かねてからの素朴な疑問だがもともとは踏み絵はただの金属片(または木片)に彫られたも
のすぎないと思うが。 そんなものに神の霊が宿ってるはずがない。

「キリストの霊が内に宿ってない者はキリストに属していません」(ロマ書8−9)とあるように
キリストの霊を内に受け入れることによって永遠の命が与えられるというのがキリストの教え
ではなかったのか?踏み絵はどう考えても神が禁じてきた偶像崇拝としか思えない。

ザビエルは偽りの信仰を日本に布教させ不必要な地獄を日本人信徒に与えたと言わざるを
得ない。近代になってもカトリック教徒はこの呪縛から脱せずにいる。晴佐久神父、スコセッシ
もしかり。このスレで晴佐久を批判している連中もそうである。踏み絵を肯定したうえで論争を
続けている。なぜ踏み絵そのものに疑問を抱かないのか?

私が宣教師だったら「そんなものに神の霊が宿って居るわけがない。どんどん踏みなさい」と
いうだろう。それだけでどれほどの人が救われることか。