【愛】は神 ♡ イエスの【愛】
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・「愛は神 イエスの愛」に意識の中核・焦点を据えますが キリスト教信仰者のスレではありません。 ・宗教信者か、無宗教者か、どんな考え、教えを信頼しているかによらず 個の霊性の豊かさに命の輝きを感じる人達のスレです。 ・仏教系・神道系・キリスト教系・精神世界、思想系・ 聖書・仏典・歴史・文学・哲学・文化・芸術全般・ 山海の幸・自然界・料理・名言・等々、 どのようなジャンルからでも自由に語らいましょう。 ・解釈、ひらめき リゾーム発想の自由。 ・出会ってよかったモノ・コト・自然・教えなど、 個々人の晴れの告白話もOK。 ・宗教の疑問点・問題点・批判も<愛(神)にあって> 視野拡長の建設的な現在進行形の話はかまいません。 またキリスト教においては、 神が人間をアガペーの愛において愛するように、 人間同士は、互いに愛し合うことが望ましいとされており、 キリスト教徒のあいだでの相互の愛もまた、広い意味でアガペーの愛である(マタイ福音書22、37 - 40)。 ただし、この神の無限の愛としてのアガペーは神学概念に当てられる言葉であり、 新約聖書の著者がアガペーを一様にこのような意味で用いていたかは本文解釈上の議論がある。 神が人間を無償において、限りなく愛していることは、 『新約聖書・福音書』において、イエズスが弟子たちや人々に述べ伝えていることである。 『マタイ福音書』にある著名な「山上の垂訓」においても、 「神は、善なる者にも、悪なる者にも、変わることなく、太陽の光の恵みを与えてくださる」というように、 人間をその行為や社会的地位や身分や性別などによって区別せず、恵みを与えてくれる存在として宣明されている。 また同じ「山上の垂訓」において、イエズスは、 知人や友人、家族などを愛するだけでは十分ではない。 そういうことは異邦人や取税人もしている。 わたしの教えに従う者は、みずからの「敵」さえも愛さねばならないとして、単なる「隣人愛」以上の普遍的な人間愛を語っており、 このような愛を通じて、「神の子」となりえるのであるとしている。 このことは、「良きサマリア人」の譬えのなかでも示唆されている。 ここでイエズスが述べている「愛する」という言葉は、ギリシア語原文では??αγαπειν??という動詞であり、この動詞の名詞形が「アガペー」である。 ギリシア語で愛のことを意味する代表的な言葉であるエロス(eros)は、 ギリシア神話において恋愛を司る神であるエロースに由来する言葉です。 それは、一般的には、男女の間に生じる愛の感情のことを表す概念として解釈されることになります。 しかし、 こうしたエロスの概念は、哲学的・神学的文脈においては、 より崇高で形而上学的な意味(現実の世界を超越した意味)へと高められていくことになります。 それは、特に、アガペー(agape)と呼ばれる神の無限なる無償の愛との対比において際立ってくると考えられることになります。 アガペーとは、 全能で完全な存在である神から、 有限で不完全な存在である人間へと向けられる愛のことを示す概念です。 神から人間へと向けられる愛としてのアガペーは、 神が全能な存在である以上、その能力がなし得ることにはいかなる限界も存在しません。 それは無限なる愛であると考えられることになります。 神が欠けることのない完全な存在である以上、 人間を愛することによって神の側が新たに何か有益なものを得ることができるといったこともあり得ません。 それは、必然的に、いかなる見返りも求めない無償の愛であると考えられることになります。 神から人間へと向けられる愛としてのアガペーは、 能力においても、善性においても限りなく上位にある存在である神から、 下位にある人間へと下降していく形で、もたらされる愛であるという意味において、 それは、下り道の愛、下降の愛であると捉えられることになるのです。 愛を「唱えて」、最も多くの人間を、最も残酷な方法で殺して来たのがキリスト教。 この「大殺戮の心理」を、「愛」との関連で分析せよ。 13:9 誘惑する者に同調して耳を貸したり、憐れみの目を注いで同情したり、かばったりしてはならない。 13:10 このような者は必ず殺さねばならない。彼を殺すには、まずあなたが手を下し、次に、民が皆それに続く。聖書では、「異教」の神に仕えるよう誘う人に対しては >・・このような者は必ず殺さねば ならない(申命記13.1) 1099年、イェルサレムの征服後、 敬謙な十字軍の騎士達は血に酔って女性や子供を含むユダヤ人とアラブ人の市民すべてを、剣で刺し殺しました。 約七万人の市民が犠牲になりました。 虐殺の後、血まみれになった騎士達は、幸せの涙を流しながら、彼らの救世主イエス・キリストの墓参りをし、神に感謝しました。 聖書の文言に責任はあるか? 現代の心理学や脳科学では、 人間は本来、他者を傷つけるのが苦痛であるそうです。 しかし、そこに合理的理由や神の言葉などが与えられると喜んで殺戮ができるそうです。 現実に聖書の文言がキリスト教の職業的宗教者を含む大きな集団で、 良心を麻痺させる道具として使われてきたの事実です。 アメリカ大統領は就任式の際に聖書に手を置いて宣誓するのだから、 イラク戦争とアフガン戦争はキリスト教徒によるイスラム圏への侵攻と虐殺です。 織田信長はキリスト教に寛容であり、保護しつつ布教を認めていました。 豊臣秀吉も最初はキリスト教を認めていましたが、ポルトガルが日本人を長崎から海外に奴隷として輸出していた事が露見したり、 キリスト教徒に神社仏閣を破壊させたり、 ガスパル・コエリョがスペイン艦隊を秀吉に見せつけたりなどが重なり、 それからキリスト教を侵略者とみなすようになり、1587年の伴天連追放令に繋がりました。 それでもこの追放令では、一般民衆の信仰そのものは禁止していませんし、改宗するのも自由です。 宣教師の国外追放が主な目的であり、同時に宣教師へ危害を加える事は厳しく禁止しています。 1614年に徳川家康が発布した伴天連追放令からは、かなり厳しく取り締まりが行われました。 豊臣時代の宣教師の振る舞いと、それ以降に日本に来た新人宣教師達の振る舞い、 そして大八事件により家康はこの追放令発布を決めたとされています。 それでも処刑の数は少なく、国外追放のみで終わるのが通常でした。 フィリピンのマニラに日本人街ができるぐらい、命を保ったまま追放されたという事です。 日本でのキリスト教弾圧は弾圧ではなく、侵略者からの自衛だったという事がわかります。 男女の恋愛のことを意味するエロス(eros)、 友人同士の友愛のことを意味するフィリア(philia)、 親子や兄弟の間の家族愛のことを意味するストルゲー(storge)、 そして、神の無償の愛のことを意味するアガペー(agape)という四つの愛の概念に分けて捉えることができます。 古代ローマにおける アモール(amor) クピディタス(cupiditas) アミキティア(amicitia) ピエタス(pietas) そしてカリタス(caritas) といった愛の言葉と結びついていくことによってさらにその概念の深みと複雑さを増していくことになるのです。 ギリシア神話の主神にして天空と雷の神でもあるゼウスは、 ローマ神話においては主神にして天空を司るローマの守護神であるユピテル(Jupiter、英語読みでジュピター)に対応することになります。 そして、ギリシア神話に登場する最高位の女神にして結婚を司る神であるヘラは、 ローマ神話では女性の結婚生活を守護する女神であり、ジューンブライドの語源ともなっている女神ユーノー(Juno、英語読みでジューノウ)に対応しています。 古代ギリシア神話の神々の概念は、ローマ神話の内へと引き継がれていき、 ローマ神話の神はギリシアの神と同一視されることによって 神としての個性と具体的なイメージを強めていくことになります。 ギリシア語における最も一般的な愛の概念であるエロスの由来となっている愛の神エロス(eros)も、 ローマ神話においては、男女を結びつける恋愛の神クピド(Cupido、英語読みではキューピッド)とその異名である愛の神アモール(amor)と同一視されていくことになります。 古代ギリシアにおいて最も一般的な愛のあり方のことを示すエロス(eros)の概念は、 古代ローマにおいては、男女の間の愛情などの一般的な愛のあり方のことを表す概念であるアモール(amor)と、 より直接的な情欲の面や、相手を強く求め渇望する熱望や切望、さらにそこから派生して貪欲さや野心などを表すクピディタス(cupiditas)という 二つの愛の形として捉え直されていくことになるのです。 愛とは何でしょうか。 小説や舞台、映画など古今東西のさまざまな芸術作品のテーマとしても、多彩な愛の形が描かれてきました。 それでも確かな答えが出たとはいえません。 なぜなら、愛とは人によって捉え方が本当にさまざまだからです。 愛という漢字の読み方は「あい」。 そして、そのなりたちは一説では「人にものを恵む」という意味があるといいます。 恵む行為はおそらく代償をかえりみない、無償の行為でしょう。 そして、愛を定義するにはさまざまな考え方がありますが、 見返りを期待することなく自分以上に相手を大切に思う気持ちとも考えられます。 では、恋との違いは? そして、愛を確かめるにはどうしたらいいのでしょう? 人は本当に愛していればかえって愛の言葉など白々しくて言いたくなくなるものでございます。 太宰治 イエスの愛ではありません。 天使の愛です。 イエスは事務的に物事をこなしていただけです。 天使崇拝を禁ずる教会が事務的なのもそのためです。 イエス・キリストは天使崇拝を禁止し、 天使の愛を独占しようとした。 天使の仕事をぶんどった。 自分では審判者のつもりだが、 ただの愚か者。 妥協を知らない。神さえいればいいと思ってな。 何かと引き換えに与えるもの 例えば信仰と引き換えに、信者になれば、崇拝すれば、お金、お布施、寄付、祈り、賛美、捧げもの、善い行いをすれば…等の交換条件をつけて救済を約束するもの これらは取引やビジネスの類であって愛じゃない 特定の誰かのみ(選ばれた民だけ、信者だけ、善人だけ)に限定して与えるというのも選り好みやえこひいきといった偏愛であり単なる好き嫌いでしかない つまり残念ながら既存の宗教に愛は存在しない >>265 なるみんも、野菜名人も、プリティさんも 愛、愛、って言い過ぎ🎵 おそらく あんたらの想像もついたことの無いものが愛で ありんす。💇 ひとりで見る夢はただの夢。でも、みんなで見る夢は現実になる。 ジョン・レノン 仏教において「慈悲」という言葉は、 「慈」=与楽 「悲」=抜苦 の2つに分けることができます。 ゆえに慈悲を「抜苦与楽」ともいいます。 与楽とは、楽しみを与えるのではなく、安楽な状態をもたらす。 抜苦とは、仏教ではこの世を「苦」(思い通りにならないこと)であると考え、その苦の根源を取り除く。 仏教では「愛」は執着心の一種であり、煩悩の一種であると考えます。 しかし、これも「慈悲」へと「昇華」させていくことが出来れば、問題にはなりません。 「アガペー」は、キリスト教では神だけに可能な愛と考えます。 人間の愛の場合はそれがどれほど崇高なものでも、そのようには言いません。 人間と神は絶対に異質の存在と考えるからです。 「慈悲」は仏の心ですが、人間の心にも使います。 仏だけにある心とは考えないのです。 仏教(特に大乗仏教)では人間と菩薩・如来は、修行の程度により、なだらかに繋がっていると考えます。 これが「一切衆生・悉皆成仏」という思想です。 真実の愛は、2つの同類の魂が出会った瞬間に生まれます。 成熟した2人が互いの尊厳のもと結びついた時、そして自由に愛し合い2人の世界を築き上げようと心に誓った時、愛は確かなものとなります。 