>>206 還暦
>本居宣長が『玉勝間』に引いたところによれば、かつての出雲大社の本殿は現状の倍ほどもあり、中古(平安時代)には16丈 (48m)、
>さらに上古(神の時代の後、平安より前)には32丈(およそ96m)であった、という伝承があるとされる。

>>317 葛葉
>日本を代表する5人の建築家が、模型で実際の古代史殿を作って構造上の高さを確認したんだってさ。
>その結果、柱の太さから計算された実際の木造建築の限界が48mだそう

古代出雲大社が現在の本殿高さ24mを大きく超える48mあったという説は、長らく学会の主流の説ではなかったのです。
しかし2000年に地下室を造成していた出雲大社で、金輪御造営図を裏付ける、径1mの柱を3本束ねた巨大な宇豆柱が発掘されたのです。
大げさな神話ファンタジーのはずが、巨大な寸法で実物が出てしまった。
http://www.tomomori-kogyo.co.jp/iz-taisya/izumo-taisya-cg.htm

48mが限界説は発見された径1mの柱を3本束ねた巨大な宇豆柱が前提条件になっております。
5本束の宇豆柱の上に4本束の宇豆柱を乗せ、更に3本束の宇豆柱を乗せれば96mも可能なことは小学生でも分かります。
(ピラミッドの石積みも基本はこの建築原理に準拠。)
それから径1mの柱ですが三内丸山遺跡でも発掘されており、切断術、測量術を含めて非常に高度の建築技術が当時存在した
ことが覚れるでしょう。 当然、文字も数字も存在しました。

それらの物証を焚書したのはおそらく記紀編纂時の権力者達と一族でしょう。
原始キリスト教文献と同様に、焚書したはずの証拠が現代に復活、発見されるのも神の経綸だと思います。