古鏡
いま言われる古鏡には、磨く時もあり、まだ磨かないときもあり、磨いた後もある。
しかし、一様にどこまでも古鏡である。そうであるから、磨く時は古鏡の全体を磨くのである。
古鏡とは違う水銀などを混ぜてみがくのではない。
自らを磨くということでも、自らが磨くということでもないが、古鏡を磨くのだ。まだ磨いていない時も、古鏡が暗いわけでもない。
黒いといえるが、暗いのではない。磨くということは古鏡を生かすことなのだ。
総じていえば、鏡を磨いて鏡とし、かわらを磨いて鏡とし、かわらを磨いてかわらとし、鏡を磨いてかわらとする、ということである。
磨いてできないことも、できることもあるが、磨くほかないのだ。仏祖が受けついてきた家業なのだ。

かわらを磨いて、そのかわらが鏡になった時、馬祖が仏になったのである。その時に、馬祖が馬祖となったのである。
馬祖が馬祖になったとき、坐禅は速やかに(ほんとうの)坐禅となったのである。そうであるから、かわらを磨いてかわらとすることは、
古仏の骨髄で受け止められ、受け継がれてきたものである。それゆえ、かわらが作り上げた古鏡がある。
この鏡を磨き続けるとき、一貫して汚れを離れるというあり方が実現する。

かわらに塵があるから磨くのではない。
ただ、かわらであるものを磨くのである。鏡とするという功徳が現生する。
これが、仏祖の実践のありようである。