生長の家は教義的には「古事記」中心であり、古史古伝の影響はほとんど受けていないが、世界救世教
を開いた岡田茂吉は「竹内文献」について次のように言及している。

「昔の古い文書は神武天皇がお焼きになって終わったのであるが、其時、一人の家来が一部の物を持
って逃げ、是をかくして土の中にいけこんでおいた。それが今に伝えられた。
是は「竹内宿祢」の家に伝えられ、例の「天津教の武内家」にあるものにして、武内家には、その中
にあった三種の神器の本物を持っているのであるが、宮内省に献上しようとしたとき宮内省では受け
取らなかったのである」(論文集・未定稿)

「三種の神器はたくさんあるんだからね。あれは代々でなくても、天皇が随分揃えたのです。一番の
元−−−古いのは天津教にある。あれが一番古い。神武天皇のもっと前です。一番新しいのは伊勢にある。
あの時代に揃えた−−−千年か前ですね」

すでに茂吉は、昭和元年十二月ある夜「神示」を受けて、五十万年以前の日本の創世記を執筆し、原稿用紙
で約四〇〇枚あったが、「皇室に関する事が割合多く」、当局の家宅捜索を恐れ最初はブリキ缶に入れて土
へ入れたりしていたが、未だ安心ができないのでついに消却したという。そのなかには数万年以前インドが
大軍をもって九州に上陸したが、山陽道で撃退され、その子孫が台湾に落ちて高砂族になったというような
話が記されていたという。

さらに茂吉は「日本人種の霊的考察」と題する一文の中で、日本民族には「四つの系統」があるとして、
独自の古代史観を披露している。「伊都能売神皇」・「天照天皇」確立していた純粋の大和民族と、中国の
「磐戸神王」を祖先とするニニギノ尊の天孫民族、韓国に発するスサノオ尊の出雲民族、コーカサス地方から
蒙古、満州を経て東北に上陸した「土匪」の四つの系統があったといい、すべての歴史過程はこの四つの勢力
によるせめぎあいのなかで展開されたという。

なお、「伊都能売神皇」はスサノオの出雲族から逃れ、インドに渡り観音になったといい、このあたりは
「救世教」の核心をなす、観音信仰の背景として位置づけられているようである。