>>368
>何故その部分だけ無から有を作ったとしなければいけないのか?

そうではなくて、
「その部分だけ意味を変えてはいけない」というお話。

>>364同ページ「作者よりsamtsumiさんへの応答」から

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(前略)
おそらく人類のどの言語においても、
何もないところからものを造ることを意味する「つくる」という言葉はないでしょう。
それは、言語が人間によって造られたコミュニケーションの道具であり、
人間は、何もないところからものを造ったりしないからです。

(中略)

第四に、もし、第四日目に、神は、太陽や月や星を単に「見えるようにしただけ」なら、
創造物語の全体的なバランスが崩れてしまいます。
たとえば、次のリストを見て下さい。

第一日目:光の創造
第二日目:空と海の創造
第三日目:陸地と植物の創造
第四日目:太陽や月や星が見えるようになった
第五日目:魚類と鳥類の創造
第六日目:地上の動物と人間の創造

どう考えても、第四日目の神の仕事は、他の日の仕事に比べて貧弱すぎます。
最後に、この解釈は、文学的構造から見ても無理があります。
創世記一章は美しいリズム感をともなった、きわめて高度な文学的構造をもっています。
それは、作者がきわめて意図的に、同じ構造を繰り返し利用することによって達成されている文学的効果なのです。

(中略)

繰り返されている基本構造は、
神は言われた。「…あれ。」そのようになった。神は…を造り……。夕べがあり朝があった。第…日である。
です。ここで、「光あれ(第一日)」、「大空あれ(第二日)」、「光る物あれ(第四日)」という一連の表現のなかの
「あれ(存在せよ)」という言葉は、「イエヒー」という、同じ態(パアル態)の、同じ時制(指示形)の、同じ動詞です。
第四日目だけが、他とは別である(「存在せよ」ではなく、「見えるようになれ」である)と解釈することは、
意図的に同じ構造を繰り返している創世記の著者の文学的意図に反する解釈であると考えざるを得ません。
(後略)

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