!っていうのが「冷暖自知」っていうことだと思う 「対象」に引っ付けてる思いってのは
言ってみれば「全て」だからね
生まれてから今まで経験した時間と空間に記憶してる
「好き嫌い」「自尊心引け目」「尊敬侮蔑」
これを手放すっていうのは思いの上で「死ぬ」ってこととほぼ等しい
ってか、「自分は生まれて、今生きてる」ってのも思いだからね
観念上ではあるけど「死んで生まれ変わる」ってのはそういうことだと 「死んで失う自分の命」そして「失うのが怖い」ってのも
当然そのものに引っ付けてる思いでしかなく
そういう思い以前に誰もがなにも変わらず活動し続けてることに気付く
「死んでもなにも変わらない」とか禅僧の人らが言ったりするのはそういうことじゃないかな 六根清浄ってのは眼耳鼻舌身意のはたらきに
今までの経験で引っ付けてきてる「思い」を落とすってことだと思う
その為に異性の容姿や性欲、心地よい音、良い香りの美味い料理とか
「対象」として引っ張られる刺激的な経験を修行として慎んで
出来るだけ六根の本来のはたらきそのものになるようにする
そして「対象」を手放せば、
般若波羅蜜多、彼岸に渡る、みたいに
そのものがどう現前してるかの様子を知る体験が起こるんじゃないか >>247
なるほど!
冷暖自知という言葉もあるのですね
冷たい暖かいと、しるのは、他のだれでもない己自身だ、ということでしょうw
あり様が、無ゆえに有になることじゃないかな?
思念と感覚の世界の違いの話ではないと思うんだよね
まあ、悪い思念を落としておくに越したことはないが、ずっとそうしてるわけにも、
あ、めちゃ可愛い女だああ♪
ルンルン
いかん、思念があ
、、、
ドウシタノハジクン、嬉しそうにして >>248
思い出すか?
生きてるのは、思いなのですか、あなたは!!!!
そんなわけあるかいな、爆笑
思念は、一番、遅れてやってきたものでしょうがwwww
生まれた時には釈迦も知らん >>249
いやあ、思いがないだけで、そのような境涯にあることはありえんでしょうw
普通、死というのは、本能的に恐怖しているものなのですよ?
例えば、まあ、これは仏教ではないですが
このような時に思い出すんです
小指を傷つけたられただけで、己を見失っているような人間が、一体、死に対抗する如何なるものがあるというのか?
まあ、これも、感覚、身体に、関する思念とは言えるかもしれませんが、、、
思念というよりも、愛着、執着でしょうね
あって当たり前のものです
死が平気というのは、まあ、、、
凄まじいものなのです 凄まじい、覚悟なのですよ
だ、か、ら
覚者なのかもしれません? >>250
そのような働きの以前というのは、つまり、生まれきたる以前、というのは、、、
無
と言われるわけで、この、無、がよく、みんなが言うわけだが
無我なのにとwwwww
しかしだ、、、
般若波羅蜜
智慧
の
完成
というものはですね?
この無という言葉の、真の意味を、いや、その真の箇所というのかな?
それを見抜いて、そこに、ズレずにいることの、いることの練習の果てに
もう、疑うことが、恐怖が消えたことかも
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