(「教会の祈り」に関する」)
総則
第三章 「教会に祈り」の種々の要素 
第一節 詩編とキリスト者の祈りの関係 

108 「教会の祈り」で詩編を唱える者は個人としてよりも、むしろ
キリストのからだ全体の名によって、さらにはキリスト自身として唱えるのである。
このことをわきまえるならば、詩編を唱えるとき、たとえば悲しみに打ちひしがれて
いるのに喜びの詩編に出会い、あるいはしあわせなのに嘆きの詩編に出会うと
いったように、自分の心の動きが詩編の表現している情緒と一致していないことに
気づいたときに感じられる困難さも消えてなくなる。全く私的な祈りにおいては、
自分の感情に合った詩編を自由に選ぶことができるので、このようなことを避ける
ことは容易である。しかし「教会の祈り」においては、個人の資格で詩編を唱える
のではない。たとえひとりで時課を唱えても、詩編は教会の名によって公式な週期に
従って唱えられる。教会の名によってこのように詩編を唱える者は常に喜びや悲しみ
の動機を見出すことができる。この意味においても、「喜ぶ者とともに喜び、泣く者
ともに泣く」(ローマ12・1)という使徒のことばが当てはまるからである。
こうして、自愛心に傷つけられた人間の弱さは、詩編を唱える声に心が一致する
(注 3)その愛の度合いに応じて、いやされるのである。

注 3:聖ベネディクト会則 19 参照

総則はローマ規範版の全訳である。日本の教会のために本書の中で変更、適応された
点については、該当する項の本文のあとに字をさげて付記されている。

私からの補足:「時課の典礼」を日本語では「教会の祈り」と呼ぶ。