そこには信頼が存在し、恐れなどありません。 心の中に気まぐれや疑惑の種を蒔くこともありません。 確かな愛は痛みなどを伴うことなく永久に続きます。 愛に疲れ切り深い悲しみを経験することで、多くの人が真実の愛というものを信じられなくなりました。 「永遠」という言葉すらもう信じる事が出来なくなっています。どうしてこうなってしまったのでしょうか? 私たちは全ての物事はいつか廃り、崩れ去ると信じられている世界に生きています。 物事には全て有効期限があると考えられてるのです。 愛とは互いに向き合う事ではない。 同じ方向を2人で見つめる事である。 There comes a time When we heed a certain call When the world must come together as one There are people dying Oh, and it's time to lend a hand to life The greatest gift of all〜♪ We are the world https://youtu.be/wXTcV0F4Dm0 あなたの手が大きかった あなたの手があたたかかった あなたの手がやさしかった あなたの手が私を癒やしてくれる あなたの手が私を素直にしてくれる あなたの手には 大きな愛があふれていた あなたの愛が 私の中に伝わってきた あなたの手は 神さまのように 私をつつんでくれる 耐え忍ぶ愛 奪う愛 与える愛 求める愛 様々なかたちにかわるこの「愛」という感情に、 私たち人間はずっと翻弄され続けてきました。 いったい「愛」とはなんなのか? こう問いかけると幾千もの答えが返ってきそうですが、 感じたままの自分の「愛」をすべてと信じ、 何にもとらわれず貫くことができるなら、 それほど強く美しい感情はありません。 Love means never having to say you're sorry. 愛とは決して後悔しないことよ。 恋に勉強なんてないんや。勉強したつもりでも、新しい恋が始まって気が付いたらまた何にもわかってない自分がおる。 それが恋ってもんや。 明石家さんま 「I love you」という言葉に初めて二葉亭四迷がぶつかったとき、どう訳すか悩んだらしいんですよ。 今みたいに「好き」とか「愛している」とか使わない時代ですから。 それで、何と訳したと思います? 「私は死んでもいい」・・・と。 武田鉄矢 まず、他人を愛するためには自分自身を愛さなければ始まりません。 不思議なことに、他人に愛を与えることが出来る人は皆、自分自身を愛しているという共通点があります。 自分を愛することで自信がつき、心に余裕ができるため、他人に優しく振る舞えることができるからです。 愛にはこれといった形がありません。 だから、人それぞれ違う愛の形があってもいい。 「そんな人のこと好きなの?」 「そんな恋愛ありえない」 もしも他人からこんな風に言われても、関係ありません。 他人に何と言われようと、あなたが良いと思えばそれは”愛”として成立しています。 また、愛は月日とともに形が変化していきます。 それは愛する2人によって形つくられるものだからです。 2人にとって素敵な愛の形を描いていきましょう。 恋は、 「あなたと一緒に〜したい」 「私がこうしたんだからあなたもこうしてほしい」 と、自分の欲求が入った行動をしがちです。 でも、愛は違います。 相手の幸せや自由を願って行動するものです。 つまり、見返りを求めないこと。 ”相手からお返しがこなくてもいい、 それでもいいから相手に尽くしたい” こんな想いが愛のあらわれです。 色と言うものは お互いに助けあって美しくなるものだよ。 人間と同じことだよ。 どっちの色を殺しても駄目だよ。 どの色も生かさなければ。 武者小路実篤 そのうすいくちびると そのうすいくちびると、 そのほそい声とは 食べるによろしい。 薄荷(はっか)のように結晶してはいないけれど、 結締組織(けっていそしき)をしてはいるけれど、 食べるによろしい。 しかし、食べることは誰にも出来るけれど、 食べだしてからは六ヶ敷(むつかし)い。 味わうことは六ヶ敷い、…… 黎明(あけぼの)は心を飛翔(ひしょう)させ、 美食をすべてキナくさく思わせ、 人の愛さえ五月蝿(うるさ)く思わせ、―― それでもそのうすいくちびるとそのほそい声とは、 食べるによろしい。――ああ、よろしい! 中原中也 私はあの人を愛していない。 愛するとは、もっと別な、母の気持も含まれた、血のつながりを感じさせるような、特殊の感情なのではなかろうか。 私は、あの人を愛していない。 ーー太宰治「女の決闘」 数えきれないほど、 悔しい思いをしてきたけれど その度にお袋の 「我慢しなさい」って言葉を思い浮かべて、 なんとか笑ってきたんです。 手塚治虫 束縛があるからこそ、 私は飛べるのだ。 悲しみがあるからこそ、 私は高く舞い上がれるのだ。 逆境があるからこそ、 私は走れるのだ。 涙があるからこそ、 私は前に進めるのだ。 ガンジー 二人をつなぐ あのメロディー どこから聞こえるのか いつかわかるでしょうね 見果てぬ夢がある限り Oh, do what you wanna do again Oh, do what you wanna do again 【サティ】 729 :神も仏も名無しさん :2018/07/24(火) 22:17:34.86 ID:Q8eSm54r さくらさん、これやって結果教えて! 面白いよw 自己顕示欲の強さを診断! 自分をアピールしすぎて嫌われてない? テストしてみよう https://gakumado.mynavi.jp/gmd/diagnoses/47465 ちなみに俺の結果はこれ↓ https://gakumado.mynavi.jp/gmd/diagnoses/47465/result?total_point=0 【自己顕示欲:かなり弱い】逆に、絶対に目立ちたくないタイプ 逆に、絶対に目立ちたくないタイプ あなたは自己顕示欲がかなり低いタイプのようです。「目立ちたい」「注目されたい」という気持ちはまったくなく、逆に「まわりに自分のことをあまり知られたくない」「放っておいてほしい」という気持ちを持っています。 そのため、本当はすごい実力を秘めているのに影に隠れてしまい、まわりから認識される機会を失っていることもありそうです。せっかくなので、得意なことだけでも自分からアピールしていくようにするようにしてみては? https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1523599761/729 今日のYomiuri Onlineで、日本人が口にも出せないほど不愉快な韓国の反日感情と 靖国反対の思想の原因は、韓国の人口の30%にも及ぶクリスチャンだと、韓国の 牧師自身が言っている。イエスの「愛」や「敵を愛せよ」が、如何に偽物だったかが よーく判るね。イエス自身も、実のなっていない無花果の木さえ呪い枯らした。 クリスチャンは、「イエスの愛」という言葉を使うのはもう止めて、「イエスの憎悪」に変更 すべき。 世俗の知恵は、 愛が人間と人間との間の関係であるというが、 キリスト教の教えによれば、 愛は人間と神との間の関係であるという。 というのは、 神が愛の媒介であるからである。 キェルケゴール 「愛の生命と摂理」 善をなさんとする者は 門を叩き、 愛する者は 門が開放されているのを見出す。 タゴール 「迷える島」 愛には懼れなし。 全主愛は懼れを除く。 懼れには苦難あればなり。 懼るるものは、 愛いまだ全からず。 ヨハネ 「新約聖書-ヨハネ第一書四章十八節」 もし、 ただひとりの人間が 最高の愛を成就するならば、 それは 数百万の人々との憎しみを 打ち消すに十分であろう。 ガンジー 「語録」 最高の愛とは、 魂を目覚めさせるようなもの。 それは私たちの心に火をともし、 心に平穏を与えてもくれるもの。 それは、私があなたにどんなときも与え続けたいと願う、 たったひとつのもの。 人生で 最も幸せを感じる瞬間というのは、 他人から「愛されている」 もしくは、「自分自身を愛すること」を実感できるとき。 もしくは、自分と同じように誰かを愛するとき。 愛は寛容であり、 親切です。 また人をねたみません。 愛は自慢せず、 高慢になりません。 礼儀に反することをせず、 自分の利益を求めず、 怒らず、 人のした悪を思わず、 不正を喜ばずに真理を喜びます。 すべてをがまんし、 すべてを信じ、 すべてを期待し、 すべてを耐え忍びます。 愛は決して絶えることがありません。 信仰は愛なりとは、 よく言われる言葉だが 単に愛といっても色々ある。 正なる愛、 邪なる愛、 大なる愛、 小なる愛 というように、多種多様である。 このような訳であるから、 信仰者は愛に対しても正しい認識を失ってはならない。 「正愛と邪愛」 岡田茂吉 『栄光』74号、昭和25(1950)年10月18日発行 https://ameblo.jp/miyatasa/entry-10667193221.html 幸福を生む方法 人は利己的な心を捨てて、他人を助ける努力をすべきである。 他人が施すのを見れば、その人はさらに別の人を幸せにし、幸福はそこから生まれる。 一つのたいまつから何千人の人が火を取っても、 そのたいまつはもとのとおりであるように、 幸福はいくら分け与えても、減るということがない。 (四十二章経)『和英対照仏教聖典』 無財の七施 世に無財(むざい)の七施(しちせ)とよばれるものがある。 財なき者にもなし得る七種の布施行のことである。 一には、身施(しんせ)、肉体による奉仕であり、その最高なるものが次項に述べる捨身行(しゃしんぎょう)である。 二には心施(しんせ)、他人や他の存在に対する思いやりの心である。 三には眼施(げんせ)、やさしきまなざしであり、そこに居るすべての人の心がなごやかになる。 四には和顔施(わげんせ)、柔和な笑顔を絶やさないことである。 五には言施(ごんせ)、思いやりのこもったあたたかい言葉をかけることである。 六には牀座施(しょうざせ)、自分の席をゆずることである。 七には房舎施(ぼうしゃせ)、わが家を一夜の宿に貸すことである。 以上の七施ならば、だれにでも出来ることであり、日常生活の中で行えることばかりなのである。 (雑宝蔵経)『和英対照仏教聖典』 人間は 神がつくったということは 僕は信じられない。 神がつくったものにしては 人間は無常すぎ、不完全すぎる。 しかし、自然が産んだとしたら、 あまりにも傑作すぎるように思うのだ。 武者小路実篤 真心は滅びません。 人は死んでも その人の真心は どこかに生きているのです。 武者小路実篤 恋は甘い花である。 しかし それを摘むには、 恐ろしい断崖の端まで 行く勇気がなければならない。 スタンダール 自然は一巻の書物であり、 神がその著者である。 ウィリアム・ハーヴェイ どこにも神を見た者はないが、 もしもわれわれが互いに愛し合うならば、 神はわれわれの胸に宿るのである。 トルストイ もし悪魔が愛することが出来るのだったら、 悪魔は邪悪でなくなるだろうに。 聖女テレーズ 私は地上に善を為すために 天での時を過ごしましょう。 私は天から 薔薇の雨を降らせましょう。 聖女テレーズ なぜ めぐり逢うのかを 私たちは なにも知らない いつ めぐり逢うのかを 私たちは いつも知らない どこにいたの 生きていたの 遠い空の下 ふたつの物語 縦の糸はあなた 横の糸は私 織りなす布は いつか誰かを 暖めうるのかもしれない (中略) 縦の糸はあなた 横の糸は私 逢うべき糸に 出逢えることを 人は仕合わせと呼びます 中島みゆき『糸』 愛の生命 byヤマトよ永遠に 作曲:??浜田金吾 作詞:??山口洋子 編曲者:??戸塚修 歌:岩崎宏美 両手で愛を 抱きしめたら あなたは その手をはなせるでしょうか めぐり逢えた 喜びのまま またたく星の 永遠のきらめき 別れるときに愛がわかる 眼をとじたときに愛が見える 愛が見える また逢いましょうね 闇夜の果てに わたし あなたを待っています 空ゆく風と光のように 嵐と泪 こえてきたから 愛する勇気が のこるのでしょうか 熱く誓った くちづけのまま 流れる星の 永遠の呼び声 はなれたときに愛がわかる 孤独(ひとり)のときに愛が見える 愛が見える また逢いましょうね この日を抱いて わたし あなたを待っています 海ゆく船と かもめのように また逢いましょうね 宇宙(よぞら)の彼方 わたし あなたを待っています 空ゆく風と光のように 大切な人を守る為に 自らの命をかける、 そのことは 美しいことなのだとは思います。 ただ、 そのことと 死に急ぐことは違う。 ひとりが落とした涙ひとつ 人々の頬に流れた時 その一粒のしずくが 宇宙の果てをも潤すだろう 今日を生き抜く力があるなら 明日に向かう勇気があるなら おそれるものは何もない ヤマトよ 君 果てしない夢を乗せて 愛ある限り 永遠に駆けよ 生命ある限り 駆けよ |⊂⊃;,、 |・∀・) 輪廻のサティちゃんです |⊂ノ |`J イエスさまがごらんになるのは、 「行為の大きさ、難しさ」ではなく 「どれほどの愛をもってなされたか」 だけです。 聖女テレーズ 手紙 65 愛による死 聖テレーズは、十字架上のイエズスの死にあやかることを願い、かなえられた。 確かに、聖なる人の死、それは、愛によって神のもとに運び去られる美しい死である、 と十字架の聖ヨハネも記している。 テレーズの死はこれではない。 ある日、私はフランソワーズ・テレーズ院長(聖テレーズの姉、イエズスのアニエス院長、俗名ポリーヌの帰天後、院長に就任)と一緒に、 リジューのカルメルを見て回っていた。 建物の古い棟を通り過ぎるとき、次のような説明を聞いた。 「9月30日の午後、このみ心のご像の前にアニエス院長は祈りに来ました」 「何ですか?一体どうして?そんなことは聞いたことがない」 院長は言葉を続けた。 そうです、9月30日の午後、テレーズの信仰に反する誘惑はいっそう激しくなり、彼女は暗やみの中にいました。 死の数時間前、額には玉のような汗が光っていました。 ベッドの中で身悶えして、周りに聖水をまいてほしいと願い、こう言いました。 「臨終の人のために、どれほど祈らなければならないことでしょう」 おそらくテレーズは、絶望に近い状態を感じていたのでした。 このようなテレーズの様子を見て、アニエス院長(姉ポリーヌ)は当惑してしまったのです。 テレーズが聖女だということをよく知っていましたから。 けれどもその時、これが聖女の死なのだろうか。むしろ罪びとの死に様ではないか、と不安になりました。 そして非常に愛していたみ心のご像の前に祈りに行ったのです。 「おお、み心よ、どうぞ、妹が絶望のうちに息絶えることがありませんように」と懇願したのです。 この意味深い小さなエピソードは、最後の瞬間の恍惚と同じことを私たちに知らせてくれる。 それに、テレーズはこのことを予言していた。 「驚かないでください。私が願ったのは、十字架のイエスの死にあやかることです」 「父よ、なぜ私を見捨てられたのですか」と言われたイエスの死である。 だから、テレーズは最後の瞬間まで苦しむ。全地獄が、テレーズのベッドを取り囲んでいるように思われる夜、 悪魔の誘惑の時である夜よりもさらに深い暗黒の夜、テレーズの口から最後の愛の言葉がほとばしり出る。 これこそ、幼いイエズスの聖テレーズである。 魂の旅 巡礼 永遠へと続く修行 宇宙は私 私は宇宙 もともと一つであり一つへと戻っていくことを希求する あなたの魂も もともとは私と同一 これは、愛の完成のため、神が、最後の瞬間にテレーズに与えられた恵みである。 聖三位のうちに永遠にとどまらせ、同時に天国で至福直観にあずかる度合いが決定されるのは、 最後の瞬間の、神への愛によってであることを、私たちは知っている。 最後の瞬間に、神が悪魔の働きを容認されるのは、この愛をより完全に、いわば、 より強力なものとなさるためである。 だから、テレーズの愛には、 愛のまなざしと一緒に最後の言葉があった。 「神さま、あなたをお愛しいたします」 そして息を引き取った。 わがテレーズ愛の成長 幼きイエズスのマリー・ユジェーヌ司祭著より この夜以来、私はどのような戦いにも決して負けることがなくなりました。 かえって勝利から勝利へと進み、 いわば「巨人の足取り」で歩き始めるようになったのです。 そして私を魂をすなどる者としてくださったのです。 「私は渇く」という十字架上のイエスの心の叫びが、 絶え間なく心に響くようになりました。 (聖テレーズ 自叙伝) 自分が 穏やかで満ち足りた世界を 実現すれば その穏やかで満ち足りた世界が どんどん広がって その愛もどんどん広がり 循環していく 一人一人が 自分自身の幸せに向き合って実現し 愛で満たされて それがまた広がり循環する どんどん水面の広がりのように 愛が広がって 地球が愛で包まれる。 全ては、自分自身が原点である。 愛を育てて たまにこう ぶつかり合う日々も 嬉しいことだって言える だけどね聞いて ささいな出来事 それも受け止めてほしいよ A Room YUI(cover) https://youtu.be/W4H2PvPvzm4 プレゼントとかを貰うより 貴方の笑顔を見る方が幸せです。 人は 出会いと別れを繰り返しますが どんな出会いも 無駄じゃなかったと思う それは 大人になると実感できるもの だから 出会ってきた人に ありがとう 人生で最も幸せを感じる瞬間というのは、 他人から「愛されている」 もしくは、「自分自身を愛すること」を実感できるとき。 もしくは、自分と同じように誰かを愛するとき。 (ヴィクトル・ユーゴー 詩人) 愛は神だと思ってれば長老たちも落ち着いて動きが取れる。 ゼウスもそうだが、エロスがだ。 あれがオリンポスの賢者を設立した人間だ。 星空のバラード 窓をあけ星空を 見つめてみても 帰るふるさとはもう見えない 今はもうおもいでに 過ぎないことが 俺の心ではまだ生きている 青い夜空に 歌うこの歌 届け届けよ 愛した人に できるならあのころの あの日のように 歌いたいのさ 星空のバラード 宇宙の愛は無条件で無限の愛 太陽は宇宙の分身ですから 宇宙の一つの姿を表わしています。 地球の生物が生きて行かれるのは 太陽の恵みによるところが 非常に大きいのです。 地球の地熱と太陽から送られて来る エネルギーによって植物が育ち それを食べて動物が育ちます。 その植物と動物を食べることで 人間が生きていられるのです。 太陽は年がら年中休みなく エネルギーを送っていますが、 地球に見返りを求めません。 このことで「無償の愛」を感じます。 宇宙は全ての物に公平であり 不変です。 「あわれな悪魔」スウェーデンの昔話 むかしむかし 一匹のウシを飼っているお百姓(ひゃくしょう)が、ウシを牧場(ぼくじょう)へ連れて行きました。 そして、ウシが草を食べるのを見ながら、神さまにお祈りをしました。 「神さま。 いつもわしらをお守りくださって、ありがとうございます。 今年もこのウシに、たっぷり草を食べさせてやってくださいまし」 それを一匹の悪魔(あくま)が、しげみのかげから聞いていました。 「ふん。 人間てやつは、何でもかんでもうまくいくと神さまにお礼を言う。 ところがだ、悪い事がおきると決まっておれたち悪魔のせいにする。 ・・・くやしいな、おれみたいにいい悪魔もいるっていうのに。 ちくしょうめ、見ていろ!」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる