学問の世界に流れる”汚染水”の正体

 その意味では、非常に基本的であり、初歩的ではありますが、ここは、宗教としての、”最初の戦い”の部分だと思います。

 もし、「心なんて、ない」と斬ってこられたら、宗教としては、「開く扉がない」に近いでしょう。

 「人間には、心なんかない。何を言っているのだ。脳の作用じゃないか。あれは、神経の作用だ。そんなものは、脳のあたりに電気作用か何かが働いて、そういう風に感じているだけなのだ」
と、自分で言っているような人たちを説得し、その後の世界について説明するのは、とても難しいと思います。

 ともかく、”頭がいい”という人が、だんだん、そのようになっていくわけで、仏教の言い方では、これは、「邪見」、もしくは「悪見」という言葉になるでしょう。
要は、正当な見方、正しい見方(正見)とは違う、逆の見方に染まっているわけです。

 「そういう見方が、正統派の学問である」ということで固まっているのであれば、大変な間違いだと思います。

 特に、日本の教育としては、「文部省」と「科学技術庁」が一体になって「文部科学省」となったため、すべての学問に対して、科学的な見方がされるようになりかねません。
その場合、いわゆる正見、正しい真理に基づく見方ができなくなる可能性があるわけです。