> 「 頭上の上に頭を安(お)く 」

これが どういう事を言おうとしたものか、分からないが、ずいぶん前の事になるけれど

わたしは
自分の頭の上には、誰ももう一つの頭を乗っけていないじゃないか。
頭が二つ重なって歩いている人など、居ない、と思い始めていた事があった。
指導者、または、方向性、
つまり考え方だが、
あれもこれも、結局、わたしは肯定できなくなり、脱出していく。

そういう目で歩く人々を見ていると、誰もが頭は一つ。
頭が二つ重なっている人は、居ない。
この改めて知った事実は、わたしには驚愕的だったのである。

そこから、仏教の本を読み漁った。
もちろん、中学生の頃か、高校生の頃か、手当たりいろんなジャンルの本を読んでた頃のとは違って、仏教書ばかりを読んだ。

わたしは 人間からの影響を避けたいと思い、誰かに教えを乞う事は無かった。
万巻の書を読む時期、と言う時期が誰にもあると思うが、その頃の私がそれだった。

頭の上の頭を私は、自分の手で取り除いたのである。

これを自由と言うのだ、と知る。

汝こそ汝の主人公、他の誰が汝の主人公でありうるか。

釈迦であれ、わたしの頭の上には、のっけていない。

それが、わたしである。

わたしとは、個を言うのではない。ましてや、わたし達、と言うのではない。

この事を理趣経の燃え上がる青い炎の燃焼に、いのちの燃焼に、見た。

わたしが死んだときのお経さんも決まった。

般若心経である。

この長いお経でとむらいをやりたい。