一番正しい究極の教え
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>>2
イエスの教えが正しいことは、
どうやって確認すればいいのでしょうか? たしかに人は信じることによって癒されるのだけれど、
信じれないとつらい。
信じなくても癒される道はないのか・・・ってことですね。 そもそも、「○○である」、と断言するとき、
断言する者が第一原因になってしまっている。
たとえば、神はいる、と断言するとき、
そう断言する「私」が、
神が存在することよりもまず先に正しい必要があるのです。
神は私に支えられているのか?ってことです。
すると、
「いやいや、私が断言しなくても、信じなくても、神はいるのです。」
と言う人がいます。
やっぱり、あなたは、
「神はいる」
と言ってしまっているのです。 結局、「神はいる」ではなくて「神はいると私は思ってる」ってことだよね。 世の創造主たる神の存在を信じること。
そして、その神とは愛と公正で世を支配していることを信じること。
人間には自由意志が許されていて、善でも悪でも為す自由があるが、
必ず後に、自分の蒔いた種は自分で刈り取らなければならない、ことを知ること。 中野の哲学堂公園で、ブッダと老子とアブラハムとキリストとイクナートンの5人の像が眺めてる
あの丸いボールのことだろ >>4
新約聖書読んでみるとわかるよ
それでもわからないときは
終末までまつか死んだらわかるよ
死ぬ前に 死ぬまえにイエスをしんじないとまにあわないから早めに聖書よんで判断してね 一番ただしい究極の教えとは、我、オケアノスが率いる、究極の24戦隊
長老軍である。
ヤハウェーの閣下も正された。プルートーのメシアもうまく上達した。
あとは、メシア、イエス閣下が来臨なさるのを待つだけだ。
オケアノス長老より。 >>10
信じれないときはどうすればいいでしょうか? >>10
神を信じる私の判断は正しいのでしょうか? 人はどのようにして癒されるのか?
・・・といったところでしょうか・・・。 >>19
神を信じるという判断は正しいよ。
目には見えないけど、本当に存在するから。
真剣に意識してると、働きで確信できる時が来る。
そして、なかなか善行は難しくとも、せめて悪行はしないように生きると運命的に吉。 >>21
人間が本当に心底から癒される為には、
【神の存在と、神の全知全能と完全愛情】を信じること。
それしか無いと思う。
無神論の人間は、そんなもの有るはずないと笑うだろうけど、
実は本当に有るし、それが真理だから。 >>22
どうすれば神を信じることが正しいと判断できるのでしょうか? >>23
エホバの証人もオームも統一教会も創価学会もイスラム教も我々が正しいと言い、
真の癒しは我々の教えにこそあると言います。
つまり癒しは人それぞれということでしょうか? >>24
それは実際に、世には本当に神が存在するからです。
もし世に神が存在しないなら、もちろん、神を信じずに生きる方が正しい、となります。
神の存在を真剣に意識しながら生きていると、
ある時、常識や確率を超えた不思議な働きを体験して、
目に見えない神の存在を確信できるようになります。
これは、ぜひ体験して頂きたいですね。
目に見えないものを知るには、やはり体験や証拠というのは大事です。 >>25
この世を創造した神(創造主)というのは一つ・唯一です。
よく山の頂上は一つでも、登る道や乗り物は様々で幾つも有るという例えがありますが、
様々な宗教があっても、同じ一つの頂上を様々な道や乗り物で皆が目指している感じかもしれませんね。
ただし、それは頂上に本物の唯一なる神を目指している場合ですので、
中には全く違う神や頂上を目指す宗教も有るので、その判断は要注意だと思います。 >>26
上で述べた真の唯一の神の御心というのは《完全な愛》です。
人間には自由意志が許されているので、世には様々な不幸や矛盾があふれていますが、
神の御心は《完全な愛のみ》なのです。
ですから、人間が真に癒され安心できる為には、
この真・唯一の《完全愛のみの神》を心の拠り所にするしか無いような気がします。
この心の拠り所が無いと、順調な時は良いですが、
何か大変な事が起きた時に動揺したり不安になったり、病んだりしやすいと思います。 >>27
つまり体験や証拠によって神を信じることが正しいかどうかをあなたや私が判断するというわけですね?
するとあなたや私の体験や証拠による判断が正しいということが神の存在の大前提になるということでしょうか? >>30
最終的には、そうなるかと思います。
この世に本当に神が存在するのか、それとも存在しないのか。
この答えは2つに1つしかありません。必ず、どちらかが正解なわけです。
そして、この部分に関しては無神論者なら必ず笑うでしょうが、
神とは、人間を愛し、真剣な心には働きかけてくれる存在です。
ですから、神の存在の真偽を確かめる為に、まずは真剣に神の存在を意識して生きてみる。
もし本当に真剣に意識して生きていれば、いずれ必ず神の存在無しでは不可能な不思議な働きを体験するでしょう。
この実体験こそが、神を信じることの正しさの証明になると思います。
>>31
> >>30
> 最終的には、そうなるかと思います。
あなたや私の体験や証拠による判断が間違っていると、神は存在しないということですね?
まず神在りきではなく、あなたや私在りき、であると・・・。 >>32
いえ、まず私たち在りきではなく、まず神在りきです。その次に私たちが、その神を認知できるかどうかです。
まず、この世界の大前提として、私たちが信じようと信じまいと、そんな事には全く関係なく、神は存在しています。
もちろん神は目には見えませんが、存在の証拠として『働き』は有りますので、
その『働き』を認知するために、「神の存在を真剣に意識する」というアンテナを張るわけです。
「神の存在を真剣に意識する」ことによって、神も、それに呼応して不思議な働きを見せて下さりやすくなります。
なぜなら、神は単に無機質で冷淡な方ではなく、常に我々に愛を持ち、救いたいとのみ思われている方だからです。
この点で、こうして愛なる神が存在しておられるのなら、
聖書のモーゼの奇跡(大海を分けた奇跡)のように全人類の前に大きな奇跡的自然現象を現して下されば
一番手っ取り早いのではないかと思ったりするのですが、
今の時代にはそのような簡単で手っ取り早い(悪く言えば浅はかな)方法はとられないようですね。
神様の深い思惑によって、各人がコツコツと真剣な心を持つことによって初めて知ることが出来るようにされているようです。 >>33
> >>32
> いえ、まず私たち在りきではなく、まず神在りきです。その次に私たちが、その神を認知できるかどうかです。
> まず、この世界の大前提として、私たちが信じようと信じまいと、そんな事には全く関係なく、神は存在しています。
たとえば、リンゴが在ると認識するためには、
私達に必ず記憶が必要です。
完全に記憶がない状態を想像してみると分かりますが、
リンゴとリンゴを囲む空間との境目が分かりません。
何よりも、この体がなければリンゴを触ることも味わうことも匂いを嗅ぐこともできません。
つまり、リンゴが存在するためには、
この体(五感や記憶など)が必要です。
この点についてはいかがでしょうか? >>35
もちろん、神が存在していることは絶対的な大前提として、
その神の存在を認識しようとするのであれば、知覚を持った我々人間のような生物の存在が必要だと思います。 >>36
> もちろん、神が存在していることは絶対的な大前提として、
あなたがいなくても神は存在するということですね?
リンゴはあなたがいなくても存在するのでしょうか?
> その神の存在を認識しようとするのであれば、知覚を持った我々人間のような生物の存在が必要だと思います。
ウィキペディアによると、知覚とは動物が外界からの刺激を感じ取り、意味づけすること、
とあります。
つまり、神の存在を認識するためには、意味づけが必要であるということですね? >>37
もちろん私が居なくとも神は存在しますし、
リンゴであれ何であれ存在するものは、私の存在に関係なく存在します。
そして、もし神の存在を認識することが必要なら、神以外の存在が知覚して意味づけることが必要になると思います。
>>38
> もちろん私が居なくとも神は存在しますし、
> リンゴであれ何であれ存在するものは、私の存在に関係なく存在します。
どのようにしてそれを確かめられましたか?
> そして、もし神の存在を認識することが必要なら、神以外の存在が知覚して意味づけることが必要になると思います。
あなたの意味づけと私の意味づけは、常に一致するでしょうか?
もし一致しないなら、あなたの神や私の神が存在するということになるでしょうか?
それとも一番正しい究極の意味づけがあるのでしょうか? >>39
私自身が確かめる以前に、
客観的な事実として、もし今ここにリンゴが存在しているとするならば、
今ここで私が生きていようが死んでいようが、世にリンゴが存在している事は明確でしょう。
そして、今ここにリンゴが存在しているのなら、
貴方や私の意味づけがどうあろうと、客観的にリンゴが存在しているのは明確であり、
貴方と私の意味づけが一致するかしないかは、リンゴの存在・不存在には関係が無いと思います。、
ここで問題になっているのは、我々の認識の意味づけではなく、
「本当に神は存在しているのか、していないのか」であり、
別に「私には信じられません」という方があっても、それはそれで立派な一つの意見であり、
そのままでよろしいと思います。
>>40
> 私自身が確かめる以前に、
> 客観的な事実として、もし今ここにリンゴが存在しているとするならば、
> 今ここで私が生きていようが死んでいようが、世にリンゴが存在している事は明確でしょう。
なんであれ概念は人が作り出したものです。
もちろん客観的な事実と言う概念もそうですね。
これは客観的な事実だ、と考えている人が必ず存在しているわけです。
確かめていないことを断言する場合は、想像や推理であり、
またそはれを信じているということではないですか? >>40
> ここで問題になっているのは、我々の認識の意味づけではなく、
> 「本当に神は存在しているのか、していないのか」であり、
> 別に「私には信じられません」という方があっても、それはそれで立派な一つの意見であり、
> そのままでよろしいと思います。
神の存在はどのようにすれば確認できるのでしょうか? 神の存在は、まず最初は半信半疑であれ真剣に《唯一なる、愛と全知全能の神の存在》をイメージ・意識し、
《少しでも神様の御心に適った生き方が出来ますよう、そして過ちを起こしませんように》と祈りつつ暮らしていると、
仕事や私生活を含めた日常の中で、常識や確率を越えた不思議が体験できていますね。
ただし、それらの大半は、宝クジが当たるような欲得を満足させてくれるような不思議ではなく、
本来なら致命的や危機な事が奇跡的に回避されるような事が多いですね。
これは、以前には徹底した無神論者だった自分自身の実体験による《神の存在の確信》であり、
もはや私自身には《信じる》というより《知る》というレベルの話だと思っています。
やはり、こういう部分は《百の論より、証拠》で、《自分自身で証拠を体験する》のが一番だと思いますし、
人によっては、それしかないのかもしれませんね。
>>43
> 神の存在は、まず最初は半信半疑であれ真剣に《唯一なる、愛と全知全能の神の存在》をイメージ・意識し、
> 《少しでも神様の御心に適った生き方が出来ますよう、そして過ちを起こしませんように》と祈りつつ暮らしていると、
> 仕事や私生活を含めた日常の中で、常識や確率を越えた不思議が体験できていますね。
確かに真剣であればあるほどその体験はリアルになるようです。
イスラム教を真剣を信じている人はその教義の証拠を見出しますし、
天理教を信じている人は真剣であればあるほどやはりその確証を得、奇跡を体験します。
あるいは疑いを持ってその教義に接している人もその教義の真実を見出したりすることもあるようで、
結局のところ人は見たいものや意識しているものを見るみたいですね。 >>43
> やはり、こういう部分は《百の論より、証拠》で、《自分自身で証拠を体験する》のが一番だと思いますし、
> 人によっては、それしかないのかもしれませんね。
これが証拠であるという判断は、人がするわけですね。
ある人はこれが証拠だといい、
べつのある人は、いやいやそれではなくてこっちが本当の証拠だと言います。
そうやって、カソリックがあり、プロテスタントがあり、イスラム教があり、エホバの証人があります。
もちろんそれはそれでいいのですが、
ここでは、そういったものを超越しかつそういったものと相反することの無いものについて、
議論できればと思います。 阿含宗及び桐山管長は悪いほうへ行ってしまったと聞いたのでダメだが、原始仏教である
阿含教の7か37道品ははやく解読しきり具体的には何をやるのかネットなどに載せ
コースも作るところは作って出来るようにすべきである。そうしないと本当の悟りは
いつまでたっても得られない。よく禅宗の坊さんが悟ったと言ったことがあるのを聞いた
ことがあるが、故桐山が生前言うには違うものだと言う。グモンジソウメイホウも
空海が出したまんまたどっただけでは違うものらしい。いぶきながよのほうもそうなのだろう。
ただ釈迦にも欠点はあり7か37道品の最後の八正道は中道を軸に作っているが。
中道でいいところはいいが、裏目に出ると肝心のところで中道ではなく中途半端に
(中途挫折)に物事が終わってしまう。しかも釈迦は自分がそれで失敗すると、なんでも
正当化して、しかも本当に成功してる者を二面性屁理屈などをつかってけなして騙し
全部中途半端に引きずり落としてしまう、そうしておいてそのダメ達の中では自分が勝った
と錯覚しようとする。
これでは今度は悟り以外なんともならなくなる。
ここはどうにか改良、改善して使わなければならない。
どうにか静と動になるようにしたい カーリー か オーディーン か というところかね。 書籍
【スワーミー・ヴィヴェーカーナンダと日本】
(スワーミー・メダサーナンダ/日本ヴェーナンダ協会/1000円+税)
この書籍の103〜147ページ『付録三 人間の本性』を読んだ時、これこそ真理、真の宗教と思いました。
他のスワーミー・ヴィヴェーカーナンダの書籍も読みたいです。
お薦めします。 >>47
「悟り」という言葉を持ち出すと、
定義が色々あって結論が出なくなります。
釈迦が最初に悟りを開いたとされていますが、
それがどのようなものかは本人に聞かないと分かりません。
般若心経が彼の悟りを色濃く表現していると聞きますが、
それも解釈が分かれたりします。
とはいえ、何が究極かを見出すためには、
まずは、基準となるものが必要だと思います。
悟りを開いたか?
神を見出したか?
癒されたか?
真我を見出したか?
すべてを知ったか?
何を基準にしたらいいでしょうか? 自我は無色透明中立でしょうか?
そうでないなら偏っているということになります。
偏った者の言う事を信じるわけにはいきません。
偏った者が究極を見たと言ったとして、
それを真に受けていいかどうか・・・。 井の中の蛙という言葉がありまして、
ネガティブな意味合いで使われることが多いですが、
井の中しかないときはもはや井の中ですらないんですよね。
つまり井の中の蛙は全てを知っているわけです。
さて、人はどのようにして出口の無い迷路に入り込んでしまうのでしょうか? >>55
> 自我は無色透明中立でしょうか?
もし、無色透明中立ではない場合、
自我の判断を信じてもいいのか、
・・・というテーマはいかがでしょう? >>1
とにかく”凡我一体”を為し得る宗教。
宇宙・霊界を体得し得る宗教。 >>57
その思想は釈迦より前からあったのでしょうか?
はじめにそれを見出したのは誰なのでしょうか? ちょっと厳密に。
凡我一体を為し得るのか、
すでに凡我一体であることに気づくのか。。。 凡我一体を為し得た後で、我に何か変化はありましたか? なんか人生飽きた。
自殺しようか迷う。
でも、自殺して無になれなかったら嫌だなぁ・・・・・。
無になれないどころか、無間地獄に落ちて永遠に苦を味あわされたりしたら超最悪だしなぁ・・・・・。
自殺するか迷う。 お前ら本当馬鹿なんだな。
ものを自分で考えられないってヤバイぞ。
人なんか生きてる意味無いんだから正しいとか間違ってるとかないだろ。
ただ生きててそこにものを解釈し選択し同行どうしたかがあるだけ。そこに正しいとか間違いとか付け加えるのは人間のエゴだ。恥ずかしいな。 >>64
確かに人生にあらかじめ決められた意味は無いのですが、
問題は、意味がないと不安になってしまう精神にあると思います。
どうすれば、人生に意味がなくても安心でいられるでしょうか? 特定の宗教では無く、「普遍的な神や死後の報い・因果応報」を理性的に知る為に凄く良い本。
有名なアラン・カルデック著の
『霊との対話-天国と地獄2』
唯一、幸福の科学出版という部分だけが少し抵抗あるけど、
内容は全く幸福の科学は関係無いので安心して読んでほしいと思う。
ちなみに『天国と地獄1』は既に廃版で新品では手に入らないし、自分も読んでいないけど、
『天国と地獄2』だけで充分だから、全ての「神や死後世界に関心ある人」にお勧め。
最初に最終章のアランカルデック自伝部分は必読。
この本の冷静な説得力が分かります。 『神との対話』シリーズの神。
どこか特定の宗教だけの神ではなく、
世の多くの宗教にインスピレーションを与えてきた普遍的な唯一の神。
イエスの事も「イエスは最高のマスター(師)の例だが、イエスだけが聖者・マスターではない」と。
今回は宗教や格式を超えて、愛を持って気さくな形で人類に語りかけてきてくれた。
この愛の神を本当に信じ、心に受け入れれば、本当に世界の観方と経験が変わると思います。
《10分で読めて分かる『神との対話』》
https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome 神を体験した人がおり、
死後の世界を見た人がおり、
霊と対話した人がいます。
すると、神や死後の世界や霊の存在は、
その人の認識が完全に正しいことを前提に成り立っています。
もし、少しでもその人が間違う可能性があるのなら、
神や死後の世界や霊の存在は間違いである可能性があります。
「私」というものが認識する事象は、
果たして完全に正しいのでしょうか?
「私」によらない、つまり体験者のいない体験はあるでしょうか? >>70
『神との対話』は素晴らしい書物だと思います。
「精神によってそこに達することはできない」
のような記述があったと思いますが、
何を言わんとしていると思いますか? >>70
青い炎とひとつになる、
というのは試されたことはおありですか? >> 72
対話の中では、例えば欲しいモノ・成功や天国に達する為に、それを欲するという“行動・精神”ではなく、
そのようなモノを既に持っているという“存在”になりなさい。
むしろ、欲しがる事で、手に入らない事になるから。
というような一節がありますね。
本当に必要な物は、我々が欲する以前に(完璧な神から)全てが与えられているのだから、
「ことさら今以上に何かを欲するという精神・行動」よりも、
まずは「必要なモノは今に全て与えられているという自覚・感謝」が大事なことではないかと思っています。
何かをする事で天国に行けるのではなく、既に天国にいるという自覚と受容が大事だと神は言っていますしね。
「まず何よりも、喜びの感情が大事」とも神は言っていますから。
この点で、最初の頃の(物欲性メインの)ニール氏と(精神性メインの)神との対話のチグハグになった部分が、
この本のユーモラスで人気が出た部分だとも思いますが。
>> 73
「神との友情 上巻」の後半部に書かれていた、
理性を静かに忘れるような瞑想?によって“自分の魂”を体験する部分ですね。
時々、私も神のいう、静かで深い呼吸による瞑想の真似事のような事をすることはあり、
癒される感はありますが、まだ青い炎は見えたことはないですね(笑)
>>74
精神の動きは二元論であり、
釈迦の手の平の中での限られた動き、
つまり平面的な動きですね。
どんなに遠くまで行ってもその中にいます。
信じる信じない、善と悪、優劣、リンゴとリンゴ以外、などなど。
つまり、単純化して言うと「これ」と「これでないもの」です。
精神は、必ずこの2つの中で活動します。
では、そこから飛び出すにはどうすればいいか・・・。
***
「今にすべてがある」
これを信じるのではなく確認するためには、
どうすればいいでしょう?
***
青い炎はひとつの方便ですね。
世界は即私ですから、
必ずしも青い炎に限る必要があるわけではなく、
何でもいいのですが、
何でもいいよと言ってしまうと
どうしたらいいか分からなくなってしまうので、
便宜上限定したようです。
青い炎を見たという人の話を聞いたことがありますが、
どうしてもそれとひとつになれないという人や、
ひとつになってみたら何も無かったという人がいました。
ひとつになる、つまりそれ一色になるということですね。
没頭するとも言います。
無心で無我夢中でそれになりきるとも言います。
これは、人はどのようにして迷い苦しむのかということと関係しています。 >>75
「今にすべてがある」という言葉は、「神との対話」上では、
今・今日しか存在しないと思って大事に生き切る。
今・今日に過去や未来も全て存在している。
の2つの意味が考えられますが、
前者は、本当に自分が体験していられるのは今日一日しかないので大事に生き切るということで分かりやすいですが、
後者に関しては、これは非常に抽象的で私にも確認の方法は分かりません(笑)
ただ少なくとも今・今日の生き方のベクトル(方向性)が自分の未来の幸・不幸を決め創造していくのは事実だと思います。
>>76
過去や未来は記憶(思考)の中にしかありませんよね。
今には何があるのか、
つまり、思考が起こる前ですね。
思考がどのように働くのかが分かれば、
今に何があるのか想像することはできます。
あとはそれを確かめるだけになります。
今を確かめることができれば、
すべては私の作り事であることが分かります。
(神も死後の世界も霊もすべて)
「人生は創造である」という本の言葉通りですし、
「色即是空 空即是色」という誰かの言葉通りです。 >>77
「今を確かめる」と言っても、
私が確かめることはできませんし、
仮に確かめることができたとしても、
それを信じるわけにはいきません。 キンコン西野のリベンジ成人式についてどう思いますか? 何らかの事象を認識するためには、
記憶というものが必要です。
つまり、音を認識するためにも、
リンゴを認識するためにも、
神を認識するためにも、
記憶が必要なわけです。
記憶という機能が認識というものを創り出しているのですね。 宇宙に果てはあるか?
ない。
そもそも宇宙自体が無い。
つまり空間がない。 同時に空間はあるのです。
お分かりでしょうか・・・ >>1
自分一人だけが正しい
ということだけが間違っているということ >>86
自分ひとりだけが正しいと言いましたっけ?
まあいいです、自分ひとりだけが正しいとします。
それがどのように間違っているか教えてください。 >>1に言ったのに、真面目だね。それは良い所だね
自分が誰よりも完全にわかっているってことだけはないですからね 時は無限。
死んだ後も1億年〜1000億年〜無限〜って無限に過ぎていく。
途方もない時間をかけて地球や太陽が消滅しても時は止まらない。
100000000億万年なんかもいずれ過ぎ行くだろう。確実に。
自分が死んだ後も永遠に果てなく時間は存在し続けるのに自分は死んだら終わり。
永遠に果てない時間のなか10000000億万年過ぎようが自分はもういちど存在することはできない。
いくら待っても。いくら待っても。
思い出にふける事すらいくら待っても出来なくなる。それでも時や宇宙はあり続ける。怖い >>88
87は1です。
>自分が誰よりも完全にわかっているってことだけはないですからね
それはまったく正しいです。
そして同時に間違っているのです。
おわかりでしょうか? >>90
> 時は無限。
> 死んだ後も1億年〜1000億年〜無限〜って無限に過ぎていく。
> 途方もない時間をかけて地球や太陽が消滅しても時は止まらない。
時間は人間が創り出したもので、
実際にはありません。
決め事に過ぎません。
> 100000000億万年なんかもいずれ過ぎ行くだろう。確実に。
> 自分が死んだ後も永遠に果てなく時間は存在し続けるのに自分は死んだら終わり。
「自分」というもののメカニズムを明らかにすることで、
すべての謎は解け、問題は終わります。
> 永遠に果てない時間のなか10000000億万年過ぎようが自分はもういちど存在することはできない。
それが貴方の問題なのですか?
> いくら待っても。いくら待っても。
> 思い出にふける事すらいくら待っても出来なくなる。それでも時や宇宙はあり続ける。怖い
宇宙があるのですか?
どのようにして確かめられたのでしょう? >>92
>>88です
>>1でしたか、知らなかったため失礼しました
同時に間違っているということは
>>88で言ったことがすでに間違っていると言いたいのかもしれませんが
ちょっと理屈っぽいです
自分だけが正しいことが間違っている
といったのが間違いなんて言えば何一つわからなくなりますね
こういう教訓じみた言葉というものは、ほとんどすべてが戒めのための例えになっています。
客観的に、論理的に正しい言い方で、証明するような教訓は有りません。
教訓とは最初から教育のためです。大人であろうと間違うことがあるからです。
「たとえ勉強して確認したとしても、もっといい意見があるかもしれない」と
常に謙虚な気持ちですごしましょう、うっかりあやまちを犯さないために。
ということなのです
こいつの言うことは明らかに間違っていると勉強したら誰だって思います。
しかし、いつでもどこでもそれが絶対、というわけじゃない。
違うこともできる場所というのもが世界のどこかにある。
今の自分にも知らない世界はあるんだと、頭の片隅に残しておきましょう。
絶対にそうならなければいけないということではなく、
そういうつもりで過ごせば、間違いは減らせると思います。 自分のメカニズムを明らかにできない(?)から自分は悩み続けてたのかな。
時間という存在の捉え方や宇宙に対する盲信。
少し頭固かったのだろうか。
結局のところ問題は仰る通り自分の消失。
そしてそれの永久持続による恐怖。
時間は決め事に過ぎないとした上でも想像すると恐怖に飲み込まれる。
自分は世の理によってただ存在し、ただ消滅する事を自然だと受け入れるしかないのか。
聞いていただいてありがとうごさいます。 >>95
唯物論から虚無感に駆られるのは自殺へと誘い込む悪魔の罠
気をつけろよ >>96
ありがとうございます
心に留めておきます >>97
どういたしまして。
若い頃の自分自身を思い出して、つい、横レスしてしまった。
寝落ちします。 >>99
拝見しました。
どうやら自分には唯物論の考えが染み付いてるようで簡単に信じる事はできませんでした。
しかし、何事も断定は難しく可能性があることは信じざるを得ません。
答えはまだ出ませんが自分を救える考えの一つになるかもしれないお言葉ありがとうございました。 >>96
ある批評家が自殺してしまったね
西部なんとかいう人だったかな
あの人も何かが怖かったのかな
違う考え方を知ることなく、そのまま死んでしまった
前レスに長い時間(那由多の時)を過ぎてもまだあるのがなんか怖いと言っている人がいるけど
怖いのは何だかわからないから
そこがどうなっているのか知ると、そこまで怖くなることはないと思う ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています