>>256の霊と肉の二元化、そして高低差についてはそれでもその通りだと認識している
キリストの語ったことは真実であり、批判を挟む理由がない

では>>256でサティが何を批判しているか、という点なのだが人格向上教を批判している

人類の営みは放蕩息子が神に帰還するグローアップストーリー
一人称の主人公がいろんな困難に会いながら試行錯誤で成長しながらゴールに辿り着く

このストーリーの正当性は一人称の主人公である自己についてのみ適用される話で、他者に対して求めるもの、ではない
グローアップストーリーは当の一人称本人の十字架だから

他者に人格の向上は求めるとは、私と隣人の関係を霊と肉の二分化と高低差のレンズ、ようするに差別の構造に巻き込む、ということ
キリストに習う場合は、人格向上を隣人に求めるのではなく「共に生きる」となるのではないか

第一に神への愛、第二に隣人への愛
隣人にはこの姿勢のみが求められる
キリストに倣う道においては人格向上教は自己にのみ適応し、その途上で出会う隣人には承認のみを与える

この姿勢のほうが人格向上教よりキリストの教えにフィットしてるな、と思いました