なんだか...
クダラナイ議論が繰り返し続いていますね。

ハッキリいうと、
大乗的(真言宗は大乗です)には最初から、“ホトケの救済”は中心的な根本教義です。
なので、真言信者が弘法大師を救いの存在として崇めていても何も可笑しくない。
むしろ、本山からも大師さまに心から「御すがりしなさい」は、
日常的に信者に説かれるごく普通のお言葉でしょう。
もちろん、それは「自分自身は何もしません」などではなくて、
教えを受けて日々、心を清くできるよう努めることが説かれます。

尚、本来の仏教的には如来は救済をお願いする存在ではなく、
教え導かれる法(真理と教え)の体現者です。
仏教的には、自己の修錬による向上によって自らを高めなさいということ。
元々、ホトケはお願い事をする存在などではないのです。
これを“見守っている存在”だというのならば、確かにその通りでしょう。

ただし、
ホトケはその内なる慈悲の心によって救いの手を差し伸べられているとするのならば、
これ(大乗信仰の出発点)もそのような見解はデタラメだとするのも如何なものか?