ACIM(A Course In Miracles)・奇跡のコース 40
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ACIM(A Course In Miracles)「奇跡のコース/奇跡講座/他」とは、
純粋に非二元論的な霊性(スピリチュアリティ)の教えのひとつで
NYのコロンビア大学医学部の助教授だったヘレン・シャックマン博士が
7年間に渡りイエス・キリストから来たとされるインスピレーションを書きとめ
編集・校正し出版された本です。(現在では25の言語で出版されています。)
ACIMはテキストとワークブック、教師用マニュアルの3つから成り、
実践を通じて真理の悟りにたどり着く事を目標としています。
JACIM
http://www.jacim.com/acim/
前スレ
ACIM(A Course In Miracles)・奇跡のコース 38
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1494430576/
ACIM(A Course In Miracles)・奇跡のコース 39
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1502976262/ >>508
レベル1というのは、神が唯一の現実でそれ以外は存在しないというレベル。
大文字のMINDとmindの対比。智識と知覚の対比。
ここでは、mindそのものが存在しないという扱い。
だから、修正(赦し)は必要ない
世界はない。コースもない。聖霊も幻想扱い。
レベル2というのは、mindに関するレベル。
right mind と wrong mindの対比。
もう一つ、二つのうちどちらかを選択するmind(decision maker)というのがある。
ここでwrong mindと同一化した神の子よ、right mindを選び直そうよ
というのがコースの目的。
まあ、この辺りは説明の必要がないとは思うが念のため。
>レベル1では天国か分離かどっちかが真でどっちかが偽なんだが、
>誤りは天国が偽で分離が真としたところだ。
これは、レベル2の視点から見たものだね。
レベル2から見れば神の子はtiny mad ideaを笑い飛ばさなかったという事になる。
レベル1から見たら、神は分離の事など知りもしないという扱いになる。
>レベル1の修正は時間の外で起こり、
>時間を要さず
>時間をなくすように見え、
>時間を終わらせる。
レベル1では修正自体必要がないので
これはレベル2での話だね。
そしてレベル2での修正が時間の外で起こる。
mindというもの自体が時間の外にあるから。
ただし、知覚できる変化は時間内で感じられる。 >>512
いや、それと私が説明している事と違いはないよ。
JACIMの質問コーナーにこのトピックの説明ってなかったっけ。
なんか前に見たような気が。 レベル1での修正に耐えられるように
レベル2での修正で準備するわけだしょ
レベル1での修正が啓示だしょ
これがこのスレでときどき話題になる、神体験だしょ
レベル1での修正を通過しないと神体験に至らないことは説明してあげたほうが親切よ
レベル1での修正が早すぎるとトラウマになるっていうのと
レベル2の修正完了に支障をきたす、っていうのも重要情報よ >>514
>レベル1での修正が早すぎるとトラウマになるっていうのと
>レベル2の修正完了に支障をきたす、っていうのも重要情報よ
そんなような人
このスレにいたね〜(笑) 幻想を舐めたらマズい
幻想は苦痛をもたらすからすぐに聖霊で浄化しないと
幻想に対して無防備だと苦痛が蓄積して鬱病になる なにごともレベルがあるってことか
レベルをごった煮したら
コースは語れないよ
説明できないよ
ってことね お釈迦様は女は不浄と言ったが女だけでなく男も不浄だしすべての幻想が不浄なのだ
我々は幻想に囲まれてる、すなわち不浄に囲まれてるのだ
我々は常に不浄である幻想に囲まれてるので常に聖霊に浄化してもらう必要がある ACIM的見方というか世界観もわかりやすい?けどさ
キリスト教にある程度理解のある人向けだとは思うけど
ダスカロスの「エレメンタル」の概念ってのもわかりやすい
というか、呪いも、生霊も、式神?もタルパも因果も全部説明がつく
それどころか人格を構成しているのもエレメンタル
想念ぐるぐるも、沢山のエレメンタルの集合体(わたしがつくったエレメンタルの集まり)
興味がある人はダスカロス関連の本を読むとかしてみ
どっちが正しいって話じゃなくて、ものの見方、捉え方が違うと全く関連のないことのように一見思えるんだけど、、、
実は巨大な何かのひとつの切り口なんだよね、面白いなと思う
ACIMで赦す必要があるのも、悪しきエレメンタルっていう…
人格_自我については別の捉え方もある
低次元の自我と高次元の自我とか超自我と呼ばれるものの関係とか
わたしたちの中には複数の人格があるように見える
思い出してみよう、ギリギリ記憶がある幼稚園児の頃の考えは今と違うよね?
