★「踏絵」隠れキリシタンは殉教する必要なかった!「カリスマ神父様」★ [無断転載禁止]©2ch.net
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カトリック信者の間では、もはや知らない人はいないであろうハレレ神父様の
講演会でのお言葉です。(於: 上智大学)
晴佐久昌英神父講演会「キリシタンの生き方―映画『沈黙』から―」1〜3
http://webmagazin-amor.jp/2017/07/29/event3_1/
http://webmagazin-amor.jp/2017/08/05/event3_2/
http://webmagazin-amor.jp/2017/08/12/event3_3/
前々からこの神父様の教えに関しては、カトリックの教義に照らし合わせて賛否両論ありますが、聴衆を惹きつける話術は天下一品です。
不謹慎ですが、予備校講師にでもなっていたら、間違いなく超人気講師になって
いたことでしょう。ただの人気だけでなく実績もあげていただろうと思います。
さて、晴佐久神父様の意表をつくお言葉には慣れている方であっても、さすがに
ビックリ仰天するのではないかと、いや、現代カトリックがかなり寛容になっているとはいえ、現役の神父様がこんな発言して良いのだろうかと心配になってしまったの
が、上記の講演会での内容です。
一般のカトリック信徒であっても、公にこのような発言をすることは極めて
厳しいのではないかと思っていました。
もしかして、現代のカトリックにおいては、この発言もギリギリセーフですか?
(そうでなければ、いかに向こう見ずなハレレ神父様とはいえ、神父の立場を脅かすような発言をするはずがないともいえるのですが)
さて、ここでは現役の神父様の発言として如何なものかという視点ではなく、
上記にご紹介した講演の内容についての意見交換をお願いしたいと思います。
※ハレレ神父様については、これから先も「公の場で発言すべき内容ではなかった」
などと思うことは決してないと思います。
うっかり発言した内容ではありませんし、この先もずっと訴え続けたいと切に願っているであろうことは講演録を読めばわかります。
晴佐久神父様のお話しに興味を持たれた方は、以下もどうぞ。
(過去何年間もの教会のミサでの説教集です。ちなみに、この中でも同じような話を述べていらっしゃいます。)
http://www.fukuinnomura.com/ 「福音の村」 ミサで信仰宣言を唱えている司祭が、
裁きの永遠性、 死者の復活、創造主の全能性、を否定する異端説を
ミサ説教で語るのはバカだわ。
信仰宣言の内容すら知らないのか。 --
† 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そして、そこから入って行く者が多いのです。
(新約聖書 マタイの福音書7章13節)
-- 日本を愛した宣教師 尊者チマッティ神父様
日本を憎んだ宣教師 韓国人司祭ども 知り合いから教えてもらった副業情報ドットコム
暇な人は見てみるといいかもしれません
グーグルで検索するといいかも『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
IJHL4 > 続けて中野氏は「普通の人間にとって何かを決断するのは、脳に負担がかかること。
サイコパス的要素を高く持っている人だと、決断が速かったり、なんでも自分で決めたがる。非常に(周囲の人は)楽」と説明。
サイコパス的要素がある人は、自分の代わりに決断するので周囲から支持されやすいと説明した。
さらに中野氏は、サイコパス的要素が高い人が人気を集めやすい理由を説明。
「言葉が非常に強くて、『この人なら信頼できるな』と思わせる特徴がある」と言葉使いが巧みである点を理由として挙げた。
さらに、サイコパスの要素を持つ人は「その場の混乱した状況を『この人なら救ってくれるんじゃないか』、
あるいは『閉塞した状況を打破してくれるんじゃないか』という期待を持たせる」という。
サイコパス的要素が高い人間は、常人ではできないことを成し遂げる期待感があると中野氏は説明した。
小泉首相もそうだし、新興宗教教祖もコレ。有名神父もそうだろう。
言ってることが誇大で自己宣伝が上手いもんね。
それで救われる人もいるのだから良いのだろうが、
実は共感などしていないのがサイコ。するふりが上手いってことさ。
普段の行いに失礼が多いんだよね。説教じゃ誰にも親身になる神父なのにさ。
それに気づいてしまうと失望がでかいから注意。気づかないふりして信じましょう。
大作君や大川君を信じるのと同じ。
宗教なんて所詮そんなもん。 ----
† エペソ6章10-12節
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、
また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
----
イエスの弟子であるシモン・ぺテロしかり、
神は人間の弱さをご存じです。
そのために十字架に赴かれたのです。
かたくなになって殉教する強さ、は、
ともすれば自己愛につながり、
自尊心を満たすかもしれませんが、
自身の弱さ、罪深さに心づき、悔い改め、
イエスの愛に感謝し、よりたのむ行き方のほうが、より喜ばれるのでしょう。
なぜなら、神はいけにえを喜ばれない、とあるからです。
傲慢の罪に陥るよりも、へりくだり、
こんな罪深い私のために十字架に赴かれた
主に、
絶えず感謝して歩みたいものです。
---- 晴佐久神父は数少ない「キリストの霊」が宿った聖職者の一人だと思う。聖書は知的にではなく
霊的レベルで読むべきものだと思う。偽善神父や牧師の説教に愛が感じられないと言わ
れるのは「キリストの霊がその人の心に宿ってない人はクリスチャンではない」(ロマ書)
との聖書の言葉を実現していないからだ。
晴佐久神父は神と共にあるから多くの人を引き付けることができる。非難・中傷する人々
の中に同業者が少なくないと思うが、多くは嫉妬から来るものだね。醜い人たちだ。
「嫉妬は人間の本性の一番悪い性質だある」(C・ヒルテイ) >>96
「教義とは違う異端説で教会を混乱させている」という事実の指摘が、
どうして嫉妬になるのか?
なんでもかんでも嫉妬を原因にするなよ。
自身が嫉妬深いから他者もそのように見えるだけだろ。 地獄の存在、永遠の罰を否定する異端者どもは、
主キリストの贖罪をどのように説明するのか。
永遠の滅びが存在しないのなら、
主が十字架で贖う必要性も無かっただろう。
異端者どもは論理の破綻に気付けない無能だね。 今の教会は今にも消えんばかりである中、晴佐久神父の実績は大したものである。そこには
他の教会が学ぶべき何か真実のものがあるに違いないと謙虚に考えられないのか?
救済についての考え方が伝統と少々違っていても異端視するほどのこともなく、聖書理解の
多様性程度に見ればよいというある人の意見には賛成だな。
にもかかわらず誹謗中傷としか思えない攻撃をする人は嫉妬と思われてもしょうがないと思うよよ。 >>99
「あるにち違いない」は「あるのかもしれない」としておこう。 晴佐久神父に足りないもの、謙虚さ。
自慢が多すぎる。 >>101
他者を貶めながらの自慢だから
普通の自慢よりも悪質だよ。
たとえば、
「他の牧師はこのような言動だったが、私は考えは違う。」みたいな
同席した他者との比較が多い。 >>101>>102
聖書の価値はその中に生きている神の力と霊である。聖書は知的にでなく霊的レベルで読んで
初めて理解できるものだ。晴佐久神父はそういうことのできる人だよ。
君らには理解できないことだろう。しかも、他に学ぶという姿勢もないどころか晴佐久神父のあら
捜し、非難中傷に精を出している。その根源にあるのは嫉妬としか思えないな。
せいぜい好きなだけやればいいさ。ただし、神の光からは離れていくだけだな。 単なる意見を誹謗中傷に精を出しているとか、アラ探しとか、
言いがかりもいいところ。教祖に盲目な信者そのもの。
きみたちにはりかいできないとか、何その優越感。
>>102
言われてみればそうだな。他者を批判しつつ、自分がよく見えるようにしてる。
そこまで自分を良く見せようとずるって悲しい。
司祭たるもの、手本となる人がやっちゃいけないことだよね。
これをおかしいと思えない人は やっぱり盲目。 実績のない者が実績のある者に対してなんだかんだケチをつけるのは明らかに嫉妬だろ。
こいつら言わせておけばいいさ。相手にするだけ無駄だよ。 何をそんなに必死なんだ?
別に自分は神父じゃない、ケチをつける必要はないんだが?
実績って?洗礼数のことですか?
ビジネスマンじゃあるまいし〜。
晴佐久神父は自慢が多いことは確かじゃん。
自分の実績をひけらかすのは驕りだよね。 嫉妬かどうかはともかく、>>103の最初の2行は真実だと思う。 たかが絵であり、イエス本人を踏むわけじゃないから。
踏んでもいいんじゃないの? しかも、自演キャラである、その「軍団」は
自演自爆が多い
バイセクシャルのホモ豚は、自演でさえも才能がない >>108
よくある逃げ口上の詭弁だね。
踏み絵で問われているのは
「あなたは棄教するか?」であり、
神を踏むとかそういう意味ではない。
だから、踏んで信仰を棄てるのは大罪。 「聖書は神様からのラブレター」と晴佐久司祭は表現してるらしいけど、
この表現ってヴァッスーラのバクリなんだが。
ヴァッスーラは80年代90年代から「神様からのラブレター」と表現している。 ■■■■■■■■■■■■■■■
■■ ■■ 頭悪いんだから素直に注卒でええやろ!滑稽な偽学位で騙さんても!
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iiii __ __ iii 数々の不祥事、 パワハラや強姦紛いの宗教を騙った暴力!
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\_______________/ それも年下の牧師に嫉妬ばかり♪ 若い牧師から嫌われている♪
牧師金ちゃん、まだしゃぶって末世!目的は自分の名を挙げ上座に座ることや♪
今も元◎X△を強調しそれをひけらかせては周囲を恫喝!
教会を離れた信徒の悪口に陰口、自己正当化を謀る様々な愚行!
日本の教会の未来はまるで自分の肩にかかってるかのようにかっこ良く語るが、とても尊敬できるような人ではない! 宗教を学ぶ意味の一つは「人生学のプロ」になること
そのなかには、解決できるものも数多くありますが、やはり、解決できないものもあるわけです。また、解決の際に、何かを取って、何かを捨てなければいけない場合もあるかもしれません。これは、非常につらいことだと思います。
しかし、「愛の問題集」においては、さまざまなトラブルも、ある程度予定されている面はあるのです。「すべての人間にそれを勉強してもらいたい」ということで、男女が創られました。そして、必然的に、問題集に出会うことになっているわけです。
ただ、数多くの問題解決に立ち向かっているうちに、最初のころの純粋な愛とは、少し違ったものになっていくこともあるでしょう。
例えば、映画「さらば青春、されど青春。」の主題歌である「眠れぬ夜を超えて」には、結婚できずに苦しむ主人公たちの悶々とした気持ちが表れています。
そのように、「どうして一緒になれないのか」という苦しみもあれば、一緒になった後に生じる苦しみもあるのです。こうした問題と、そのつど、対決していかなければ解決はできません。
ただし、どこかで、全部を解決するのは無理だと気づく場合もあるでしょう。そのときに考えてほしいのは、「人生において宗教を学ぶことの意味」です。それは、「人生学におけるプロフェッショナルになろう。
ほかの人たちの、いろいろな人生問題集に答えられる自分になろう」と決意したということでもあると思うのです。これもまた、宗教に辿り着いた目的の一つなのではないでしょうか。
そして、「他の人の人生問題に導きを与えられる自分」になりたいのであれば、「自分自身が打ち当たった問題をどのように乗り越えていくか、過ぎ越していくか」が大事になってくるのです。
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https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1485503179/101 潜伏キリシタンって何じゃ?隠れキリシタンじゃないの? ここで何をしているのですか?
お名前は?
お住まいは? ここで何をしていますか?
お名前は?
お住まいはどちらですか?
危険なものは持っていませんね?
禁止薬物はお持ちですか?
所持品を見せてください?
前科は何犯ですか?
現在、指名手配は受けていますか?
深夜徘徊して、何してるんですか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています