訂正

24:37 人の子の来臨はちょうどノアの日々と同じようであるであろう。

人の子の来臨とノアの日々とは正確に対応した比喩になっていない。
以下、その証明。


24:38 というのは洪水の前のそれらの日々には、ノアが木箱の中へと乗り込むその日までは
彼らが食べそして飲み、娶りそして嫁がせたりしていたように
24:39 そして彼らは洪水がやって来て全てを奪い去るまで、気付かなかった。

ノアの日々に「気付かなかった」という彼らとは、神から洪水を知らされて箱舟を造っていたノア一家以外の者たちである。
結果、気づかなかった者はすべてが滅んで、生き残ったのはノア一家のみ。
ここで注目するのは、ノアたちは気づいていないのではなく、その日の来ることを知っていたということ。知っていたことによって箱舟を造り救われた。
それに対して、人の子の来臨時には、

24:36 その日と時については、父一人の他には誰も知らない。諸天のみ使いらも知らないし、子も知らない。

とあるように、誰もそれを知っていない。つまり、知っていたノアに対して、「誰も知らない」ことが対比されており、、それは「人の子の来臨はちょうどノアの日々と同じようであるであろう」ということに合致しない。


24:40 畑に二人いるだろう時に、一人は受け入れられ、また一人は見捨てられる
24:41 二人の女性が臼の場所で臼を挽いていると、一人は受け入れられ、また一人は見捨てられる。

畑、臼の場所は単数形であることから、二人の男、二人の女はそれぞれ同じ場所で同じ仕事をしていることが理解できる。
同じ場所、同じ仕事をしている彼らは、すなわち同じ類である。
対して、ノア一家と気づかなかった者たちとは、違う場所で違う仕事をしていた。(前者は箱舟をつくり、後者は食べそして飲み、娶りそして嫁がせたりしていた)。つまり違う類である。
ここにおいて人の子の来臨時の喩えとして引き出した、「二人の男、二人の女」とノアの日々の「ノア一家とその他の者」というものは対比になっていないことが明白である。


結論
イエスは誤った比喩をしている。