【拝金主義】 幸福の科学 与国秀行 幸福実現党 【売名芸人】
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
信仰心には「この世を善良にしていく力」がある
死んで、火葬場で焼かれ、お墓へ入れられ、それで終わりだったら、「残された時間で、とにかく自分が満足できるように、快適に、エゴイステイックに生きればよいのだ」と思うかもしれませんが、
「もし、『死んで終わり』ではなかったとしたら、どうするか」という観点から考えると、人生はコロッと変わってくるわけです。
さらに一歩進めて言えば、昔の人が言っていたような、「亡くなったお祖父さんやお祖母さんが見ているのですよ」というあたりから始まって、「神様、仏様があなたの人生を見ているのですよ」という言い方もあります。
これは、「今では、笑う人が大半だろう」と思うようなことでしょうが、もし、これを「本当だ」として、
「神様、仏様が見ている」「亡くなったお祖父さんやお祖母さんが、私の一生をずっと見守っている」と思って生きたら、悪いことの一つも、なかなか、そう簡単にはできません。
子供でも同じです。中学生や高校生で、「コンビニには、夜間、店員は一人しかいなくて、とろいから、二つか三つ商品を゛持っていって”も、分からないだろうな」という気持ちがあったとしても、
ふと、「やはり、お祖父さんが見ているかもしれないなあ」と思ったり、「仏様は見逃さないだろうなあ」と思ったりして、それを止めようとする力が働いてくることがあります。
こういうものが実は信仰心の力なのです。信仰心には、実は、「この世を善良にし、道徳的に推し進めていく力」があるのです。 「自分ならざるものが自分を見守っている。ほかの人が見ていなくても、別の世界から自分を見守っている存在、自分の一生をジーっと見守っている存在がいる」と思うことによって、自分の人生を正すことができるようになるわけです。
ただ、「丸見えで、監視カメラで見られている」というようなことが感じられると、人生は不自由なので、それが分からないようにはなっています。
「自分がやっていることを見られていない」と思って生きていられるようにはなっているのです。
しかし、時折、そういうものを霊感的に感じたり、自分の両親や親戚などから、そういう宗教的な話を聞いたりすることがあり、それで、ふっと気がつくことがあります。
そういうものの存在を忘れないようにすることは、とても大事です。そのような「宗教心」「信仰心」というものは大事なのです。 2 善悪を分ける「二つの方向」
毎日、W幽霊”の相手をしている私でも、ホラー映画は怖い?
今、日本で広がっている「霊的なもの」や「宗教的なもの」のなかには、残念ながら、誰もが怖がるような内容を持っているものが非常に多くあります。
私は毎日のように、霊言を録ったり、あの世の方と実際に話をしたりしています。そして、それを本にしたり、映像として公開したりしています。
「そのような人間は、あの世の人など別に怖くも何ともないだろう」と思うでしょう。公式的には、そうです。全然、怖くも何ともありません。
ただ、そんな私でも、「リング」だとか、「らせん」だとか、「着信アリ」だとか、「エクソシスト」だとか、そういうホラーものの映画を観ていると、やはり怖いのです。
「うわっ、怖い、怖い。ぞくぞくしてくる」と思ってしまいます。
しかし、ふと気がついて、「あれ?私は毎日、W幽霊”の相手をしているのだから、怖がってはいけない」と思うことがあります。
「そういうものをつくっている人は、『怖がらせよう』と思っていて、霊などについては、話には聞いているかもしれないが、よく知らずに作っているのだ。
毎日、あの世の人と話をしている私が、そういう人が作ったものを見て怖がってはいけないな」と考え、思い直すことがあるのです。
ただ、時々、仕事をしていて、「この世は、なかなか手強い。難しいなあ。もう、どうしようもないな」と思うようなときに、つくりものではあっても、ホラー物を観ると、身震いというか、武者震いをして、
「これは戦わねばならん」という気になることもあるので、そういうものの効能がゼロというわけではありません。 悪魔を退散させるには、悟りに伴う「法力」が要る
特に、エクソシスト(悪魔祓い師)ものの映画では、バチカン公認のエクソシストたちが悪魔と戦ったら、たいていコロコロと負ける話になっています。
登場人物たちは、窓から落ちたり、階段を転げ落ちて死んだりするのですが、あまりにも情けないので腹が立ってきます。
私も悪魔を数多く相手にしたことがありますが、私はあんなに弱くはありません。映像でご覧になった方もいると思いますが、たいてい、数秒ぐらいで退散させているので、簡単なのです。
「出ていけ!」と言ったら、バーンと出てしまいます。(注。『エクソシスト入門』等参照)
それほど力の差があるので、映画のようにはならないのです。
映画では、バチカン公認のエクソシストたちが、ラテン語の『聖書』を読み、十字架を掲げ、「聖水」という水を振りかけても、向こう(悪魔)は笑っていて、全然、出ていかないわけです。
しかし、本当に「悟り」を持っていて。その悟りに伴って、「法力」というものがあったら、悪霊(あくれい)、あるいは悪霊(あくりょう)、悪魔というようなものであっても、退散させることができます。
悟って、日々、それを実践している人には、一種の力がついてきます。禅定をすれば、「禅定力」というものがついてくるように、いろいろな修行をすれば、力がついてくるのです。
四国では弘法大師の密教が流行っていますが、弘法大師の一生も、おそらくWエクソシストの一生”であっただろうと思います。いろいろな悪魔祓いをたくさんやっていただろうと思うのですが、私にはそれがとてもよくわかるのです。 「人の幸福と不幸のどちらを願うか」が人間の方向を決める
死んで浮かばれていない人、例えば、交通事故で亡くなったり、急な病気で亡くなったりして迷っている人の霊が出てくるのは、よくあることであり、おかしくも何ともないのです。
ただ、その奥にあって、そういう霊たちを地獄に引きずり込もうとしたり、あるいは、そういう霊たちを、ある家庭に解き放ち、その家庭をもっと不幸にし、目茶苦茶にしようとしたりする霊人がいます。
そういう事を本当に計画的に考え、後ろから操っている霊人がいるのです。
こういう者と対決することもありますが、やはり、許しがたいものはあります。
自分一人が不幸であることについては、多少、受け止めなくてはいけない面はあるかもしれませんが、自分が幸福になれないときに、せめて、他人を不幸にし、それを嘲笑って快感を味わおうとする人が、世の中にはいるのです。
それは、例えば、自分はお金儲けに成功しなかったけれども、他人がお金儲けに失敗したり、破産や倒産をしたりしたら、「ざまを見ろ」と言って喜ぶ人です。
あるいは、自分の病気が治らないときに、隣の誰それさんがガンになって死んだと聞いて、「ざまを見ろ」と思う人です。
そのように、他人の不幸を見たら、胸がスッとしたり、「許せる」という気分になったりする人は、やはりいると思うのです。
ただ、「これは、人間として考えて、やはり最低の心だ」ということを知らなくてはいけないと思います。
環境や政治制度、周りの影響によって、自分が幸福になれないこともありますし、たまたま家庭に恵まれないこともありますが、自分が恵まれないこと、あるいは、現在、幸福感を得られないことには、何らかの理由があることもあります。
そういうことも、やはり、よく考えるべきです。それをもって、「ほかの人の不幸を願う心」のほうに向かっていくようであったら、これは、いわゆる「悪霊」や「悪魔」の気持ちに通じていくものなのです。そのことは知らなくてはいけません。 原理は簡単なのです。それほど大きく難しいものではありません。
「他人さまの幸福を願う方向」で考えているか。「他人さまの不幸を願う方向」で考えているか。どちらを願うかが人間の方向を決めるのです。
もっと簡単に言えば、他人の幸福を願いながら数十年の人生を生きた人たちは、基本的に、天国という世界に還ることになっています。
あの世の天使や菩薩たちも、そういう人が亡くなったら、きちんと「お迎え」に来て、行くべきところへ連れて行ってくれます。
ところが、生きているときに、何か他人の不幸を願っていて、実際に、それに加担するというか、悪霊や悪魔たちがやっていることを、この世に生きながら、一緒になって行っている人がいます。
例えば、いじめです。映画「天使にWアイムファイン”」にも、いじめの問題が出てきました。周りが何人かでいじめをやっているときに、「そんなことをやってはいけない」と思いつつも、自分も参加することで快感を得たりする人がいます。
あるいは、「いじめに参加することで、自分がいじめられなくなる」と思い、いじめっ子グループのなかに入ることで身を護ろうとする、卑怯な心をもって生きている人もいます。
どちらも同じであり、やはり、他人の不幸を願う方向に引っ張られていきます。
善悪と言っても、基本的には、そういうことです。
ほかの人の幸福のほうを選ぼうとするか、ほかの人を幸福にするように、自分の人生をつくりあげていきたいか、そういう人生を生きたいか。そういう仕事をしていきたいか。それとも、反対に、他人さまの不幸を願う方向で生きたいか。その二つに大きくは分かれます
細かくは、それぞれのケース分けがいろいろあるとは思いますが、基本的には、そういうことなのです。 「ほかの人の幸福を願う人間」を地上に増やしていく
幸福の科学が目指している「人類の幸福化」とは、どういうものでしょうか。
私どもは、基本的に、「ほかの人の幸福を増やしていくようなことを願っている人間」を、この地上に増やそうとしています。
「世の中を悪くしよう」とか、「他人を不幸にしよう」とか、そのような気持ちになり、「それが当たり前なのだから」と思い、そちらだけで行ってしまっては駄目です。
人間の持っている動物性というか、動物的本能としては、当然、自分の身を護り、ほかの人を蹴落としたり、そういうことを思ったりします。
動物は、みな、「食べられる恐怖」でいっぱいです。「食べられる恐怖」と「飢え死にする恐怖」が、動物たちの持っている基本的な恐怖です。この二つから逃れることは、ほぼできません。一生、「植える恐怖」と「食べられる恐怖」「殺される恐怖」でいっぱいなのです。
それが人間世界でも広がりつつあるわけです。
しかし、私たちは、もう一度高度な存在として、やはり、善悪の観念をはっきりと持たなければいけないのです。
善悪は、個別具体的には難しいものがあり、何とも言えないところはありますが、大きく言えば、前述したように、「他の人々をその方向で引っ張っていくことが、他の人々を幸福にするのか、不幸にするのか、それをよく考えて生きなさい」ということです。
原点は、ここにあるのです。 3 政治問題を宗教の立場で考える
「自衛隊員の命を護れ!」といった民進党幹部
「善悪」は、大きく言うとそういうことですが、個別に見ると、難しい問題もあります。
宗教団体の多くは、今、政治問題としては、「反戦」「平和」「環境保護」等に取り組んでおり、そちらのほうを支援する方向に行っている団体が多数です。お坊さんたちもそうですし、新宗教もキリスト教も多数はそうです。
「反戦」「平和」「環境保護」「沖縄のジュゴンを護れ」などの言葉は、耳触りがとてもよく、訴えていて気持ちがよいのです。
一方、例えば、W戦争法案”と言われている、日米が共同で軍事行動をとれるようにする安保法案は、「よろしくない。戦争に巻き込まれるではないか」と言われたりしています。
(注。安全保障関連法は、2015年9月30日公布、2016年3月29日から施行された)。
民進党の政調会長になった方が、「自衛隊員の命を護れ!」と言っているのを聞いて、私は引っ繰り返りそうになりました。
「ええっ?自衛隊員が日本国民の命を護るのではなかったのですか」と思い、一瞬、耳を疑ったのです。
例えば、火災が発生しているときに、「消防隊員の命を護れ」と言って、一生懸命、消防車の前で演説している人がいたら、
普通は、「あなた、何を言っているのですか。火事で燃えている所から、命を懸けて人を助け出すのが、消防隊の仕事でしょう?火消しをするのが消防隊の仕事でしょう?」と言われるでしょう。
「消防隊員の命を護れ。出動しては相ならん!」と言ってる人がいたら、「ちょっとおかしいのではないか」と思うのが常識でしょう。
そのように、生命の危険を伴う職業も世の中にはあります。
警察官もそうです。「警察官の命を護れ」と言っていたら、警察官は危険な所には出かけなくなります。「今、ナイフを持った男が家に押し込んできました。来てください!」と言われたのに、警察官が、「いや、私も怖いから行きません」と言っていたら、仕事になりません。
これでは単なる「税金泥棒」です。そうとしか言いようがないのです。
職業によっては、他の人を護るために、生命の危険を伴う働きをしなくてはいけない人もいるわけです。 宗教系統の人たちが「悪」に対して勘違いしてはいけないこと 宗教系統の人たちが「悪」に対して勘違いしてはいけないこと
宗教で言えば、私たちもそうです。
前述したように、この世の人が死んで不成仏になっている場合もあります。それはよくあることではありますが、
それ以外に、(生きている人のなかで)大きな野心を持ち、この世の中を悪くしようとしている人たちが動いているときには、やはり、これを止めようとして、現実の行動を起こさなければいけないこともあります。
そのためには、「個人の力」だけでは駄目で、多くの人たちの「集合の力」が要ります。たくさんの人の思いを集め、その悪くしようとしている「方向性」を変えていかなければならないのです。
そのあたりを勘違いしてはいけないと思います。よく考えてください。
「平和」や「環境保護」を訴える人たちはいますし、宗教系統の人たちも、そういうことを言うのがすごく好きです。私も、できればそれを言ってみたいと思ってはいるのです。
しかし、その結果、最終的に卑怯な自分をつくり、他の人々の幸福についてはどうでもよく、無関心で、「ただただ自分のことだけをやっていればよい」という気持ちになるのであれば、問題があるのではないでしょうか。
このあたりは、もうすこし賢くないといけないのではないかと思います。 地震が多発するときには国が乱れている
地震も、現在ただ今のテーマではあるのですが、非常に難しい問題です。
地震が起き、被災して、亡くなる方や救助を求める方がいます。そういう人を助けに行くのは英雄的な行為ですし、それに反対する人は誰もいません。
幸福の科学も、これまでずっと、炊き出しをしたり、給水をしたりしてきています。これは当たり前のことであり、全然、批判すべきではありません。
ただ、その原因のところ、「なぜ、そういう地震が起きるのか」ということについて、唯物論的にだけ考え、「断層があるから起きるのだ」などという人もいるのですが、「ちょっと待ってください」と言いたいのです。
断層は昔からいくらでもあるのですが、「なぜ、それが今、活発化しているか」というところが問題なのであり、それを私どもは調べていっているわけです。
日本列島は世界の地震の一割ぐらいを起こしており、地震そのものを止められるわけではないのですが、過去を調べてみても地震が多発するようなときには、やはり、国が乱れているときがすごく多いのです。
国が乱れるときには、「地震」「津波」「火山の噴火」「飢饉」「疫病」などが流行ります。そういうときに、いろいろな宗教家たちが出て、新しい教えを説いたりします。
あるいは、政治においては革命が起き、幕府が倒れ、新しい政権に替わったりします。そのようなことがたくさん起きています。
それは、天から見放された場合のことだと思うのです。 日本に関係する神々は「世直し」を促している
近年では、「阪神・淡路大震災」あたりから始まって、「東日本大震災」や熊本での地震というかたちで、大きな地震が続いています。
ここ二十年から二十五年の間、日本は経済停滞の時期に入っていますが、「どうやら、天上界は、あまり良い思いを持っていないらしい」ということが分かります。「日本に関係する神々も、これをあまりよしとされていない」ということが分かるのです。
「この国は、もう一段、力強く発展して、世界のリーダーになるべき立場にあるのに、それを放棄しているのではないか」という不満がおありなのではないかと私は思います。
そういう意味で、「世直し」を促していらっしゃるのではないでしょうか。それが、私たちがキャッチしている霊界情報です。
幸福の科学に関して言えば、「幸福の科学というものを三十年ほど前に立宗したのに、まだ、こんなものか。この程度しか進まないのか。何をしているのだ」と、むしろ叱られているのではないかと思っています。
「三十年たって、まだ、こんなものか。もっともっと「世直し」ができるかと思ったのに、進んでいないではないか」というようなことを問いかけられているのではないかと思い、私のほうは責任を感じています。
もう一段の大きなうねりの力があってもよいですし、そういう力が日本国中で湧き上がってこなければ、世界にまでは、なかなか手が届かないのが現実なのです。この悔しさには何とも言い難いものがあります。 徳島県には「エル・カンターレ空港」があってよい
四国の皆さんは、「熊本や大分のあたりで断層が動き、地震がたくさん起きている。
『中央構造線』は、愛媛県の松山辺りや徳島県の吉野川付近までつながっているので、その辺り全部で地震が起き、四国が半分ぐらいに割れるのではないか」というようなことを妄想し、怖がっているかもしれません。
どっこい、四国は私の生誕の地です。そんなことは許しません。
これから、幸福の科学の基本的な思想や考え方、人類を幸福化するためのエネルギーを、世界に流していきたいと思っています。
その中心地、発信地であり、私のゆりかごというか、揺籃というか、生まれの地、足場において「弱い」ということには、やはり、何んとも言えないものがあります。
例えば、高知には「高知龍馬空港」があり、徳島にも「徳島阿波おどり空港」がありますが、「阿波おどり」でなくてもよいのではないでしょうか、
「徳島エル・カンターレ空港」という名称であっても全然悪くないのではないかと思いますし、世界の人には、その方が分かりやすいのではないかとも思うのです。
「そう思うところぐらいまではやらないと、徳島の信者、あるいは四国の信者としては、力が少し足りないのではないか」という気がします。私が、そのような強い後押しを地元から受ければ、とてもうれしく感じます。
私は四国出身ですし、徳島県出身なので、徳島に不利になるようなことを考えたりしないつもりでいるのですが、まだ、それだけのご信頼を十分に得ていないので、残念な気持ちでいっぱいです。
私の講演会のうち、例えば、七月の「御生誕祭」や十二月の「エル・カンターレ祭」は、地方のテレビ局では、今、六、七局ぐらいで放送されているのですが、まだ私の地元辺りでは放送されておらず、テレビ和歌山を観なくてはいけないのではないかと思います。
「まだ、地元の盛り上がりが、やや欠けているのではないか」という気がしているので、もう一段、「本拠地の強さ」というものを見せていただきたいと思います。
天理教は、奈良県に天理市ができてしまうぐらいの強さを持っているわけですから、「本拠の強さのようなものがあってもよいのではないか」という気持ちは持っています。 4 伝道で「救いのチャンス」「悟りのよすが」を与える
この世とあの世の間の垣根を跳び、真理をつかめ
私が述べたいことを整理します。
最初に、「真実は何か」ということを確定しなければいけません。
この世に生きている人は、学校での教育だけでは、「人間は、魂がある存在なのか、肉体だけの存在なのか、ということが分かりませんし、学校教育には、どちらかといえば、「目に見えるもの、肉体だけが自分なのだ」と教えるような傾向が出てきています。
「肉体が自分だ」という考えのなかで道徳を説いても、それは交通ルールを教えている程度にしかすぎないことが多く、精神性が足りません。
精神性を高めるためには、「真実の世界」について教えなければいけないのです。
したがって、教育者や社会的地位のある方々が、きちんとした信仰心を持っていることが非常に大事です。そういう偉い方々には、「真実の世界」について勉強し、きちんと知っていてほしいのです。それから、知識階級の方にも勉強していてほしいのです。
近代の原理のなかでは、とにかく、科学的にも、「疑い」というものを中心に据えたりもしていますし、ジャーナリスティックにも、疑って疑って、真理をつかむ」というような考え方が、けっこう強く出てきています。
しかし、疑うことだけが真理を得る方法ではありません。真理というものには、一気に飛び込まないと得られないところもあるのです。
この世とあの世の間には、どうしても垣根があるので、その垣根を跳ばなくてはいけません。あるいは、溝というか、谷を跳ばなくてはいけないのです。思い切って跳ばないかぎり、つかめないところが真理にはあるのです。
「信仰を持つ」とは、そういうことなのです。どこかで跳ばなくてはいけないのです。
ところが、どう見ても、谷の幅がかなりあるように見え、跳ぶと落ちそうに思えるために跳べません。
これが普通の人間なのですが、この世に毒されていくうちに、だんだん、それがすごく難しいことのように感じられ、「向こうに行ったら、怖いことが起きるのではないか」と思うようなところがあるのです。
しかし、「真理は何であるか」ということを確信したら、その真理をガシッとつかまなくてはいけないのです。 私と釈尊に共通する「過去・現在・未来を見通す目」
もう学問も駄目になってきているのですが、ものを扱う唯物論的な学問だけが駄目になったのではなく、宗教学や仏教学なども駄目なのです。 私と釈尊に共通する「過去・現在・未来を見通す目」
もう学問も駄目になってきているのですが、ものを扱う唯物論的な学問だけが駄目になったのではなく、宗教学や仏教学なども駄目なのです。
これももう哲学のようになってしまっています。
二千五百年以上前のお釈迦様の教えも、人間の頭のなかで考える哲学になってしまい、哲学をひねくり回しているようになっているのです。
仏教系の大学があっても、そこで教えていることも、そういうものです。
「とにかく座禅の作法を守れ」とか、「念仏を称えろ」とか、「『南無妙法蓮華経』と唱えろ」とか、とりあえず、かたちをつくることまでは教えるのですが、中身がありません。
中身については信じていないのです。
例えば、「お釈迦様は、ヨガの行者のように座禅をしていただけなのだ」と思い、「質素に生活して座禅をしていれば、それで済むのだ」というように考えている人が、けっこう多いのです。
しかし、それは違っています。
確かに、座禅をしたり精神統一をしたりしてはいましたが、釈尊の人生を見てみると、「菩提樹下で悟りを開いたときに、三明を得た。三つの明かりを得た」と、はっきり書いてあります。
三明とは何かと言うと、「過去を見通す目」「現在を見通す目」「未来を見通す目」の三つのことです。「悟ったときに過去・現在・未来が分かるようになった」と仏典にはっきり書いてあるのです。
「三明を得る」とは、そういうことです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています