無門関一九ふだんが道じゃ 南泉に、趙州がたずねた、「どんなのが道ですか」。すると南泉「ふだんの気持ちが道じゃ。」
 趙州、「そう仕向けるものでしょうか?」  南泉、「仕向けると、はずれる」
 趙州、「仕向けねば、道が知れますまい?」  南泉、「道は知る知らぬを、越えたものじゃよ。知るというのも迷い、
知らぬも気のつかぬまで。仕向けないで、道に行きついたら、それこそ大空のようにカラリとして、よしあしはかまわん
じゃない?」 趙州はその言葉で悟った。
 無門がいう---------南泉は趙州にきかれて、たちまちサラリと解き、ラチもなくしてしまった。趙州が悟れたとしても、
ここまでにはもう三十年だ。
はずれが内当たり前の道に気が付くまでは我々は未知が有る師、まあよいか一歩一歩か

77・肉体と自己(魂)、肉体となったものが、また去っていく。
 自己アートマーには死はない。
 それは椰子の樹の実のようです。
 熟した椰子の木の実は、その殻からは別になっていますが、熟していないときには、
 実とその殻を別にするのは非常に難しいことです。
 あのお方を見たのなら、あのお方を得たのであるなら、自分は肉体であるとの意識はなくなります。
 そのときには、肉体は別のもの、自己(魂)もまた別のものであるとみるのです。
 (※真我にとっては肉体に入った魂の自己さえも真の私ではないと見ている)
78・修行している状態では、心のすべてによって「これではない」「これではない」と識別して、
 あのお方に向かって行かなければなりません。
 完成した状態は別です。
 あのお方を得た後は、否定してきたものを逆に肯定するのです。
79・そのとき、あのお方が(神が)すべてのものになっていることを、はっきりと知るのです。