>不立文字や教外別伝は、文字による伝達は多様な解釈を招くから、師資相承による伝達を重んじる程度の事なんだよw
そうなの。程度の問題なんだ。

ロンちゃんとジャンキー君と、俺は食い違うはずだw

おれは、別に経をかきこんでいるわけではない、自分がうまくはなせないから、借りているだけだけどね。

王よ、人は分別によって法と非法に執着するのである。
喩えば、人が水面に映った自分の姿を見たり、灯や月によってできた自分の影を見て分別を起こし、執着し、喜んだり怖れたりするようなものである。
法も非法もただ分別に過ぎない。分別を捨てることができず、あらゆる虚妄を増して、煩悩の寂滅を得られないのである。
寂滅とは、虚妄を離れた一心のことであり、それが仏を生む蔵であり、それを如来蔵と称する。

だるまさんついでに、楞伽経を書き込んでおきます。

と、いうものの宝鏡三昧では、このように言っている。

汝これ彼ではない、彼、まさにこれ汝。

達磨さんにちなんで

不識

>>895
>支店長も「握って、放す」
支店長に聞いてみます。

意識して放すのではなく、機が熟して自然に離れる、と、
https://www.jstage.jst.go.jp/article/sprj/33/0/33_29/_pdf

オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』における修業、には書かれているなぁ。

聖書の絡みは、私も聖書を見たが、うー難しい。


>>916
わるいわるい、俺もうまく言えなくてね。そのまま載せてしまった。

>悟ったら痛みも大丈夫ですか?
痛いじゃないか。多分w

羯諦 羯諦 般羅羯諦 般羅僧羯諦 菩提僧莎訶
般若心経の最後の部分ね。

そのところに徹底的に等しくなる。ただ、このごとく、へだたりなし。
そうなれば、実に事物みな等しくなる。

事物というよりは、やはり、事事物物というべきか。