ACIM(A Course In Miracles)・奇跡のコース 40
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
ACIM(A Course In Miracles)「奇跡のコース/奇跡講座/他」とは、
純粋に非二元論的な霊性(スピリチュアリティ)の教えのひとつで
NYのコロンビア大学医学部の助教授だったヘレン・シャックマン博士が
7年間に渡りイエス・キリストから来たとされるインスピレーションを書きとめ
編集・校正し出版された本です。(現在では25の言語で出版されています。)
ACIMはテキストとワークブック、教師用マニュアルの3つから成り、
実践を通じて真理の悟りにたどり着く事を目標としています。
JACIM
http://www.jacim.com/acim/
前スレ
ACIM(A Course In Miracles)・奇跡のコース 38
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1494430576/
ACIM(A Course In Miracles)・奇跡のコース 39
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1502976262/ 好きに解釈してよい
本人は、
入院女が間違えた心
金魚が選ぶ心
代筆の人が正しい心
と思っている
空爆というより地雷を選択した
自慰というよりレイプである
自慰(おかず付き)はこうやる 『あなたはわたしが世界を救うための
声であり、目であり、足であり、手である。』
KW博士
https://www.facim.org/online-learning-aids/lighthouse-articles/2007/you-are-my-voice,-my-eyes,-my-feet,-my-hands-through-which-i-save-the-world.aspx
抄訳
ワークブックでイエスはこう言っている、
ではこの振り返りを、あなたのわたしへの贈りものとしよう。
なぜならあなたはわたしが世界を救うための声であり、
目であり、足であり、手であるから。
形態と内容の混同によって、このメッセージは容易に
イエスが私たちの肉体を彼の肉体の代わりに使おうとしているという
特別な意味にとられうる。
重要な質問がいくつかある。
世界を救うとは何か?
世界はあなたがそれに与えたもの以上のものではないが、
それ以下でもない。それはあなたの心の状態の証人だ。
外側の写真に撮られた内側の状況だ。なのだから、世界を
変えよう[救おう]とするな。むしろ、世界への見方を変えろ。 「想念はその源を離れず」、「投影が知覚を作る」のだから、
私たちが外側にあると信じるものは内側にある。
コースの中心的教義は「世界はない」である。それは
起こったこともない「小さな狂気の考え」の投影である。
つまり問題は世界ではなく世界を信じることである。
ーなぜありもしないものが問題となるだろうー
この区別は決定的である、天国がそれにかかっている。
自我は文字通り、問題と解決の両方のありかである
心をないものにするために、
世界とそれを占める肉体たちを作ったのである。
心へと戻らなければ選び直すことはない。
天国か地獄か、神か自我か、大いなる心か世界か。
つまり救われなければならないのはありもしない世界ではなく、
源を離れられると信じる神の子の心である。
世界を救おうとすることの狂気は、だから、二つの幻想の競演である。
ありもしない自己がありもしない世界を救う。
幻想で終わる以外ありえない。 あなたに対する戦争は二つの幻想の争いだ。
勝ったほうを真実とするため、お互いを違うという。
それらと真実との間に争いはない。
お互いに違ってもいない、両方とも真実ではない。
だからどんな形をとろうと関係ない。
それらを作ったものは狂っており、作られたものも狂っている。
問題の性質を混乱することについて知っておくことが役立つ。
誤りをおかさないためだけでなく、おかさなかったとき
ましな気分でいるためにも。
自我が真実から防衛する主な戦略の一つは、真実を幻想に持ってきて
分離と罪を本物にすることである。
霊性、神とかイエスとかコースとか、霊的なものを
世界に巻き込むことである。
霊的なものが物的なものと関わる、するとそれは本物になり、
私たちも本物になる。
だから私たちは世界にあって欲しいのである、
そうでないと分離した特別な個人であることができない。
テキストにこうある、 世界はとっくに終わっている。それを作り、少しの間愛した
心の中からも、考えは消えている。
罪悪の結果ももうない。罪悪は終わった。帰結は元凶もろともに去った。
なぜ記憶にこだわる、その結果を望まないなら?
この結果とは、他人に罪をなすりつけた上での無垢、
従って罰は相手に下るという自己概念である。
そんな無垢な自分をとっておくために、
神を自分の側につける以上のやり方があるだろうか?
だから自我は見事に思考体系と世界を作る。
神をそこに持ち込み、分離したと確約するだけでなく、
そこから出来上がる世界はいっぺんに神聖で罪深く、
そしてもちろん重要だと。
こうして世界とそれを作った罪悪の幻想性反して
ーどっちもとっくに終わっているー私たちはそれを信じる。
差異をもつアイデンティティ欲しさに。 >>653
ワークブックのどの部分と矛盾している?
どうぞその箇所を指摘してください
>赦しは、罪など何一つないと見ることであり
>静かに落ち着いて何もしようとしないことなんでしょう?
これに関しても、コースのどの部分に基いているのか、
その部分を具体的に教えてください
>>655
名誉棄損で訴える人たちは赦していないのですか?
なぜあなたにそれがわかるんですか?
彼らは赦していないに違いない、だから裁判に訴えたのだ、
という決めつけは何に起因するのでしょうか わたしたちの精神全体が、わたしたちの真の実相である、本当の自己(セルフ)に対する防衛だなんて、
なんたることか。 >>664
655です
赦しを長年実践してきた経験からです
赦しを実践しながらそれに反する行動をしようとは思ったことがないです
あなたの書き込みで赦しながら肉体で攻撃しようとする人がいるのを初めて知りました
コース初心者の方だと思いますが副読本ばかりではなくオリジナルを読んだ方がいいかと 訴訟を起こす=攻撃、と見なしてしまう、
そこにあなたの攻撃性は反映されていないのか? 赦しを長年実践してきたということだか、
あなたの赦しは多分エゴの赦しになっている
訴訟を起こすというこの世界の習慣を現実のものにしてしまってる
赦しを心のレベルではなく行動様式のレベルで、
エゴによる偽りの赦しにしてしまってはいないだろうか? いくら物質を集めても、一時しか満足せず、
何か満たされない思いを抱いてしまうのは、
それが影だからなんだ。 俗にいうカルマも個人に属する。
輪廻転生という概念も個人に属する。
個人がなければ、輪廻もカルマもない。
迷った意識だけが、個人という夢をみる。
この世界は起きていて起きていない。
既に私たちは、夢の外では天国にいる、という事実。 真面目な人が鬱病になったりひきこもりになったりするが
それは真面目な人はこの世界を現実と考えているからだ
この世界は幻想に過ぎないのに現実だと間違った考え方してるから人生で苦労することになる >>664
653です
他人からの誹謗中傷を受けて裁判を起こすということは
「自分の名誉が傷つけられた…社会的信用を取り戻せねば…」といった考えであり
赦さない思いに基づいてますよね?
コースの教えは「実は何も起こってないのだ」という見方をし、罪を見て手放す
そして赦しは落ち着いて何もしないそうです
しかしあなたは、相手を赦し裁判にかけるのもアリだと言う
矛盾しててそれのどこが赦しなのか意味不明です
コースの赦し
・兄弟が自分にしたと思っていたことが実は起こってなどいなかったと気づくこと
・罪など何一つないと見ること
・赦しは、罪(神の子についての間違った想念)を見て、手放す
・赦しは、静かに落ち着いて何もしない
ワークブック編 特別解説1「赦しとは何か」本文
http://lesson.spiritual-counseling.info/acim/st1 高須院長の行為が赦さない思いだと決めつける気にはなれないな。 >>674
高須院長の行為とは何を指して言っているのか分かりませんが
赦さない思いは、これこれで〜とか
人類は共通の精神疾患などと決めつけてるのは
コースですから 人の身体を破壊するような無慈悲な人間をどうしたら何もしていない無こだと見なせるのですか?
身体を超越し続けてから言って下さい 例えば駅のホームで列の先頭に並んで電車を待っている時に後ろから押されたとする。
しかし押した人はその後ろの人から押されており、更にその押した人もまた後ろの人から押されており、という具合に何人も間に居て、最初に押した人は躓いて転んだ拍子に列の一番後ろの人を押してしまっただけだったとする。
つまり完全に偶発的な事故であり誰もが動かされていただけであり全員が被害者と言えば被害者だ。
しかしこの時に自分の真後ろの人が悪意をもって自分を押したと信じるとすればこれは幻想だ。ありもしない悪意や罪を作ってしまっている。 つまり分離してないのに分離したと思い込み勝手にプンプン怒って怖がって
ありもしない罪悪感を作ってしまっているということか・・・これは幻想だ すべては幻想とわかってればそんなに腹も立たないだろ
これは現実だと思うとマジギレしたり深刻に落ち込んだりする
この世界に現実は何一つない
すべては幻想だ だから些末なことひとつ幻想だというのも、究極イエスのように身体を害されながらも幻想で何もしていないのだから赦す、と言うことが本当に出来なければ、赦したつもり、出来たつもりなのではないですか?この世で肉体をもっている身では それが出来る人間は少ないよ、てか現実的じゃない>>683
赦す(((べきだ))))、べき論になってしまったら更に歪むwww
何をされても赦すというか、受け入れる、見逃す、ようするに
されるがままにされっぱなし、それが平和に繋がるか?
繋がらないよww、じゃあどうするか血みどろの戦いをするか?
…だから智慧がいるんだよ 心の中では怒りや恨みが渦巻いているのに、その感情を(((赦すべき))という
考えで蓋したらどうなる??そのエネルギーは(エネルギーなんてのみ幻想っちゃ幻想なんだが)
憎悪が消えるか?そんなわけねーし
肉体を傷つけられた、尊厳を踏みにじられた、想像してみよう、
目の前で大事な人が惨殺されたら?赦せるか?一生かかっても難しいよね
時間が癒す部分もあるけど…
日本人の観念…というか日本昔話的な感覚だと
盗人がいて、善人の家に泥棒に入ったら、「あなたもお困りでしょう」と言って
善人も貧しいのにお金とか飯を差し出した、
すると盗人は改心してそれからは良い行いをするようになりました
めでたしめでたし…って確かにそういうこともある、あるけどね
しかーし世の中そんな甘くない、改心するどころか何度も盗みに入る盗人ww
それどころか主人を追い出し家を乗っ取り、娘を手籠めにして売り飛ばし…
そういう奴いっぱいいるからww
しかしあれだな、日本人は弱いもの苛めはしない、そういう人多かったのにな
最近じゃ弱いところを狙って攻撃する、どこへ行った日本の美しい心は???
と思うことが多々ある、すごく残念だ…弱みをみせるととことんやられる
優しさを見せると付け入られる、こういうケースに公式ない
ケースバイケース相手を見て対応しないとね、でないと善人がバカを見ることになる 日本の美しき心
卑劣な行いをすべきではない、弱いものを苛めるべきじゃない
弱いものを助けるのが良いことだ、等々も観念ていうか価値観だから
世界中の人が↑のような価値観持ってるわけじゃないし
溺れている犬は棒で叩けって諺…また悪口になってしまうなww
それどころか弱みに付け込まないのはバカだという価値観で生きてる人もいるし
仏様だって慈悲深いお顔の仏様ばかりではない、憤怒の形相の怖い仏様もいる
悪から守って下さる…
それにACIMでの許しってのは、って続きはあとで書くかもww >>673
>他人からの誹謗中傷を受けて裁判を起こすということは
>「自分の名誉が傷つけられた…社会的信用を取り戻せねば…」といった考えであり
>赦さない思いに基づいてますよね?
赦さない思いに基づいている、というあなたの決めつけ、思い込みを
まずは赦すことですね。
たとえば会社の名誉を傷つけられるようなデマを流されたような場合、
それは自分だけではなく従業員の生活にも支障をきたすかもしれない。
社会的な手続きとして訴訟によって名誉の回復を図るのは、
この世界、少なくとも法治国家におけるルールのひとつと言えるでしょう。 >コースの教えは「実は何も起こってないのだ」という見方をし、罪を見て手放す
>そして赦しは落ち着いて何もしないそうです
>しかしあなたは、相手を赦し裁判にかけるのもアリだと言う
>矛盾しててそれのどこが赦しなのか意味不明です
あなたの誤謬は、赦しを心のレベルではなく行動規範のレベルにおいて
解釈し判断していることです。あなたは赦しを、○○でなければならない、
○○するべきである、という教義として捉えてるんですよ。
それは単に抑圧しているだけです。ニセの赦しです。
この社会、我々が現在のところ実在していると見做しているこの世界において、
それぞれの地域・時代において生じうる様々な事象に対して、
その行動規範を変えるのはコースの教えていることではありません。
コースはその地域・時代における様々な事象を教材となし、
それらを「心のレベルにおいて」聖霊に委ね、聖霊の視点を選び直す、
ということを教えているんです。「行動規範」をある特定のスタイルに正すことではありません。
あなたのイメージしているような聖人や善良な人らしく振る舞う、ということではありません。
コースの実践はその実践者が生きているその地域・時代を支配しているルールを逸脱し、
風変わりな人間として生きていくことではありません。
その実践者が生きている地域・時代においては戦争に参加することにもなるでしょうし、
その戦争で敵を攻撃しなければならない状況にもなるでしょう。
しかし赦しとはそのような外的な行動様式を変えることではありません。
その人の心のレベルではそれらの事象を教材となし、聖霊の視点を選択し直すということです。
その結果として戦争は早期に集結するかもしれないし、そうはならないかもしれません。
しかしそのような表面的な現象は実はどうでもいいことなのです。
それらの事象は本当は起きていないのだから。 >>685
日本の美しい心とか昔はよかったってのは考えるまでもなく幻想。
この逆の昔は悪くて今は良くなったっていうのも幻想。
前者は主に右翼が好む思考で後者は左翼が好む思考のようだな。
しかし極まってくると誰が見ても妄想と思えるレベルにまで行ってしまうことがある。
気づかないのは本人だけ。 赦しながら訴えるなんて器用なことはできないです
行動規範も心から生じているので、心のレベルで許せば行動規範も変わるでしょう
赦しは私の行動様式をまったく変えました
変えようとしたのではなく聖霊の導きで自然に変わるものなのです
行動規範が変わることを恐れる必要はありませんよ 聖霊の視点で選び直すことを理解して入れば大丈夫です
聖霊の視点は自分の行動様式とは異なる場合もあります
恐れず声を傾けて信頼しましょう それはエゴによる赦しになるんだよね
赦しの結果、行動も変わらなければならない、
というのは
行動は変わるかもしれないし変わらないかもしれない
ACIMは原因についてのコースなんだから
結果の現れかたには頓着しないんだよ 99.9999%の人は分離の世界で生きている現状・・・。
こちら側は、赦しを実践していても(誤りをスルーしてみないようにしていても)、
相手が何らかの投影をして、攻撃してきたり、濡れぎぬをかぶせようとしてくるのは、
避けられないのだろうか? 悟る、またはそれに相当する状態にあると、全てはこれでよしという納得ができてしまうから、訴訟をする必要性を感じなくなるかもしれない
訴訟をしないことで周りの人間が怯えてしまうようであれば、殴ってきた人に執着しないまま、恐怖の原因を取り除く手法の一つとして訴訟を検討するかもしれない >>693
避けられない、というか、それも投影であり幻想。 イエスご自身も、世の人の投影により十字架にかけられた。
彼は自分自身が何者かがわかっていたので、何の影響もなかったが、
今現在も、彼が生きていた時代と同じことが行われている。 すべては存在していない
宇宙、太陽、地球はすべて存在していない
存在しているように見えるのは自我の魔術で催眠術にかかっているだけだ 目覚めなさい!
ってチラシ駅前で配ってた宗教あったよw >>687
>赦さない思いに基づいている、というあなたの決めつけ、思い込みを
まずは赦すことですね。
決めつけ思い込み言われても、赦さない思いの指標はコースの教えによるものですから
それに私は学習者ではありません
赦しはあなたの役割りです
>たとえば会社の名誉を傷つけられるようなデマを流されたような場合、
>それは自分だけではなく従業員の生活にも支障をきたすかもしれない。
そういった思考様式を怖れの感情に基づいた裁きだと気づかないのが不思議です
いや、認めたくないのか…
・赦そうとしない者は価値判断をせずにはいられない。赦すことができずにいる自分を正当化してしまうからである。
(コースより) >>688
長過ぎ
>コースの実践はその実践者が生きているその地域・時代を支配しているルールを逸脱し、
>風変わりな人間として生きていくことではありません。
ルールの逸脱って、、、
我々の社会では、誹謗中傷にあったら裁判を起こさなければならないという規範はありませんし、
裁判を起こさないからと言って風変わりな人間だとは思われませんよ
>その実践者が生きている地域・時代においては戦争に参加することにもなるでしょうし、
>その戦争で敵を攻撃しなければならない状況にもなるでしょう。
>しかし赦しとはそのような外的な行動様式を変えることではありません。
>その人の心のレベルではそれらの事象を教材となし、聖霊の視点を選択し直すということです。
話が戦争にまで発展していますが、、
聖霊の視点は、いかなる場合も攻撃を放棄するものです
コースのどこに場合によっては攻撃もやむなしと書いてあるんでしょうか?
>しかしそのような表面的な現象は実はどうでもいいことなのです。
>それらの事象は本当は起きていないのだから。
本当にそう思えるなら、デマを流されても何処吹く風と平気でいられるはずですが
あなたはそれが出来ないのでコースを自分の都合のいいよう歪曲して解釈しています
それこそニセの赦しですよ >>701 >>702
ああ、なるほど、いつものあの方ですか。
原因についてのコースのDVDをご覧になれば
私が書いたことをそのように曲解はしないはずですが、
あなたはいつものようにネットで拾った断片に基いて批判するのが目的でしょうし、
決してDVDを見ることもないでしょう。
ではどうぞ納得いくまで「正しさ」を追求されていかれればいいと思います。 宗教の陥りがちな罠ってのがあってね
宗教だけじゃないけどさ、若い皆さんは知らないだろうけど
わたしもその時代をリアルに体験してるわけではないがwwうろ覚えなんだが…
ヒッピーってのが大勢いた時代があった、当時の流行りだったんだね
ハッパ(マリファナ?)吸ってラブ&ピースでハッピー?な自由な方々
ただ平和だ〜愛だ〜戦争反対のプラカード持って行進したり、集会開いて
ハッパ吸ってセックスして毎日ハッピーなら世界は平和
…にはならない、現実になってないww
力の支配とか旧来の価値観への抵抗のひとつの形だったんだろうけど
単なる現実逃避に終わった…
チベット見てみ、彼らは平和主義者で宗教者は抗議のために中国人を傷つける代わりに
自分に火をつける(焼身自殺)内心は怒りで渦巻いているのに
他者を攻撃することはしないってのが彼らの信念なんだろうね、そのことは尊いけど…
あれだよ、心の平和を保つことは必要だけど、もっと大事なのは
現実的であること、神や聖霊に平和を祈りつつも、ただ平和〜wwなだけでは
平和を保てやしない、それが現実ww そういえば、神使か不死現にパーサだったと思いますが、
強盗に遭ったら股間を蹴り上げる、という一節がありましたね。
アセンデットマスター自身が赦しができていないじゃないか、
と正義の突っ込みをされればいいのではないでしょうか?(笑) ところで
>それに私は学習者ではありません
ということですが、長年赦しを実践してきた、と書いてませんでしたっけ?
それとも別の人なんですか?(笑) コースの有名な教師、マリアン・ウィリアムソンは政治に関わっているらしい
誤解のないように、「今こそ政治活動しましょう」と言うつもりはない
人には役割がある、向き不向きもある、神が用意して下さった(別の言い方すると
天命って奴ね)役割に従えばいいけどさ
ただ平和〜なだけじゃダメなのよ、アグレッシブに行かなくちゃww
コースは忘れて
無駄にエネルギーを使わないために、心は平和にして置いた方がいいけどね
心が凪のときアイディアが閃く、心が乱れていると光が届きにくいから
ていうかエネルギーを怒りや恨みつらみ、過去の後悔や罪悪感に費やすのって
無駄なんだよね、あと葛藤とか、過ぎてしまったことにエネルギー向けても
駄々漏れしたに等しいし…心は前向いてないと、そのための赦しって考え方もできるww 666神も仏も名無しさん2018/01/09(火) 16:34:27.52ID:O2QWNvS9
>>664
655です
赦しを長年実践してきた経験からです
赦しを実践しながらそれに反する行動をしようとは思ったことがないです
あなたの書き込みで赦しながら肉体で攻撃しようとする人がいるのを初めて知りました
コース初心者の方だと思いますが副読本ばかりではなくオリジナルを読んだ方がいいかと このスレでも繰り返しいろんな方が書いてきたことだと思いますが、
シーザーのものはシーザーへ、です。
この社会に我々はリアルに生きていると現在は捉えています。
そうである以上、社会の中で普通の社会人として生きてく必要があります。
お金がなければコースの教材も手にすることはできません。
すべて幻影だから、と信号を無視して運転すれば大参事を招きます。
食べなければ飢え死にしてしまいます。
コースの赦しとはそういうレベルで実践することではありません。
原因のレベルにおいて人知れず実践されていくものです。
この社会の中での言動にそれを価値判断の基準として当て嵌めようとすれば
それは結果についてのコースということになってしまいます。
何が原因であり、何が結果なのか、
コース特有の基本的な前提が欠けているからこそ、
この批判者はいつも頓珍漢な言いがかりをつけてくるわけです。 >>688
このレス完璧でしょ?
コピペしちゃったけどwww >>662
これもいいね
詩的なところもいい
どっかの抜粋かな?
オリジナル?
ハートにきたよ ラブ&ピースとか言って平和運動する人間はこの幻想世界の内部に平和な世界を作ろうとしているからな
エゴが作った幻想世界で平和な世界などできるわけがない
平和は幻想世界を超越したところにある >>711
あなたは赦しを、他者を攻撃する武器にしてしまっています。
私は赦しを知っている、あなたは知らないと。
あなたは赦しを言葉では理解している、と言うより
まだ無罪性が見えていない。
つまり、知覚の訂正が起こっていない。 まとめ
赦しは死後天国に行くためのもの。
生きているうちは脳内で赦しの思想をリピートしながら、肉体では必要に応じて攻撃する。 知覚の訂正が起こってないから赦しが必要なのでしょうが、起こってないと赦せないですよね
どうするんですか? エゴの世界には揺らぎがある
神の世界には揺らぎが一切ない
苦しみも喜びも何もない
神の愛とは無 聖霊とは神を求める心の作品であり実在しない
神の国とは揺らぎのない世界のこと
神という意識があるわけではない
神の国を夢見る人が擬人化したもの 質問ですみません、コース的にどう対処するのがベストでしょう?
子供の習い事で一緒のママがいて、以前は仲良くしていたが、子供がやや乱暴
でお菓子をとっていったり小さい問題を起こす子で親も一見優しそうでよさそうだが
たまに見て見ぬ振りしたりたまに人を利用したり子供かわいさにうちの子は悪くない
と思いたい人だと何年もたってやっとわかった。しかし普段はそこまで悪人ではないし
人当たりも悪くないし気づいている人はあまりいなそう。しかし自分の仲の良いママは
嫌がってなるべくかかわらないようにしたり話さないようにしているが、自分はその人に
冷たくすると罪悪感が湧いてきて、自分を責めてしまうようで、考えすぎてストレスで
風邪で寝込んだり。
これは私が相手を許すべきなのか、それとも相手を許せない自分を許すべきなのか、
困っている人を助けないと罪悪感を持つ癖が良くないのか…←これがエゴならその人を
無視したほうがいいの?
実生活では実際どのようにすべきか(一緒の車で行ったり、一緒に向こうで過ごしたりも
していたが今急にやめてるので不自然だし、すごく仲良くするか、完全に離れるかの
2択しかない感じでなるべくかかわらない〜がむつかしい状況です)
昨日罪悪感に負けて仲良く話してみたら子供はそっちのほうがいいよ、というし
何がエゴなのかよくわかりません… コース的に対処するのをやめるのがベストw
ええかっこしいをやめる。
言うべきだと思ったら、直接相手に言う勇気をもつ。
言うべきことを言って、険悪になって、仲が悪くなってもその状態を受け入れる。
すべての人と仲良く、いい顔できるなどと優等生なことを思わない。
これくらいでだいたい事態は整理されると思うが、
この結論のためにコースが必要か?w >>718
赦せない思いは自我を容認していると自覚すること
その上で、自我ではなく聖霊を選ぶと意図すること
聖霊に正しい知覚を教えてほしいと頼むこと もしあなたがそのように選択するなら、重要でないすべてのことについては、私が制御を引き受けることができ
重要なすべてのことは、私が指導することができる。
あなたが自分の考えることを私の導きのもとに置けば、このことは自動的に私によって制御される。
あなたが恐れているとき、それはいつでも、あなたが自分の心に誤った創造をさせて
私にあなたの心を導かせなかったということの確かなしるしである。
テキスト 2-6
自分で正しく対処しなければならないという思いを手放すのは怖いと思いますが
次第に、自分では何も判断する必要はないと分かってきます。 あまり深刻にならないでテキトーにいきましょ
夢なんだから
しかも悪夢。w >>722
ワプニック博士の「parents and children」という本に
似たようなエピソードがあったような気がするなあ。
基本的には、自分がどうしたいのかをはっきり自覚した方がよい。
コースの教義がどうとかじゃなくて、自分がどうしたいのか。
たまに嫌なところもあるけれど、仲良くすること自体に
個人的に問題を感じていないのであればそうすればいい。
会う度に嫌だと感じるなら、その気分を持つことを赦して
関わるのをやめるか少なくする。
人間には誰しも好みがあるという、その当たり前の事実を受け入れ
嫌いなものを嫌いと認めることができれば、それは自分自身の赦しに繋がる。
そう言っても、赦せない人間や苦手な人間がいるのはコースの教義云々〜と
思うかもしれないが、まず等身大の自分自身を受け入れる事が重要。
ここから目をそらしては、(赦しに関しては)いつまで経っても先に進まないよ。
>これは私が相手を許すべきなのか、それとも相手を許せない自分を許すべきなのか、
困っている人を助けないと罪悪感を持つ癖が良くないのか
これに関しては相手は全く関係がない。そして相手を赦せない自分を赦すのではなくて
相手を嫌っている自分、困った人を助けない自分、要するに完璧に振る舞えない
自分を赦す。ついでに人に良く思われたい自分も赦してしまおう。
「私は困っている人を助けませんが、何か?」と自分自身に言えるようなれば
今後は義務感ではなく、助けたいと思ったときに助けたり、出来ない時も罪悪感を
感じる必要はないと分かってくる。 分厚い本読んでも、現実のトラブル対処はいつもの通りか
コースやっても人生は変わらんのだね 時間と空間というのは神から遠ざかった自我の表現にすぎない
何十億年という過去の時間はたいへん遠く感じる
銀河の果てまでの距離もたいへん遠く感じる
時間と空間は自我の神との遠さを表している >>707
>長年赦しを実践してきた、と書いてませんでしたっけ?
>それとも別の人なんですか?(笑)
混同しないでください、それは別の人です
長年実践してきた人は655
私は653と
一昨日、それぞれレスの頭に書いています
>>706
まぁゲイリーは教師と言ってもワプニックですら困惑するほどのお方ですからね
その辺どうでもいいです 笑 >>704
なるほど、いつものあの方って、、誰?笑
あなたは私を学習者の方と混同してるし
私の書き込みは半年ぶりなんですが、、
あなたの中で一体どういう人物が出来上がっているのでしょう?
>原因についてのコースのDVDをご覧になれば
>私が書いたことをそのように曲解はしないはずですが、
>あなたはいつものようにネットで拾った断片に基いて批判するのが目的でしょうし、
>決してDVDを見ることもないでしょう。
どこが曲解なんでしょう?
何も説明もせずにDVDを見れば分かるとか、どうせ批判が目的でしょうとか
体のいい逃げ口上じゃないですか
>たとえば会社の名誉を傷つけられるようなデマを流されたような場合、
>それは自分だけではなく従業員の生活にも支障をきたすかもしれない。
↑これは怖れの感情と価値判断に基づいた裁きです
それのどこが赦しなのか、妥協じゃないのですか?
曲解だと言うならちゃんと説明してください
それと戦争とコースが両立すると言うのも無理があると思います
敵を攻撃しながら心のレベルで聖霊の視点を選び直す??
聖霊の視点を選ぶならとにかく戦争は避けるのではないのでしょうか?
それともその視点は、有事の際には「世界は幻想、罪悪感なく敵を撃ち殺せ!」と豹変するのでしょうか? >>732
いや同一人物ですがw
わからないとでも思ってる?
お前みたいな奴はもうだんだん相手にされなくなってきてるみたいだけど
まあ盛り上げ役にせいぜい頑張ってね♪ >まぁゲイリーは教師と言ってもワプニックですら困惑するほどのお方ですからね
>その辺どうでもいいです 笑
おやおや、学習者ではないはずなのに随分とお詳しいことw
ずっとここに粘着して嫌がらせを繰り返していれば多少は詳しくなりますね(^^♪ 戦争で敵を撃ち殺しながら愛を延長していることはありうるってワプニク先生言ってたけどね。
自慰の続きでもやろ。とうぶん続く、、、。いいおかずだよ。 全訳
コースを見てみるがいい、世界は夢の中にしかないという
明確な教えにも関わらず、
多くの生徒がここーありもしないここ
での助けをイエスや聖霊に求める。
だがイエスは『このコースは原因(心の想い)
についてであり結果(肉体の行動)についてではない』と
私たちに教える。だからこそイエスを夢に巻き込むことが、
世界を作った思考体系を保存する完璧な方法なのである。
それは私たちを作った思考体系なのである。
私たちはコースに加わるのでなく
無意識にコースを私たちに加える。そうは見えなくても。さらには、
「よいコース学習者」として世界に広める。
行動のことを何にも言っていない言葉が、
イエスはコースを人に広めて欲しがっているという意味に
ねじ曲げられる。しかし私たちがこっそりするのは
ー自分自身に対してですらー
コースが取り消そうとする心なき分離の思考体系を
温存することなのである。私たちは自我の分離の夢から
目覚めないという隠れた決断を否認する。 しかしこれだけ執拗に嫌がらせを繰り返しても、
何ら成果を挙げられないんだから考えようによっては可哀想だよなw
何年間も粘着してて誰も賛同者がいないんだからw
こいつの実人生そのものだな♬ そうであるから、私たちは自分たちの立場を検査し、
イエスが教えていないことを実践するという
解離を終えなければならない。そもそも、
なぜ私たちはイエスがないと言っている世界を気にかけると
思うのだろう?それは無意識であっても、
故意の誤魔化しと煙幕なのである。世界は
『神の立ち入れない場所』ー神と神の愛に対する攻撃ー
として作られた、神を私たちから引き離す考えの投影として。
だから世界は神からの分離は事実で、今や天国の反対=
「私」が存在するという嘘の投影なのである。なぜ、
ならば、イエスが愛の反対として作られ
夢の中にしか存在しない世界を救いたいだろう?だが
彼はこの罪悪の幻想世界への【信念】から
心を救いたいのである。
自分自身のために贖罪を受け入れることは
罪悪の実在性を否定し、さらに翻って
分離の実在性を否定する。この心正しい否定は否認せず、
ただ自我の、それは実在するという主張を否定する。 自我の思考体系を選ぶか、聖霊の思考体系を選ぶか、それが最重要の問題だ @あなたは砂漠を夢見ており、そこにはあなたを支配し、苦しめるものの蜃気楼があるが、そのイメージはあなたから来ている。
A父はその砂漠をつくらず、あなた方の我が家はやはり彼と共にある。
B戻る為にはあなたの兄弟を赦しなさい。その時にだけあなたはあなた自身を赦すだろう。
神使、118頁 コースの目標の一つは、君たちの心を訓練して、自動的に判断するかわりに自動的に赦せるようにもっていくことだ。
こういう習慣が君たちの心にもたらす利益は計り知れないほど大きいんだよ。
パ〜てんより。 >>743
パ〜てん(ゲイリーがワプの教えを腹話術するためのパペット) したがってそれが「よい」思考体系からきていないなら、
よいことをする意味はない。さらに、よいことをすることが
私たちをいい気分にさせるなら、困ったことになる。
なぜなら私たちを真にいい気分にさせることができるのは、
不満や裁きを手放すことだからである。
これはテキストの『すべての真の喜びは
神の意志をなすことからくる』と同じ意味である。イエスは
『あなたたちは自分自身と兄弟をまったく裁きなしに
とり扱うことからくる途方もない解放と深い平和について
想像もつかない』と言っている。私たちはこの平和を選ぶことの
外的な期待や投資がないときに、この平和が起こったと知る。
もし私たちが、例えばコースの学習者として、そのメッセージを
世界にもたらさなければならないと思うなら、
コースはそれ自身を守らなければならないー私たちから。
真に癒された者はそれを世界に宣言したりしないし、
世界の救い主になるという大げさな夢想にふけったりもしない。
そんな宣言は天国において神の、夢において聖霊の役目を
奪いとったという深い罪悪感を反映する、
背後にある自己不信を明かしているにすぎない。
無意識の罪悪感は必ずや投影される、しばしば悲劇的な結末とともに。
2000年間のキリスト教福音伝道はその一例に過ぎない。残念ながら、
コースの宣教師も何も変わらない。なぜなら彼らが運ぶのは
特別性の祝福であり、イエスの排他性なき愛と心ある気づきの
メッセージではないからである。 世界の中でのコースの運命に懸念があるなら、
私たちは自我の眠っていたいという秘密の願望を
表現している。もし本当にイエスのコースに
同一化していれば、関心事はそれを学べているかどうかとなる。
何度も何度も、数々の形で彼の鍵となるメッセージを
私たちは読む『奇跡を行う人の唯一の責任は、
彼自身のために贖罪を受け入れることである』。
私たちの機能は世界をコースに改宗させることでも、
全員に届くよう見届けることでもない。責任は
自分の心を癒してもらうことである。他の
いかなることに関心があるときも、あるいは
他のコースの生徒に交わる必要性を感じるときも、
心ではなく肉体と世界を癒すことを
重視してしまったとわかる。夢から目覚めないという決断だけが
こんな機能の混乱を引き起こせる。コースを世界に教えるという
特別な仕事をイエスがくれたと信じるのである。
しかし彼のメッセージは彼のメッセージを受け入れること
だけである。それだけである。 神のメッセンジャーは神のメッセージを
受け入れることで役目を果たす。
神のメッセージを受け入れるか?そうすれば
神のメッセンジャーとなる。
もう一度言うが、もし私たちが外の世界に
焦点を合わせるなら、世界はないという
レッスンを学んでいない。もう一度言うが、
ない世界に平和がもたらされるか本当に
懸念している場合だろうか?
だからこそ私たちは自分たち自身を救う、
世界ではなく。これはしかし他の生徒に会ってはいけない
とか、世界で物事をなしてはいけない
という意味ではない。愛があると感じることをする。ただ
「重要な」仕事ができてしまうと困る。コースの
非二元的形而上学に照らして、肉体のすることが
重要でありうるだろうか?自我だけがそう考える。ただ一つ
重要なのは心が赦しを通じて癒される過程に
携わることである。そうして、赦しの教師に
彼のレッスンを学べるように求め、
夢から覚める意欲を反映する。 私たちは愛が導くようにどのようにも振る舞う、しかし
イエスはどうしようと気にしていないーそもそも
なぜできるだろう。気にかけるべきは
誰と考えるかだ、自我か聖霊か。これは
人生を極シンプルにしここでの経験を意味あるものにする、
世界を救わなければという自分で背負わせた重荷が
優しく肩から滑り落ちていくとともに。
もう一度言うが、私は行動について
言っているのではなく、行動に対する
投資について言っている。ハムレットは言った
『何もよくも悪くもない、考えだけがそうさせる』。
似たように、何も聖なるものでもそうでなくもない、だが
信念がそうさせる。ただ一つよいものや聖なるものは
自分自身のために贖罪を受け入れることである。イエスの
助けによって、私たちは自我へは受動的に、聖霊へは
能動的になる。そうすることにより、二元的世界に暮らす
役割と責任を果たしながら、私たちはコースの
非二元的な原理を妥協することがない。 >>732
ああ言えばこう言う、きりがありませんね。
あなたに対しては、原因のレベルと結果のレベルを混同している旨、
十分に説明していますしあなたが理解しようとしていないだけです。
あなたは「心」ということの意味もコースの定義として理解していません。
それであなたはどうしたいのですか?
コース学習者を方向転換させてコースに関わることをやめさせたいのですか?
あなたの目的を書いてください、と再三再四要請してきましたが、
その度にあなたは無視し続けていますね。 goddamn!
まさかの著者が自説を否定しアンチ化😱
これこそ奇跡♬ 少なくとも三度、違うときと言葉により
コースの中で私たちは私たちの責任について
言われているー聖性、奇跡、そして赦し。
聖性の延長に心をかけるな、なぜなら
奇跡の性質をあなたがたは理解しない。
奇跡自体を理解しないときなぜそれが
神の子全員にどうゆきわたるか心配する?
赦しの延長は聖霊の機能だ。
それは彼に任せろ。
あなたの関心は彼が延長できるものを
彼に与えることだけにしろ、
そして彼が永遠に延長できる
小さな贈り物たちをしろ。
彼は一つずつをとって
平和のための強い力にする。
一つ一つの小さな愛の贈り物を
全員の癒しの源泉にする。
あなたが兄弟に与える小さな贈り物の
一つずつが世界を明るくする。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています