一番正しい究極の教え
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
>>2
イエスの教えが正しいことは、
どうやって確認すればいいのでしょうか? たしかに人は信じることによって癒されるのだけれど、
信じれないとつらい。
信じなくても癒される道はないのか・・・ってことですね。 そもそも、「○○である」、と断言するとき、
断言する者が第一原因になってしまっている。
たとえば、神はいる、と断言するとき、
そう断言する「私」が、
神が存在することよりもまず先に正しい必要があるのです。
神は私に支えられているのか?ってことです。
すると、
「いやいや、私が断言しなくても、信じなくても、神はいるのです。」
と言う人がいます。
やっぱり、あなたは、
「神はいる」
と言ってしまっているのです。 結局、「神はいる」ではなくて「神はいると私は思ってる」ってことだよね。 世の創造主たる神の存在を信じること。
そして、その神とは愛と公正で世を支配していることを信じること。
人間には自由意志が許されていて、善でも悪でも為す自由があるが、
必ず後に、自分の蒔いた種は自分で刈り取らなければならない、ことを知ること。 中野の哲学堂公園で、ブッダと老子とアブラハムとキリストとイクナートンの5人の像が眺めてる
あの丸いボールのことだろ >>4
新約聖書読んでみるとわかるよ
それでもわからないときは
終末までまつか死んだらわかるよ
死ぬ前に 死ぬまえにイエスをしんじないとまにあわないから早めに聖書よんで判断してね 一番ただしい究極の教えとは、我、オケアノスが率いる、究極の24戦隊
長老軍である。
ヤハウェーの閣下も正された。プルートーのメシアもうまく上達した。
あとは、メシア、イエス閣下が来臨なさるのを待つだけだ。
オケアノス長老より。 >>10
信じれないときはどうすればいいでしょうか? >>10
神を信じる私の判断は正しいのでしょうか? 人はどのようにして癒されるのか?
・・・といったところでしょうか・・・。 >>19
神を信じるという判断は正しいよ。
目には見えないけど、本当に存在するから。
真剣に意識してると、働きで確信できる時が来る。
そして、なかなか善行は難しくとも、せめて悪行はしないように生きると運命的に吉。 >>21
人間が本当に心底から癒される為には、
【神の存在と、神の全知全能と完全愛情】を信じること。
それしか無いと思う。
無神論の人間は、そんなもの有るはずないと笑うだろうけど、
実は本当に有るし、それが真理だから。 >>22
どうすれば神を信じることが正しいと判断できるのでしょうか? >>23
エホバの証人もオームも統一教会も創価学会もイスラム教も我々が正しいと言い、
真の癒しは我々の教えにこそあると言います。
つまり癒しは人それぞれということでしょうか? >>24
それは実際に、世には本当に神が存在するからです。
もし世に神が存在しないなら、もちろん、神を信じずに生きる方が正しい、となります。
神の存在を真剣に意識しながら生きていると、
ある時、常識や確率を超えた不思議な働きを体験して、
目に見えない神の存在を確信できるようになります。
これは、ぜひ体験して頂きたいですね。
目に見えないものを知るには、やはり体験や証拠というのは大事です。 >>25
この世を創造した神(創造主)というのは一つ・唯一です。
よく山の頂上は一つでも、登る道や乗り物は様々で幾つも有るという例えがありますが、
様々な宗教があっても、同じ一つの頂上を様々な道や乗り物で皆が目指している感じかもしれませんね。
ただし、それは頂上に本物の唯一なる神を目指している場合ですので、
中には全く違う神や頂上を目指す宗教も有るので、その判断は要注意だと思います。 >>26
上で述べた真の唯一の神の御心というのは《完全な愛》です。
人間には自由意志が許されているので、世には様々な不幸や矛盾があふれていますが、
神の御心は《完全な愛のみ》なのです。
ですから、人間が真に癒され安心できる為には、
この真・唯一の《完全愛のみの神》を心の拠り所にするしか無いような気がします。
この心の拠り所が無いと、順調な時は良いですが、
何か大変な事が起きた時に動揺したり不安になったり、病んだりしやすいと思います。 >>27
つまり体験や証拠によって神を信じることが正しいかどうかをあなたや私が判断するというわけですね?
するとあなたや私の体験や証拠による判断が正しいということが神の存在の大前提になるということでしょうか? >>30
最終的には、そうなるかと思います。
この世に本当に神が存在するのか、それとも存在しないのか。
この答えは2つに1つしかありません。必ず、どちらかが正解なわけです。
そして、この部分に関しては無神論者なら必ず笑うでしょうが、
神とは、人間を愛し、真剣な心には働きかけてくれる存在です。
ですから、神の存在の真偽を確かめる為に、まずは真剣に神の存在を意識して生きてみる。
もし本当に真剣に意識して生きていれば、いずれ必ず神の存在無しでは不可能な不思議な働きを体験するでしょう。
この実体験こそが、神を信じることの正しさの証明になると思います。
>>31
> >>30
> 最終的には、そうなるかと思います。
あなたや私の体験や証拠による判断が間違っていると、神は存在しないということですね?
まず神在りきではなく、あなたや私在りき、であると・・・。 >>32
いえ、まず私たち在りきではなく、まず神在りきです。その次に私たちが、その神を認知できるかどうかです。
まず、この世界の大前提として、私たちが信じようと信じまいと、そんな事には全く関係なく、神は存在しています。
もちろん神は目には見えませんが、存在の証拠として『働き』は有りますので、
その『働き』を認知するために、「神の存在を真剣に意識する」というアンテナを張るわけです。
「神の存在を真剣に意識する」ことによって、神も、それに呼応して不思議な働きを見せて下さりやすくなります。
なぜなら、神は単に無機質で冷淡な方ではなく、常に我々に愛を持ち、救いたいとのみ思われている方だからです。
この点で、こうして愛なる神が存在しておられるのなら、
聖書のモーゼの奇跡(大海を分けた奇跡)のように全人類の前に大きな奇跡的自然現象を現して下されば
一番手っ取り早いのではないかと思ったりするのですが、
今の時代にはそのような簡単で手っ取り早い(悪く言えば浅はかな)方法はとられないようですね。
神様の深い思惑によって、各人がコツコツと真剣な心を持つことによって初めて知ることが出来るようにされているようです。 >>33
> >>32
> いえ、まず私たち在りきではなく、まず神在りきです。その次に私たちが、その神を認知できるかどうかです。
> まず、この世界の大前提として、私たちが信じようと信じまいと、そんな事には全く関係なく、神は存在しています。
たとえば、リンゴが在ると認識するためには、
私達に必ず記憶が必要です。
完全に記憶がない状態を想像してみると分かりますが、
リンゴとリンゴを囲む空間との境目が分かりません。
何よりも、この体がなければリンゴを触ることも味わうことも匂いを嗅ぐこともできません。
つまり、リンゴが存在するためには、
この体(五感や記憶など)が必要です。
この点についてはいかがでしょうか? >>35
もちろん、神が存在していることは絶対的な大前提として、
その神の存在を認識しようとするのであれば、知覚を持った我々人間のような生物の存在が必要だと思います。 >>36
> もちろん、神が存在していることは絶対的な大前提として、
あなたがいなくても神は存在するということですね?
リンゴはあなたがいなくても存在するのでしょうか?
> その神の存在を認識しようとするのであれば、知覚を持った我々人間のような生物の存在が必要だと思います。
ウィキペディアによると、知覚とは動物が外界からの刺激を感じ取り、意味づけすること、
とあります。
つまり、神の存在を認識するためには、意味づけが必要であるということですね? >>37
もちろん私が居なくとも神は存在しますし、
リンゴであれ何であれ存在するものは、私の存在に関係なく存在します。
そして、もし神の存在を認識することが必要なら、神以外の存在が知覚して意味づけることが必要になると思います。
>>38
> もちろん私が居なくとも神は存在しますし、
> リンゴであれ何であれ存在するものは、私の存在に関係なく存在します。
どのようにしてそれを確かめられましたか?
> そして、もし神の存在を認識することが必要なら、神以外の存在が知覚して意味づけることが必要になると思います。
あなたの意味づけと私の意味づけは、常に一致するでしょうか?
もし一致しないなら、あなたの神や私の神が存在するということになるでしょうか?
それとも一番正しい究極の意味づけがあるのでしょうか? >>39
私自身が確かめる以前に、
客観的な事実として、もし今ここにリンゴが存在しているとするならば、
今ここで私が生きていようが死んでいようが、世にリンゴが存在している事は明確でしょう。
そして、今ここにリンゴが存在しているのなら、
貴方や私の意味づけがどうあろうと、客観的にリンゴが存在しているのは明確であり、
貴方と私の意味づけが一致するかしないかは、リンゴの存在・不存在には関係が無いと思います。、
ここで問題になっているのは、我々の認識の意味づけではなく、
「本当に神は存在しているのか、していないのか」であり、
別に「私には信じられません」という方があっても、それはそれで立派な一つの意見であり、
そのままでよろしいと思います。
>>40
> 私自身が確かめる以前に、
> 客観的な事実として、もし今ここにリンゴが存在しているとするならば、
> 今ここで私が生きていようが死んでいようが、世にリンゴが存在している事は明確でしょう。
なんであれ概念は人が作り出したものです。
もちろん客観的な事実と言う概念もそうですね。
これは客観的な事実だ、と考えている人が必ず存在しているわけです。
確かめていないことを断言する場合は、想像や推理であり、
またそはれを信じているということではないですか? >>40
> ここで問題になっているのは、我々の認識の意味づけではなく、
> 「本当に神は存在しているのか、していないのか」であり、
> 別に「私には信じられません」という方があっても、それはそれで立派な一つの意見であり、
> そのままでよろしいと思います。
神の存在はどのようにすれば確認できるのでしょうか? 神の存在は、まず最初は半信半疑であれ真剣に《唯一なる、愛と全知全能の神の存在》をイメージ・意識し、
《少しでも神様の御心に適った生き方が出来ますよう、そして過ちを起こしませんように》と祈りつつ暮らしていると、
仕事や私生活を含めた日常の中で、常識や確率を越えた不思議が体験できていますね。
ただし、それらの大半は、宝クジが当たるような欲得を満足させてくれるような不思議ではなく、
本来なら致命的や危機な事が奇跡的に回避されるような事が多いですね。
これは、以前には徹底した無神論者だった自分自身の実体験による《神の存在の確信》であり、
もはや私自身には《信じる》というより《知る》というレベルの話だと思っています。
やはり、こういう部分は《百の論より、証拠》で、《自分自身で証拠を体験する》のが一番だと思いますし、
人によっては、それしかないのかもしれませんね。
>>43
> 神の存在は、まず最初は半信半疑であれ真剣に《唯一なる、愛と全知全能の神の存在》をイメージ・意識し、
> 《少しでも神様の御心に適った生き方が出来ますよう、そして過ちを起こしませんように》と祈りつつ暮らしていると、
> 仕事や私生活を含めた日常の中で、常識や確率を越えた不思議が体験できていますね。
確かに真剣であればあるほどその体験はリアルになるようです。
イスラム教を真剣を信じている人はその教義の証拠を見出しますし、
天理教を信じている人は真剣であればあるほどやはりその確証を得、奇跡を体験します。
あるいは疑いを持ってその教義に接している人もその教義の真実を見出したりすることもあるようで、
結局のところ人は見たいものや意識しているものを見るみたいですね。 >>43
> やはり、こういう部分は《百の論より、証拠》で、《自分自身で証拠を体験する》のが一番だと思いますし、
> 人によっては、それしかないのかもしれませんね。
これが証拠であるという判断は、人がするわけですね。
ある人はこれが証拠だといい、
べつのある人は、いやいやそれではなくてこっちが本当の証拠だと言います。
そうやって、カソリックがあり、プロテスタントがあり、イスラム教があり、エホバの証人があります。
もちろんそれはそれでいいのですが、
ここでは、そういったものを超越しかつそういったものと相反することの無いものについて、
議論できればと思います。 阿含宗及び桐山管長は悪いほうへ行ってしまったと聞いたのでダメだが、原始仏教である
阿含教の7か37道品ははやく解読しきり具体的には何をやるのかネットなどに載せ
コースも作るところは作って出来るようにすべきである。そうしないと本当の悟りは
いつまでたっても得られない。よく禅宗の坊さんが悟ったと言ったことがあるのを聞いた
ことがあるが、故桐山が生前言うには違うものだと言う。グモンジソウメイホウも
空海が出したまんまたどっただけでは違うものらしい。いぶきながよのほうもそうなのだろう。
ただ釈迦にも欠点はあり7か37道品の最後の八正道は中道を軸に作っているが。
中道でいいところはいいが、裏目に出ると肝心のところで中道ではなく中途半端に
(中途挫折)に物事が終わってしまう。しかも釈迦は自分がそれで失敗すると、なんでも
正当化して、しかも本当に成功してる者を二面性屁理屈などをつかってけなして騙し
全部中途半端に引きずり落としてしまう、そうしておいてそのダメ達の中では自分が勝った
と錯覚しようとする。
これでは今度は悟り以外なんともならなくなる。
ここはどうにか改良、改善して使わなければならない。
どうにか静と動になるようにしたい ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています