★「踏絵」隠れキリシタンは殉教する必要なかった!「カリスマ神父様」★ [無断転載禁止]©2ch.net
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カトリック信者の間では、もはや知らない人はいないであろうハレレ神父様の
講演会でのお言葉です。(於: 上智大学)
晴佐久昌英神父講演会「キリシタンの生き方―映画『沈黙』から―」1〜3
http://webmagazin-amor.jp/2017/07/29/event3_1/
http://webmagazin-amor.jp/2017/08/05/event3_2/
http://webmagazin-amor.jp/2017/08/12/event3_3/
前々からこの神父様の教えに関しては、カトリックの教義に照らし合わせて賛否両論ありますが、聴衆を惹きつける話術は天下一品です。
不謹慎ですが、予備校講師にでもなっていたら、間違いなく超人気講師になって
いたことでしょう。ただの人気だけでなく実績もあげていただろうと思います。
さて、晴佐久神父様の意表をつくお言葉には慣れている方であっても、さすがに
ビックリ仰天するのではないかと、いや、現代カトリックがかなり寛容になっているとはいえ、現役の神父様がこんな発言して良いのだろうかと心配になってしまったの
が、上記の講演会での内容です。
一般のカトリック信徒であっても、公にこのような発言をすることは極めて
厳しいのではないかと思っていました。
もしかして、現代のカトリックにおいては、この発言もギリギリセーフですか?
(そうでなければ、いかに向こう見ずなハレレ神父様とはいえ、神父の立場を脅かすような発言をするはずがないともいえるのですが)
さて、ここでは現役の神父様の発言として如何なものかという視点ではなく、
上記にご紹介した講演の内容についての意見交換をお願いしたいと思います。
※ハレレ神父様については、これから先も「公の場で発言すべき内容ではなかった」
などと思うことは決してないと思います。
うっかり発言した内容ではありませんし、この先もずっと訴え続けたいと切に願っているであろうことは講演録を読めばわかります。
晴佐久神父様のお話しに興味を持たれた方は、以下もどうぞ。
(過去何年間もの教会のミサでの説教集です。ちなみに、この中でも同じような話を述べていらっしゃいます。)
http://www.fukuinnomura.com/ 「福音の村」 本当の神なら、「私を棄てて生き延びよ」と常に呼びかけていたはずだ。しかし、イエスで狂わされた信者には、その神の声が聞こえなかった。ナザレ村の大工の子倅は、神ではない。 >>14
私も長い間考えてきましたが、私の中では「踏み絵は踏んではいけない(踏まない)」が
正しいという結論になりました。
踏んではいけないと書くと、他者へ向けられる教条主義、原理主義と批判されますから
表現が難しいのですが、それぞれが祈りのうちに導かれる正しい結論は
やはり「踏まない」でしょうね。
踏み絵の前に立たされている自分の心の内。
【ケース1】
神への愛 < 生き延びたい
↑ ↑
ルカ12:8ー9 ↑
全身全霊を込めて(第一の掟) 隣人愛(第二の掟)の観点でどうか。
【ケース2】
神への愛 > 殉教(殉愛)していい
↑ ↑
ルカ12:8ー9 ↑
全身全霊を込めて(第一の掟) 隣人愛(第二の掟)の観点でどうか。
※考えなければならないこと
(1)神の他者への愛は、自分の他者への愛より大きい。
(2)自分であれ、他者であれ、死後の世界をも司る神への信頼。
(3)イエス様の十字架と、踏み絵は同じようなものではないのか。
キリストに倣ひて、ならば・・。
(4)隣人愛は「自分がして欲しいことをしてにしてあげなさい」であり
「人がして欲しいと思うことを想像して、それを人にしてあげなさい」ではない。 自分が踏み絵を踏まないことによって、他者が殺される、という場合であっても
神は「踏み絵を踏まない信徒」のその責任を不問にされたのです。
神は、人の心の中まで想像してそれを人にしてあげることまでは要求されませんでした。
人の責任の範囲を狭めてくださったのか、人が神となって、自分が神以上に
人を幸せにしてあげることができるという思い上がりをもつな、とされたのか
おそらくそのどちらもあるのだろう、と考えています。
20代の頃の私は、踏み絵は踏む、と考えていました。
しかし、どこか釈然としないものが心の中にありました。
「十二使徒の殉教、ステファノの殉教、26聖人、切支丹の殉教はピエロではないか。
犬死にではないか。」
「イエス様も生き延びる見本として、神の知恵のある言葉を語って、
十字架にかかることを、避けることもできたはず。どうしてされなかったのだろう。」
等々。 >以前の「教会の他に救いなし」のカトリックではなく、
>第二バチカン公会議の「他の宗教にも救いの道がある」という
>普遍主義的な現代カトリックの教えをひっさげて
第二バチカン公会議の「他の宗教にも救いの道がある」というのは、
晴佐久神父の解釈は違うとおもう。
教会憲章やカテキズムにはそんなことは書いていない。拡大解釈しすぎる。
>どの宗教の中にも底の方には真っ黒の原理主義的な教条主義的な人たちがいます。
>一方、水面に近い上の方には、透明に近い普遍主義的な対話可能な人たちがいます。
>宗教的な排外主義や自爆テロなどというのは、この真っ黒な原理主義の最たるものです。
原理主義こそ、正統中の正統である。
一神教とは排他的であって、排他的でなければ一神教ではない。
普遍主義はキリスト教ではないし、ましてカトリックではない。
晴佐久神父はカトリック教会を根本から否定している。 >今も日本にいる、「踏むか、踏まざるべきか」の二元論で苦しんでいる日本人たちの現場に私もいるわけです。
>そこに横たわっているのは、原理主義的な恐ろしい教えです。原理主義は二元論的です。
>この魔の手から救い出すのは難しいことで、本当にパワーが必要で大変なのです。
>「この教えを信じなければ救われない」という原理主義、分断主義によって、みんな心を病んでいます。
申命記5:9-10
「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、
わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」
ヨハネによる福音書 3:36
御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、
命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。
マルコによる福音書の最後、第16章
そして彼らに言われた、
「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。
信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」
あげればきりがないが、これがキリスト教の神である。
>「この教えを信じなければ救われない」という原理主義、分断主義によって、みんな心を病んでいます。
このように心を病ませるのがキリスト教の神であって、
それを否定するならキリスト教ではない。
天国は狭き門で、少数しか救われないと新約聖書に書いてある。
晴佐久神父は破門されるべき。
今の教皇の間は破門はなしであるとおもうが、
カトリックではないものを布教するなら、カトリックの神父をやめるべき。 >>18
>本当の神なら、「私を棄てて生き延びよ」と常に呼びかけていたはずだ。
本当の神ならば、人の死後をいかようにもしてあげることができますからね。
「私のために、友のために、愛のために、死んでいいよ」ではないでしょうか。 信仰あればこそ何をしても生き延びるだろ
たとえ絵を踏もうと >>19
14です。
同意はできませんが、いつもなら
同じような内容の意見に対して強い反発心が沸き起こってくるところですが、不思議と穏やかな気持ちで読むことができました。
19さんはカトリックの方ですか?
私は未信者ですがカトリックにとても関心があり、定期的にミサに出たり神父様の入門講座も受けています。
でも、カトリックの教義を100%信じることができなければ、洗礼を受けることはできないと思っています。
この映画に描かれいる問題も、私の中で解決できていない疑問の中のひとつです。
ところで、晴佐久神父様の講演録には
近くでこの映画を鑑賞していたプロテスタントの牧師さんの話が出てきますが、
プロテスタントの人たちにとっても踏み絵はカトリックと同じ意味を持つのですか?
カトリックの信心用具であるキリスト像やご絵などを偶像崇拝として否定する宗派が多いようですが、踏み絵に関してはどうなのか、ふと疑問に思いました。
カトリックの人たちと同じような葛藤はあるのでしょうか?
(もちろん当時のキリシタンは皆カトリックであることは承知しています) 正しい。正しくない。
正しいときには、善しとされる、をセットで理解してよいと思います。
しかし、正しくない時に、それが必ず赦されない、と抱き合わせで理解してはいけない
という点に注意しないといけません。
例えば、踏み絵を踏むことは正しいことではないが、赦されることがある、ということです。
ここで、また注意しないといけないのは、
「後ろ髪を引かれることなく踏み絵を踏んでいいんだ!」とはならないということです。
ペトロは三回踏み絵を踏んだのですよ。これは正しくありません。 「サロメの唇」は書籍化されないのかな。
映画「サロメの唇」は今回見に行こうかどうか迷ったが、結局やめた。 晴佐久の詭弁は信じるな!
曖昧な表現で煙に巻くのが得意なだけ。 >>14
踏み絵は契約書が無かった時代の意思表示だから、
踏むこと自体が棄教なんだわ。
楽をしたいだけのクズどもは逃げ口上ばかり探しやがる。 棄教するということは、天主よりも自分の命や苦痛からの逃避を選んだということ。
晴佐久が優先順位を論拠にするのなら、棄教は天主よりも被造物を優先する大罪なのだから、
奴の論法は破綻している。
「愛があれば、棄教とか殉教とか関係ない」←こんなバカな詭弁あるか?
晴佐久は曖昧な表現で誤魔化してるだけ。 >>19
正しい主張や指摘することを恐れないように。
カテキズムや教義に忠実であるのを「原理主義」と罵るのは的外れなのだから。
正しい指摘をすると原理主義とか騒ぐバカどもがいるが、
そもそも教義は一つしかない。
違った解釈と誤謬で教会を混乱させてるクズどもは異端者どものほうだろう。 >>33 追記
棄教とは天主への愛よりも自己を優先する大罪。
だから、愛がある棄教など存在しない。
晴佐久は曖昧な表現で誤魔化してるだけだからボロが出まくるんだよね。
奴が言ってる優先順位は論理が破綻している。
逆に、愛の無い殉教など出来るはずがない。
拷問や苦痛に耐えてまで冷淡な態度で殉教など出来るはずがないのだから。
殉教者は例外なく天主への愛と畏れと信仰があったはず。
むしろ、愛が無い状態で殉教するという状況を晴佐久に説明してもらいたいものだね。
晴佐久は論理的ではない。 >>22
新約聖書のヨハネ黙示録で臆病者が滅びの対象となっているのも
根拠とする御言葉に追加しておいて。 隠れて生きるキリシタンは謙虚だな。更に人前では祈らないとか。 >>1
晴佐久のイヤなところは、
「牧師を批判するわけではないのですが」と前置きしておきながら、
牧師たちを悪役のように引き合いにして、
自分を主人公のように際立たせる手法。
その映画の感想文でも同じ手法で同席者を貶めている。
「この人たちは自分の信仰のことばかり。私は二人をどうすれば救えるだろうかと考えていた」とかw
許可なく他者の言動を公開してる非常識でもある。
晴佐久は他人を引き立て役にしか思っていない偽善者だよ。 ある目的地には危険な道中がある。
賢い人が旅人へ助言した。
「道中は危険だから準備を整えて慎重に行きなさい。」
愚か者も旅人へ助言した。
「心配ないですよ。大丈夫だよ。そのままでいいんだよ。」
旅人のためになったのはどちらの助言だろうか。 >>39 続き
聖人たちは小罪ですら慎重に、神経質に避ける努力をしたという。
その一方で晴佐久の支持者どもは、大罪すら正当化する危険性を有している。
論理的に考えてみよう。
小罪すら避ける生き方では滅びる可能性は全く無いが、
大罪すら気にしない生ぬるい現実逃避では、
実際の裁きが想像よりも厳しかった場合に滅びる危険性がある。
晴佐久の助言は気休めの現実逃避にしかなっておらず害悪なのである。 >>38 追記
愛を連呼する偽善者に、まったく愛が無かったという破綻w
あいつリアルで見たけど相当イヤな性格してるよ。
かなり劣った人格。キリストの代理者は名乗れないほどの。 遠藤周作とか晴佐久とか異端者に共通している特徴は
自分が信じやすい神の形に作り変えるという捏造。
聖人たちに現れた神、教義が示している神、を受け入れない不信仰だから
自分の願望と空想で信じやすい神を作り出す。
それが異端者どもと支持者たちの心理。 >>35
新約聖書「友のために命を捨てる。これほど大きな愛はない。」
この御言葉は主の御受難と贖罪だけを意味するのではない。
人間側の殉教も意味している。
だから、殉教の価値を否定する晴佐久は異端者だよ。 >>34
信心深い人々を「原理主義」と罵る異端者どもがいる。
教義に忠実な信仰者を蔑む連中は御父に滅ぼされるだろうよ。
そもそも、教義は一つしかない。
カトリック信仰は一つだ。
一つしかない信仰を、保守だリベラルだ、と区別するほうがおかしい。
晴佐久はハッキリと異端だと断言できる。
地獄の存在は、聖書も教義もファティマの聖母も明言しているのに、
晴佐久の説によれば永遠の罰は無いそうだ。
奴と支持者どもは願望だけで教理を捻じ曲げている。 「俗は聖の器」とはどのような意味でしょうか?
聖職が俗人と同じように振る舞ってもよいという逃げ口上でしょうか。
聖性を失ったものが世俗化を批判できるのでしょうか。
中身の無い言葉で誤魔化してるだけの表現にしか見えない。
知性が低いバカは騙されそうな表現だねw >>38
これ、同意。有名人も好きだよね。
説教がさ、
俺すごいだろ、みんなに好かれ感謝されてる俺、なんだよな。 遠藤はただの信徒、神父は教会のトップだからねえ。影響はでかい。 永遠の罰を否定している異端者に正当性は無いよ。
聖書、教理、ファティマの聖母、聖人たちの私的啓示など、
地獄の存在と永遠性は明言されてるからね。
地獄の存在を否定しても、ゲヘナの火が消えるわけではない。
晴佐久は根拠もなく願望だけで語っている。
そもそも、永遠の滅びが無いのなら、
主キリストが全人類を贖う必要性もなく。 晴佐久とか片柳の支持者どもって完徳について触れないけど、
完徳は教会が根拠なく言ってる教義じゃないんだよね。
新約聖書の「御父が完全であるように、あなた方も完全でありなさい」を根拠としている。
「そのままでいい」とか現実逃避してるクズどもが、
どうやって自身の聖性や霊性を高めるんだろうね。
クズどもは、悪意を抱いたまま天国に入れると勘違いしている。 新約聖書が説く狭い門と広い門
狭い門というのは、聖人みたいな生き方とか完徳とか厳しく難しい生き方を意味する。
広い門というのは、晴佐久とか片柳みたいな生ぬるい簡単で安易な生き方を意味する。
広い門とは誰にでも出来る楽な生き方だからな。 赤の他人の絵一枚踏むだけで、自分の命も助かり、家族の
苦しみも無くなるのに踏めない。こんな気違い宗教が、他の
どこにあるか。
キリスト教とは、イエスの狂気の感染による精神医学的現象
以外の何物でもないことを自覚せよ。 かねてからの素朴な疑問だがもともとは踏み絵はただの金属片(または木片)に彫られたものすぎないと思うが。
そんなものに神の霊が宿ってるはずがない。 かねてからの素朴な疑問だがもともとは踏み絵はただの金属片(または木片)に彫られたも
のすぎないと思うが。 そんなものに神の霊が宿ってるはずがない。
「キリストの霊が内に宿ってない者はキリストに属していません」(ロマ書8−9)とあるように
キリストの霊を内に受け入れることによって永遠の命が与えられるというのがキリストの教え
ではなかったのか?踏み絵はどう考えても神が禁じてきた偶像崇拝としか思えない。
ザビエルは偽りの信仰を日本に布教させ不必要な地獄を日本人信徒に与えたと言わざるを
得ない。近代になってもカトリック教徒はこの呪縛から脱せずにいる。晴佐久神父、スコセッシ
もしかり。このスレで晴佐久を批判している連中もそうである。踏み絵を肯定したうえで論争を
続けている。なぜ踏み絵そのものに疑問を抱かないのか?
私が宣教師だったら「そんなものに神の霊が宿って居るわけがない。どんどん踏みなさい」と
いうだろう。それだけでどれほどの人が救われることか。 >>53
契約書が無い時代の意思表示だからだよ。
偶像崇拝という指摘はズレている。
踏むのを正当化するのは、楽な選択をしたい生ぬるい者の逃げ口上にすぎない。
新約聖書「友のために命を捨てる。これほど大きな愛はない。」
これは主キリストの磔刑を意味するだけではなく、
殉教者が信仰に命を懸けるのにも同じことが言える。 >>53
踏み絵は、「棄教するのか?」「あなたはキリスト者なのか?」という問いかけであって、
「偶像を崇拝するのか?」と問われているのではない。
棄教するようなヤツは、神よりも自分の命を優先した偶像崇拝の大罪だね。
偶像崇拝とは、神よりも被造物を上に置く大罪なのだから。 >>53
ヨハネ黙示録では、殉教や迫害が預言されている。
殉教が、無駄とか偶像崇拝としては扱われていない。
むしろ、尊い義として称えられている。
自身が殉教するような極限状態を想定して、
心構えは作り出しておいたほうがいい。
急に棄教を迫られたら、屈してしまうかもしれないからね。
普段から想定して覚悟を決めておくべきだよ。 「神」は「架空の存在」だから、どんな解釈しようと、個人の自由ではないか。「神」を「悪魔」、
「愛」を「憎悪」と呼んでも、何の問題もない。言葉が指示する具象物が存在しないのだから、
その意味の解釈は百人百様。言葉とは「恣意的な符号」に過ぎない(ソシュール)。
イエスの顔は誰もしらないのだから、踏絵の顔がイエスであうという保証は皆無である。
それをイエスと信じて有難がることこそ、忌むべき偶像崇拝の典型。 そもそも、会ったこともない大昔の赤の他人のイエスのために
命を捨てるとか、もはや狂気である。ここまで狂った宗教が、
他のどこにあるか。命を棄てるのは、親や子の命を救うためだけ。
「俺を信じるためには、親も子も棄てよ」と脅迫するイエスは、
もはやサタン以外の何者でもない。 そもそも、会ったこともない大昔の赤の他人のイエスのために
命を捨てるとか、もはや狂気である。ここまで狂った宗教が、
他のどこにあるか。命を棄てるのは、親や子の命を救うためだけ。
「俺を信じるためには、親も子も棄てよ」と脅迫するイエスは、
もはやサタン以外の何者でもない。 いずれにしても神は本当に人間に対して愛のみ、かつ無傷の存在なので、殉教は必要ないそうです。
もちろん殉教者に対しては深い敬意を持ち、愛されているとは思いますが。
2000年の少し前頃に発刊され、アメリカで異例のベストセラーになり、日本でもベストセラー、
いまや30数カ国以上に翻訳されて読まれているニール・ドナルド・ウォルシュ氏の『神との対話』シリーズ。
もし本当に「神の存在と恩寵」を確信したいなら、まず正しい「神の理解」が必要です。
そして、その「正しい理解・認識」によって、この現世で「神の体験」が可能になります。
すぐには信じがたい話だとは思いますが、運命は全て完璧・(深い意味で)成功のみとのことです。
一見、少し怪しい題名の本ですが、誰にも身近な共通の一つの神様です。
思索的な哲学書として読んでも面白いと思います。
《10分ほどで読めて分かる『神との対話』》
https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome 晴佐久は、口先でけではなく、自ら聴衆の前で踏絵を徹底的に踏み、
聴衆にも踏ませるべきだったね。晴佐久がそのような言葉で邪教を
宣教しようとしているのなら、極めて悪質である。 >>60
殺されてもイエスを批判できないクリスチャンが書いた本など、読んでも無意味。 >>
54〜56
踏み絵がその偶像崇拝そのものではないにしても、偶像崇拝の心理に近いものではないかな?
また踏み絵が「棄教するのか」「あなたはキリスト者なのか」という問いかけだとするのも賛成しか
ねるな。真のキリスト教の救いとは何かを突き詰めれば「その人の心に神の霊が宿ること」(ロマ書)
とに尽きる言える。さらに、
「生きているのはもはや私ではない。キリストが私の内にいきておられるのである。」(ガラテヤ2−20)
「今やあなた方は聖霊様を頂きました。聖霊様が心の内に生きておられます。ですから、何が正しいかは
聖霊様が指示して下さいます。」
福音書には多くの信徒たちが艱難辛苦を通して聖霊の宿りを受けていく生き様が描かれている。
聖霊の宿り(回心)の体験は別に教会に行かなくとも神を信じる心さえあれば可能である。もし、このように
霊的に内的進化を遂げた人が神の霊が宿っているとは思えない踏み絵を強要されてもほとんど何の意味
もなさないだろう。
踏んでもその人の心に宿った聖霊が出ていくはずがない。 >>63
「聖霊」とは、創造主が人間の創造において人間に吹きこんだ「命の息吹」
即ち「生命」であることは、創世記2:7から疑いを容れない。創造主でも
ないイエスの踏絵を踏まなかったら、聖霊である生命を失うなど、本末転倒
も甚だしい。 >>56
>自身が殉教するような極限状態を想定して、 心構えは作り出しておいたほうがいい<
には同意するね。
その様な極限状況の可能性としては、中国、北朝鮮の軍事的侵攻の可能性があげられる。近い将来、
アメリカの国力が低下し、アジアからの撤退がなされると中国、北は必ずその魔手を日韓台湾に伸ばしてく
る。そして、これまでなしてきたような人権、思想、宗教弾圧の嵐が吹き荒れる。宗教関係はトップターゲット
となるだろう。その時どうするか?
たとえ、隠れキリシタン装っても100万の人民占領軍はハイテクを用いて必ず見つけ出すだろう。その後、
昔ながらの踏み絵で特定しようとするかもしれない。
そう、その時どうするか。今から心構えを考えておいた方が良いだろう。今の国際状況を考えればそんな遠いこと
ではないかもしれない。 >>65
共産主義と同様の狂気の宗教であるキリスト教を離脱しておけば、問題はない。 >>64
イミフ「キリストの中には隅々まで神の霊が宿って居た」神とは創造主のこと >>67
イエスは、創造のはるか後のわずか2000年前に、マリアから
生まれた人間。創造とは時期が大幅に異なり無関係。
イエスが神とは、イエスの統合失調症の症状としての誇大妄想からの
イエスの「自称」。狂人の自称を、大真面目に信じるべきではない。 信じる、信じないはその人の自由。そういう自由のないのが共産主義体制。
日本がそういう体制になる可能性があるとすれば、考えるだけで恐ろしい。 >>69
科学について無知蒙昧だった古代とはことなり、科学がいかなる
宗教の奇跡も及ばない発達を遂げた現代においては、「現代人が
何を信じても良い」ということはもはや許されない。義務教育は
何のためにあるのか。
宗教は、あくまで当時の知識レベルにおける、当時の人々に対して
のものに過ぎない。時代錯誤は許されない。 >>56
ヨハネ黙示録は、過去、現在、未来、の多重構造になっている。
過去のローマ皇帝のみという解釈で読んでる学問気取りのバカどもには信仰が無い。 >「現代人が何を信じてもよい」はもはや許されないだろ<???
未だ科学は宗教を超えてはいないだろ。君は共産主義者かね?宗教の自由を許さない体制の現実を見よ!
日本をこんな国にしてはならない。
「中国政府は12月に入ってから、共産党支配に否定的なキリスト教系宗教組織『全能神』の関係者
400人を拘束した。これは90年代の『法輪功』弾圧以来の大量拘束である」(産経2012・12・19)
共産主義政権下ではすべての国民が同じように考え、同じように行動しなければならない。反対する
者は殺すしかないという思想である。宗教が許されないので、国民は心の拠り所がなく、不安、恐怖、
絶望、孤独などの負の感情に怯えている。結果、アル中、ドラグ、犯罪、精神病、果ては自殺が蔓延
している。
宗教だけでなく、思想、人権弾圧もすさまじい。チベット、ウイグル、東トルキスタンでは今もなお罪も
ない人々が殺されている。文革以来の犠牲者は7,000万人に達する。(「共産主義黒書」より)
拘束された「法輪功」の関係者で釈放された者は一人もいないという。 「全能神」の400人も皆殺しに
されるだろう。
最近ではノーベル平和賞受賞者で人権活動家の劉暁波氏が弾圧の犠牲となった。
平和賞受賞者を殺す中国共産党政権は平和の敵。そしてそのような政権にすり寄る翁長知事や
朝日新聞も平和 の敵。防衛努力を怠れば日本も必ずこうなる。もちろん、粛清の対象は キリスト教
だけでなく神道、仏教、新興宗教等すべてに及ぶ。犠牲者は宗教関係者だけでも1,000万人を下
らないだろう。
不思議なのは日本の宗教関係者がこうした危機感に乏しく、容共的としか思えない姿勢であることだ。
晴佐久神父も同様。日本が共産化されたら真っ先に粛清されるだろうに。もとより本人は殉教の覚悟
はできているのかもしれんが、無知で容共的な多くの信者のために警告の言葉位あってもよいと思うが?
1 >>72
共産主義は、キリスト教起源であることを忘れてはならない。共産主義
とキリスト教の排他性と人間の生命の無視とは同根である。日本のクリ
スチャン、特にプロテスタントのほとんどが、反日左翼である。
マルクスもスターリンもレーニンもポルポトもクリスチャンである。
スターリンは、グルジアの神学校を卒業した聖職資格者。レーニンの
父は、熱心なクリスチャン。
キリスト教による人間の大殺戮の歴史と現状を直視せよ。 「次はいよいよ禿げ爺の番だ。先日のよしおの件でえらく動揺しておったそうだ・・」
「よしおは踏まなかったのか?」
「そうらしい。酔っばらったようになって踏まなかったとか」
「草だ。草吸って乗り切ったな・・。禿げはダメだろう。踏むよ」
「村で一番の弱虫さんだ。ゼズス様より畑。昨日はほうれん草と何かを植え間違えたと大騒ぎしてた」
「ほんとしょーもないヤツだ」 踏絵など、徹底的に踏んづけた人間が、最も賢かったということ。 >>75
最も醜いけどね。
賢さよりも、精神の尊さ、カッコ良さ、美しさ、を大切にしたい。 >>76
親でもない大昔の赤の他人で、神の冒涜罪で処刑された犯罪者イエスの偶像を
踏めないで、聖霊である己の生命を棄てることは、尊いことでも、カッコ
良いことでも、美しいことでもあるまい。 【中国共産党殺人政権による自国民の殺し方】
「ナチスドイツが強制収容所でユダヤ人たちを殺す際、相手をガス室に「事務的に」送り込んでから
「機械的に」処理するのが一般的なやりかたであった。
それに比べれば、「身体をナイフで切り裂き、傷口に塩を揉み込み、そこへ焼き鏝をあてた」とか、
「(女性を)何度も強姦し、焼き棒を膣に差し込んで生きたまま突き殺した」といった殺し方は、比較
しがたく残忍非道であろう。
そこに見られる、人間同士の憎しみの激しさ、人間性の完全な欠如こそは中国共産党政権の恐ろし
い本質的特徴である。」(石平著「なぜ中国人はこんなに残酷になれるのか」ビジネス社刊)
このような残忍な殺戮の犠牲者は7,000万に達すると言われる。 (S・クルトワ著「共産主義黒書」より)
そして、今もなお、チベット、ウイグル、東トルキスタンでは罪もない人達が殺され続けている。
防衛努力を怠れば日本にも必ずこのような地獄が訪れる。 ノー天気な日本の宗教関係者はこのような事態
を想定してないし、危機感も皆無である。晴佐久神父よあなたもだよ。 中国の侵攻党により、日本が共産化された時、どう対応すべきか?
@隠れキリシタンを装い、山中か大都会の中で潜伏生活をおくる。
A聖書や関連の書籍類は一切、処分し聖書の主要部分は暗記し、そらで言えるようにしておく。
B踏み絵を強要されたときの覚悟と対応を考えておく。
C外国へ移住する。
等が考えられるが、
@は狭い日本、100万もの中国人民軍に占領されたら、すぐに捕まるだろう。ハイテクの装備を
使うだろうし、密告を奨励するだろう。
A聖書をマル暗記するのは普通の人には不可能。最低、福音書にあるキリストの直接の言葉だ
けでも暗記しておこう。
B踏むか踏まないかは本人の考え次第だが、個人的には踏んでも構わない。そんな所に神の霊
が宿って居るわけがない。
「神の国はあなた達の家にある。」(ルカ17−21)
「自分が神の神殿であり、神の霊が自分達の内に住んでいます」(コリント〔一〕3−16)
自分の内に教会を作っておこう。
C占領されてからでは遅い。移住するなら今の内。しかし、金はかかるし、生活の見通しもなく、ま
して家族・親類・祖国を捨てて自分だけ助かろうとするのは神の意志に反するのではと言う自責の
念に襲われそうだな。
ボートピープル?ヨットでも買うか?ヨットは高いから手漕ぎボートにするか?泳いでハワイまで渡
るかw
いずれにしろ、極限状況を想定し、対応を考えておいた方が良いと思う。 >>79
史上、殺した人間の数は、キリスト教より共産党のほうが、はるかに少ない
ことを忘れるな。
キリスト教の抹殺のほうが先決である。 >>81
数字のことを論ずるときは具体的に示せ。ソースもな。 >>82
歴史で宗教改革、30年戦争、十字軍、アイルランド戦争、旧ユーゴの紛争、
アメリカインデアンの虐殺、アフリカ、フィリピン、南米、アジアの侵略など
を調べて、概算してみろよ。多すぎて計算不能だろ。それにクリスチャンは、
数が少なければ虐殺してもよいとでも思っているのか。共産主義は、
「共産主義黒書」で10億人と数字が出ている。共産主義もナチスも、
キリスト教から発生した。ナチスの反ユダヤ主義も、キリスト教2000年の
歴史だ。先の世界大戦も、狂信的なクリスチャンであるルーズベルトの仕業で
あることは、現在では公然の秘密だ。フーバー大統領でさえ、ルーズベルトは
あらゆる策略で日本を戦争に巻き込んだ「狂人」と批判している。 >>83
おいこら!「共産主義黒書」に10億などと言う数字どこにも書いてないぞ。ソースも含めて
具体的に示せと言ってるのに何だこりゃ。支離滅裂、説得力ゼロ。
勉強して出直せ。「共産主義黒書」(筑摩書房刊)は「アジア編」「ソ連編」の2巻に分かれ、
一巻1,700円の計3,400円だ。買って勉強して出直してこい。何、そんな金ない?だったら、
二度とこんな出まかせを言うな! >>84
俺はフランス語の原書を2冊も持ってる。大昔に読んだから内容は
忘れたが。10億人という数字が出てきたと思うよ。左翼が、人数が
多過ぎると批判していたことも覚えている。 共産主義10億人に対して、ナチスは4500万人だった。ナチスの方が、
桁違いに少ないw。 ミサで信仰宣言を唱えている司祭が、
裁きの永遠性、 死者の復活、創造主の全能性、を否定する異端説を
ミサ説教で語るのはバカだわ。
信仰宣言の内容すら知らないのか。 --
† 狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。
そして、そこから入って行く者が多いのです。
(新約聖書 マタイの福音書7章13節)
-- 日本を愛した宣教師 尊者チマッティ神父様
日本を憎んだ宣教師 韓国人司祭ども 知り合いから教えてもらった副業情報ドットコム
暇な人は見てみるといいかもしれません
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IJHL4 > 続けて中野氏は「普通の人間にとって何かを決断するのは、脳に負担がかかること。
サイコパス的要素を高く持っている人だと、決断が速かったり、なんでも自分で決めたがる。非常に(周囲の人は)楽」と説明。
サイコパス的要素がある人は、自分の代わりに決断するので周囲から支持されやすいと説明した。
さらに中野氏は、サイコパス的要素が高い人が人気を集めやすい理由を説明。
「言葉が非常に強くて、『この人なら信頼できるな』と思わせる特徴がある」と言葉使いが巧みである点を理由として挙げた。
さらに、サイコパスの要素を持つ人は「その場の混乱した状況を『この人なら救ってくれるんじゃないか』、
あるいは『閉塞した状況を打破してくれるんじゃないか』という期待を持たせる」という。
サイコパス的要素が高い人間は、常人ではできないことを成し遂げる期待感があると中野氏は説明した。
小泉首相もそうだし、新興宗教教祖もコレ。有名神父もそうだろう。
言ってることが誇大で自己宣伝が上手いもんね。
それで救われる人もいるのだから良いのだろうが、
実は共感などしていないのがサイコ。するふりが上手いってことさ。
普段の行いに失礼が多いんだよね。説教じゃ誰にも親身になる神父なのにさ。
それに気づいてしまうと失望がでかいから注意。気づかないふりして信じましょう。
大作君や大川君を信じるのと同じ。
宗教なんて所詮そんなもん。 ----
† エペソ6章10-12節
終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、
また天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
----
イエスの弟子であるシモン・ぺテロしかり、
神は人間の弱さをご存じです。
そのために十字架に赴かれたのです。
かたくなになって殉教する強さ、は、
ともすれば自己愛につながり、
自尊心を満たすかもしれませんが、
自身の弱さ、罪深さに心づき、悔い改め、
イエスの愛に感謝し、よりたのむ行き方のほうが、より喜ばれるのでしょう。
なぜなら、神はいけにえを喜ばれない、とあるからです。
傲慢の罪に陥るよりも、へりくだり、
こんな罪深い私のために十字架に赴かれた
主に、
絶えず感謝して歩みたいものです。
---- 晴佐久神父は数少ない「キリストの霊」が宿った聖職者の一人だと思う。聖書は知的にではなく
霊的レベルで読むべきものだと思う。偽善神父や牧師の説教に愛が感じられないと言わ
れるのは「キリストの霊がその人の心に宿ってない人はクリスチャンではない」(ロマ書)
との聖書の言葉を実現していないからだ。
晴佐久神父は神と共にあるから多くの人を引き付けることができる。非難・中傷する人々
の中に同業者が少なくないと思うが、多くは嫉妬から来るものだね。醜い人たちだ。
「嫉妬は人間の本性の一番悪い性質だある」(C・ヒルテイ) >>96
「教義とは違う異端説で教会を混乱させている」という事実の指摘が、
どうして嫉妬になるのか?
なんでもかんでも嫉妬を原因にするなよ。
自身が嫉妬深いから他者もそのように見えるだけだろ。 地獄の存在、永遠の罰を否定する異端者どもは、
主キリストの贖罪をどのように説明するのか。
永遠の滅びが存在しないのなら、
主が十字架で贖う必要性も無かっただろう。
異端者どもは論理の破綻に気付けない無能だね。 今の教会は今にも消えんばかりである中、晴佐久神父の実績は大したものである。そこには
他の教会が学ぶべき何か真実のものがあるに違いないと謙虚に考えられないのか?
救済についての考え方が伝統と少々違っていても異端視するほどのこともなく、聖書理解の
多様性程度に見ればよいというある人の意見には賛成だな。
にもかかわらず誹謗中傷としか思えない攻撃をする人は嫉妬と思われてもしょうがないと思うよよ。 >>99
「あるにち違いない」は「あるのかもしれない」としておこう。 晴佐久神父に足りないもの、謙虚さ。
自慢が多すぎる。 >>101
他者を貶めながらの自慢だから
普通の自慢よりも悪質だよ。
たとえば、
「他の牧師はこのような言動だったが、私は考えは違う。」みたいな
同席した他者との比較が多い。 >>101>>102
聖書の価値はその中に生きている神の力と霊である。聖書は知的にでなく霊的レベルで読んで
初めて理解できるものだ。晴佐久神父はそういうことのできる人だよ。
君らには理解できないことだろう。しかも、他に学ぶという姿勢もないどころか晴佐久神父のあら
捜し、非難中傷に精を出している。その根源にあるのは嫉妬としか思えないな。
せいぜい好きなだけやればいいさ。ただし、神の光からは離れていくだけだな。 単なる意見を誹謗中傷に精を出しているとか、アラ探しとか、
言いがかりもいいところ。教祖に盲目な信者そのもの。
きみたちにはりかいできないとか、何その優越感。
>>102
言われてみればそうだな。他者を批判しつつ、自分がよく見えるようにしてる。
そこまで自分を良く見せようとずるって悲しい。
司祭たるもの、手本となる人がやっちゃいけないことだよね。
これをおかしいと思えない人は やっぱり盲目。 実績のない者が実績のある者に対してなんだかんだケチをつけるのは明らかに嫉妬だろ。
こいつら言わせておけばいいさ。相手にするだけ無駄だよ。 何をそんなに必死なんだ?
別に自分は神父じゃない、ケチをつける必要はないんだが?
実績って?洗礼数のことですか?
ビジネスマンじゃあるまいし〜。
晴佐久神父は自慢が多いことは確かじゃん。
自分の実績をひけらかすのは驕りだよね。 嫉妬かどうかはともかく、>>103の最初の2行は真実だと思う。 たかが絵であり、イエス本人を踏むわけじゃないから。
踏んでもいいんじゃないの? しかも、自演キャラである、その「軍団」は
自演自爆が多い
バイセクシャルのホモ豚は、自演でさえも才能がない >>108
よくある逃げ口上の詭弁だね。
踏み絵で問われているのは
「あなたは棄教するか?」であり、
神を踏むとかそういう意味ではない。
だから、踏んで信仰を棄てるのは大罪。 「聖書は神様からのラブレター」と晴佐久司祭は表現してるらしいけど、
この表現ってヴァッスーラのバクリなんだが。
ヴァッスーラは80年代90年代から「神様からのラブレター」と表現している。 ■■■■■■■■■■■■■■■
■■ ■■ 頭悪いんだから素直に注卒でええやろ!滑稽な偽学位で騙さんても!
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iiii __ __ iii 数々の不祥事、 パワハラや強姦紛いの宗教を騙った暴力!
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| | 金銭トラブルに嘘の総会、反抗する者には83で恫喝!
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| \ / | やり直し出来るなんて真っ赤な嘘、何人の人を神から遠ざけましたか?
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| | 神学的知識も自慢するが間違いだらけとある牧師が笑ってました!
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| | | | 教会員を追い出し自殺に追いやって惚けてる!
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| \ / | 周囲の牧師と異常な競争心を燃やす♪
| \/ | 下らない自己顕示欲が幼稚♪
\_______________/ それも年下の牧師に嫉妬ばかり♪ 若い牧師から嫌われている♪
牧師金ちゃん、まだしゃぶって末世!目的は自分の名を挙げ上座に座ることや♪
今も元◎X△を強調しそれをひけらかせては周囲を恫喝!
教会を離れた信徒の悪口に陰口、自己正当化を謀る様々な愚行!
日本の教会の未来はまるで自分の肩にかかってるかのようにかっこ良く語るが、とても尊敬できるような人ではない! 宗教を学ぶ意味の一つは「人生学のプロ」になること
そのなかには、解決できるものも数多くありますが、やはり、解決できないものもあるわけです。また、解決の際に、何かを取って、何かを捨てなければいけない場合もあるかもしれません。これは、非常につらいことだと思います。
しかし、「愛の問題集」においては、さまざまなトラブルも、ある程度予定されている面はあるのです。「すべての人間にそれを勉強してもらいたい」ということで、男女が創られました。そして、必然的に、問題集に出会うことになっているわけです。
ただ、数多くの問題解決に立ち向かっているうちに、最初のころの純粋な愛とは、少し違ったものになっていくこともあるでしょう。
例えば、映画「さらば青春、されど青春。」の主題歌である「眠れぬ夜を超えて」には、結婚できずに苦しむ主人公たちの悶々とした気持ちが表れています。
そのように、「どうして一緒になれないのか」という苦しみもあれば、一緒になった後に生じる苦しみもあるのです。こうした問題と、そのつど、対決していかなければ解決はできません。
ただし、どこかで、全部を解決するのは無理だと気づく場合もあるでしょう。そのときに考えてほしいのは、「人生において宗教を学ぶことの意味」です。それは、「人生学におけるプロフェッショナルになろう。
ほかの人たちの、いろいろな人生問題集に答えられる自分になろう」と決意したということでもあると思うのです。これもまた、宗教に辿り着いた目的の一つなのではないでしょうか。
そして、「他の人の人生問題に導きを与えられる自分」になりたいのであれば、「自分自身が打ち当たった問題をどのように乗り越えていくか、過ぎ越していくか」が大事になってくるのです。
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https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1485503179/101 潜伏キリシタンって何じゃ?隠れキリシタンじゃないの? ここで何をしているのですか?
お名前は?
お住まいは? ここで何をしていますか?
お名前は?
お住まいはどちらですか?
危険なものは持っていませんね?
禁止薬物はお持ちですか?
所持品を見せてください?
前科は何犯ですか?
現在、指名手配は受けていますか?
深夜徘徊して、何してるんですか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています