創造論と創造科学とID論と進化論Part102
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おっと>>53 進化の速度が漸進的か断続的かとか 淘汰が集団に働くかどうかとかって 既に現代の話と言うには若干古いような… そんなのもう論争になってないぞ なんとなく賢そうな語り口を使えば信じてもらえる、という時代は終わったよね >>57 の続き そして、突然変異は遺伝子プールに多様性をもたらすものと捉えることで、再度連続性を獲得するわけですな。 >>49 中立説は、分子進化の多くは表現型に影響しないという主張なんだから けっきょく表現型じゃないって言っているも同然なんだよ。 仮に表現型に顕れたとしても「中立」という言葉が示すとおり 「有利でも不利でもない」ということなんだから、明らかに自然選択理論に 抵触しない(自然選択理論を反証するものじゃない)という意味になっている。 ここでもほぼ中立説の立場に立つ筆者さん(太田氏か?)が 次のようにお書きになっている。 https://www.nig.ac.jp/museum/evolution/01_a.html > 中立説というのは表現型とは関係ないということを強調したものでした 木村氏はそもそも自然選択理論を反証しようとして 中立説に訴えられたんだろうか? 中立説と自然選択説との間の論争は、 いわば、木村氏の理論に対する無用な誤解にもとづくもので、 論争の集結はその誤解が解けたということに過ぎなかったんじゃなかったか? 学術論争というものには多々そうしたものがあるのは事実だが、 それを命題上の反証論争と勘違いしてはあかんよ。 >仮に表現型に顕れたとしても「中立」という言葉が示すとおり >「有利でも不利でもない」ということなんだから、明らかに自然選択理論に >抵触しない(自然選択理論を反証するものじゃない)という意味になっている。 表現型に現れても中立なの? そうなら、それがなぜ自然選択と対立しないの? 中立なら表現型でもダーウィンの理論に抵触しないでしょ。 でないならなんで中立だと主張する必要があるの? 生存環境において不利な表現型でも淘汰されないよって主張したら、 ダーウィンの理論を反証するものになるけどね。 そうじゃないから中立だって話でしょ。反証するつもりなら中立説って言うべきじゃない。 でもさあ、よく考えてみてよ。 不利か有利かどうかってのは淘汰されてはじめて判断できるものでしょ。 意味的にかぶっている。 どうやって反証するの? 「中立説」は表現型とか関係ないってことは、わかってるよね。 >>66 環境と個体の変化の関わり、繁殖率の遷移をみれば推定できるでしょう。 そもそも淘汰=繁殖率でしょ。 繁殖率が高まれば正の淘汰、低まれば負の淘汰。 保守系コメンテーターであるTom Bethellは、昨年12月のNational Review Onlineで、主たる点を明解に表現した: 『ダーウィンの名声は進化のメカニズムの発見によるものだ。彼は"適者生存"を自然選択の理論のよい概要として受け入れた。 しかし、何が適者なのか? それは生存したものだ。生存と独立した適者の基準はない。 何が起きようとも、定義上、適者は生存する』 適者をどう定義するかの詳細を考える前に、まずこの論の怪しい点に注意しなければならない。 CoulterとBethellはここで、最近の発見が進化を不適切な理論だと示したとは言っていない。 そうではなく、彼らは科学者が単純な論理的不注意をしたと主張している。 Bethellが同じ論を提示した Harper's Magazineの記事に対する反論として、古生物学者Stephen Jay Gouldは次のように書いた: 『Bethellの論は大多数の活動中の科学者にとって奇妙なリングを持っている。 我々は常に、新しいデータの結果によって理論が崩壊するのを見る用意ができている。 しかし、その構築のときの論理エラーによって影響力の大きい理論が崩壊するとは考えていない。』 本当に。科学者は結論に飛びつたり、不適切なデータから誤った理論に到達することは大いにある。 しかし、科学史上で、賢明な外部からの論理的不注意に気づいただけで、主流の座に着いた理論が分解してしまったことは一度もない。 進化論がトートロジーだと示唆するCoulterとBethellの構成は、彼らが攻撃対象としている理論を理解していない (あるいは、意図的にゆがめているかだが、これは我々は考慮しない) では、可能な限りもっとも直接的な形でこの論に反論しよう。 進化論では生存したものが適者だと定義されていると主張されている。 これは、論の要点である、そして完全に間違っている。 実際には、適者とは、身体的特徴と彼らが見つかる環境に基づいて、最も多く子孫を残すと期待されるものだ。 これをGouldは次のように説明した: 『私のダーウィンの擁護論は、別に驚くようなものでも、目新しいものでも、深いものでもない。 私は、ダーウィンは自然選択のアナロジーとして動物のブリーディングを挙げたことは正当だったと主張するだけだ。 人為淘汰における畜産家の要求は、集団にとっては"環境の変化"を意味する。この新しい環境では、ある特徴はアプリオリに優れている。 それらは畜産家の選択によって生存し、増殖する。それは適応性の結果であって、定義によるものではない。 自然においては、ダーウィンの進化は、同じく環境の変化への応答である。 今やキーポイントは:特定の形態や、生理的あるいは行動の特徴が、 新たな環境で生きていくためのデザインとして、アプリオリに優れていなければならない。 これらの特徴はエンジニアの基準で適応となるのであって、彼らが生き残って増殖したという経験的事実からではない。 ウーリーマンモスが毛皮を進化させる前に、寒冷化したのだ。』 ある生物集団が見つかる場所の環境についての完全な情報が我々にあるとしてみよう。 さらに、我々は集団において、遺伝可能な変種の範囲を完全に知っているとしよう。 この状況下では、我々は集団の将来の進化について、確定的なことが言える。 一群の科学者がこれらの情報を調べて、集団のメンバーのどれが最適者であるかのコンセンサスに到達できる。 これがただ生存したということの独立な、適者の基準となる。 しかし、これがすべてではない。将来の予測は進化生物学のほんの一部にすぎない。 進化の興味深いイベントの大半は、遠い過去に起きている。 過去が科学者に提示する問題を解明し説明することは、前のパラグラフで考えたこととは正反対になる。 現在の環境について与えられた情報によって、種の将来の進化を予測しようとするかわりに、 今度は我々は、生存した生物の種類から与えられる情報によって、先祖の環境を理解しようとする。 何度も指摘しているのに未だに勘違いしている人がいるけど、 トートロジーであったとしてもそれはその命題が「偽」であることを 意味しないということだよ。わかるかなあ? 何度も書いていることだよ。 適者生存の命題がトートロジーならば、それは論理的帰結として常に「真」になる。 適者生存自体は間違った理論じゃないんだよ。わかるかなあ? アプリオリに優れているというのは形而上学。 科学的であるかぎりは、けっきょく それが何によって客観的に確定するか、 つまり誰の目にも客観的に観測されるものでなければならない。 適者生存は論理的にも現実上でも正しい理論になるはずで、 そこに誤謬は含まれていない。 要するに、そこには科学的に意味のある新発見はないというだけの話。 『強い者は生き残れない』って本が言っていることも 「強者 ≠ 最適者」ということであって、 言葉の定義上、最適者生存への反証にはなっていない。 「強者ならば最適者だ」という命題が偽になったんだから反証されたんだって? じゃあそもそもその命題の「強者」とは何を意味していたの? 一見して強そうに見えること? 喧嘩が強いこと? 背が高いこと? ・・・そうに見えるって、それ、主観だよね。 喧嘩が強いって・・・それは喧嘩がその生存関係のすべてならばね。 背だってそうでしょ。 けっきょく「強者」っていう見方が誤っていた、つまり偽ならば、 この命題そのものが成りたたない。 たとえば、サッカーでAというチームとBというチームがあって、 どっちのチームがサッカーという試合環境の中で強いかって分かる? Aのほうが強いとか弱いってことが誰の目にも真になるにはどうする? けっきょく試合をして結果を観察しないといけないでしょ。 Aのほうが強いが真だったのに、それが覆されてBが勝ったのなら、 Aが真だった判断がそもそも間違っていた(偽だった)と考えるべきじゃね? 「Aが真ならばBも真だ」という命題を科学的に検証する場合、 まずAが真かどうかの観測結果を得て、 Aが真だとわかったら、その「ならば」が成り立つかどうか 次にBが真かどうかの観察結果を得る、ということでしょ? Aがアプリオリに真だってのは科学的にはありえない。 それは形而上学。Aが真だとするにはちゃんと観測結果が必要。 強いか弱いかなんかどーでもいい。 うまく子孫を残せるか。 >>73 何度も指摘されているんだけど読んでないのかな? それとも都合が悪いから怒涛のレスで流そうとしているのかな? ポパー自身が適者生存がトートロジーであるという主張を撤回しているんだよね >>48 に書いてあるような理由でさ これをどう思う? 都合が悪いからまた無視するかね? それともポパーよりキミのほうが正しいと? しかしながら>>71-72 で引用される記事からも分かるように 大多数の科学者は自然選択説(適者生存)はトートロジーではないと答えるし ポパーも自然選択説はトートロジーではないと答えているわけだ キミはそれでも自分の論理構成に間違いがあるかもとは微塵も思わないわけ? >>78 適者生存の命題は、「適者が生き残る」ではないって前スレの981で指摘したはずだが 読んでないのか理解できなかったのか あるいはほとぼりが冷めたから(スレッドが変わったから) 何も聞かなかったことにして無視しているのか きりがないな どんな理屈もトートロジーになる。 創造論もキリスト教もトートロジー。 科学理論がトートロジーにならないのは、可観測量に帰着し、実証で真偽を問えるからだ。 アングレカム(蘭)とキサントパン(蛾)の関係は ふつうによくある相利共生の一例にすぎず、 相利共生の存在自体は進化も自然選択も関係なく 生物学者なら誰でも認め、予測できることだろうけどね。 共進化が存在したとするためには別の証拠が必要だしね。 ポパーのことが持ちだされているけど、 言った本人がのちに否定しているからそれは間違っていたとかいう 論理の組み立て方は科学的議論でも論理的議論でもないんだよね。 ポパーもどうも曖昧な言い訳をしている。 彼は進化そのものを否定する創造論者と同じと見なされるのは 心外だったようだ。 共進化という概念なしに、どうやって相利共生を説明し、予測するんだい? つまり、そういう議論の組み立て方はポパーには 誤謬がなかった、という前提にもとづいている。 その点では、ポパーがそうみなしたのだから 自然選択理論が形而上学的なのは真だというのと ポパーがそれを撤回したのだからそれは偽だというのは 同じ権威主義に陥った議論で、 皮肉なことにポパー自身の唱えた批判的合理主義にも反する。 >>89 たとえば「擬態」というのもあるよね。それも共生の一種。 擬態という誰の目にも観察できる現象でもって、 自然選択理論が自動的に導かれるわけではない。 ポパーは、自然選択という考え方が反証可能だと理解した、というだけだよ。 要するに、ポパーが、ポパーが、とポパーの名を出すだけでは反論にならない。 適応はトートロジー、という意見に対して、ポパーが科学哲学的に明快な回答を出してるからさ。 >>93 擬態はふつう相利共生とはみなせないけれども 片利共生とはみなせる。 例えば、カマキリがある種の草のような形状をしているのも 草の側には利得はないかもしれないが、カマキリにはある。 >>93 擬態も共生も自然選択理論からみれば その理論で説明できるとされるものでしょ? だから同じこと。 ポパーの反証主義は、実証主義や帰納主義や検証主義を批判するものだから、 その話をするとまたややこしくなる。 その科学哲学は彼の批判的合理主義(非正当化主義)から来てている。 ポパーの反証主義に立つと、ダーウィンの理論に対して多くの批判があり、 それに対してダーウィニストが開かれた議論や反論をしていることが ダーウィンの理論が科学であることの証とみなすようなもの。 ダーウィンの理論がいろいろな批判に曝されているということが 逆にダーウィンの理論が科学的であることを保証している。 それが反証主義。 反証主義ってのは「批判を積極的に受け入れますよ」 「反論の余地を用意していますよ」 「批判に対して開かれた議論をしますよ」 「批判を誠実に深刻に受け止めますよ」 っていうような態度のこと。俗っぽくいえばね。 >>95 あなたの言葉でいいからその明確な回答ってやらを 正々堂々とここに書けばいいのに。 命題がくつがえされる可能性があればあるほどいいの。 それが反証可能性が高いってこと。 そういう命題ほど科学的だったわけ。 >ポパーの反証主義は、実証主義や帰納主義や検証主義を批判するものだから、 科学の方法論を否定するものじゃないですよ。 科学と非科学の線引き問題なので。 >>103 ではなくて、反証可能な立論であるかどうか、ですね。 >>105 命題を覆すことが、客観的な証拠をもって可能であるかどうか、が問題なんです。 信仰は、それが不可能なので、科学の理論ではないわけです。 ポパーの反証主義は、その反証主義自体も科学的仮説なのか? それとも形而上学なのか? という疑問を当然引き起こす。 >>105 この病気は、なんらかの病原菌によるものだ、という主張より、 Aという病原菌によるものだという主張の方が反証しやすいので、よりよい主張だという言い方はできますけどね。 >>106 科学的方法論の内実を批判したんだよ。たとえば包括的合理主義を。 >>109 科学哲学、科学という営為の、考え方の手続きの話です。 >>110 適者生存ってのはあまりにも抽象的で包括的にすぎる命題なんだよね。 それはあまりにも数学的に真で、誤謬が入り込む余地がない。 >適者生存ってのはあまりにも抽象的で包括的にすぎる命題なんだよね。 そうじゃないですよってことは、>>84 さんが繰り返し説明してくれてるじゃないですか。 >>112 だから科学的な方法に関する考え方や哲学にも 反証可能性がなければいけないでしょ? >>115 その説明はこちらの反論に答えられていないでしょって話。 >>116 哲学についての反証可能性って、なんですか? ポパーのそれとはまったく別物なのはわかりますがw ポパーの反証主義は、徹底した帰納主義批判で知られている。 それはヒューム以上に徹底している。 これはそれまでの科学的方法論をラディカルに覆すようなもの。 帰納はわずらわしいので、もっとすっきりさせようということでしょうね。 >>84 さんは分子進化の中立説(遺伝的浮動)についても どうやら正しい認識を持っていらっしゃらないようだし。 ・それはあなたのほうでしょう。 ・ポパー、仮説演繹法を否定してます? ダーウィンの理論を反証主義によって科学的たらしめるのは、 ダーウィンの理論に対して常に批判的で、それが反証される可能性について 常に開かれた態度をとっている必要があるんだよ。 ポパーはそういうことを主張して、 科学を科学として健全に発展させるのはそれだけだとした。 >>124 ヒュームは帰納法に対して懐疑主義的な立場をとった。 >ダーウィンの理論を反証主義によって科学的たらしめる これがもうダメなの。 ダーウィンの理論が反証可能なのかどうか、という話でしょ。 >>114 ポパー学派が、実証主義、検証主義、帰納主義といった科学的方法論に対して 批判的な意味で使った概念です。 >>127 もともとは「適者生存」「適者繁殖」がトートロジーかどうかって話。 >>84 さんが「pならばqだ」命題の形にしたので じゃあ、適者生存を「適者ならば生存する」という命題にしたらどうだって話になった。 ダーウィンの自然選択理論そのものを否定するつもりはないよ。 こちらが創造論を主張したことなんかあったっけ? ポパー学派は、なぜ科学的方法論を批判したんですか? >>129 自然選択理論はトートロジーではない、わけなので。 >ポパーのことが持ちだされているけど、 >言った本人がのちに否定しているからそれは間違っていたとかいう >論理の組み立て方は科学的議論でも論理的議論でもないんだよね。 >その点では、ポパーがそうみなしたのだから >自然選択理論が形而上学的なのは真だというのと >ポパーがそれを撤回したのだからそれは偽だというのは >同じ権威主義に陥った議論で、 >皮肉なことにポパー自身の唱えた批判的合理主義にも反する。 >要するに、ポパーが、ポパーが、とポパーの名を出すだけでは反論にならない。 >>48 の再掲部分や>>71-72 は「ポパーが撤回したから」ではなく なぜ自然選択がトートロジーでないかを明確に説明しているように思うが ID:a85LVWdJが 「ほぼ中立説」の名前を出してきたのは実に面白かった 中立説だったらね、 「これは適応度に差がない、つまり自然選択説の言及しない部分だから〜」 って理屈もまあ分かるんだ (正しくはないが気持ちはわかる) だが「ほぼ中立説」は 弱有害遺伝子も生き残る(そしてそれを検証するには〜)という理論 つまり「ほぼ中立説」の存在そのものが ・適応度に差がある状態で適者じゃないもの(弱有害遺伝子)が生き残ることがあり得る ・そしてそれを検証する方法がある ということを示しているわけ まあ中身なんか実際のところ知らないか理解してないかなんだろうけど そういう「ほぼ中立説」に触れたその口で 「適者が生存する」は常に正しいんだ!生き残った者を適者と言うんだ! なんて主張しちゃうのが実に面白かった これ一つとってもトートロジーくんが無知ゆえの論理破綻してるのは明らかだが 時間がある時にまた論点を整理しようと思う ダーウィンの自然選択説っていうのは、生物の多様性(種の多様性)を説明するための理論で 1.繁殖集団内の個体には形質の違いが生じる 2.形質の違いによって特定環境下で生存率や繁殖率が異なることがある ←これが狭義の自然選択 3.形質は遺伝することがある 4.遺伝した形質の中で相対的に生存率・繁殖率を高めることに寄与した形質は繁殖集団内に広がる 5.有利な諸形質は累積し、やがて生殖隔離・種分化を起こすことがある という一連の反証可能な仮説から成り立っているのだから この一連のプロセスをすっ飛ばした「適者生存」ということばの表面的な表現だけを 取り上げてトートロジカルだと言っても意味ないよね 議論が白熱しているようですが、創造論の証拠は出ましたか? 聖書に創造論は必須でない >>10 局地洪水説を採用すれば進化論も取り入れることができる ダーウィンの自然選択仮説は、 =遺伝+変異+形質間の繁殖率の差異+交配集団の隔離 でだいたい成り立っている。 「ほぼ中立」とは交配集団の規模によって中立と弱有害との間を動くもののこと。 つまり、交配集団の規模が大きければ弱有害となって自然選択が有効に働くが、 集団の規模が小さくなると遺伝的浮動によって弱有害ではなくなり中立になって 自然選択が有効に働かなくなる。 それが属する交配集団によって中立と弱有害との間を変動しうる表現型があるということ。 この想定によって中立説を補完することができる。 >>133 言葉を厳密に使わなければいけないとすれば、 自然淘汰の働かないものを弱であろうが「有害」と呼ぶのはおかしい。 中立というのは自然選択が働かないということを意味するのだから。 しかしある表現型がそれが属する集団を含めた環境によって 弱有害になったり中立になることがあるとすればどうだろうか? つまり、中立と弱有害との間を動くとしたら。それが「ほぼ中立」というもの。 これで明らかなように、ほぼ中立というのは 弱有害にもかかわらず働くはずの自然選択が働かない ということではない。 弱有害であるのに繁殖率が維持されるか高まるケースがあると 「ほぼ中立」説は言いたいわけじゃない。 もしもそう言いたいなら「ほぼ中立」説は自然選択理論を反証しようと していることになるだろうが、そうではないし、 そんな反証はそもそも命題の定義上成りたたない、ということは再三書いたはず。 >>137-139 進化学、というか中立説が基盤としてる集団遺伝学の基礎を知らずに 「生き残ったものがどんな性質であれ適者なのだ」 というキミオリジナルの間違った定義に合うように無理やり はめ込んでどんどんおかしな方向に言ってる感じがするな ネットで主流の仮説を否定するトンデモさんにありがちな傾向 いちおうちょっと基礎の話をするね >>137-139 のような素人さん向けの解説 集団遺伝学では淘汰係数sや集団の大きさNで集団の動態を記述して ある形質が100%になる(固定される)確率を記述するわけだが… 集団の大きさNが小さければ淘汰係数sが不利な設定でも固定される確率が高まる しかしこの式ではsの値は同じなわけ 有利か不利かってのはこのsの値で定義されることであって 生き残ったか否か(固定されたか否か)の結果で定義されるものではない つまり 集団の大きさで有利か不利かが変わるわけじゃないし こういう集団遺伝学の方式+観察結果によって組み立てられた太田のほぼ中立説も同じだよ 集団が小さければ弱有害のものも中立のものと同じように扱えるという意味で 集団が小さければ中立の割合が増えるので〜 みたいな表現をすることもあるかもしれないが そりゃ素人さんに分かりやすく説明するためのもの 上記の根拠というか補強として、 ほぼ中立説ってのは 弱有害遺伝子が集団の中で固定される確率が集団の大きさに影響を受けるので 集団の大きさによって進化速度に違いが出るだろうという話 大きい集団では自然選択の効果が大きく働き 小さい集団では自然選択の効果が小さくなり 弱有害遺伝子の固定される確率は小さい集団ほど大きくなり その結果として進化速度に違いが出るわけだが まず「固定される確率」というところがミソ 中立説もほぼ中立説も、、、というか集団遺伝学では 「生き残る」「生き残らない」の二元論ではなく確率として表現される 不利なものでも固定される確率はあり、有利なものでも固定されず消え去る確率はゼロではない それは集団の大きさにかかわらずそうで、 この大きさから中立になるという話ではないし、 そもそも確率なので 中立よりも低い(中立として扱えない)固定確率でありながら 集団中に固定されることもありえ、 それが遅いとしてもゼロではない進化速度として観察されるだろうって予測になってるわけで… ……書きかけたが、やっぱ難しいかな 不利でも生き残る/ただし確率は低い って言われて 「生き残った=有利」「生き残らない=不利」の二元論で考える人にいきなり理解しろっつうのは >> ID:c07q1NbP 補足 以前のレスと今回のレスを見てちょっと気になったのだが 基本的に、特定の科学的仮説ってのは 別の仮説を反証する目的で立てられるわけではないよ 自然選択説にしろ中立説にしろ、科学的仮説ってのは 世界の背景に横たわる法則・原理・原則を明らかにしようとする目的で データをもとに仮説を立て、さらにデータを集めて検証し、 その結果として何か別の説の反証になることもあるというだけの話 何かの仮説を否定するのは、いつも実験や観察そのものだ 自然発生を否定したのはパスツールの「実験」 獲得形質の遺伝を否定した(異論はあるが)のもヴァイスマンの「実験」 スタップ否定も実験だったな 中立説が自然選択説を反証する目的で建てられたのではないって そりゃ当たり前だしそんな話はしていない そうではなくて、 中立説やほぼ中立説が集めたデータが 自然選択説の一部を反証した(修正させる至った)という話 あ、 「全部反証できなきゃ反証可能じゃない」ってのもキミオリジナルの間違った定義だよって指摘したっけ? そういえば以前ポパーの名前を出したのは 別にポパーが言ってるからって理由で反証可能だと述べてるわけじゃなくて (>>132 で書いてくれた人がいるように、それ以前に説明済み) 「それ言ってるのキミだけなのにキミは自分が間違ってると微塵も思わないの?」 って文脈だったんだけど全然効果がなかったね さして生物学勉強してるわけでもなさそうなのに 相手が遺伝的浮動を理解してないって言っちゃうのもそうだけど その自分が間違ってるはずがないっていう強固な信仰じみたものはどこからくるんだ? 自然選択説とは、ある遺伝子がその複製をどれだけ遺せるかは、 その遺伝子が置かれた広い意味での環境に依存する、という説。 つまり、ある遺伝子の有利・不利・有益・有害の差とその度合は、 その生理環境、「生殖集団環境」、生息環境等の環境総体に依存して決まり、 不変的なものではなく相対的なものである、ということを主張している。 ある遺伝子が中立になるか有害になるか有益になるかは、 それが置かれた環境に左右されて決まるものなので固定値ではない。 一つの遺伝子が環境によって非常に有害になったりやや有害になったり 非常に有益になったりやや有益になったり中立になったりする。 自然選択説とは、ある遺伝子がその複製をどれだけ遺せるかは、 その遺伝子が置かれた広い意味での環境に依存する、という説。 つまり、ある遺伝子の有利・不利・有益・有害の差とその度合は、 その生理環境、「生殖集団環境」、生息環境等の環境総体に依存して決まり、 不変的なものではなく相対的なものである、ということを主張している。 ある遺伝子が中立になるか有害になるか有益になるかは、 それが置かれた環境に左右されて決まるものなので固定値ではない。 一つの遺伝子が環境によって非常に有害になったりやや有害になったり 非常に有益になったりやや有益になったり中立になったりする。 淘汰係数というのは、ある繁殖集団に異なる遺伝的形質が存在するとき、 ある遺伝的形質の適応度を1と置き、それより有利ならば1以上、 不利ならば1以下とした値のこと。 つまり、環境に対する利得の「遺伝子相互の差異」のみを表している。 分子進化の中立説を自然選択への反証として解釈する見方のほうが 異端かトンデモであって、反証でないとみなすほうが標準的解釈。 中立説は自然選択理論に包摂されると考えることができる。 環境={生化学的環境、生殖集団環境、生息環境} というふうに考えると、集団の規模は生殖集団環境の一種であることになる。 「ほぼ中立」は、集団の規模という生殖集団環境の一種によって 左右されるのだから、>>145 で説明したような自然選択の意味と合致する。 自然選択とは環境によって利得が変化するということを意味するのだから。 で、「中立」はというと、これも自然選択を反証しない。 淘汰係数が1と同等になるケースを自然選択理論が認めていないなら別だが、 そうではないはず。 有利から不利の度合を考えるならば、当然その中間が想定されていいわけで、 ほぼ中立説はさらにそれをファジーに考えているということだろう。 進化そのものは親と同一でない突然変異の蓄積だけで説明できる。 自然選択がなければ、むしろもっと速いスピードで生物は進化し、 もっともっと多様な種が存在しえただろう。 自然選択は「生物を進化させない力」としても働いている。 トートロジー君、スルーしてるレス多すぎない?(ID:MH2rNFWeがトートロジー君かは知らない) かつて大論争があった中立説と自然選択万能論は、ともに自然選択を前提とした理論だったけど、 分子レベルでの進化をどう捉えるかというところで対立仮説となった。 万能論は、形態の進化同様に、分子レベルの進化の原動力も自然選択であると主張したけれど、 結局確認された事実から、中立説に軍配があがります。 中立説は自然選択を否定するものではないが、自然選択万能論を反証した、ということではいけませんか? で、もともとは、自然選択説は反証不能なトートロジーだというのが論旨でしたよね? >>142 それ、なんの確率を指しているのか? 「生存か否か」はニュートン力学の世界では二元論であって、 箱の中の猫一匹が80%死んでいて20%生存しているというのはありえない。 もちろん、死のプロセスや定義という観点でみれば別だが、 ここで問題になっているのはそれではない。 でなければ、それは適応「率」=繁殖「率」の話か? 自然選択上でいう適応率が相対的に低い形質が相対的に高い形質を上回って その集団の中に固定するということがあると主張したいのか? てか、それって数学的にありうるのか? >>143 それ、論点が定まっていないなあ。 例えば、神の実在説というのを例にとると、 その説の50%は反証可能だが、残りの50%は反証不可能な・・・みたいな? そういう話? >>150 a「神は実在する」という命題 と b「神は全知全能である」という命題 は別物。 bを反証する可能性があるからといって aまで反証する可能性があるとは言えないのでは? 私たちの議論がaの命題を対象にしているかぎり、 bの命題を持ち込んできても意味がないのでは? 中立説はbを反証してもaは反証しない。 だからaの反証の例として中立説とその証拠を持ってきても 論点がずれてしまうだけじゃないかなあ? >>154 神の実在という命題は、もともと反証不能なので(科学理論ではないので)、中立説の話とはまったく別物ですよ。 そもそも、科学の理論と宗教を含めた人の信念を線引きするために反証主義という考え方が導入されたことを理解しましょうね。、 あなた、サイエンスの手続き上で使われる反証という言葉の意味が、わかってないです。 そこを理解すれば、ポパーが当初適応について反証不能としたものの、後に撤回したことの意味がわかるはずです。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.5 2024/06/08 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる