ACIM(A Course In Miracles)・奇跡のコース 40
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ACIM(A Course In Miracles)「奇跡のコース/奇跡講座/他」とは、
純粋に非二元論的な霊性(スピリチュアリティ)の教えのひとつで
NYのコロンビア大学医学部の助教授だったヘレン・シャックマン博士が
7年間に渡りイエス・キリストから来たとされるインスピレーションを書きとめ
編集・校正し出版された本です。(現在では25の言語で出版されています。)
ACIMはテキストとワークブック、教師用マニュアルの3つから成り、
実践を通じて真理の悟りにたどり着く事を目標としています。
JACIM
http://www.jacim.com/acim/
前スレ
ACIM(A Course In Miracles)・奇跡のコース 38
http://rio2016.2ch.net/test/read.cgi/psy/1494430576/
ACIM(A Course In Miracles)・奇跡のコース 39
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1502976262/ 逆じゃねえかと思い、これは自分Bは幻想だなと思ったら、
もともと自分Bはメガネみたいにそれ自体に視力があるものじゃなくて
目ん玉である自分Aの視界を遮ったり歪めたりするだけのものなんだけど、
自分Bの描く錯覚や妄想がどんどん消去されていって結果世界がなくなった。
※肉体と名前が(form and name)が一瞬消えてしまって戻ってきたときにはもう
五感と合意(sense and sense)の化けたものだっていうのが丸わかりになってしまった。
レントゲンみたいな感じでとても気持ち悪いんだが、
メガネをかけて見た景色を赦すというより
メガネを取り外してそれをかけてたことを赦すというような
明確に目ん玉とメガネを切り分ける作業に移っている感じがする。
(引き寄せとかヒーリングとかは一時期ハマったけど
メガネを新調したり着色するだけで外さないと思う)
だから人がメガネをかけていても、メガネの景色で自分や他人を見ていても、
問題は見ていることじゃなくてかけていることだろうと思うようになった。
赦すと何も見えなくなるんじゃないかって予測があるみたいだけど、
そうじゃなくてメガネも景色も含めてよっぽどよく見えるようになる。
メガネ屋さんが対照になるレンズを入れ直して視力調整するみたいに、
メガネを外さなくても見え方が変わるように手入れすることもできるようになる。
棘を外すための棘って言葉があるけど、レンズを抜くためのレンズが
コース本のような存在なんだろうなって思う。
長い。今読んだから赦しの第二ステップに酷似してたので書いた。 >>253
>まず肉体から五感が生じてるんじゃなくて
>五感から肉体が錯覚されてた。
(夢の中みたいに)
ほー
こういう言い回し初めて。 自分が、何か今問題を抱えていて、そのことのせいで、自責の念を抱いているとしたら、
その問題のせいではなくて、今自分が、その瞬間に、自分を攻撃することを、選択した、ということだよね。
つまり、傷つかざる自分(セルフ、自己)を、傷つくもの(自我)として選択した、ということだよね。
ということは、選ぶ心が、瞬時に、聖霊ではなく、自我を選択した、ということだよね。 又、
想念は原因を離れることはなく、
結果と原因はひとつの所にあるのだから、
結果を認めているということは、
原因を認めていることになるんだよね。
世界の中にある自分が抱えている問題、という結果を認めることで、
心の中に隠されて見えなくなっている罪悪という原因を、
無意識の内に認めてしまうことになるんだよね。
だから、問題ってなかなか消えないんだよね。 夢の目的が、夢を見ている人のアイデンティティを隠すことだということは、
その人が抱えている絶望に値する問題というのは、
自我が、世界に縛りつけるためにあるんだろうね。
問題(結果)があれば、心の中に隠された罪悪(原因)が、本来は幻想であっても、実在のものになるからね。
それに対処するのが赦しなんだよね。
だから、日々の日常が赦しの機会になるんだよね。
いろいろ生きていれば、対人関係や、その人が置かれている状況に応じて、いろいろ思う所があるのが普通だよね。
でも、
起きることのすべてを赦しの機会と受け止めてしまえば、もともとない世界であっても、その中で多くの人と触れ合ったり、社会と関わっていく中で、心が成長できるよね。ある意味、赦しを生きる目的としてしまえば、この世界ともうまく共存できるのかもしれないね。 たぶん、世界がないということは、問題もないんだろうから、
その辺が赦しのコツなんだろうなあ・・。
また、時たま出てくる苦手な人、いやな人というのも、
その人に問題があるのではなくて、自分で自分を攻撃する、という判断を、
自分の心が瞬間的にしているんだろうなあ・・・。 この世界が苦痛なのは神に逆らったものが作り出したから
この世界では誰でも死という苦痛を味わう
神に戻れば苦痛は消える >>228
これ色んな所に貼ってあるアフィサイトで
変なところに飛ぶからクリックしないほうがいい 変なところに飛ぶのではなく神のところへ飛びたい🐱🐥 真実は神とのワンネスしかない
自我は多様性が好きだから色々な多数バラバラの個性なものを好む 神に目覚めても大好きなピーナッツチョコレート食べれるかなぁそれが心配🐷🍫 248
>>世界に快楽や苦痛を与えるパワー、
幸不幸を決定するパワーがあると考えるのは、
小さな狂気の考えの木霊です。
木霊って何だろね?
本当の問題をみせないための隠れ蓑、
投影みたいなものかな。 >>268
肉体がなくなるあるいは意識しなくなるから、
食べたいって思わなくなるんじゃね?
でも自分は今日はチキン🍗とケーキ🍰食べるw
今のうちに好きなもの食べておこうね と思ったけどチキンでお腹いっぱいケーキは明日にしよう
なんか、神とか少しは分かるようになってから、やたらと食べなくなったわ
前は過食傾向だったのに そういえば駅前のケンタッキーフライドチキン行列してたよ🎅🐔 クリスマス・イブだからでしょうか
いま、自己概念Bから自己概念Aまで戻り自己概念Aから自己概念Bと自己概念Cを眺めていた気分になりました
その後ろに『決断の主体』さんがコッチをニコニコ睨んでいました。
それと同時だったでしょうか、聖霊からの空耳のようなものが聞こえてきたような気がしました
「バック・トゥ・ザ・ハート」
Merry Christmas そういや今日はチキン食ってないな。
でもアメリカ人とかからすると何で日本でクリスマスにチキン食うのが流行ってしまったのか謎らしいね。
KFCの宣伝が効いただけだろうけどな。七面鳥にも馴染みがないし。 クリスマスもケンチキも幻想、意味はない。
この世界の全てはエゴの創りし誤創造でしかない。
存在すらしていないものに惑わされることなく、平素と同様に淡々と過ごすべし。 クリスマスはチキンでも七面鳥でも食べて、愛をわかちあおう。
T-5.III.7. この世界は誰かに夢見られている夢なんだ
本当には何も起きていないし誰もいない
それに気づいたらぐっすり眠れるのかな
ではお休みなさい(+.+)(-.-)(_ _)..zzZZ 肉体レベルの愛は苦痛も混じってしまう
苦痛のない100%純粋な愛は神の愛だけ 肉体レベルは差別的な愛だからな
勉強、仕事できる人間にだけ愛を与える
イケメン、美人だけに愛を与えるという差別的、条件付の愛
神の愛は無差別、無条件の愛 他人の行動に起因するトラブルでこちらは一切関知していないのに、自分に影響が及んだり、自分が批判されたりすると、「兄弟とは呼びたくない他人」の存在を感じざるを得ない ツイッターで実況なんてもうずうっとやっているよ
むなしいゾ〜〜〜
リアルタイムのスピなんてドラマ化されてない手術シーンみたいに
見るに耐えないもんだよ
キレイにまとめてる人もいるからそういう人をフォロってみたら勉強になるんじゃないか?
私はコースに出会って目覚めた〜とかじゃなくて大事故で自我が壊れて助け求めてる人ですから。 心って理屈どりには動かんからな。
出てくるものは出てくる。
そこがむずかしい所じゃ。 肉体には結果をもたらしたけど、
真の原因には結果をもたらしていない。
人生には結果をもたらしたけど、
真の原因には結果をもたらしていない。
肉体も人生もないんだから・・・と言った所で、
心の罪悪感がはらわれていなければ、
いろんな思いが出てくる。 心の罪悪感が外側にいろんなやなことに変換されて出てくるから
内側の罪悪感をなんとかすることができるという話しらしいよ 心の浄化=赦し、ACIMの主要なテーマのひとつは赦しだが
どうしても赦せない、しつこい怒りに悩まされている
この怒りが害するのはほかならぬ自分自身(ギックリ腰になりそうww)
ってのもわかっているのに、怒りの感情を捨てきれない
毎日気分が悪い、顔合わせたら(幸い少なくても生きてる間は顔合わせること
なさそうだけど…)自分を抑えられるか不安だ、殴ってしまうかもしれない
愚かな自分への怒りと嫌悪感と、久しぶりに心が赤黒く燻っている
ここ数か月澄明な波動と波長を合わせられなくなった
瞑想がうまくいかない、かえって嫌な記憶がふつふつと湧いてきて
心安らかでいられなくなる、どうしたものか?? 香咲さんの本、新書版のワークブックだったかな??どっかにあった挿絵
私たちのちっぽけなエゴ(闇)_小さな黒い●は、広大な無限の空間、
命(スピリット)、または神から、存在することを許るされている、
ってのがわかりやすく描かれていた
あの図だと、のっぺりとした何もないだだっ広い空間のようだけど
自分の経験だと、スピリットの世界には多種多様の空間があって(多次元多空間)
魂は様々な空間を旅している、すべての空間で感じたのは愛…ではなくて
自分の場合は知性だった(愛のコースってのもあるんだね、邦訳されてないのかな)
ただ小説の「惑星ソラリス」のような…情味がまったくない冷たい知性では
ない感じがしたが…その空間ではその知性から常に話しかけられている
そんな感じがした、なぜその声が自我に届かないのか?? わたしがすべての空間を旅したわけじゃなくて、逝けたのは極極々一部なんだけど
そのごく一部の空間で感じたこと、全ての問いに答えがある
あの広大な空間のすべてが夢(幻想)なんだろうか? あの空間で得た答えを持ち帰れたら…と思うけど、こっち側に戻ってくると
そのほとんどが思い出せない…
無限の命に存在することを赦された闇?wエゴを通る時忘れてしまうんだろうな
エゴ=想念ぐるぐるってのは不純物の層みたいなもので、ここを浄化しないと
太陽の光がさんさんと降り注いでも、汚れた水の底は暗い、不純物で汚れているから
叡智の光が差しても意識(水)が濁っていたんじゃ、暗いままだ
それがちゃんと受け取れる人=天才と言うんじゃなかろうか?
奇蹟がくれた数式って映画にでてくる、インドのアインシュタインと呼ばれた
ラマヌジャンとか、本当の天才は魂と人格がちゃんと繋がっている
程度の差ってのはあるけどね
魂と人格を繋げる、想念ぐるぐるをできるだけ浄化する…それを妨げるのは感情
(だけじゃないけどね)
泥が沈殿しているコップの水、うわみずは澄んでいても、棒でかき混ぜると
濁るでしょ、感情の嵐が吹き荒れると心が乱れて濁ってくる…感情の渦ってのは
過去に意識を繋げるエゴの罠のようなもの、死の行進 あっちの世界に飛んで、知性から数式を教わったとしても、
わたしでは、この世界に持ち帰れないよなww
数学も化け学も何のこっちゃわからんし…
こっちでの学びは天の叡智に梯子をかける行為、なのかも
とっかかりがないと発見できない 発見できない、って違うな、とっかかりがないと掴みとれない、だな
例外的な大天才は別にして、何かを知りたいとか発見したいとか発明したい・・
そのための努力をして、あと一歩か二歩を引き上げてもらえるって感じか
人の一歩じゃないから、天の一歩は大きい…世界的な大発見をすると
世界の様相が短時間で一変する、文明の転換、多分そろそろその時期が来ている
と感じるww 想念ぐるぐるってのは、常の思いの苗床?(ベースキャンプ?違うか?)
大抵の人はその思い、想念と自分を同一視している
湧いてくる思いにいちいち反応して、怒ったり、訝しんだり、憂鬱になったりする
稀に楽しくなったりはしゃいだ気分になることもあるけど
「明日彼(彼女)とデートだ」と思うと、楽しい明日を想像して楽しくなるかも
しれないが、大抵の場合は過去にあった嫌なことを思い出して嫌な気分になる
そう、嫌な感情ほどしつこく意識に上ってくる
想念ぐるぐるは、記憶だけじゃなくて、自己イメージってのがあって
自分はこれはできるけど、あれはできない、とかここまでが限界とか苦手だ、等々、
様々な制限を自分に課している(無意識に)、それに囚われている
無限の自己の発露を妨げている 来年はいい年にしたいね。来年なんてないんだけどね。 世界がない、なんて言われると、目標をどこにおいていいか、わからなくなる、
というのはある・・。
知識欲のようなものを抑えられない、勉強したがる。
これを勉強して、知識をつければ、うまくいく、とどこかで思って、
知識の習得に励むけど、それが生かされているかというと、疑問。
これも、欠乏の原理からくるものなんだよね。
やってもやってもきりがない。
未来を神の御手にゆだねよう。 虚しい〜
空しい〜
聖霊に委ねまする。
(๑•́人•̀๑) >>292
自分もそうです、回りの人間関係もうまくいかず、自分の罪悪感の最悪な部分まで掘り下げられ露呈しているような感じです、恐ろしい
合間には恩寵もあるのですが·· 常に神の愛を感じないと
幻想レベルでも良いもの楽しいものはあるが
それはしょせん幻想レベルなのですぐに消えてしまう儚いものでしかない ねぇあのこの想念ぐるぐるの話をする人は
なぜコースのスレにかなりコースではない話をしたいの?
自分もすごくそうするのに恐縮なんだけど
なんかコースがいびつに縮められていくような気分で凹むんだけど…
あと香咲さんはコースの人ということにアメリカのコースコミュニティでも
なっているようだし日本でたくさんコースのガイドブック出したようだけど
やった人とかってどんな感想なの?
わたしはちょっと「イエスのコースが(汗」的なものを抱えているんだけど
ちょっとFIPがコースをニューエイジ化して売り出したときに
やめてほしいってFACIMが言ったときには
こういう問題のことを
言っていたんじゃないかと思うんだけどおこがましいか とはいえ幻想はすべて過去なのでみんなただ赦すだけ。 やはり正統なコースの流れを汲む神使を学んでいれば道から外れることはないぞ😁 >>303
だな
シャワーみたいに神の完璧な愛を常に浴びるとよい🛀 >>304
ああスレチに思えたらごめん
コースに出会う前、某所で高次の我、真性の知性と出会うための
研修ってのを受けてたのよ、中途半端でやめちゃったけど
全然無名な場所で宣伝とかもしてなかったと思うから知ってる人は
極々少数…(先生は神道と縁があるというか50柱の神々と直接会話が出来る人だった
だからといって神道を信仰しろとか、宗教の普及が目的では全くなくて、祝詞なんかも
ツールとして使っていたけど、天賦の才を開くってのが主目的な場)
そこで多次元多空間を旅する方法を教わって、あっち側で経験したことを
主にオカ板に書いていたんだけど、壁にぶち当たってww
知識を補完すべく色々読み漁ったうちのひとつがACIM
これってよくできていると思うの なぜそんな怪しいところに出入りしたり、オカルト板なんか覗いているかと言うと
生まれつき人のエネルギーとか霊とか普通見えないものが見える体質で
(子供の頃がピーク)
自分は頭がおかしいのかと散々悩んで、「見えない世界」を知りたいと思うようなるのは
必然だよな、目に見える世界=現象界の内奥には、別の真実=潜象界があるんじゃね?
という直感を信じて…というか日本語じゃこの世を現世(うつしよ)って言うよね
そしてあの世の事を常世(とこよ)という、こっちから見るとこの世が表、あの世のが裏
のように思えるけれども、本当は目には見えない世界の方が本当の世界、永遠に続く世界で
こっちはその世界の写し(うつしよ)に過ぎないんじゃね?
ってこの考え方は形而上学にも共通する…日本語って何気に凄いな?w すげー長くなるな…w、ACIMもひとつの概念だから、
他にも色んな見方(概念)があるのよ
その中のひとつだけが絶対の真実とは思わない
だってそれぞれニュアンスは違っても核というかエッセンスは同じだから
同じというか共通するところが多いから…それにあっち側に逝って思うのは
理屈ではあの世界を説明しきれない、説明しようと思うと必ず矛盾がでてきて?となる
人間のちっぽけな頭では、限界あるんだろうなと思う 私がコースを一番分かってるの、悟ってるの、邪魔しないで
変わってないですね 誰かに対する、苦々しい思い、残酷な思い(殺したい)は、
自分が自分を本当はどのように感じているか(自我の思い)、
または、
神に対して、自分がどのように感じているのかを、
そのまま描写しているのかもしれません。
なぜなら、外側の夢の目的は、
真の原因を隠すためであり、
自我の投影だからです。 私たちは、出来れば、そのような残酷な思いを感じていたくはありません。
だから、その、危害を与えたと思っている人に、
出来れば消えてほしいし、どこかに行って欲しいし、
あるいは、殺してしまいたい、と、どこかで思っているのかもしれません。
そうすれば、自分の残酷な思いに、直面せずにいられるし、自分は善人で、
相手が悪人でいられるからです。
つまり、その残酷な思いの原因は、兄弟にあるのではなくて、
神に対してひどいことをした、とうい内的な夢に原因があるといいます。
本当は、こんな心の底にしまってある、残酷な思いを直視したくありません。
というより、あまりに恐ろしくて直視できないといいます。
でも、兄弟が、変わりに、苦々しい人として、投影として現れることで、
自分の内面に何があるのかを教えてくれるのです。
本当は、ここを赦さないといけないんだけど、
ここが一番むずかしいのだと思う。
ここを少しずつ赦せるように、聖霊と一緒に、一歩づつ階段を上がってゆければと思う・・。
長文ごめんね。 >>314
>でも、兄弟が、変わりに、
>苦々しい人として、
>投影として現れることで、
>自分の内面に何があるのかを
>教えてくれるのです。
この文章表現いいな
気に入った。 >>312悟ってない悟ってない、だから行き詰ってると…じゃない
壁にぶち当たってるって書いたんだっけ… ああ、そうか。
スレチじゃなくて板チだと思うんだよ。
コースはオカルトじゃないから。
あとこれは香咲さんだけど
コースはスピというより悟りの教科書だから
まぜうりしないでほしい。
おかげでオカルトやスピの人が
コースを読んだだけでわかったりやったりしないまま
そのへんにあふれてて困る。
なんかそれってコースをやったけど
うまくいかなかった人とか
わからない部分が残ってる人とは違う気がする。
ワプニク先生が解説したままの
コースが自分を説明したままの
コースにしておきたい。
そしてそれをやっている人の話を聴きたい。
悟る気がある人の話を聴きたい。
その場合の困難や喜びなら共感できると思う。 中学生頃だったか、図書館にあった「ハイスピリットは上機嫌」って本を読んだこと
あった、確かに成仏した御霊で不機嫌な霊はいないんだよ、明るい、輝いている
悟った霊ってのはみんなそう、ってのは実感があった
この世とあの世の間を彷徨っている霊ってのは、暗いそして重たい波動の中にいる
こっちの気分が重たいと波長合っちゃうんだよね、ああ見ちまった…ってなる
浄化されてない霊は不機嫌というより、この世に執着があったり、この世の因業
愛欲とか恨みつらみや怒り、そういうものをまだ引きずっている…
肉体があるかないかの違いで、私たちとそう変わらない、悪党=肉体のない悪霊ww なるべく浄化してから死にたいわ…って上記の本を書いたのが五井先生って宗教家で
コースが出版される20年も前に同じようなことを言っている
https://www.youtube.com/watch?v=Q-D9fJFsSa0
想念ぐるぐるって言葉はわたしが勝手にそう呼んでいるんだけど
本心(本質)、直火、魂(スピリット)、霊っていうとお化けと混同しそうだから魂とするけど
想念ぐるぐるの向こうには、神と直結する本当の自己がある、大いなる自己、無限の自己
それの扉を開けることができたら…
というか一度の閃き、その時の感性で、一生食べていく人いるからね(才能が開いて)
そのくらいパワーがあるもんだけど、なかなか扉が開かないww
そりゃそうだ想念ぐるぐる、いや想念の波が落ち着かないと扉は開かない
なのに赦せないキーーーってなっている自分を今どーしょーかって話
って長いなww 確かに「混ぜるな危険」ってのはある、でもひとつの概念に縛られると
物事の本質が見えなくなるかもしれないよ
コースとは何か?
どんな宗教でもそうでしょ、例えば厳格なユダヤ教徒は安息日に電気のスイッチも押せないw
労働したことになるから…多分だよ、多分…聖書にある安息日ってのは
週に一回ぐらい休め、体休めないと体調壊すし、休んだ方が効率が良い程度の話だと思うんだけど
細部にこだわり過ぎというか、エゴって奴は本質をうっちゃって些末なことにこだわる
(憲法の神学論争と一緒やなww)大事なのはそこちゃう!ってところに
異常にこだわるというか、キリスト教だってそう、旧約聖書の神の性質は確かに怖い
復讐と怒りの神だけど、新約聖書の神の性質は「愛」だ、隣人を愛せ、
なのにキリスト教徒同士が殺し合ったり戦争している、
あまりに頭でっかちになるとさ、教えの一番大事な核(エッセンス)を失うんだよ 大事なのはエッセンス、
世界中の教えを呼んだわけじゃないけどね
共通するところが多い、ダスカロスのエレメンタルの概念とミゲルのパラサイト
全く同じじゃないけど、共通している、物事って、捉える角度がちょっと違うと
違う見え方になるんだよ、色んな本読んでるとニュアンスの違いや捉え方の違いを
超えたエッセンスがあるように思えるんだよね ちなみに、五井先生の宗教は別名守護神守護霊教だとご自分でおっしゃっている
守護霊守護神、守護天使でもいいけど、それを聖霊と言い換えたら?
ただ天使とか守護霊というとイメージがね、特定のイメージを喚起する
羽が生えた人とかwwご先祖様とか…聖霊というと無色透明というか特別なイメージが
湧かない、その方がいいのかもしれない
人間って特別なイメージを持ってしまうと、それに余計なストーリーをつけたしたりするから
無色透明無人格な方が「無条件の愛」を喚起しやすいってのはあるかもしれない
だけど実際守ってるのは御霊だったり…話はそれるけど
八百万の神々ってのは精霊的(アニミズムの)聖霊なんじゃないだろうかと感じている
(※個人の意見です)ww 訂正
>>318
悪党=肉体のない悪霊×→悪党=肉体のある悪霊、、、だな
>>321世界中の教えを呼んだ×→読んだ〇 頭じゃ想念ぐるぐるは自分じゃないとわかっているのに
想念ぐるぐるに囚われて悶絶する
これがぐるぐるwwしている間は、神我(真我)一体にはなれないのよ
想念ぐるぐるの浄化するのに難しいのは、理性は納得させられても
感情(とくにしつこい怒り)は抑えられない、
てかACIMを一字一句暗記できたとしても、悟ってない人がほとんどでしょ
想念ぐるぐるから解脱できりゃ神我一体の神人または聖者(スワミ)だけどさ
ダスカロスなんてそれに近かった、イエスと同じ癒しを行ったヒーラーだったし
最近まで生きてた人だとパラマハンサ・ヨガナンダとかマハリシとか…
イエスは神人の象徴だろうけど、その域に達するのは並大抵じゃない
まぁコースをしっかり学べば、年の時短にはなるかもしれないが
聖霊の声を聴ける(天の声って奴ね)人も実際少ないのでは?? 要するに何が書きたいかというと
想念ってのは勝手に湧いてくるもんでしょ、瞑想で思いを観察してみ、
何もない心の場にポツンと湧いてくる、言葉、心象、記憶、計画…
その思いがどこから出て来るか?自分の考えだと思っているものは一体どこから
湧いてくるか、考えが発生する場、そこを観察する、
無意識の領域、奥の奥までずっと観察する、を続けるとエゴとは何かが見えてくる まあでも過疎スレ頑張って盛り上げてくれてるんだからありがたいよ、
感謝感謝w この投影の原因である罪悪感は、もともと神から授かったものではなくて、
後から生まれたもの。
自分が神が創造したままの自己だということを忘れて、
自分を自我の子としてみる、という決断をしたことからくるもの。
自分で選んだものだから、
もう一度選び直すことができる。
もう、罪悪感はこりごり。いらない。望んでいない。
もう、う〇こは握りしめていたくない。
問題は、じぶん自身が表面上、何らかの問題を抱えていることにあるのではなくて、
心が、う〇こを握りしめていたことにあった。
聖霊さまイエスさま、これを持って行ってくれ〜。 コースを変えようとしてはならない@
https://youtu.be/6VvWZxeeE7k
コースが言ってることじゃなくて、
言ってないことについて話します。
いちばんでかい問題はレベルの混同です。
人がどうやってコースを読み、理解し、実践してきたことかについて。
一つ目は物質をスピリチュアルにすること。
これはコースの立場じゃない。
だって神世界作ってないから。
これじゃ問題をキレイにせず上塗りしている。
この世界の物事を聖なるものやそうじゃないものにすることも。
コースは肉体を中立だと言ってるけど、
つまり、あえりえないものはどっちでもない。
ワークブックに、世界はない、これはこのコースの中心的教えだ、と書いてある。
世界という信念はあるけど、天国は全面的実在なのでその外はない。
全的愛。 どうこの世界を使って自分を慰めてるか。
一つは神の子たちをいいやつらと悪いやつらに分ける。
毎日毎秒。
これで罪悪感が減るどころか根強くなり、なお悪いことに神の否定がキマる。
全員神の一部なのに他の一部を悪いやつにしたら全体が分離する。
ゲームなのに、被害者や加害者を見たり、そこに参加するのが罠。
世界は神への防衛として作られ、「神、立入禁止」の札がかかっている。
善悪分けてどっち側につく、誘惑は強く離れるのが難しい。
ニュースを観りゃ、やれ誰が誰を殺した犯したとか。
でも誰かのせいにしたり攻撃した瞬間、自分は自分のせいにし攻撃する。
全員繋がってるから。
んで心のどこかで最初の小さな狂気の考えをグッジョブする。
自我は隠すけど。
聖霊はみんな一つだと言うのに、自我の声を聞く。
でもこれは一発でヤメれるよーな癖じゃない。
しじゅう、真実に反して何に投資し、何を価値づけ、何を掲げているか調べる必要あり。
それっから、聖霊に気を変えさせてくれって頼む。 簡単に言うと、コースの原理である嘘を真実にもってくるってこと。
だって最初の間違いが、神の子っていう真実を肉体っていう嘘に押し込むことだったから。
そいで特別性がはじまったから。
コースの生徒の間違いは、みんなこの最初の間違いと同じ。
コースはだあれもできないくらいの規模で自由になれって言う、
で、だあれもコースを縮める誘惑に勝てない。
コースを読んでると、心がひでえありえねえと思い始める。
するとなぜか生徒はこう思う、ちがうよ、コースはそんなこと言ってないもん。
あらすてき、もう読んだこと忘れちゃった。もっとすてき、自己流に改変!
やだ、イエスのときと同じw被害者と加害者なき光のメッセージが、
フォロワのレベルにドロップダウン、苦と犠牲と罪悪の教えに早変わり!
コースも同じ。純粋な愛とひとつなんて分離した自我には耐え難い。
だからコースを変えちゃう。物質はスピリチュアルなのだ!
ちょう知的で明晰で思慮深くて真摯な人たちがそれをやるのを見るとしょうじき
ビックリする。
物質とスピリット、ぜんぜんちがう。
世界、ぜんぜん聖なるものじゃない。
何度も言うけど物質の世界は全体が神への攻撃と防衛のために作られてっからね。
この理解が赦しの土台だからね…。 この世界の人間は幻想が好きだけど
イケメンや美人も老いて劣化するし
イケメンや美人も毎日ウンコして汚い
神は劣化しないし汚いものはない
神より幻想を選ぶ理由がわからん >>334-336
グッジョブ❗
ワンダフル❗❗
💩 イケメンも美人もウンコも赦してこその神だからな。
自分はイケメンでも美人でもないのにウンコだけはするから、
神を選んでる俺すげーってやつなら、ちょっとイタイからな。
赦してるんなら関係ないから聞き流しといてくれよ?w すべての人間の真の目標は神の世界に戻ること
ほとんどの人間は一流大学、一流企業、大金を稼ぐ、結婚して幸せな家庭を築くなど幻想レベルの間違った目標を持ってるけど
間違った目標を持ってるから一流企業も色々不祥事起こしたり職場家庭でも色々トラブル起こしたり悩んだり苦労するのである 何を言っているのかわからん。
神を選んだ=イケメン
選んでない=イタイ
ではなかったのか?
神を選んだ=一流企業
選んでない=不祥事
であろうが。
いくらでもイケメンと一流企業で恋愛結婚して幸福な家庭を築く美人になって
劣化もせず汚くもならずウンコも出さないで神に帰ればいい。
https://youtu.be/_AYXT-etgVM
エックハルト・トール
『見た目が気になる』
Qフケてブサくなってハブかれるのがイヤです。
A体はフケますけど意識の光が強ければブサくもならないしハブかれてるって感じません。
むしろ内側から綺麗で、なくてはならない存在になります。そーゆーふーに歳とったらどうですか。 なんでもかんでも幻想世界のことをやたら否定するのも、裏を返せば物質化、
物質に囚われてることのあらわれなんじゃないかな
本当にそれらを超越してたら、もう話題にすることもないはずだよ コースを変えようとしてはならないA
https://youtu.be/sF8e2JhgSCc
奇跡の原理第一、奇跡に難易度はない。
世界の問題は一つ残らず幻想だと理解できなきゃ意味不明。
1×0も1000×0も0、例外はない。
自我消滅、それから妙なことにキリスト消滅の恐怖から、
この原理を妥協する。
宗教とかで世界の一部を聖なるものにするときとか。
聖なる壺だの、聖台だの、聖なる家だの祈りだの人たちだの儀式だの。
聖なる物体はない。
でもコース途中に聖なる儀式とか形を作って真実にしてしまう。
たとえばワークブックをやることが救済だーとか。
言われたことをやるんじゃなくて、思考体系を変えるの。
一年でできるわけないでしょ、そんなこと。
コースは始まりであって終わりではない、って
レッスンの最後に言われるとちょう苛々するでしょ。
一番言いたいのは、自我の思考体系ナメんな、ってこと。
たった一個の誤りが、とんでもない。 神を恐怖と信じるきみらは、たった一個の代替をした。
真実を幻想に、全体を分裂に。
そしてどんどんもっと分裂し、かつて一つだったこともいまも一つであることも、
見てとることはもはや難しい。
真実を幻想に、無限を時間に、生命を死滅にもってきた、
一個の誤り、それだけ。きみの世界全体がそれに置かれている。
きみが見るすべてはそれを映し出す。全部の特別な関係がその一部。
現実が思ったのと違ってびっくりした?
誤りはあまりにもとてつもなかったので、完全に非現実的な世界が生まれるしかなかった。
わかる?その分裂した一部は怖いけど、そのオリジナルの誤りの凄さときたら。
きみを天国から蹴り出し、智識をバラバラの砕けた知覚に変え、もっと代替物をこしらえさせた。
それが誤りの最初の投影。 なにしろその誤り見たくなさに世界を作って防衛したんだからね。
銀河系も、他の太陽系も、それは巨大だとか、
何が聖なるもので、何が醜くて美しいかだとかを告げる、
そういう感情の目撃者らしき肉体も、
物質の世界を作ったのは僕らの心だと考えると、
そこに込められた思い込みの規模と、それを取り消す仕事のものすごさが
すこし見えてくると思う。
コースはシンプルだとは何度も言うけどイージーだとは一度も言わない。
コースの生徒のビッグミステイクの一つは、イージーかもって思うこと。
テキスト読んでほしいんだけど、コース2年も5年もやってるって人の話聞くと
ワークブックしかやってなくって、それはそれでいいんだけど
分離がどう起こったとか特別な関係とかコースの肝はテキストにしか書いてない。 たぶんテキスト読まずにワークブックやるのもコース縮めの一環だと思う。
なんでも助けになるならやればいいし聖霊にコースを逆さに読めとか言われたらそうすべきだけど、
たぶんそれコースじゃなくなる。
それって大学でコースとるんだけど授業計画書読まないのに似てる。
じゃなんで授業とるのって話。とるならなんの授業なのか知らないと。
僕らがコースやらない理由は邪悪だからとか悪いからとか罪深いからじゃなくって、
怖いから、真実が。だから妥協して、形とか儀式とか世界に頼る。
コースは全部信じるか欠片も信じない。
コースって一部が全部に由来するから。
むりぽになったら、まあみんななるけど、そのときは大体
コースの言ってることを反証しようとしてる。
コースは丁寧に構築された思考体系で、一つの原理は次の原理に支えられてる。 他人がコースを煮て食おうが焼いて食おうが、自分が正しくコースを実践する分にはなんの影響もないはずなんだけど、それでもひとのやり方が気になるもんだのうw 私はいないし、世界もない。
自我は信念体系のようなもので、実体がない。
苦しみや悩みは、思考それ自体がやっていることで、
私とは関係ないっちゃ関係ない。
スクリーン上の役者にはスクリーンがみえないように、
自我には、聖霊がみえない。
自我の思考体系の中にいるときは、実相世界がみえないし、
実相世界にいるときは、自我がみえない。
マトリックスじゃないけど、
ブルーのカプセルと、
レッドのカプセルのどちらを飲みますか?
ってな感じかな。 自我の思考体系ハンパない。罪悪感ハンパない。
これをもっていってくれるのは、聖霊さま、イエスさま、
あなたたちだけです。でも、一度に手放そうとするとえげつないことが起こるので、
少しづつ取り組みますのでよろしくお願いします。 神使にも書いてあったね、
そんなにあまいもんじゃないって😁💦 すべてのものは心の底では神に戻りたいと思っている
しかしほとんどのものは自我で心が歪んで神とはまったく別の方向へ行ってしまっている
それでもすべてのものは本当の心の奥底では神に戻りたいのだからすべてのものに対して基本的には愛をもって優しく接して神への帰還のコースへ誘導してあげるべきである ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています