神慈秀明会 Vol.73【感心の希薄化】 [無断転載禁止]©2ch.net
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正しい歴史認識、国益重視の外交、核武装の実現
皇紀2673年、紀元節(建国記念の日)を祝う!:2013/02/11
「神武天皇」月岡芳年「大日本名将鑑」より
本日2月11日は、2673年目の「紀元節」だ。一昨年の「建国記念の日」(紀元節)を前に、西岡武夫参院議長は「政府主催の祝賀式典を行うべきだ」とする書簡を菅直人首相あてに提出した。
しかし、菅直人がそのような提言を受け入れるわけもなく、西岡武夫参院議長は一昨年11月5日に他界した。当然日本も建国を祝う日に政府主催の式典を行うべきだ。政令で定められた「建国記念の日」は、正式には「紀元節」と言う。
「日本書紀」によれば紀元前660年(西暦)に、初代神武天皇が橿原宮で即位した。この「神武天皇の御即位」の日をもってわが国の国づくりが始まった「紀元」と定められ、この建国の物語はその後も日本の歴史の中で連綿と生き続けた。
世界を見渡せば、殆どの国々が王朝を次々と交代させたり断絶させたりした中にあって、日本が奇跡の継承を護り通すことが出来たのは、私たちの祖先が建国の物語と万世一系の天皇陛下を戴くことに畏敬の念と誇りを持ち続けたからに他ならない。
明治5年に政府が、文部省天文局が現行暦の2月11日とあたると算出し、宮中でも祭祀が執り行われた。また、明治22年には、この2月11日に大日本帝国憲法が発布されたため、憲法を記念する日にもなった。
紀元節は、国民にも普及し、全国の小学校や神社で儀式が執り行われ、青年団などによる式典が開かれるようになったという。大正15年(1926年)には、在郷軍人会や青年団を中心とする第一回「建国祭」の行事が各地で行われるようになった。
当時の雑誌記事(「寫眞通信」1926年4月号)にそのときの様子が記載されている。(ソース)
東京では第一會場を芝公園、第二會場を九段靖國神社、第三會場を上野の森として、心からなる歡喜を滿面に漂はしてそれぞれ集つた大群衆は、司會者の指揮の下に建國祭を行ひ各々宮城前の廣場に
集會する頃は、十數萬の民衆の赤誠こめた「日本帝國萬歳」の叫は天地をゆるがして、素晴らしい大和魂の姿となつて現れたのである次の写真が第1回建国祭(東京)の写真だという。
・・・昭和15年(1940年・真珠湾攻撃の前年)は、【皇紀2600年】の年にあたり、その年の紀元節(2月11日)は日本全国お祭り騒ぎの特別な日となったという。
戦後昭和22年(1947年)、日本政府は、占領憲法下で改めて「建国の日」を祝日法に盛り込もうとしたが、GHQによって削除された。
その後、アンケート調査により、全国民の80%以上が「紀元節」の復活を望んでいることが判明した。この復活を願う国民によって「建国記念の日」が正式に実施されたのは、昭和42年(1967年)のことだった。
その後、民間団体を中心に奉祝行事が行われたが、昭和53年(1978年)からは「奉祝運営委員会」が組織されて政府後援の式典が開催され、
昭和60年(1985年)からは新たに結成された「建国記念の日を祝う会」により首相参列のもと式典が開催されるようになった。
しかし、「建国記念の日を祝う会」は、昭和61年3月に財団法人「国民の祝日を祝う会」へと財団化し、式典の趣旨から神武天皇建国の意義を除き、政府主催化も求めないと表明した。
平成15年2月11日、小泉総理は、東京・霞ヶ関の虎ノ門ホールで開催された「建国記念の日を祝う国民式典」(主催:財団法人国民の祝日を祝う会)に出席した
平成15年2月11日、小泉総理は、東京・霞ヶ関の虎ノ門ホールで開催された「建国記念の日を祝う国民式典」(主催:財団法人国民の祝日を祝う会)に出席した。
しかし、小泉総理は、翌年平成16年の式典を「所用」を理由に欠席した。
やがて「国民の祝日を祝う会」の政府後援による式典には首相の参列がなくなり、ついに平成17年、いわゆる「政府式典」は中止となった。
その後は政府自らが「建国記念の日」を祝うことをやめており、諸外国が国家を挙げて大々的に建国を祝うイベントを開催していることと比べると、非常に残念な状態が続いていた。
近年は、「日本の建国を祝う会」主催の「奉祝中央式典」(明治神宮会館)と「紀元節奉祝式典実行委員会」主催の「紀元節奉祝式典」(日本青年館→星陵会館)が主な式典となっていた。
しかしながら、昨年、安倍晋三総裁の下で自民党が「政府主催で建国記念の日を祝う式典を開催する」という公約を掲げた! ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています