まずねえ、仏教は世俗視座を決して否定しない。
それは、例えば禅などで言われる、
「山は山でない。よって、山である。」・・・・・この最後の『山である』などの
言い回しにも表れている。

山は「実在」してるの。 栄進の嫁さんも実在してるし(空気嫁だったら知らんがw)、
国会議事堂も実在してるし、今、この書き込みを見ている目の前のパソも実在してるの。

そういうレベルでの考察においては、幽霊は実在していないし(オカルトマニアは怒る?w)
月でもちついてるウサギは実在してないのw

・・・・以上は世俗視座における考察であり、それは決して間違っていないし、
仏教もそれを否定しないわけ。

しかし、仏教はもう一つの視座を提示してくれるわけ。・・・そう、勝義ってやつね。

これは、「実在」するものなどない・・・っていうスタンス。
(後代になると、仏弟子たちが「・・・・だけは、実在する」とやりだすけど、
少なくとも釈迦仏教においては、そういう超常的、形而上的実体 というものは
是認していない。

『法』・・というものがあるけど(この語彙は実に多くの意味で使われるからややこしいがw)
これは、「真理」・・仏教的に言えば「縁起」による法則性・・・みたいな意味合いで、
決して何らかの「実体」を指示する言葉ではない。

さて、では、勝義視座においては、この世界(現象界と言ってもいいが、まあ、我々が普通に
暮らしている世界さw)・・・・をどのように捉えるのか?

・・・・・の話をしていくと長くなるし、ここの住人もウザがるだろうからおしまいねww

最後に・・・仏教の理想は野垂れ死にw
そして、野良犬に小便かけられて終了w・・・・・それ最高って思えたらたいしたもんだww

んじゃね〜w