★「踏絵」隠れキリシタンは殉教する必要なかった!「カリスマ神父様」★ [無断転載禁止]©2ch.net
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カトリック信者の間では、もはや知らない人はいないであろうハレレ神父様の
講演会でのお言葉です。(於: 上智大学)
晴佐久昌英神父講演会「キリシタンの生き方―映画『沈黙』から―」1〜3
http://webmagazin-amor.jp/2017/07/29/event3_1/
http://webmagazin-amor.jp/2017/08/05/event3_2/
http://webmagazin-amor.jp/2017/08/12/event3_3/
前々からこの神父様の教えに関しては、カトリックの教義に照らし合わせて賛否両論ありますが、聴衆を惹きつける話術は天下一品です。
不謹慎ですが、予備校講師にでもなっていたら、間違いなく超人気講師になって
いたことでしょう。ただの人気だけでなく実績もあげていただろうと思います。
さて、晴佐久神父様の意表をつくお言葉には慣れている方であっても、さすがに
ビックリ仰天するのではないかと、いや、現代カトリックがかなり寛容になっているとはいえ、現役の神父様がこんな発言して良いのだろうかと心配になってしまったの
が、上記の講演会での内容です。
一般のカトリック信徒であっても、公にこのような発言をすることは極めて
厳しいのではないかと思っていました。
もしかして、現代のカトリックにおいては、この発言もギリギリセーフですか?
(そうでなければ、いかに向こう見ずなハレレ神父様とはいえ、神父の立場を脅かすような発言をするはずがないともいえるのですが)
さて、ここでは現役の神父様の発言として如何なものかという視点ではなく、
上記にご紹介した講演の内容についての意見交換をお願いしたいと思います。
※ハレレ神父様については、これから先も「公の場で発言すべき内容ではなかった」
などと思うことは決してないと思います。
うっかり発言した内容ではありませんし、この先もずっと訴え続けたいと切に願っているであろうことは講演録を読めばわかります。
晴佐久神父様のお話しに興味を持たれた方は、以下もどうぞ。
(過去何年間もの教会のミサでの説教集です。ちなみに、この中でも同じような話を述べていらっしゃいます。)
http://www.fukuinnomura.com/ 「福音の村」 映画「沈黙」は今回見に行こうかどうか迷ったが、結局やめた。
残虐なシーンがかなりありそうだったので。
カトリックの人は見に行った人多いのかな? 次はH神父の番だった。
信徒には常日頃から生き延びるように指導していたパードレ(神父)である。
「次の者、前に出よ」
皆は固唾を飲んで見守っていた。
「どうした?踏まぬのか?」
他の者たちの倍の時間が用意されたが神父はけっして踏むことはなかった。
「ったてい!(引っ立てい)」
いつもは八重歯を出して笑う明るい神父であったが、
今日は眉間の神経質そうなシワが遠目にも見てとれた。
村の信徒の間では動揺が広がった。
「パードレ様あ、踏まなんだそうだ」「んなごっですか!(本当ですか)」
「禿げ爺。お前さんはどうするんじゃ?」
「わしは、そのう。わしは・・」
「家庭菜園ばとるんか?」
「かんにんしてつかあさい、かんにんしてつかあさい」
もう泣きじゃくっていた。 死んだら神格化し、そのことに興奮する人は
ポアされたら救われるって言うオウム信者と一緒 >>1を今朝読みました。まだ考え方がまとまっていませんが、とりあえず
感想をメモ形式で投稿します。今後更に考えてみようと思います。
(1)洗礼の秘蹟を軽く捉えすぎではないか。
(2)苦しむこと。悩むこと。をことさら悪いことのように考えられている。
「原理主義的カトリックによって」苦しむこと。悩むこと。と限定して
言われていますが怪しいですね。つまり、人間がイエス様の教えで
正しく苦しむこと、正しく悩むことまでも排除していくことになる危険性を感じます。
キチジローの苦しみ、悩みは、果たして、原理主義的カトリックの教条違反
によってだけもたらされたものでしょうか。裏切ったペトロと同じ種類の正しい
苦しみ、正しい悩み、というものが入っていたと思います。
(3)愛を語るときに、第一の掟、神への愛、が欠落、もしくは薄いように思いました。
人への愛99%神への愛1%。人への愛=神への愛です、という反論があり
そうですが、ではどうして、イエス様は第一と第二と掟を分けられたのか、ということですね。
ルカは第一第二とはなっていませんが、神への愛と、隣人愛は必ず分けて教えられる。
踏み絵を踏まないことは、神を愛しているということを人々に示すことでもあります。
(ルカ12:8-9)そうなると、殉「教」ではなく、殉「愛」となります。
踏み絵を踏まないことを、100%殉「教」であり、そのなかには殉「愛」の要素はない、
という見方は乱暴すぎると思います。
(4)晴佐久神父様が想定しているような原理主義的カトリック信徒がいるのだろうか。
イエス様の教えの厳しい部分を無視することのない正しい信徒を、教条主義者、原理主義者
と呼んで、悪者のように仕立ててはいないだろうか。 >>1
愛とかイエスとか、ありきたりのキリスト教説教師。
フランスには、「愛」という言葉を絶対に使わない神父もいるそうだ。愛とは、窮状にある相手を見て初めて生じる、助けるための具体的行動の原動力となる思念の感情。口にすべき言葉ではない。 >>8
口に出した瞬間観念化され愛が愛でなくなってしまう、
という一種の言霊信仰と言いますか。
つまりイエス様はこの世に愛を消滅しに来られたと。
愛を口にすると「自然の感情」は出てこなくなりますかね?
例えば、犬を粗末に扱う民族がいたとします。
「犬を愛せ。犬はかわいい動物ですよ」と言い続けているうちに
犬を愛する「自然の感情」が湧く人が出てきやしませんか。私は
必ずそんな人が出てくると思います。また
子供を育てるときにも、花を愛してあげると美しくなるんだよ、と
言って教えていたら、ある日花に水をあげてる我が子を見つけた。
いつのまにか花を愛する人に育った。如何ですか。 働く、他人を楽にする、当たり前の労働・見返りの因縁論
これを絶対この宗教団体でなければ因果を知ることを得ない専売特許であり
他はみんな悪人と決めつけるところに罪があるわ
宗教化して謎めかすことではなく、日本では風土によって養われる普通の道徳観だから
それを偉そうに語ってるのは滑稽であるし自発的なものではない契約縛りだし、
何歩も遅れてる無用のものだと早く気づいて正道に戻らないと、立て分けが行われるときどうなるか >>11
>働く、他人を楽にする、当たり前の労働・見返りの因縁論
>これを絶対この宗教団体でなければ因果を知ることを得ない専売特許であり
>他はみんな悪人と決めつけるところに罪があるわ
専売特許とも言ってないし、他はみんな悪人とも決めつけていません。
そのように思い込んで、あなたが勝手に「罪があるわ」と言っています。
悪く悪く考えて、しかも誤解して「罪があるわ」というあなた自身に
罪がありますよ。そうとうな誤解があるようなので、何年がかりでもいいので
少しずつ誤解を晴らしていただきたいですね。意外にも、あなたがカトリック信徒に
なるかもしれない、と思っておいてください。 >>7
成る程と思いながら読ませていただきました。
私も福音書にあるキリストの厳しい教え、罪を犯すその行為についての厳しい教えの部分を
晴父様がどのようにお考えなのか、特に言及されていないような印象を受けるので、
それが気になっていました。
でも、キリシタン殉教の話については素直に読むことができました。
確かに踏み絵を踏まないことが神への愛を表明することなのかもしれない。
でも、自分一人だけが迫害されたり殺されるのであれば踏み絵を踏まない固い信仰の持ち主で
あっても、自分が踏まないことで家族や友人あるいは見知らぬ他人が迫害されたり酷い拷問を受けたり殺されるとしたら・・・
そんな酷な状況で踏み絵を踏んでしまうことが、神に対する恐ろしい罪、許されない大きな罪を犯すことになるのでしょうか?
映画に出てくる登場人物たちの葛藤、苦しみも、その部分を描いているわけですよね。
他人を救うために踏み絵を踏むことで、その人はその後も苦しみを抱えることになるかもしれない、でもそれがイコール棄教するということになるのでしょうか?
同時のカトリック教会が言うような背教、許されない罪、神への裏切り行為になるのでしょうか?
他の人間が酷い拷問を受けたり迫害をされたり殺されることになっても、
踏み絵を踏まないことが本当に神の御心に叶っていると言えるのでしょうか? 14です。神父様のお名前、入力ミスしてしまいました。
晴佐久神父様です。 >>10
全く違うね。イエスの誤りは、イエスを信じるクリスチャンたちが、史上そして現在も、最も多くの人間を、最も残酷な方法で殺してきたという「事実」によって、完全に証明されている。 >>10
孟子に出てくる話だが、ある中国の王様が屠所に引かれてゆく牛を見て哀れになり、「羊に代えよ」と部下に命じた。この王様は、羊を知らなかったのである。
この話の持つ深い意味が分かるかね。 本当の神なら、「私を棄てて生き延びよ」と常に呼びかけていたはずだ。しかし、イエスで狂わされた信者には、その神の声が聞こえなかった。ナザレ村の大工の子倅は、神ではない。 >>14
私も長い間考えてきましたが、私の中では「踏み絵は踏んではいけない(踏まない)」が
正しいという結論になりました。
踏んではいけないと書くと、他者へ向けられる教条主義、原理主義と批判されますから
表現が難しいのですが、それぞれが祈りのうちに導かれる正しい結論は
やはり「踏まない」でしょうね。
踏み絵の前に立たされている自分の心の内。
【ケース1】
神への愛 < 生き延びたい
↑ ↑
ルカ12:8ー9 ↑
全身全霊を込めて(第一の掟) 隣人愛(第二の掟)の観点でどうか。
【ケース2】
神への愛 > 殉教(殉愛)していい
↑ ↑
ルカ12:8ー9 ↑
全身全霊を込めて(第一の掟) 隣人愛(第二の掟)の観点でどうか。
※考えなければならないこと
(1)神の他者への愛は、自分の他者への愛より大きい。
(2)自分であれ、他者であれ、死後の世界をも司る神への信頼。
(3)イエス様の十字架と、踏み絵は同じようなものではないのか。
キリストに倣ひて、ならば・・。
(4)隣人愛は「自分がして欲しいことをしてにしてあげなさい」であり
「人がして欲しいと思うことを想像して、それを人にしてあげなさい」ではない。 自分が踏み絵を踏まないことによって、他者が殺される、という場合であっても
神は「踏み絵を踏まない信徒」のその責任を不問にされたのです。
神は、人の心の中まで想像してそれを人にしてあげることまでは要求されませんでした。
人の責任の範囲を狭めてくださったのか、人が神となって、自分が神以上に
人を幸せにしてあげることができるという思い上がりをもつな、とされたのか
おそらくそのどちらもあるのだろう、と考えています。
20代の頃の私は、踏み絵は踏む、と考えていました。
しかし、どこか釈然としないものが心の中にありました。
「十二使徒の殉教、ステファノの殉教、26聖人、切支丹の殉教はピエロではないか。
犬死にではないか。」
「イエス様も生き延びる見本として、神の知恵のある言葉を語って、
十字架にかかることを、避けることもできたはず。どうしてされなかったのだろう。」
等々。 >以前の「教会の他に救いなし」のカトリックではなく、
>第二バチカン公会議の「他の宗教にも救いの道がある」という
>普遍主義的な現代カトリックの教えをひっさげて
第二バチカン公会議の「他の宗教にも救いの道がある」というのは、
晴佐久神父の解釈は違うとおもう。
教会憲章やカテキズムにはそんなことは書いていない。拡大解釈しすぎる。
>どの宗教の中にも底の方には真っ黒の原理主義的な教条主義的な人たちがいます。
>一方、水面に近い上の方には、透明に近い普遍主義的な対話可能な人たちがいます。
>宗教的な排外主義や自爆テロなどというのは、この真っ黒な原理主義の最たるものです。
原理主義こそ、正統中の正統である。
一神教とは排他的であって、排他的でなければ一神教ではない。
普遍主義はキリスト教ではないし、ましてカトリックではない。
晴佐久神父はカトリック教会を根本から否定している。 >今も日本にいる、「踏むか、踏まざるべきか」の二元論で苦しんでいる日本人たちの現場に私もいるわけです。
>そこに横たわっているのは、原理主義的な恐ろしい教えです。原理主義は二元論的です。
>この魔の手から救い出すのは難しいことで、本当にパワーが必要で大変なのです。
>「この教えを信じなければ救われない」という原理主義、分断主義によって、みんな心を病んでいます。
申命記5:9-10
「それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、
わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、
わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」
ヨハネによる福音書 3:36
御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、
命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。
マルコによる福音書の最後、第16章
そして彼らに言われた、
「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。
信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。」
あげればきりがないが、これがキリスト教の神である。
>「この教えを信じなければ救われない」という原理主義、分断主義によって、みんな心を病んでいます。
このように心を病ませるのがキリスト教の神であって、
それを否定するならキリスト教ではない。
天国は狭き門で、少数しか救われないと新約聖書に書いてある。
晴佐久神父は破門されるべき。
今の教皇の間は破門はなしであるとおもうが、
カトリックではないものを布教するなら、カトリックの神父をやめるべき。 >>18
>本当の神なら、「私を棄てて生き延びよ」と常に呼びかけていたはずだ。
本当の神ならば、人の死後をいかようにもしてあげることができますからね。
「私のために、友のために、愛のために、死んでいいよ」ではないでしょうか。 信仰あればこそ何をしても生き延びるだろ
たとえ絵を踏もうと >>19
14です。
同意はできませんが、いつもなら
同じような内容の意見に対して強い反発心が沸き起こってくるところですが、不思議と穏やかな気持ちで読むことができました。
19さんはカトリックの方ですか?
私は未信者ですがカトリックにとても関心があり、定期的にミサに出たり神父様の入門講座も受けています。
でも、カトリックの教義を100%信じることができなければ、洗礼を受けることはできないと思っています。
この映画に描かれいる問題も、私の中で解決できていない疑問の中のひとつです。
ところで、晴佐久神父様の講演録には
近くでこの映画を鑑賞していたプロテスタントの牧師さんの話が出てきますが、
プロテスタントの人たちにとっても踏み絵はカトリックと同じ意味を持つのですか?
カトリックの信心用具であるキリスト像やご絵などを偶像崇拝として否定する宗派が多いようですが、踏み絵に関してはどうなのか、ふと疑問に思いました。
カトリックの人たちと同じような葛藤はあるのでしょうか?
(もちろん当時のキリシタンは皆カトリックであることは承知しています) 正しい。正しくない。
正しいときには、善しとされる、をセットで理解してよいと思います。
しかし、正しくない時に、それが必ず赦されない、と抱き合わせで理解してはいけない
という点に注意しないといけません。
例えば、踏み絵を踏むことは正しいことではないが、赦されることがある、ということです。
ここで、また注意しないといけないのは、
「後ろ髪を引かれることなく踏み絵を踏んでいいんだ!」とはならないということです。
ペトロは三回踏み絵を踏んだのですよ。これは正しくありません。 「サロメの唇」は書籍化されないのかな。
映画「サロメの唇」は今回見に行こうかどうか迷ったが、結局やめた。 晴佐久の詭弁は信じるな!
曖昧な表現で煙に巻くのが得意なだけ。 >>14
踏み絵は契約書が無かった時代の意思表示だから、
踏むこと自体が棄教なんだわ。
楽をしたいだけのクズどもは逃げ口上ばかり探しやがる。 棄教するということは、天主よりも自分の命や苦痛からの逃避を選んだということ。
晴佐久が優先順位を論拠にするのなら、棄教は天主よりも被造物を優先する大罪なのだから、
奴の論法は破綻している。
「愛があれば、棄教とか殉教とか関係ない」←こんなバカな詭弁あるか?
晴佐久は曖昧な表現で誤魔化してるだけ。 >>19
正しい主張や指摘することを恐れないように。
カテキズムや教義に忠実であるのを「原理主義」と罵るのは的外れなのだから。
正しい指摘をすると原理主義とか騒ぐバカどもがいるが、
そもそも教義は一つしかない。
違った解釈と誤謬で教会を混乱させてるクズどもは異端者どものほうだろう。 >>33 追記
棄教とは天主への愛よりも自己を優先する大罪。
だから、愛がある棄教など存在しない。
晴佐久は曖昧な表現で誤魔化してるだけだからボロが出まくるんだよね。
奴が言ってる優先順位は論理が破綻している。
逆に、愛の無い殉教など出来るはずがない。
拷問や苦痛に耐えてまで冷淡な態度で殉教など出来るはずがないのだから。
殉教者は例外なく天主への愛と畏れと信仰があったはず。
むしろ、愛が無い状態で殉教するという状況を晴佐久に説明してもらいたいものだね。
晴佐久は論理的ではない。 >>22
新約聖書のヨハネ黙示録で臆病者が滅びの対象となっているのも
根拠とする御言葉に追加しておいて。 隠れて生きるキリシタンは謙虚だな。更に人前では祈らないとか。 >>1
晴佐久のイヤなところは、
「牧師を批判するわけではないのですが」と前置きしておきながら、
牧師たちを悪役のように引き合いにして、
自分を主人公のように際立たせる手法。
その映画の感想文でも同じ手法で同席者を貶めている。
「この人たちは自分の信仰のことばかり。私は二人をどうすれば救えるだろうかと考えていた」とかw
許可なく他者の言動を公開してる非常識でもある。
晴佐久は他人を引き立て役にしか思っていない偽善者だよ。 ある目的地には危険な道中がある。
賢い人が旅人へ助言した。
「道中は危険だから準備を整えて慎重に行きなさい。」
愚か者も旅人へ助言した。
「心配ないですよ。大丈夫だよ。そのままでいいんだよ。」
旅人のためになったのはどちらの助言だろうか。 >>39 続き
聖人たちは小罪ですら慎重に、神経質に避ける努力をしたという。
その一方で晴佐久の支持者どもは、大罪すら正当化する危険性を有している。
論理的に考えてみよう。
小罪すら避ける生き方では滅びる可能性は全く無いが、
大罪すら気にしない生ぬるい現実逃避では、
実際の裁きが想像よりも厳しかった場合に滅びる危険性がある。
晴佐久の助言は気休めの現実逃避にしかなっておらず害悪なのである。 >>38 追記
愛を連呼する偽善者に、まったく愛が無かったという破綻w
あいつリアルで見たけど相当イヤな性格してるよ。
かなり劣った人格。キリストの代理者は名乗れないほどの。 遠藤周作とか晴佐久とか異端者に共通している特徴は
自分が信じやすい神の形に作り変えるという捏造。
聖人たちに現れた神、教義が示している神、を受け入れない不信仰だから
自分の願望と空想で信じやすい神を作り出す。
それが異端者どもと支持者たちの心理。 >>35
新約聖書「友のために命を捨てる。これほど大きな愛はない。」
この御言葉は主の御受難と贖罪だけを意味するのではない。
人間側の殉教も意味している。
だから、殉教の価値を否定する晴佐久は異端者だよ。 >>34
信心深い人々を「原理主義」と罵る異端者どもがいる。
教義に忠実な信仰者を蔑む連中は御父に滅ぼされるだろうよ。
そもそも、教義は一つしかない。
カトリック信仰は一つだ。
一つしかない信仰を、保守だリベラルだ、と区別するほうがおかしい。
晴佐久はハッキリと異端だと断言できる。
地獄の存在は、聖書も教義もファティマの聖母も明言しているのに、
晴佐久の説によれば永遠の罰は無いそうだ。
奴と支持者どもは願望だけで教理を捻じ曲げている。 「俗は聖の器」とはどのような意味でしょうか?
聖職が俗人と同じように振る舞ってもよいという逃げ口上でしょうか。
聖性を失ったものが世俗化を批判できるのでしょうか。
中身の無い言葉で誤魔化してるだけの表現にしか見えない。
知性が低いバカは騙されそうな表現だねw >>38
これ、同意。有名人も好きだよね。
説教がさ、
俺すごいだろ、みんなに好かれ感謝されてる俺、なんだよな。 遠藤はただの信徒、神父は教会のトップだからねえ。影響はでかい。 永遠の罰を否定している異端者に正当性は無いよ。
聖書、教理、ファティマの聖母、聖人たちの私的啓示など、
地獄の存在と永遠性は明言されてるからね。
地獄の存在を否定しても、ゲヘナの火が消えるわけではない。
晴佐久は根拠もなく願望だけで語っている。
そもそも、永遠の滅びが無いのなら、
主キリストが全人類を贖う必要性もなく。 晴佐久とか片柳の支持者どもって完徳について触れないけど、
完徳は教会が根拠なく言ってる教義じゃないんだよね。
新約聖書の「御父が完全であるように、あなた方も完全でありなさい」を根拠としている。
「そのままでいい」とか現実逃避してるクズどもが、
どうやって自身の聖性や霊性を高めるんだろうね。
クズどもは、悪意を抱いたまま天国に入れると勘違いしている。 新約聖書が説く狭い門と広い門
狭い門というのは、聖人みたいな生き方とか完徳とか厳しく難しい生き方を意味する。
広い門というのは、晴佐久とか片柳みたいな生ぬるい簡単で安易な生き方を意味する。
広い門とは誰にでも出来る楽な生き方だからな。 赤の他人の絵一枚踏むだけで、自分の命も助かり、家族の
苦しみも無くなるのに踏めない。こんな気違い宗教が、他の
どこにあるか。
キリスト教とは、イエスの狂気の感染による精神医学的現象
以外の何物でもないことを自覚せよ。 かねてからの素朴な疑問だがもともとは踏み絵はただの金属片(または木片)に彫られたものすぎないと思うが。
そんなものに神の霊が宿ってるはずがない。 かねてからの素朴な疑問だがもともとは踏み絵はただの金属片(または木片)に彫られたも
のすぎないと思うが。 そんなものに神の霊が宿ってるはずがない。
「キリストの霊が内に宿ってない者はキリストに属していません」(ロマ書8−9)とあるように
キリストの霊を内に受け入れることによって永遠の命が与えられるというのがキリストの教え
ではなかったのか?踏み絵はどう考えても神が禁じてきた偶像崇拝としか思えない。
ザビエルは偽りの信仰を日本に布教させ不必要な地獄を日本人信徒に与えたと言わざるを
得ない。近代になってもカトリック教徒はこの呪縛から脱せずにいる。晴佐久神父、スコセッシ
もしかり。このスレで晴佐久を批判している連中もそうである。踏み絵を肯定したうえで論争を
続けている。なぜ踏み絵そのものに疑問を抱かないのか?
私が宣教師だったら「そんなものに神の霊が宿って居るわけがない。どんどん踏みなさい」と
いうだろう。それだけでどれほどの人が救われることか。 >>53
契約書が無い時代の意思表示だからだよ。
偶像崇拝という指摘はズレている。
踏むのを正当化するのは、楽な選択をしたい生ぬるい者の逃げ口上にすぎない。
新約聖書「友のために命を捨てる。これほど大きな愛はない。」
これは主キリストの磔刑を意味するだけではなく、
殉教者が信仰に命を懸けるのにも同じことが言える。 >>53
踏み絵は、「棄教するのか?」「あなたはキリスト者なのか?」という問いかけであって、
「偶像を崇拝するのか?」と問われているのではない。
棄教するようなヤツは、神よりも自分の命を優先した偶像崇拝の大罪だね。
偶像崇拝とは、神よりも被造物を上に置く大罪なのだから。 >>53
ヨハネ黙示録では、殉教や迫害が預言されている。
殉教が、無駄とか偶像崇拝としては扱われていない。
むしろ、尊い義として称えられている。
自身が殉教するような極限状態を想定して、
心構えは作り出しておいたほうがいい。
急に棄教を迫られたら、屈してしまうかもしれないからね。
普段から想定して覚悟を決めておくべきだよ。 「神」は「架空の存在」だから、どんな解釈しようと、個人の自由ではないか。「神」を「悪魔」、
「愛」を「憎悪」と呼んでも、何の問題もない。言葉が指示する具象物が存在しないのだから、
その意味の解釈は百人百様。言葉とは「恣意的な符号」に過ぎない(ソシュール)。
イエスの顔は誰もしらないのだから、踏絵の顔がイエスであうという保証は皆無である。
それをイエスと信じて有難がることこそ、忌むべき偶像崇拝の典型。 そもそも、会ったこともない大昔の赤の他人のイエスのために
命を捨てるとか、もはや狂気である。ここまで狂った宗教が、
他のどこにあるか。命を棄てるのは、親や子の命を救うためだけ。
「俺を信じるためには、親も子も棄てよ」と脅迫するイエスは、
もはやサタン以外の何者でもない。 そもそも、会ったこともない大昔の赤の他人のイエスのために
命を捨てるとか、もはや狂気である。ここまで狂った宗教が、
他のどこにあるか。命を棄てるのは、親や子の命を救うためだけ。
「俺を信じるためには、親も子も棄てよ」と脅迫するイエスは、
もはやサタン以外の何者でもない。 いずれにしても神は本当に人間に対して愛のみ、かつ無傷の存在なので、殉教は必要ないそうです。
もちろん殉教者に対しては深い敬意を持ち、愛されているとは思いますが。
2000年の少し前頃に発刊され、アメリカで異例のベストセラーになり、日本でもベストセラー、
いまや30数カ国以上に翻訳されて読まれているニール・ドナルド・ウォルシュ氏の『神との対話』シリーズ。
もし本当に「神の存在と恩寵」を確信したいなら、まず正しい「神の理解」が必要です。
そして、その「正しい理解・認識」によって、この現世で「神の体験」が可能になります。
すぐには信じがたい話だとは思いますが、運命は全て完璧・(深い意味で)成功のみとのことです。
一見、少し怪しい題名の本ですが、誰にも身近な共通の一つの神様です。
思索的な哲学書として読んでも面白いと思います。
《10分ほどで読めて分かる『神との対話』》
https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome 晴佐久は、口先でけではなく、自ら聴衆の前で踏絵を徹底的に踏み、
聴衆にも踏ませるべきだったね。晴佐久がそのような言葉で邪教を
宣教しようとしているのなら、極めて悪質である。 >>60
殺されてもイエスを批判できないクリスチャンが書いた本など、読んでも無意味。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています