2011年(主日B年) 12月25日 主の降誕
イザ 52:7〜10  ヘブ 1:1〜6  ヨハ 1:1〜18

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。 わたしたちはその栄光をみた。 それは父の一人子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハ v.14)

「わたしたち」 というのは昔の使徒たちだけを指しているのではなくて、その使徒たちの宣教の上に建てられ、主キリストとの交わりのうちに歩んでいる現代の教会のことでもあります。
キリスト教は “思い出の宗教” ではなくて、“歴史的宗教” です。
神の子イエスの受肉という “事実” があって、それを土台として“現代の教会とその信仰” があるのです。

教会は毎年、主の降誕の出来事を祝ってクリスマス(ミサ)を守りますが、このMass(ミサ)で記念されるキリストは、ただ過去に一度 “人となられた”(ニケア・コンスタンチノープル信条)だけではなくて、
私たちの教会と共に 「今おられ」 そして 「やがて来られる方」(黙 1:4)なのです。

しかし、私たちの知っている近年の教会は、そのような方として御子イエス・キリストを信じている ・・・・・ と、喜びと確信をもって言うにはあまりにも弱く、確信を欠いた ・・・ 信仰に欠けた ・・・ “多くの寄り集まりびと”(民 11:4/口語訳)でありました。
その原因は明らかに、人々が聖伝と聖書に本気で耳を傾けることをせず、まるで自分が神よりも賢いかのように、聖書を自己流に再解釈して済ませて来たからです。