瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)とかの場合は
仮設としての
心(識)の仮の現れ(そして滅)を前提として
阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出しているとする

末那識は
睡眠中でも深層において働き続けて
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けていて
我癡・我見・我慢・我愛の四つの煩悩をしたがえており、さとりに達するための障害があり

(「色受想行識が、それ自体、単独で成立している」という想いが依存している)
無明している世界の中の

>>51 >判断するのも信仰的世界観?

おじゃるの個人的な見解としては
無明している世界の中の
渇愛に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れ(そして滅し)て
身体的な行為、言葉による行為、心による行為が現れ(そして滅す)る

無明に依存して
 → 渇愛に依存して
 → (信仰的世界観に依存して?) → たとえば良い悪いの判断をしている?
ttps://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空経
無明に縁りて → 行に縁りて → 識に縁りて
 → そして「苦しい!」という想いが現れ(そして滅す)る