「天津教古文書の批判」については、最近になって様々な事実が明らかになってきている。

某海軍大将からの使者が狩野宅を訪れ、真贋を確かめてもらうため「写真を7枚」を置いていき、
「その内の5枚」を使って狩野氏が検証したというが、その写真は陸軍が作った偽物で、狩野氏
自身も周囲に対して、1928年に現役の陸軍大将から天津教撲滅を依頼されたと話していたという。
つまり、狩野氏自身も明言しているように、記紀は絶対であり、それと一致しなければ史料として
の価値がないとする態度が、狩野氏の偏った国粋主事的イデオロギーを刺激し、軍と一緒に行動し
た動機となる。つまり狩野氏はバリバリの右翼だったのである。

同じ時代、記紀は史実ではないということを、様々な矛盾点を指摘して批判した歴史学者の津田左右吉
は、昭和14年(1939年)に著した『神代史の新しい研究』で様々なところから集中攻撃され、同著は翌年
には特高により発禁処分となった。その結果、やむなく早稲田大学の教授職を辞任するに至るが、その
体制側に狩野氏もいたのである。

確かに『竹内文献』は弾圧の中で一時は姿を消したが、「皇祖皇太神宮」は生き残り、戦後、再び世に
出てきた以上、仕掛けは成ったことになる。
巨麿と鞍馬で相対したのは、時代が変わっても、何ら動じない裏神道の要とされる人物である。

政の権力者は、どの時代にも現れては消えていく。だから彼らに与することなく、昔からの決め事を守り
通し、時期が来るまで封印を解かない役目を担っているとされる。日本が軍国主義の道をひた走ろうと、
国家神道に傾倒して狂気化しようと、アメリカと戦い敗亡しようと鳥には一切関係がない。
決められた祭り事を代々進めていくだけである。

『竹内文献』の出現は、彼らにとれば計画の範囲だったのかもしれない。あるいは彼らの始祖が、
『竹内文献』の作り主だったのかもしれない。そして彼らは記紀も練り上げたのだろうか・・・・。