聖書の解釈する権利は、教会の聖職者・説教者にあるんです。

牧師と神父の扇動の恐ろしさを、一時期は教会に通っていても、
教会から離れた人なら、身に染みて知っているはずです。

聖書は良い事が書かれているが、現実問題、実行は出来ないものが多く、
愛は言うほど実行はできないと思います。

イエスが言う、神の目には悪とうつる、エロい目で女を見たら目玉をえぐり出せ?
カラダ全体が地獄に堕ちるより片目を失った方がいいだろう?
出来るかそんなの、と、男は思うはずです。

パウロの言う、夫婦げんかする奥さんは、肉の主人に従っていますか?
相手の男の気持ちも要求も考えず、女の感情(気持ち)や主張(要求)が、
あたかも「霊の思い」だの「善」であるかのように言われる時代。

いま時の女なら、無慈悲な主人に従わず、
離婚したりDVで訴えればいいじゃん、と、パウロの意見を否定するでしょ。

聖書は、神の結び付けた結婚は、相手が死なないと「離婚できない」。
いま時の女性は、従えないでしょ。

現代の女性は、聖書の戒めは守れないし、ナニか口実を設け、反故にするでしょ。

聖書は「時代遅れの書物」と言われるのがオチです。
それでも神の言葉だからって頑張りますか?
頑張んなくてもイイのにと私は思います。

ヤル気のない頑張んない神学と批判されそうですが。