思春期はどうだった?二十歳とか社会人になりたての頃は?
中年以降の人なら今とケツが青かった時代と考え方も感じ方も違うのはわかるよね?でも子供〜思春期頃の自分もまだあるよね?表に出ないだけで
インナーチャイルドなんていう呼び方もあるし、ローアーセルフ(未熟な自我)
なんて呼び方もある…どんなに立派な(((大人)))(笑)でも
何かの拍子にガキみたいに我儘になったり、思春期のように気難しくなったり
することあるでしょ、または普段は崇高な人格を装っているのに
ひょっと顔を出す下劣な一面…とかね、全部自分なんだよww自分でつくった
(((エレメンタル)))なの
それを自覚して許す…ってまず自覚しないとね
人によっては自分の良い面、交流分析でいうところの「大人の自分」と「親の自分」は認めても「子供の自分」ってのは認めない
または自分のシャドーである、下劣だとか下品だとかいやらしいとか意地の悪い、悪質な一面を無視する傾向のある人がいる 未熟な一面(インナーチャイルド的な)やシャドー(影の人格)を自覚してりゃいいのよ
たまに顔を出しても、自覚があればある程度まで行くと歯止めをかけられるから
厄介なのは、認めたくない人格に蓋する人、そういう人は偽りの仮面(ペルソナ)ねww
ってのを被って、潜在意識に押し込める、どんな仮面被っているかで
その人が隠している一面が見えるんだよね…わたしにはそれが割とハッキリ見える
霊性の扉を開くには、↑の自分に嘘をついている闇(影)の部分に光を当てなきゃならない
自分に嘘をついていることを認めなきゃ始まらない
エレメンタルという概念で考えると、一度つくったエレメンタルは消えないが無力化することは
できる、つまりエネルギー(餌)を与えなければいい
浄化するものは、自分がつくった思い(考え、感情)パターンの、悪いものww
つまり高次元の自己や聖霊の波長と合わないもの、これがねぇ厄介なのよ
聖人ってのは、天(神でも仏でも宇宙意識でも)の思いと完全に一致している人のこと
でも人間には、まず欲望がある、獣性がある、悪しきエレメンタルがある、幼児性や
影の人格がある、これらを浄化しないことには、ハートのチャクラが開かない
ハートのチャクラがうまく回転する=愛とか慈愛、つまりはキリスト意識ね
これと同調するってことだから・・って長くなったな
知性と愛がバランスよく整わないと、次の扉は開かない、 準備ができていないのに、霊性の扉が開いちまうとどうなるか?
@人格が崩壊するww(これ怖いよ)Aハートのチャクラってのは大量のエネルギーを
循環させる力がある、これが開いてないのに大量のエネルギーを使えば…
身体に無理が来る、当然…エネルギーが枯渇して病気になる、ってわたしねww
未だにその後遺症引きずってるわけ、早いとこバランスとらないと
早晩死ぬなww 幻想はすべて不浄で汚い
なぜなら幻想は神から分離してるから
神から分離してるものはすべて不浄なのである
我々は常に汚い幻想に四方を囲まれて生活しているので常に汚染されている
だから常に神とつながっている聖霊のお力で洗浄しなければいけないのである >>491
自我を無くしたいというのも自我なんじゃね?
自分を個別の存在だと思い込むと、そこに自我という幻想も必ず発生してしまう。
なぜなら、幻想の肉体が想起されれば、その肉体を維持したい、維持し続けなければいけないという働きが起こる。
肉体維持
↓
自分を肉体という個別存在だと思い込む
↓
肉体という物質が滅びないための管理が必要になる
↓
本来普遍的なキリスト意識が、肉体という限定存在に閉じ込められ、完全に肉体と一体化してしまう
この肉体維持という個別性と継続性、つまりキリスト意識の肉体への同一化が、自我という現象だと思う。
肉体維持には必然的に自我という現象が生じる。
じゃあ、肉体維持をやめれば(自殺)自我が消えるのかというとそういうわけではない。
一度生じた自我は、その特別性は消えず、特別性維持のために何度の生まれ変わる。
自我を消すには、肉体への、特別性への固執が消えなければいけない。
コースはその行為を赦しと表現しているわけだけど、でも赦しを実践してもやっぱり特別性は残り続ける、
今まで輪廻で築き上げてきたカルマがあまりにも多すぎる。
とりあえず苦しまなくてもいい手段はサレンダー(あけ渡し)かな。
特別性を無くしたいという願望も自我。
その願望を、聖霊や神や仏にあけ渡して全てを任せる。
全てはあるがまま、全ては必然。
その必然を理解できず、抵抗しようとするのが自我。 >>503
ゲーリー本のテキストやワークの引用箇所をどうしても確認したかったら、
原書を買えば、不死現を除いて、巻末に索引があるよ。ただ、ACIMの原書の
ページ番号が載ってるだけなので、そっちも原書をもってないと調べるには不便。
ちょっと英語ができるなら、日本語から英文を想造して、キンドルのACIM
原書で検索をかけると、ある程度、引用元の当たりをつけることはできるよ。
それ以外の方法だと、暗記するまで読み込むしかないのかな?w イエス「わたしが贖罪だ」
イエス=聖霊
聖霊は奇跡の機構である
贖罪は奇跡の完了であり原動力である
イエス「わたしだけが無差別に奇跡を行うことができる」
イエス「わたしは兄弟の啓示準備度に気づいている」
イエス「わたしがあなた一人では受けとれない分の啓示を受けとれるよう助ける」
イエス「わたし(救済)の手となり足となれ」
コース「『あなたは』何もする必要はない」
聖霊=神の声
聖霊の声=神のための声
イエス=神の声
イエスの声=神のための声
贖罪=神の声
贖罪の声=神のための声
極少数の者だけが神の声を直接聞くことができる
神の声を間接に聞ける人はもっと多い?
それは神のための声のこと?
コース(象徴)=神のための声?
コース(源泉)=神の声?
KW博士「コースは本ではない」
KW博士「コースはない」 聖霊のホログラム
KW博士「聖霊のホログラムはない。
自我のホログラムの消滅が聖霊のホログラムである」
KW博士「コースは世界初のホログラフィックな本である」
ホログラム
部分に全体が含まれる
線形(始め→中→終わり)でない
幸せな夢(ミニ実相世界=聖なる瞬間)
正しい心
聖霊の住処
贖罪の住処?
祈り=奇跡の媒体
祈りの階梯
KW博士「わたしたちはドアを開けてどの程度イエスの侵入を許すか決める」
HS博士「まばゆい見知らぬ人(bright stranger)」
祈り=贖罪の侵入を許すこと?
神の声の侵入を許す
KW博士「全員呼ばれているが、極少数の人が聞くことを選ぶ」
神の声は呼ぶ?
啓示のこと?
コース「神は知られたがっている」
コース「世界は神立入禁止の札がかかっている」
コース「世界は罪悪感で気の狂った神の子たちがくるところ」
世界を終わりにするのに必要な神の教師の人数:1人
神立入禁止の札を撤去するのに必要な気の狂っていない神の子の人数:1人
神立入禁止の札=罪悪感?それとも小さな狂気の考え? まばゆい見知らぬ人
ー愛は恐怖より強い
KW博士
https://www.facim.org/online-learning-aids/lighthouse-articles/2002/bright-stranger.aspx
抄訳
イエスの不在に対する怒りを表現していたヘレンが、
その不在の責任は自分にあると気づいてから書いた詩。
奇妙だったわたしの愛は、わたしに。なぜなら彼が
きたとき、それはわたしの平和への侵入者のように、思えた。
見なかった、わたしは彼のもってきた贈りものや
柔らかな呼びかけを。締め出そうとしたわたしは、
彼の訪れとともに崩れ落ちる、鍵や錠によって、彼を。
彼がわたしを見る
優しさを逃れられなかった、わたしは。
嫌々招き入れ、そっぽを向いた。
彼は、だが、手を差し出しわたしに尋ねた、
思い出すように、彼を。
金色に輝いて駆け抜けた、わたしの心の中を、
奮いたちはじめた古い名が。
わたしはやっと思い出した、光がわたしを
静かに抱き、言葉が語られるまで、
そしてわたしの主を。 この詩で着目すべきはヘレンや私たちの贖罪に対する抵抗の無力さです。
平和は霊に自然に受け継がれているものだが、誰でもこれを拒絶できる。
しかし何が受け継がれているかまでは、拒絶できない。
私たちは自我の子であると信じる自由は持っていますが、
自我の子になる自由は持っていません。
罪悪は神を敵にする温床となり、この限りない怒りから身を守る術はない。
贖罪は私たちを安心させます。
自我の子にはなっていないからです。
この安心は権威からきます。神のほうが強いので、守ってもらえます。
権威主義は脅威の温床です。この宇宙で自分を守れるのは自分だけです。
神は私たちの分離を知らない、というのは権威です。
いくら自我の駄々をこねても無駄です。
ないものにどう防衛できるか。
ないものこそが防衛を必要とする。 ヘレンの詩はその点を安堵させます。
締め出そうとしたわたしは、
彼の訪れとともに崩れ落ちる、鍵や錠によって、彼を。
この鍵や錠は特別な関係のこと、
もっと言えば「秘密の罪や隠された憎しみ」のことです。
『ふるき愛』もう一つのヘレンのイエス詩です。
愛、あなたは黙っている。
沈黙があなたが
金色の約束の中で
神の子として
わたしに与えたものなの?
この何もなく誰もいない影の国が。
言った、あなたはいつも応えると。
なのに愛は、動かない。
これはヘレンや私たちが愛を去ったときに感じる無意味さのイエスへの投影です。
でもイエスは去っていません。 拒絶を捨てる者だけがその不可能性を知る。
神の力は奪われていないが失われている。
失われたものは取り戻せる。
どこにあるかを思い出したり自分で元に戻す必要はない。
なぜイエスが怖いのでしょうか?
なぜ世界を作ったりするのでしょうか?
それでもあなたは世界で異邦人だと感じる。
あなたを呼ぶ声が聞こえず、誰の声かもわからない。
それでもあなたは世界で流刑者だと感じる。
ときにわずかに、ときに途轍もなく。
なぜ私たちは世界を選ぶのでしょうか?
狂おしい記憶に苛まれながら?
誰が他人に自分を譲り渡すだろう、
自分を他人にしてしまった者以外に?
誰が家を捨てるだろう、
他にもっといい家があると信じる者以外に?
愛を恐怖、恐怖を愛と呼ぶ自由はあります。
でも真に愛してくれる者が誰かを変えることはできません。 燃えるような憎しみの底には愛が燃えています。
私たちは兄弟の愛に触れる必要があります。
『イエスの祈り』
あなたは見せてくれる
完璧な
わたしが誰になれるか
その絵姿
わたしはあなたの
兄弟の
暗くなりゆく視野を
新しくする
わたしを見るとき
わたしを見ずに
あなたを見る、ように。
すべてを包む愛は自我への脅威です。 『クリスマスの贈りもの』
キリストは誰も見捨てない。だから彼が神の息子とわかる。
そのすべてを包む優しさに、彼の触れることを知る。
彼の愛は誰の元へもと延びてゆく。
彼の目は見るものすべてに神の愛を見る。
彼の父の述べる言葉以外、彼の耳には届かない。
キリストの愛は普遍的で、自我の特別で異なる愛ではありません。
誰なのかわからぬ者をあなたは受け入れた。でもその百合の花には見覚えがあるだろう。
見たこともない古き友、その見知らぬ者の解放の中に、あなたの罪の贖いがある。
特別な関係の赦しの中で、私たちは見え、聞こえるようになります。
すべてを同じにすることで、この年を違うものにしよう。
私たちが拒絶してもイエスは手を差し伸べることをやめません。
それが彼の言葉であり、贖罪です。
キリストは誰も見捨てない。だから彼が神の息子とわかる。
終わり >>538
殆どの部分は才能とは関係ない技術だよ。
むしろ才能のない職人が最も優秀な翻訳家になれるというイメージ。 >>539
まあ、
まず基本は英語の読み書きができることだよね、最低条件w
次に
その翻訳文章分野内容に精通理解してないといい翻訳にならないだろうし
言語変換して正しい内容を伝えるって技術いるね
アプリで変換してもなかなかイミフだし
翻訳って謎解き要素もある
言葉選び
ほんと
凄いな〜
職人技。 聖霊が降臨憑依しての
自動書記翻訳とか
神がかり的な完璧な翻訳になるかも すべて同じなのが神
この世界はバラバラだからな
人間は顔も性格も全員バラバラ
個性が大事とか悪魔のささやきでしかない
この世界はみんな勉強、仕事で特別になってチヤホヤされたがる異常な世界 星野仙一、真屋順子、
新年早々夢の登場人物が次々いなくなるなぁ。 この世界は自我の悪魔が作った世界だからすべてがバラバラ
バラバラに分裂させてあの人は凄い、あの人はダメだ、とか優劣をつける
特別性とか個性が大事とか、バラバラにすることが好きな悪魔が喜ぶような言葉だ 世界に残虐さを投影して嫌悪するのも、自己嫌悪の一種かもしれない。
世界自体はニュートラル。
中立なもの。
そこには、もともと何も書き込まれていない。
贈り物はすでに受け取っているはず。
世界(ゆめ)を嫌悪する心を手放して、
キリストの顔を見れるように、なりたい・・・。 >>541一時期霊能者巡り?をしたことがあった
どのレベルの霊と交流があるのか見て観たかった
…憑いてる憑いてる…いやwww
悪意ある霊を守護霊だと言ってそのメッセージを伝える(((霊能者)))が
いるからね、業界?スピリチュアル界隈も玉石混交だ
ちなみに、耳元でぼそぼそ言ってくるのはお化け、ゴーストでスピリットじゃないから バラバラと言えば
ACIMの教え、仏教の教え…といっても様々だけどね、最近本屋で増えてきたのが
ヴィパッサナーだな、わたしが前世で修行した(詳しくは覚えてないけど)密教系仏教
禅の教え&修行、ヨーガ(これも色んな種類がある)に西洋のヨガと呼ばれる
カバラーの教え修行体系、世界中の有名な教師…ダスカロス、クリシュナジ…
エックハルト・トール、マハリシ、古今東西にさまざまいる
様々な形態の教えがある、
わたしが師事した先生は神道系だったし…教えの基礎に神道的考え方があった
わたしはまるでモグラみたいにあっちこっちに潜っては顔出しているww
モグラがいいうは思わない、例えばACIMひとつとっても完全にマスターするには
一生かかると思った方がいい、他の思想と修行体系もそうだよね 神秘学ではないけれど…トランスパーソナル心理学やユングの心理学も
形而上学と通じるものがある、あと量子力学ってもの神秘主義と親和性があるのな
頭悪いし理系音痴だからよくわからないけど
でもって若い頃は、それぞれまったく違う世界観に基づいているように見えて
何が正しいのだろうと本気で悩んだことがあった
何が間違っていて正しいのか?という視点でものを見なくなった
巨大な何か(多分人間のちっぽけな脳みそでは完全に理解できないもの)を
どのように観るか?その見方や切り口が違えば違って見えるけれども
全部同じだと思うようになった 理解の仕方の違いかな…基礎になる考え方の違いで
表面的な世界観が違って見えるけれど、共通する概念は多々ある、見る角度とか
切り口が違うとニュアンスが違うってことはあるけれど
あとフォーカスするところが、五井先生ならエゴの思考体系(想念ぐるぐる)と
守護霊守護神ってところが、ACIMに似ている、ACIMにもエゴの思考体系と
スピリットの思考体系(これを潜在意識に植え付けるためワークがある)
聖霊…これを守護天使と言い換えても同じ、仏教にも通じるところがあるし
ダスカロスならエゴをエレメンタルの集合体(もっと広範に使える概念でもあるな)
私の先生は人格とエネルギーのフォーカスを強めに当ててたな エレメンタルって概念はなんつーか、使える概念だな
エレメンタルには良いもの、どっちでもないもの、悪いものがあって
特に性質が悪いものをわたしは妄念体と呼んでいた、(これはね見えるんだよw)
わたしがネズミwwみたいにあっち齧りこっち齧りしているのは
高校がミッションスクール(前世で修道僧だったことがあった)
前世で密教僧で病気治したり、雨降らしたり、悪霊の調伏なんかもやっていたw
なぜ神道の先生と縁があったのかはわからないが
こういうやり方が良いとは思わないけれど、ひとつの概念にこだわり過ぎると
些末なところに囚われるようになる危険は回避できるなと思う 概念ってのは、地図のようなもの・・
作業仮説として使えるってのが持論、こういうマルチなやり方が正しいのか
どうかは…概念は良いとして、修行の方法はひとつに絞った方がいいのかもな ぐるぐるはもういいよ(ง ื▿ ื)ว (ว ื▿ ื)ง (ง ื▿ ื)ว エレメンタルは自分がつくったもの、その集まったものがエゴ
これを自覚して浄化(ダスカロスなら無力化)するのが大変
もちろんエゴの思考体系からスピリットの思考体系と言われるワークの考え方を
インストールすれば、そっちにエネルギーを取られなくなるってのはあるけどね
でもそれだけでは不十分なような… アシュターバクラギーター読んだら、コースを縮約した内容でびびった。
神の使者で、ゲーリーがイエスからメッセージを受けとる部分がある。
「この世を無意味なものとしなさい」
このメッセージの前後を含めて、アシュターバクラギーターに瓜二つな表現が存在する。
アシュターバクラギーターからパクったとさえ疑ってしまう。
あるいは、コースとアシュターバクラギーターのソースは同じかも。 じゃあ本書け。
出版は面倒だからAmazonでいきなり電子書籍だけ出すと良い。 この世界(ゆめ)では異邦人だけど、
ゆめの外の実在にはアイデンティティを確立したい。
そうはいっても、この世界はこの世界で、怒ったり否定的になったり攻撃的にならないで、
上手に付き合いたい・・・。
https://youtu.be/3l1LFUd6MI0 大きな声で主張するのはいつも自我。
自我の声が騒々しいと聖霊の声なき声が聞こえない。
聖霊は奥ゆかしいお方なので、
我先にと主張しない。 イエスが本当にこの世を無意味なものとしろと言ったのか
どういう意図で言ったのかは知らんけど
この世に生まれて来るって大変(らしい)、神々の空間ってところ通って
ちゃんと生まれて来れただけでもラッキーってくらい
でもって生まれて来たいと熱望する魂がたくさん待機している
この世に生まれるってことはチャレンジであると同時にチャンス
って。。。
わたしはわたしでACIMとは若干?異なったというか違うアングルから見た
世界観を持っている、それを体系化して本を書きたい気もするけど
…まだ不完全wwハウツーの方が…自分が体現者にならなきゃ、
本出す意味ないしな、まず体現することそれが難しい、
この人生で目的を達せられるか、ビミョーになってきた…
いやいやコップの水はまだ半分あると前向きに…ホーリースピリットにわたしを
使ってもらうしかないんだろうな、独力では無理…もう限界、降参ww ACIMの教師で実際会った(講演を聴いただけ)ことがあるのは香咲さんだけ
あの方が体現者かどうかはわからないが、光が見えたことは確かだ
光の存在がいる(聖霊なのか守護天使なのか知らんけど)
他の人は知らない チベット仏教系の
虹の階梯とかいう本に書いてあったね
人間に産まれるには
太平洋にポカポカ浮いた瓶の蓋に
千年に一度だけ
海底から海上に顔を出す
ウミガメの頭が
そのポカポカ浮かんで流れている
瓶の蓋にパシッとハマるより
何千倍も難しいことなんだって!w 肉体がなければ解脱できない、
だから神々さえもその必要性から肉体を纏うため
この世界にやってくる
…とヨガナンダかあるいは別のヨギが言っていたと思うが、
これはACIM的にはどう解釈すればいいんだろうか? 幻想世界はすべて狂っている
なぜならすべてが二元論だから
例えばプロスポーツ選手は運動音痴がいるからプロスポーツ選手が成り立つ
すべての人間が運動神経抜群だったら希少性がないからプロスポーツという職業は成り立たない
同様にイケメンも不細工がいるからイケメン俳優という職業が成り立つ
この世界は一元論の神の世界とかかけ離れた二元論の狂った世界なのである イエス「救済のためにあなた側がしなければならないことが
これほど少ないことは自我にとって屈辱だろうが」
救済のためには何もする必要がない。
でもイエスの手足にはならないといけない。
イエスの手足になる=何もしないこと? ひと粒の砂さえも兄弟である。
この世のムカつく野郎どもを赦す=赦し
という解釈はおkなのか?
世界の中で世界を赦す
決断の主体は世界の中にはいない。
自我ではなく聖霊を選ぶことが赦しで
世界の中でどう行動するかは予測がつかない。
世界の中でムカつく兄弟に怒らないようにするのは
自我がコースをやっているのでは?
世界の外で聖霊を選択したらムカつく兄弟には厳しい指導をするとか
離れるとかハッキリ言ってムカつくことを知らせるとかなる可能性はないのか? 世界全体が狂ってるんだから特定の人間に対してあーだこーだ言っても根本的解決にならない
嫌なムカつく奴を生み出したのはこの幻想世界なんだから幻想世界全体が狂ってるのである
神の世界にはムカつく奴などいないのだから この世界の人間は顔、体型、性格、能力すべて異なり分離している
分離していること自体が神にケンカ売っている
神の世界で分離は有り得ないから
人間はバラバラに分離して神にケンカ売っておきながら正月には初詣で神に助けを求めるとかまさにキチガイとしか言いようがない 3次元の道筋を表すのに2次元の地図を書くが
あれだ、四次元五次元をこの世の言葉で…概念で説明しようと思うと至難の業
言葉ひとつとっても、例えば「神」、キリスト教圏の((神))と日本の神はイメージが全く違うからね
日本は何でもかんでも「神」にしてしまうというかww
付喪神とかさ、蛇神とか犬神とか荒神さまとか果ては祟り神なんてのもいるw
それに神と離反したことによる罪悪感?何それ??って感じ
日本人は生また時から氏神さまに温かく迎えられている感覚がある
いまいちピンとこない、神に纏わるストーリー(神話)が全く違うんだから
神のイメージが違って当然だが…
概念を超えたところに行かないと、そこへ行くための道標としての概念だから
地図だから、2次元の地図と違って膨らみのある?立体の?地図は切り口によって違って見える、多様性があって当然、
わかりやすい地図を選べばいいんだよ、ただコースは必須だと書かれているが コースが「必修科目である」というのはヘレンに対して個人的に語られたこと
しかもある種のジョークとしてね >>571
肉体をもつことで極端な孤独感や孤立感、心身の痛み(ACIM的にはすべて幻想なんでしょうが)を味わうことで
神との融合状態のありがたさを知るためじゃね?
すべては神の子の好奇心から発生
吹雪の中を足の痛み抱えてぶるぶる震えながら歩いていって、
暖炉のついてるコテージに着いたら心底ほっとするでしょ そんな感じ 世界の中にひとりでも嫌いな人がいるならば、
その人は悟っていないんだよ。
その人も自分自身の心の投影だから。
そういう意味では赦すというのは、
簡単じゃないし、普通はやりたがらない。 >>585
ワプニックお気に入りのクリシュナムルティ曰く
「悟っている人は世界全体を愛してるとは言わない」
悟っていようがいまいが当たり前だろう 嫌いな人が一人もいない人なんているのかな?
そんな人に会ったことないぞw 世界の中に好きな人がいても悟ってないんじゃないかな?
それとも世界の中に人がいる間は、とか。(不安)
わかんないけど、自我が誰かを嫌わない(好かない)わけはないんだから、
それがなくなることは諦めて、
それをやってるのは自我で、自分はその自我を自分と思いたがっているが、違う。
聖霊はその選択が誤っている以上に、苦しいからやめろと言っている、
別に罰しようとか笑おうとかは思っていない、助けようと思っている、と覚えておいて、
逆に自我を自分と思うことにはなんか本物のメリットがあるかどうかを
糞正直に調べてみたらいいんじゃないかと思う。
好いたり嫌ったりする心を自分だと固く信じることで神を寂しくさせていることも
思い出すといいと思う。
神は自傷行為をやめてほしいだけで、何かを押しつけようとしてるわけじゃないし
無理に反省するなんて苦行は赦し=「自分への贖罪を受け入れる」とは
真逆だ、
くらいに思ってもいいんじゃないかね?
自信持ちすぎかね?
もうちょっと謙虚がいいのかね、それともやはりそれは、自我の偽の謙虚さなのかね。
やっているとよくわからなくなるね、本読んだり人の体験談聴いてるときは
ばかじゃねーのってゆうくらい見えんのにね。
むずっかしいね。 そして寒っぶいね。たまにはコースを捨てて熱いラーメンでも食うといいんじゃないかな。
それこそなんだか逆にできないね。
コースがなんなのかわかった頃にはきっとコースなんかやらないでラーメン屋やってるかもね。
なんていうかわかんないけど。
好きも嫌いもなく人間を一人も見ず世界を知らない心はもう持っているんじゃないかね。
改めてそうなろうとするんじゃなくて、埋もれたその心を自分と認めてもいいんだよ、
自分の聖性を疑って一生を過ごさなくていいんだよっていうのがコースじゃないかね。
だから一生付き合えるほど小難しくて毎年やれるほど分厚くて毎日やれるほど細かいんじゃないかね。
なんかこう、世話焼き的な意味で。
考えすぎかね。
イエスは厳しくしてるんじゃなくて丁寧にしてるんじゃないかね。
それって、なんか、情熱的に心配されてるよね、そんだけの価値がないものを
イエスが守るかね。
僕らの心はイエスが言った豚に真珠を与えるなの、真珠の方なんじゃないかね、
豚じゃなくて。
だって、自己嫌悪をやめろって書いてあるよね、1000ページくらい。
これ人間がやったら、命懸けのラブレターだよね。
思い込みすぎかね、それとも
ちょっとは意味が通じ始めたのかね、自分では、わからねえ。 自分の内にあるものを先にみて、
その後に相手を判断するのだから、
先に嫌い、という自己判断をして、
色眼鏡をかけてから、
相手をみることになる。
つまり兄弟をありのままにみていない。
嫌い、という嫌悪感は、自我が自分のことを嫌悪している感情。
自我の自己嫌悪が直接自分の中にあるのは嫌だから、
相手に原因があると、相手になすりつけて、
相手のせいにする・・・。
これを赦していくということは大変なこと。
簡単なことじゃないけど、
聖霊に意志を示して明け渡せば消してくれるのだと思う。
そりゃ苦手な人は悟っていてもいるとは思うけど、
別に、自分から近づかなきゃいい。 ムカつくバカを赦しのレッスン材料にしても好きにはなれないよ
好きにはなれなくても愛せることはできるのかなぁ、同じことか笑
俺もお前も一つだって思えって?気持ち悪いよゲロでちゃうW
本音はこんなとこか、しかしそう思ってる自分は自我だから本当の自分ではない、そうだね、そういう作戦できりぬけようかな🙏😊 本当に嫌ってんのかなあ?
防衛として作戦としてわざと嫌ってんのかなあ?
そもそも好き嫌いは怖いの分化したやつで
ホントは怖れで
しかも神への怖れなんでしょ?
しかもホントは神への愛への怖れなんでしょ?自分の。
ということはホントは兄弟を見るたびに神への愛がバーストして
分離が吹っ飛んで世界がブッ消えそうなのを
ちょう我慢して
嫌い!って魔術使って
かろうじて特別性のしかも幻想を維持してるとしかも思ってるだけで
実際はできてないんでしょ
その嫌いってどれほど取り消しが難しいの
あんまりスゴそうに思えない
なんか異常に脆いから厳重に警備されてるだけでやってみたらすこしがっかりするほど
かんたんにきえそう
甘い?
自我もっと強い? 自分を防衛してるね
うん、それはある
だから嫌いな相手に負けまいと
相手より強い攻撃を仕掛けてる
火花が散る😠💢💣💥 なにかっこいいこと言ってんの
もう夜だよ
モテたらどうすんの 自殺したいほど嫌いだよって
自殺したいほど好きな相手に言われてみたい
ほど
自分が嫌いだよ
ばかみたいorz ものごとの見方は聖霊の見方と自我の見方の二通りがある
聖霊の見方で見ればすべてが味方に見えるし
自我の見方で見ればすべてが敵に見える >>603
聖霊の見方で見れば変質者や殺人鬼も味方に見えるの?
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